「第十二章 アイスの溶かし方」
「まず、詩織がルーズリーフに残した遺書の話からしよう。存在は知ってる?」
「はい。それは手記に書いてありましたから。でも、あの人はあれが遺書とは最初から考えてなかったみたいです」
湊からすれば、詩織のブレザーから手書きのルーズリーフが一枚出てきただけだ。警察が勝手に遺書と主張しているくらいにしか考えていなかっただろう。
「確かに。湊先生は一番あの遺書を気にしていない人間だろうな。だって、実行犯な訳だし」
「そうですね。実際、手記には存在についての記述はあっても、内容までは書かれていませんでした。ただ、馬鹿らしいって書いてあるだけで」
「内容については、俺は知っているんだ」
「えっ!? 本当ですか?」
透の告白に彩子は今日一番の大声を出して驚いた。騒がしい店内では、彼女の声は響かなかったが、それでも周囲の席の注目は集めてしまった。彩子は慌てて口を閉じる。透は苦笑しつつ当時の様子を話す。
「当時、刑事さんにずっとマークされてたから」
「でも、自殺自体は揺るぎようのない事実じゃないですか。同情はされても先輩が疑われる理由がありませんよ」
鋭い意見を話す彩子。短く「おっ」っと呟く透。
「流石だな。確かにその通り、詩織は自分で死んだ。それは絶対的な事実。だから警察の判断も最後まで変わらなかった」
「じゃあどうして?」
「俺が何かを隠しているって思ったらしんだ。当時の刑事さん、えっと……名前は、そうそう倉澤さんだ」
頭の中のデーターベースに検索をかけて、数年ぶりにその顔を表示させた。
今、本人は一体ドコで何をしているのだろうか。まだ刑事なのか、それとも退職しているのか。当時は結構悪い事をしたので(態度も含めて)罪悪感があり反省もしている。だけど今更、本人に直接会って真実を話す訳にはいかない。
話しても結果は変わらないのだ。気の毒だが、あのまま勘違いしてもらおう。
透は脳裏に浮かんだ倉澤に謝罪の念を込めながらそう思った。
「先輩はその倉澤さんが言われた通り、何かを隠していたんですよね」
「ああ、隠してた」
彩子の指摘を透はあっさりと、首を縦に振って認めた。
「誰にもバレないくらいの気持ちでいたからな。高校生の俺は、それはもう墓場まで持って行くつもりだった。でも、最初に倉澤さんに会った時に動揺したのを見抜かれてね」
「どんな事を言われて動揺したんです?」
「それはあれだよ。詩織が書いたルーズリーフの手書きの遺書を聞かされて」
当時を思い出して、つくづく自分が情けなくなる。どれだけ意識を高く持って秘密を握っていても、所詮は高校生。本人の世界では自分自身こそが主人公であるが、思い上がりに過ぎない。
若かった。まさにその言葉が完璧に当てはまり、透はため息を漏らす。
「どうしました?」
「高校生の頃の俺って馬鹿だなって考えると、ついため息が」
過去の自分が馬鹿だと話すと、彩子は右手を振りそれを否定した。
「いやいや。先輩が馬鹿なら、私なんて大馬鹿ですよ。枕に顔を埋めたくなるような、黒歴史はわんさかありますし。今もふとした瞬間にそれを思い出して、プチ鬱になります」
「慰めてくれてありがとう。本筋に戻ろうか。詩織が残したルーズリーフ一枚の遺書。まず言っておこう。警察が調べたところ、正真正銘、彼女本人が書いた本物だ。それは間違いない」
「はい。でもあの人も、自分が考えた文面の遺書を詩織さんに書かせていました。言ってみればそれだって、彼女本人が書いています」
彩子の言う通り、それも詩織が書いている。一方、ルーズリーフの方は出処が不鮮明な部分があるので、彩子は疑っているようだった。
「ちなみに湊先生が書かせた遺書は今、ドコにある?」
「燃やしたと付箋外のページに書いてありました。内容も手記には書かれていません。従って、あの人が用意した偽遺書については何も分かりません」
彩子が内容を把握していないと言って、透は少々残念な気持ちになった。
実際、どんな事を書かせたのか、興味があったからだ。だが、そんな事は口が裂けても言えない。
そう思っていると、こちらの意図を読んだのか。彩子が悪戯っ子の顔をした。
「……何だよ?」
「知りたかったんでしょう? 気持ちは充分に理解出来ます。私だって知りたかったから。それが嘘だと知っていても詩織さんの筆跡で書かれただけで本物と錯覚する事が出来るじゃないですか」
「まあ、捉え方次第では……」
それを認めてしまうのは透には難しい。極めて曖昧な言葉で濁した。彩子はどうして彼が濁したのか。瞬時に理解したらしく、慌てて弁解する。
「ち、違いますよ! ちょっと危ない奴とか思わないで下さい。そういう意味じゃないんです。だって、仕方がないじゃないですか。詩織さんの本心が記された遺書はないんですから」
最後の言葉に透の肩が反応しかけたが、ココで反応しても意味はない。必死に抑え込む。代わりにため息で返す。しばしの間を生んでから、透は話を進めた。
「公式には詩織の遺書となっているルーズリーフ。湊先生は勿論、彩子も内容は知らない謎の物。それを俺は知っている。ココまではいいか?」
「はい」
「どうして知っているのか。それはさっきも話したけど、倉澤さんが俺の動揺を見る為に喋ったから。今から話すけど、くれぐれも内容は口外しないように」
「了解です」
神妙な面持ちで了承する彩子。その瞳には力強さを感じる。透は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめたままで、遺書の内容を口にした。
「ノートは、いつも貴方の傍にある。だから私はもう大丈夫2008.10.22 2008.11.18これが詩織の書いたとされる公式の遺書の内容だ。どうだ? 数年越しにやっと聞けた感想は?」
透が感想を求めると、彩子は目を瞑り何かを考えているようだった。彼女の中で遺書の意味を汲み取ろうとしているのだろう。詩織の遺書について、誰もが通る道である。彼は追求する事なく、彼女が目を開けるのを待った。
やがて彩子が目を開けた。そして左右に首を振る。
「ダメです……。私には理解出来ません」
「それが普通。実際、皆分からなかったんだから」
「先輩もですか?」
最初から意味を理解していたのではないのか?
そんな視線が透に向けられる。それに対して透は苦笑した後、説明に入った。
「俺も最初は分からなかった。ただ、他の人と違う点はある。それはノートという単語。それに貴方の傍にある。っという文章。当時の俺は、頭の中のノートを失くした事を詩織に相談したばかり。そんな中、あの遺書を聞いて連想しないはずはない。その時の反応が、倉澤さんに猜疑心を向けさせたんだ」
透は遺書の内容を説明された際、自分に向けられたという事だけしか分からなかった。結果的にその動揺が目を付けられる原因となっている。
だが、その日に限って言えば、透だって何もかも理解している訳ではないので、仮にどれだけ尋問されても答えられなかっただろう。
「成程。ノートは、貴方の傍にある。この部分が先輩に向けてのメッセージだったんですね」
「万が一、違う可能性に考慮はしていた。あの遺書が俺の耳に入らない結果だってあり得たから。でも、いくつかの偶然が重なって入ってしまった」
「その遺書を先輩は、どうやって解読したんですか?」
「その前に一つ話しておかなければならない事がある」
突然の新しい話題に彩子は目を細めた。
「交換日記だよ。今まで忘れていただろう?」
「あっ」
存在を指摘されて、彩子は口を開けた。今日の始めに交換日記はもうないと言ったので、彼女の頭からすっかり消えていたようだった。
「あれの意味って最初に先輩が話した、大人達を騙すのとMDを隠す為だったんですよね? 今、関係あるんですか」
一見すると彩子の言う通り、交換日記の重要性は限りなく低い。
「あの交換日記の役割は、遺書に書かれた日付の内容を見せて、大人達を騙す事。だからこそ、役目を終えた交換日記はもうない。だけど、遺書に書かれた日付から彼女の真意を探る方法は、変わらない。ココまで言ったら気付いたか?」
そう言って透は彩子が答えを待った。彼女は顎に手を当てて、必死に考え込んでいる。現段階の材料から、真実に辿り着くのは簡単だ。
だから透は、自分から口を開かず、彩子の口が開くのを待った。
やがて、彩子の視線がゆっくりとテーブルに置かれたMDプレーヤーとプラスチックケースに入った十二枚のMDディスクへ向けられた。驚愕の表情を浮かべてから、彼女は視線を透に戻す。透は静かに笑い、テーブルに置かれたプラスチックケースをコツコツと指で叩く。
「そう、詩織の日記は全てココにある。遺書に書かれた日付だって例外じゃない」
透はプラスチックケースを開けて、中から一枚のMDディスクを取り出した。
「その中に?」
「ああ。このディスクに詩織の遺書がある。日付は遺書に書かれていた2008年10月22日。高校生の俺は倉澤さんが話した遺書の日付を聞いた。そこに吹き込まれていた彼女の肉声による本当の遺書。そして、交換日記の使い方を聞いた」
MDディスクを彩子に渡す。彼女は両手でそれを受け取った。表紙には彼女のボールペンで2008年10月01日~2008年10月31日と書かれている。
「……これ、私が聴いても構いませんか?」
不安そうに尋ねる彩子に透は、首を縦に振った。
「勿論。彩子が聴いて困るような事は入っていない。じゃあ、聴いてみようか」
透は彩子からMDディスクを受け取り、プレーヤーにセットする。
詩織の日記は丁寧に全てのトラックに日付が表示されるので、目当ての日付まではスムーズに進められる。コントローラーで日付までトラックを飛ばしている間に一つ思い出して、透は口を開いた。
「悪いが冒頭の箇所は早送りさせてもらう。交換日記の指示についての部分なんだ。そこは聴く必要はない」
「分かりました。私は遺書の部分だけ聴けたら満足です」
彩子は了承する。そして、早送りが完了した。この日付の聴くのは数年ぶりだったが、自然と何分からが遺書だという事を覚えていた。彼女に渡す前に自分のイヤホンに繋いで確認をする。
目を瞑り、耳を澄ませて、イヤホンの向こう側の音を拾う。
知っている息遣い。懐かしい声。やはり間違ってはいない。覚えていた時間からは丁度、遺書が始まった所だった。
ふいに、このまま聴いていたい気持ちが湧いたが、透はそれを慌てて沈める。また、湧く前にイヤホンを外して、再生した数秒を戻した。
「丁度、すぐ始まるようになっているから」
MDプレーヤーを彩子に渡す。
「ありがとうございます」
緊張した表情でそれを受け取り、自身のイヤホンをコントローラーに挿す彩子。両耳に入れてから、彼女は先程の透と同じように目を瞑る。軽い深呼吸を何度かしてから、コントローラーの再生ボタンを押した。
彩子がビクっと一度体を震わせた。詩織の声を聴いたのだろう。イヤホンから流れる彼女の声に大きく驚いた表情を見せる。そして両手を耳に添えて、一言一句逃さないように、集中して声を聴いていた。
しばらくすると、彩子の閉じられた二つの瞳の隙間から、うっすらと涙が滲み始めた。少し下を向いていた顔から出てくる涙に抵抗せず、そのままにする。そのせいで、涙は構わず彼女の膝に雨になって落ちて行った。
詩織の遺書の内容はそこまで長くない。時間にしたら三分にも満たないだろう。透は彼女が聴き終えるまで一切口は挟まない。
時折、横を通り過ぎる客が不審な顔を作り、彩子を一瞥するが今の二人の目に入らない。それよりも彼女の心には、もっと重要な感情が出現している。
彩子の人生に多大な影響を与えた詩織。
自分だけではなく、父も関わり、手記という形でとんでもない物を彼女へ渡した。今でこそ、冷静に手記の話をした彼女も読んだ当時は、酷いショックを受けたと想像出来る。彼女が抱く湊慧一郎に対する感情は、憎悪が九割といったところか。本人ではないので正確な数値は分からないが、概ね正解のはずだ。
では、詩織に対しては?
彩子が詩織に対して抱く感情は非常に複雑で、一言ではとても説明不可能だろう。勉強を教えてもらった事から始まった関係が、まさかココまで肥大化するとは誰も考えていない。流石の詩織もそこまでは読んでいないはずである。
透はそんな事を考えながら、彩子が聴き終わるのを待った。
しばらくすると、彩子がハンドバックからハンカチを取り出して、涙と嗚咽を抑え始めた。そして両耳のイヤホンを抜いて、MDプレーヤーを透へ返す。
「本当にありがとうございました。やっと詩織さんの本音が聴けて嬉しいです」
「良かった。感想を言う前にトイレで化粧を直してくるといい」
透は、視線を店内のトイレへと向ける。幸い、今は誰も利用者がいなかった。
「では、お言葉に甘えて少し失礼します」
「ああ」
彩子はハンドバックから水色の化粧ポーチを取り出して、トイレへと向かった。彼女がトイレに入り、一人になった透は上を向き、深呼吸をする。
そして、返してもらったMDプレーヤーのコントローラーに自分のイヤホンを挿した。
渡した時と同じく、冒頭は早送りにして日記部分から再生ボタンを押した。
目を閉じていると、両耳から聞こえる詩織の声がはっきりとその存在を主張してくる。死んだ人間の声だというのに、何年経っても色褪せない。
実にクリアで抵抗なく、透の耳に入ってきた。
『私は、自分が大人になってしまう事が耐えられない。ココ数年、年月を重ねる毎に体中に解ける事ないアイスが溜まっていくのが分かる。
怖いくらいに透明で、まるで宝石のように輝く私のアイスは、時間の経過と共に緩やかに白く濁っていく。気味が悪くて、出来る事なら喉に手を突っ込み、吐き出して楽になりたい。ところが、それは決して許されず、私の中でアイスは溜まり続けていく。
大人になるという事が、これ程の苦しみを負うなんて知らなかった。
どんな本を読んでも対処法は載っていない。周りの大人達は、皆知っていて隠していた。酷い、信じられない。そんな大人に私はなりたくない。毎日の生活で嫌な事が起こると、アイスは容赦なく蓄積されていく。だから、救済としてこの日記には、今日まで良い事だけを吹き込んできた。
そうする事で、私は大人になる事から抵抗していたのだ。
それなのにどれだけ吹き込んでも、アイスは溶けない。だから、もうこの日記の意味は失われてしまった。どうあっても“大人になってしまう事”からは逃げられない。もう全てが嫌だ。そこで私は、最後の手段として自分で自分の命を絶つと決めた。
きっと天国までいけば、アイスは溶けてなくなり、私は大人にならずに済むと信じて……』
イヤホンから聴こえるのは、今まで詩織がずっと心の奥に隠してきた本音。
この遺書を始めて聴いた時の衝撃は忘れられない。倉澤と東遊園地で話した際の涙は演技ではなかった。 この遺書を思い出して、涙していたのだ。
大学時代にも透は何回か聴いていた。慣れない酒に酷く酔って、心の鍵が緩んでいた時に聴いた日もあれば、彼女の命日に聴いた日もある。これは自分が持つのは相応しくない。詩織の母親が持つべきだと考えた時もあった。しかし、彼女の母は既に海外におり、連絡がつかない。また、別の日記の中には母親宛ての遺書は別に用意していると吹き込まれており、安心している点もある。
以上の理由から、この日記はずっと透が所持してきた。
これからもそれは変わらない。
そんな事を考えていると、透の瞳もまた、潤み始めていた。詩織の声は一瞬で高校時代へと強制的に帰らせる魔力がある。上を向き、湧き上がった涙を抑えようとした。僅かに重力に沿って頬を伝う涙には、服の袖を当てる。
「先輩もトイレに行きますか?」
いつの間にか帰っていた彩子が上を向いている透にそう言ってきた。彼は正面を向き、彼女の冗談に笑う。
「いや、大丈夫。お気遣いどうもありがとう」
「いえいえ」
彩子の顔を見ると、表情こそ名残はあるものの、もう涙の流れた跡はない。化粧もしっかりと直っていた。透はそんな彼女の強さを感じつつ質問する。
「詩織の遺書を聴いて、どうだった?」
「驚きました」
その後、両者に少しの沈黙が流れてから、透が口を開く。
「詩織が自殺した本当の理由は、“大人になってしまうのか嫌だったから”これが全てなんだよ。いかにも高校生が悩みそうな事だ」
「私は、詩織さんがそういう事に悩んでいたとは夢にも思いませんでした。いつも優しく笑顔を見せてくれていたのに。先輩は気付いていましたか?」
彩子に尋ねられて、透は「まさか」っと首を左右に振る。
「本当に気付かなかった。きっと、詩織の心の底に気付けた人間なんて一人もいない。それこそ、湊先生が良い例だ」
手記では湊こそが、詩織の最大の理解者である。そう書いてあったがそんな事は断じてない。身勝手な自己満足と強引な支配欲を都合の良い単語に変換したに過ぎない。彼は詩織の能力面ばかりを評価して、心の内側を見ていなかった。
結果、湊の行った行動は、詩織に大人に対する価値を決定付けてしまったのではないかと透は考える。
透が聴いている限りでは、彼女の日記には湊は出てこない。それは、彼女がこの日記には良い事しか吹き込まないと決めたからである。
つまり、吹き込まれていない湊の事は全て悪い事。
アイスを作った原因は、彼によるところもあるはずである。そこまで考えていた時、彩子が「つまり……」っと口火を切った。
「元々、詩織さんは自殺する予定だった。その為に既に遺書も吹き込んでいる。それに必要なルーズリーフも持っていた。そして、準備を完了させた時、あの人に殺されかける。それで彼女は、偶然にも自殺に最適な環境を手に入れてしまう。だから一人になってから自殺をした」
彩子の説に透も頷いて同意する。
「それが全ての真相だろう。もっとも詩織は、湊がああいう行動に出る事をある程度は予測していたと考える方が自然だな。そうじゃないと、俺に交換日記やMDを渡したりはしない。ルーズリーフに関しては、最後の日付を除いて、予め書いておいて、一人になった時に書き加えた説が妥当だろう」
手記は、あくまで湊の主観でしか状況は記されていない。詩織は最初に暴力を振るわれた時、何かを感じ取ったのだ。そうすれば一通りの説明は付く。
透が最後にそう言って、長かったこの話に一応の決着を付けた。
今は互いに口を開こうとせず、話の余韻に浸っている。
透は下を向いて、彩子と目を合わせようとしない。下を向いたままの彼の耳に上から彼女の声が聞こえた。
「大人になるって、どういう事なんでしょうか?」
「彩子はどう思う?」
尋ねられた質問に透は顔を上げて、そのまま質問で返した。返された彩子は、「そうですねぇ」っと意見を頭の中で組み上げる。
「体や経験が時間と共に成長して、一定の期間を越したら世間からは大人として認識されます。そのせいで、責任が勝手に加えられて、行動や言動から自由が失われます」
一定期間の成長。例えば、成人したらその日から大人なのか。昨日までは子供だったのに、たった二十四時間経過しただけで、いきなり大人化されてしまうのか。透は彼女の意見を聞いて、そう疑問を抱く。同時にそれは違うと答えが出た。
彩子も同じだったようで、彼女はすぐに首を横に振る。
「いや、違いますね。大人になる過程での成長具合なんて誰にも分りません。それこそ、本人にだって分からないでしょう」
「そうだな。人間一人一人が違うように、成長速度だって同一じゃない。それぞれの世界がある」
「先輩はどう考えているんですか?」
二度目の質問が彩子から向けられた。言い回しは違っても内容は同じである。
今度も質問で返すなんて真似は出来ない。観念して自分の意見を話す。
「大人になるという事。さっきの彩子の説明は概ね間違っていない。長い時間と経験を重ねて自身を研鑽していく事で、世間から責任の一端を与えられる。そんな解釈だな。ただ、それを詩織に当てはめて考えると、ちょっと違う」
意見の最後に詩織の名前を出す。彩子は、瞬間的に驚いた表情を見せた後、透に尋ねた。
「先輩は詩織さんの遺書については、どう思っているんですか?」
「聞きたい?」
「はい、是非」
彩子が力強くそう答えたので、透は首を一回縦に振ってから口を開く。
「俺は詩織の遺書については一つの結論を出している。勘違いしないでほしいのは、俺が結論を出せた理由についてだ」
「理由?」
首を傾げる彩子。「ああ」っと言って透は説明を続ける。
「そもそも俺は、彩子と違って考察する時間がたっぷりあった。何せ、遺書を聴いたのは高校生の頃だからな。それから何年も経過している。いい加減、結論の一つはくらい出る。だから、あくまで俺の意見。彩子も同じくらいの時間を掛けたら、また違う結論が導き出せるかも知れない。それを頭に入れた上で聞く事」
「はい」
前提条件を説明して、彩子を納得させた。
これを済ませておく事で彩子は、透の意見が絶対と思う事はないだろう。彼女もこれから数年かけてこの問題を解くに違いない。
その参考になれれば、透にとっては充分である。
「さて、知っての通り。詩織は早く大人になり過ぎてしまった。彼女の思考高校生の時点では大人になっている。だが、心までは大人になった訳じゃない。だからこそ、不安定な状態の彼女は大人になりたくないと言っていた。そして、心がまだ大人になれていなかった為、本来なら出来た処理が行えていなかった」
「心が大人になっていなかったから、出来なかった処理?」
「そうだ。それは、詩織の遺書の言葉を借りるなら、アイスの溶かし方と言った方がいいか? 彼女は溶かし方を最後まで知り得なかった。もし、彼女程の人物が今も生きていたら、きちんと処理は行えただろう」
詩織の遺書に出てくる言葉は、彼女独特の比喩で類似例がない。だから、ココは想像で補う他ない。この作業も昔の透には時間を要したものである。
詩織の話すアイスとは、大人になって初めて受ける痛みや悲しみ。高校生なら、そんなモノは受ける事なく、存在すら知らない。それが当たり前である。
しかし、詩織は知ってしまった。
「彩子はアイスの溶かし方を知っているか?」
「どうでしょうか。私なりのやり方でしたら、すぐに思い付くのはありますが」
「それでいい。どんなやり方だ?」
「今の私が当時の詩織さんが受けていたような、痛みや悲しみを受けた時、それを浄化させるにはやはり、大人だからこそ出来る事で対処しています。そう、例えばお酒とかです……」
酒による浄化は、大人になってから扱える特権である。成人して、責任感が押し付けられて、自由を奪われてから、初めて行使する事が出来る。
それを説明した彩子の口調は弱弱しかった。大人になったからこそ、出来る方法を話したという事は、逆を言えば大人なってない場合の方法が分からないと証明してしまっているからである。透は彼女の意見を聞いて、鼻息を漏らす。
「彩子の言う方法は、決して間違ってない。酒は、アイスを溶かす方法としては充分に通用する。現に俺も嫌な事があって酒を飲む時はある」
「でも、それでは……」
言い辛そうに口を紡ぐ彩子。その先の言葉を透が話す。
「そう、それでは詩織には出来ない。当時の彼女は未成年だったからな。それに彼女はこっそりお酒を飲むような性格でもない」
そう言って透は微笑んだ。それにつられる形で彩子も微笑む。
「だからこそ、俺は当時の詩織でも出来る、アイスを溶かす方法を知っている」
「そんな方法が、本当にあるんですか?」
とても信じられないと言った顔でこちらを見る彩子に、透はさも平然とした表情で答える。
「何も特別な事をする必要はない。酒や煙草みたいに年齢制限も存在しない」
透はそこで目を瞑り、一拍置いた。彩子は彼の答えを今か今かと待っている。
出来るなら、この答えを高校生の内に導き出して、死んでしまう前の詩織に伝えたかった。そうすれば、あのような悲劇は起こらなかった。そう思ってつい、目を閉じたまま、自虐的な笑みを浮かべる。
しかし、そんな事は後の祭りのでしかない。どうにもならない過去を嘆くよりも、今可能な事を考えるべきだ。
「俺が考えるアイスの溶かし方。それは、自分の心の在り方を自分自身で受け入れて尊重する事。それだけだ」
これを生前の詩織は、既に実行してそうな事にも思われる。しかし、彼女と過ごした当時を頭の中で遡り、その仕草を再生すると、一つの仮説が出てくる。
それは、詩織は自分の事が嫌いではないかという事。
実際、本人の口からは自分を好きだという言葉は一度たりとも聞いておらず、遺書からも自身が酷いと言っている大人になりたくないとの記述があった。
大人になって受けるアイスは、この方法で溶かせる。
この方法の重要な事は、他人ではなく自分自身に認めてもらう事にある。
自分こそが、生涯において自身を客観的に見る事が出来る唯一の存在であり、その自分に認めてもらうか否かで、本人のアイスが解けるかどうか決定される。
こんな方法は高校生の透には、考えられない。
何故なら、彼も当時の自分を好きになれないでいたからである。
より正確に言うのならば、余裕がなかったのだ。当時の透は自身の内面こそ、見る機会があったものの、それを受け入れて尊重する余裕なんて持ち合わせてはいなかった。
これは案外、透だけが特別なのではなく同年代の人物には例外を除いて当てはまると考えている。自身を受け入れて尊重出来るのは、責任を与えられて、自由を奪われた大人だからこそ出来る。酒や煙草以外のもう一つの特権である。
詩織はアイスが溜まっていく事に耐えらないと言っていたが、彼女が大人になったら、この処理法に気付き実行していた事だろう。そう透は予想する。
そこまで考えていると、正面に座っている彩子は、口を開けて衝撃を受けていた。透は彼女が何か言ってくるかと自分からは話さないでいたが、あまりに彼女が驚いたままだったので、こちらから話しかけた。
「彩子? 大丈夫か?」
「あっ、はい。すみません、ちょっと驚いちゃって」
透に話しかけられて、ガクンと首を振り衝撃から解放された彩子は、まるで再起動したばかりの挙動が初々しいコンピューターのようだった。
「その気持ちは分かるよ。随分呆気ない、そんな簡単でいいのかって。でも、これがまた実際にやろうとすると難しいんだ。ほら、自分には隠し事って一切出来ないだろう? だから、普通人には話さない黒い部分も全部把握されている。それなのにそんな自分を受け入れて尊重するのは難しい。嘘で受け入れるなんて事は当然出来ないし、仮に出来たとしても無意味だ」
「先輩は出来るんですか?」
彩子はそう尋ねてくる。その瞳には、説明出来るのだから、当然やっているのだろうという言葉が込められているように感じた。
「一応。ただ、非常に難しい。何が難しいかっていうと、一旦は自分を受け入れて尊重出来ても、それを長期的に継続させる事が難しい。油断したら自分はすぐ自分を嫌いになる。実際にココ最近は非常に危なかったよ。彩子のお蔭で」
「それは、その。……すいません」
「冗談だよ。本気にしないでくれ。とにかくこれが俺にとってのアイスの溶かし方だ。最初に言ったけど、あくまで俺が考えた方法に過ぎない。もしかしたら、俺のよりも遥かに上を凌ぐ方法があるのかも知れない。だから彩子も参考程度に留めて、柔軟に自分のアイスを溶かす方法を見つけてほしい」
透はそう言って、彩子に念を押す。
彩子は笑顔を作り、しっかりと首を縦に一回振った。
「私、詩織さんの日記を聴けて良かったです。先輩が教えてくれなかったら、きっと一生私は、詩織さんの自殺の理由を探し続けて、あの手記を捨てられなかった。でも、それも全部今日で一段落ですね」
「良かった。成長の糧にしたいって言ってたけど、そっちは出来そうか?」
「これから長い時間をかけて、じっくりと考えていくつもりです。私なりのアイスの溶かし方が見つかれば、そこで成長出来たと初めて言えるかも知れません。でも、出来るかな……」
最後の言葉を弱弱しく話す彩子に透は「大丈夫」っと言った。
「その内、詩織がビックリ羨ましがるようなアイスの溶かし方を開発するかも知れない。その時、詩織がどれだけ羨ましがるか、二人して想像しよう」
透がそう言うと、彩子は声を出して笑う。
「そうですね。じゃあ、詩織さんを羨ましがらせる為に頑張って開発してみます」
「その意気だ。おっと、もうすっかりいい時間だな」
時刻は既に午後七時に差し掛かろうとしていた。彩子と待ち合わせをしたのは、午後四時だったから。約三時間、このスターバックスで会話をしていた事になる。映画一本分の時間を透はスターバックスで過ごした。こんな経験はかつて一度もない。シフト時間が短いバイト店員なら、下手すればそろそろ帰り支度を始めてもおかしくない時間だ。流石にそろそろ出なければならない。
その事に彩子も気付いたのか、自身の腕時計を見てとても驚いた。
「うわっ! もうこんな時間。早いなぁ。そろそろ、行きましょうか?」
会話の箸休めに時間を確認していたので、今の時間そのモノには、そこまで驚かない透。彩子も同じはずだが、彼女なりの気遣いなのか普通に驚いた表情を作った。
「そうだな。夕食には丁度の時間だ」
透はMDプレーヤーとMDディスクが入ったプラスチックケースを肩掛けカバンにしまって、ソファ席を立った。すると、まだ立っていない彩子がとても緊張した顔をしていた。透は首を傾げて彼女に尋ねる。
「どうした? 行くぞ?」
「先輩、一つ聞き忘れていました」
「何?」
他に何かあったかと透の頭では、今日の出来事全てを総検索して、彩子の質問内容を予測が、一向に出てこない。戸惑っている透を余所に、小さく口から息を吸った彼女は、口を開く。
「先輩と私の付き合いは、今日で最後になりますか?」
彩子が聞いてきたのは、最初の時点で彼女が透に言ってきた要望である。その時は、透はまだかなり警戒していたので、曖昧な答えで済ませていた。
全てが終わった今、透の答えはもう決まっている。
「いや、続くよ。でも、結婚するんだろう? そうなると流石に旦那さんに悪い。だから、実際には会うのは、今日が最後にして、後はメール程度に留めておいた方が無難かも知れない」
透が素直に気持ちを告げると、彩子は一瞬狐につままれたような顔を作り、それから声を大きく出して笑った。その笑い声は今日一番大きい。
一体、何がそこまで可笑しいのか。透にはさっぱり分からなかった。
「何が可笑しい? 変な事言った覚えはないんだが」
「ごめんなさい。うん、そうですね。先輩は変な事なんて何も言ってません。むしろ変なのは私です。そっか、そうですね。結婚って言いましたね」
笑いながらそう話す彩子に透は「まさか……」っと口から言葉を漏らす。それに反応するように彼女は両手を前に出して合わせて、頭を下げる。
もう何も言わなくても、彼女が謝罪している内容はすぐに分かった。
「はあ~」
意識的に声を混ぜた大きなため息を吐く。
どうやら、やられたという気持ちがあまりに強いと、怒りを超えてしまうようだ。透はため息を吐き終えてから、そう感想抱いた。そして、一度立ち上がったソファ席にもう一度腰を下ろす。
「怒ってます、よね……?」
「そんな気も失せた。やられたよ。いや、確かに冷静に考えたらいきなり結婚話を持ち出すのは妙だ。この前までは、全然そんな話はなかったのに。さっきは勢いで納得してしまったけど、改めて考えたらすぐ分かる事だった」
これは詩織の遺書を聴く為に彩子が取った戦略の一つ。手記の話を進める内に彼女に対する警戒心が完全に薄まっていたのだ。そこを突かれてしまった。
「他に何か騙してたり、隠してる事があるなら、言った方がいいぞ? 今なら聞いてやるから」
透がそう言うと、彩子は首を左右に勢い良く振った。
「ないですっ! ないですっ! 流石にそこまでは……」
「まあ、彩子の作戦勝ちって事にしとくよ。詩織の遺書を聴けて良かったって言ったのは、本当だったと思うから」
透は彩子にやられた事はそれ以上、追求しない事にする。彼の言葉を聴いて彼女は笑顔で頷いて答えた。
「ええ、それは勿論。任せてください。詩織さんが羨ましがるようなアイスの溶かし方を開発してみせますから」
「楽しみしてる。じゃあ、今度こそ出ようか」
「はい」
二人はソファ席から立ち上がる。彩子は先に店の外に出て、透が空のコーヒーカップと氷水が入っていた小さな紙コップを持ち、出入口付近の捨て場に分別して捨てた。久しぶりに外の空気を吸う。と言っても、ココは、ちゃやまちアプローズの建物内なので正確に味わいたいのなら、外に出る必要がある。
隣にいる彩子は両手を上に伸ばして、体を解していた。
「ん~。さて、行きましょうか。ドコに行くか決めてます?」
「スペインバルに行くか。その後は、いつものバーで」
今日何を食べるかなど透は決めていなかったので、咄嗟に知っている店を言う。スペインバルもバーも、彩子と行った事がある店だ。彩子は「おっ、いいですね~。行きましょう行きましょう」っとすぐ乗り気になった。
二人は来た時とは反対方向を歩き、阪急線の高架下へと向かう。ホテル阪急の自動ドアを抜けた時、街がすっかり夕方から夜へと進んだ事を肌で味わった。
「すっかり夜になっちゃいましたね。何だかワープしたみたいです」
「今、俺も似たような事を考えてた」
あれだけの時間を室内で過ごしたのだから、街の変化にそう思ってしまうのは、当然である。交差点の信号を待っていると、ふと彩子が思い付いたように「あっ」っと声を上げた。
「んっ? どうした?」
「先輩、どうせならスペインバルに着くまで、あの曲を聴きませんか?」
「あの曲? ……ああ、分かった」
何を指しているのか。透には最初、分からなかったがすぐに理解して了解する。二人は各々のイヤホンをiPhoneへ挿した。
透の場合は、ミュージックに入れているので、すぐに聴けるが、彩子はどうだろう。そう考えている彼の心情を察したのか。彼女はiPhoneを向けてきた。
「先週、入れたんです。ほら、先輩の話を聞いて、私も聴きたくなっちゃって」
照れながらそう話す彩子に透は微笑む。
「元々名曲だけど、俺にとってはすっかり詩織の曲になっている。きっと彩子もこれからそう事を考えるようになる」
「なりますかね?」
「なるさ。また聴きたくなったら詩織の日記も貸すから」
「本当ですか?」
驚きの顔を見せる彩子に、透は何て事ないという顔で答える。
「勿論。でもその代わりと言っては何だが一つ条件がある」
「何ですか? 今日一日で先輩の条件攻撃には大分慣れましたからね。どんな条件でも大丈夫ですよ」
笑いながらそう言う彩子に透は、人差し指を立てて答えた。
「今日、バーで飲む時に一杯奢ってくれ。彩子の結婚を祝わせてくれ」
「ははっ、いいですよ。ええ、ぜひ喜んで。盛大に祝ってください」
軽口を言い合って、二人はそれぞれのiPhoneの再生を選択した。同時に信号が赤から青になり、交差点を大勢の人が歩き始める。二人も足を動かす。
店の場所は二人共知っているので、どちらかが先頭を歩いて道案内する必要はない。自然な歩調で目的地のスペインバルへと向かっている。
夜の梅田特有の街音がする中、両耳にはあの曲が流れていた。
歩きながらでも英語の歌詞は抵抗なく、街音を見事に消してくれる。
詩織が大のお気に入りだった曲。『Queen』の『Killer Queen』
この曲を詩織は、寂しがり屋の女性の曲だと言っていた。
聴き終わると、歌詞の彼女に恋をするとも言っていた。透はあれから何年もこの曲を聴いている。確かに、詩織の言う通り彼女に恋をした。
ただ、それはもう過去の話、今は違う。
今後も透と彩子は曲を聴き続けるだろう。
そして、聴く度に詩織を思い出す。彼女を忘れる事なんて未来永劫出来ない。
でも、それでいいのだ。
会いたくなったら、いつでもこの曲を聴けばいいという事なのだから。
クリスタルホワイト・アイス (了)
初めての投稿でした。
こんなにダラダラしている話でその上、誤字脱字もあるのに読んでくださったという稀有な方がいらっしゃいましたら、心からの感謝を捧げます。本当にありがとうございます。
批判なんてあって当たり前だと思っていますので、いくらでも罵ってください。
読んだ方のストレス解消に貢献出来たら、幸いです。
それでは出来たら、また次作を投稿させていただきます。