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クリスタルホワイト・アイス  作者: 綾沢 深乃
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「第十一章 エゴイスティックな手記が語るあの日」

 森野詩織が自殺した事を佐野からのメールで知ったと話した彩子は、一度話を区切り、両手を大きく上にして背筋を伸ばした。

「ん~。さて、前置きは以上です。ココまで長くて退屈な話を聞いていただき、ありがとうございました」

 彩子は透に向かって頭を下げる。

「退屈なんかじゃない。詩織と彩子の関係が聞けて良かった。無駄は一つもない」

「そう言っていただけると助かります。私で答えられる事なら詩織さんの事、何でもお話しますよ?」

 やや挑発的な瞳をする彩子。それだけで、彼女達の交友関係がどれ程のモノだったのかを窺い知る事が出来た。透は彼女の挑発を受け流すように両肩で息をしてから、呆れ顔で答える。

「さっきは具体的な解説は控えるって言った癖に」

「あれは、先輩の事をどう思っているかについてです。それ以外、例えば普段私と詩織さんのメールの内容とか。そういう事なら、いくらでも話せますよ?」

 透は両手を開き、降参の姿勢を取った。

「結構。詩織の事なら何でもかんでも知りたいんじゃない。俺は別に詩織マニアって訳じゃないんだから」

 詩織について、一から百まで知りたいとは思わない。

 何故なら本人はもう、この世にはいないのだ。死んだ彼女のマニアになる行為が、どれ程虚しく報われない行為か透は理解している。もっとも、仮に生きていたとしても、知りたいかと問われたら、一応の否定材料は持っている。

 ただ、それを使う場面には永遠に遭遇出来ないのだが。

 透がそんな事を考えていると、彩子は“詩織マニア”と言う単語が面白かったのか。口元に手を当てて、声を出して笑っていた。

「詩織マニアって、先輩は面白い事を言いますね。私、何気にその語彙のセンスは大学時代から尊敬しているんですよ」

「そりゃ嬉しい」

「それにしても、詩織マニアか。先輩はそうじゃないかも知れませんけど。あの人は違います。詩織マニアと言っても、過言ではないでしょう」

 彩子はテーブルの上で長い間、沈黙を守っていた湊の手記を手に取った。

中を開いてページを捲る。透の座っている位置から見えたのは、多くのページにプラスチック製のポストイットが貼られていた事。中身よりも二回り大きい革製の表紙に姿を上手隠れていたそれを見ると、より一層、この手記から禍々しさを感じる。

 彩子は手記を持った手を透に向けて伸ばした。

 透は触る事を一瞬躊躇しつつも、受け取る。人の脂が十分に馴染んでいる革が気持ち悪い。透は恐る恐るページを開いた。文庫本と新書の中間のような大きさの手記には、黒のインクでびっしりと文字が書かれている。

 ページの上部や左右に先程も見た、ポストイットが貼り付けられている。透が黙って顔を上げると、それを待っていたようなタイミングで、彩子が口を開く。

「私は詩織さんが亡くなったと連絡を受けた時、とても言葉では言えない衝撃を受けました。あの時は、もうこの衝撃を上回る事など、この先の人生でないだろうと確信したくらいです。でもそれは間違いでした。その手記には彼女の死を遥かに上回る衝撃が内包されていたのです」

「読んでも構わないか?」

 ゆっくりと首を縦に振る彩子。

「構いませんが、私がポストイットを貼ったページのみ目を通して下さい。今日の為に私が厳選しました。他のページを読んでも良い事なんてありません」

「そうさせてもらうよ、ありがとう」

 透は礼を言って、ページを開く。

 手記に書かれていた文章を一字一句丁寧に読もうとする気力は、最初の数行で容易く打ち砕かれた。理由は一つ。その手記のあまりにもエゴイスティックな内容に、とても正気ではいられなかったからである。

 いっそ出来の悪いネット小説とでも言ってくれた方が、どれだけ楽だっただろうか。透は出来るだけ速読する事で、汚染から逃れる対処をした。

 以下、湊慧一郎という人物について、手記が語る情報である。

 湊は、常に自分の世界を持っている人間である。周囲の人間は自身の駒として、有益か無益かの基準でしかない。また、害のない無益な人物は放置しているが、害のある無益な人物には、駆除をしている。

 この駆除という単語において、具体的にどのような行為を行っているのか。

 詳細はポストイットの範囲外だった為、透の目に留まる事はなかった。

 害のある無益な人物。それはどういう人間かというと、彼よりも有能な人物を差している。

 湊は周囲に自身よりも有能な人物がいる事に、酷く苦痛を感じる人間だった。

 故に、その類いの人間には死んでほしいと本気で願っており、その思想は実に歪んでいた。こんな大人が高校時代にいたのかと思うと、透は心底恐怖を感じた。

 有能か無能かを線引きする判定方法は、彼独自の判定だったが、子供に関しては比較的寛大な目で見ている。

 それは、子供は成長する事で劣化していく人種だと、定義しているからである。

 たとえ、小学生の頃に天才的な能力を持っていたとしても、成人するまでに、周りの大人達によって無作為に消費されて、凡人へと成り果てる。

 なので、有能な子供に対しては、哀れみを抱きながらも、彼は笑顔の演技で対応していた。職場に子供が沢山いる環境では、演技をする事も次第に多くなる。

 いつしか、その行為は彼の趣味になっていった。将来、その能力が衰えていくのを哀れに思いつつ、決して口には出さない。

 腐っていく果実を間近で観察して、悦に浸る。

 手記にはこの事を誰かに話したことはなく、話しても理解はされないだろうと語っていた。まさしくその通りであり今、目を通している透には、彼が何を言っているのか。彼の主張する快感が全く理解出来なかった。

 湊は自分の考えが他人に共感されない事に少しも寂しさを感じていない。

 むしろ、この快感を知っているのは自分だけでいい。わざわざ他人に教えて共有する理由はない。下手に教えてしまうと、快感度合いに変化が生じてしまう。だから、自分だけのこの快感は自分だけに許された特権だ。

 湊慧一郎とは、そういう思考傾向の人間だった。

 ココまでが物語でいえば、プロローグに当たる。次のポストイットまでは大分ページが飛んでおり、そこからが導入部だと分かった。

 透は、一度手記を閉じてテーブルに置き、キャラメルマキアートを口に付ける。

「どうですか?」

 感想を聞いてくる彩子。彼女は透が手記を閉じるまで一言も言葉を発する事なく、その様子を見守っていた。

 透は鼻から苦悩たっぷりの息を出した。

「キツい。この時点でもう読み進めるのが大変だ」

「まだその辺りは序盤ですよ。どうします? 止めますか? どうしてもと言うのなら、代わりに私が手記の内容を要約して話しますけど」

 魅力的な提案が彩子からされる。しかし、それを受け入れてしまうと、わざわざ彼女がココまで手記を持って来た意味がない。

 透は「有難い話だけど……」っと言って首を横に振り、再び手記を手に取る。

「その手記には、詩織さんが自殺した日の出来事が記載されています。おそらく警察も学校も知らない、本当の真実です。私は偶然にもそれを知ってしまいました。辛いのは重々承知ですが、先輩には読んでほしいです」

「そうか……」

 森野詩織が自殺した日の真実。あの日について透が知っている事は少なく、新聞記事や週刊誌程度である。彼は詩織の内面にこそ、一番近い位置にいたが事件そのモノについては、当事者達の中では一番遠いのだ。

 透はあの日の真実を知らない。知らないからこそ、何も考えずに生きる事が出来た。一番大事な事から目を背け続けたのだ。だが、それも終わりを迎えようとしている。そう考えた時、自嘲的な笑みを浮かべた。

その様子を不審に思った彩子は眉間に皺を寄せる。

「何が可笑しいんですか?」

「いや別に。いつまでも逃げられるモノじゃない。って思ってな」

 その言葉を聞いて、彩子は彼が笑った理由が理解出来たらしく、それ以上は何も尋ねてこなかった。透は、また手記へと目を返す。

 手記には詩織が登場した場面から始まった。

 湊にとって、詩織との出会いは人生で一番の衝撃だった。

 詩織はとても高校生とは思えない賢さ、気高さを持っていた。当初、彼女に出会った時、その有能性が成長と共に減衰していく事に酷い落胆を覚えた。意図的に彼女を避けていた日々もある。

 湊は他人の有能性を観察して、哀れむ趣味がある。

 趣味自体は理解出来ないが、普段から他人を観察している彼にとっては、詩織の存在は余程大きかったのだろう。何せ、手記の三ページに渡って、これでもかと言う程、彼女の素晴らしさが隙間なく記されている。

 ようやく、詩織の感想からは抜け出した。

 一時期行っていた詩織を避ける行為は、止めて普通に接し始めたようだった。その理由は、自分が彼女の有能性守るという使命感が生まれたからだ。

 大層な結論である。自分を神か何かと勘違いしているのか。透はそう呆れた。

 そして、詩織と接していく内に新しい発見をする。それは、これまでの常識(あくまで彼の)を打ち破る程だったらしい。

 湊によると、詩織は自身の有能性を全く減衰させる気配がないという。それどころか、その能力は常に上昇しており、限界値がない。

 今まで会った事のない人間、湊はその発見に大いに喜び、同時に深く神を呪った。原因は彼女と自分の歳の差にある。この時点で彼は、詩織を自分の妻にとまで考えていた。だが、障害は星の数だけ立ちはだかる。

 歳の差、世間の目。何より、自分にはもう家族がいた。

 何故自分達には、こんなにも差が出て生まれてしまったのだろうか。

 詩織の無限に上昇し続ける有能性を誰よりも傍で観察したかった。

 手記にはそういった内容の、身勝手な抗議文で埋め尽くされていた。透は彼の主張を読んで、これもある意味、恋愛感情ではないだろうか? っと感想を抱く。歪んではいるが、詩織を所有したい欲求は恋愛感情といえる。今まで読み進める中で、ようやく一つだけ理解出来た。

 ただ、理解出来たというだけで、共感が出来ないのは変わらない。

 湊はどうあっても、詩織の成長をずっと傍で観察する事が出来ない真実に苦悩していた。仕事にも支障をきたして、家族にも冷たく当たってしまう。

 妻と娘には少し疲れているからと言ったが、いつまで欺けるかは分からない。

 透は目の前にいる彩子にこの事を尋ねた。

「今、詩織の成長を傍で観察する事が出来ない苦悩から、家族にも冷たく当たってしまう辺りまで読んだんだけど、この時って彩子は気付いてた?」

 彩子は迷いなく頷いた。随分と昔の事なのによく覚えているもんだ感心する。

「もう結構昔の話ですけどね。覚えていますよ。それまでは私、あの人に怒られた事が一度もなかったんです。夫婦喧嘩している場面にも遭遇した事がないし。何より、怖い顔を見た事がないんです。だから、余計に印象に残りました」

「どんな感じだったんだ?」

「本人は冷たく当たったと書いていますが、ちょっと違いますね。何て言うか、私達家族に一切の興味を失くしたというか、そんな目をしていました」

「興味を失う、か……」

 透がその言葉を重く受けて止めて反復するが、当人はケロッとした表情で続きを話す。それがどこか嬉々としている感じにも取れて、彼の背中は軽く震えた。

「興味を失った目を向けられた、まさにあの瞬間。その時の顔こそが、あの人の本当の顔だったなんだと今になって思います。当時の私は、その表情がとても怖かったって感覚しかありませんでしたから。さぁ、続きをどうぞ?」

「あ、ああ」

 これまで気を遣って止めるかまで聞いてきたのに、ココへ来て先を促した。

 それ程、彩子にとって続けたくなかった話題だったのだろう。

 透の目は再び手記へと落ちる。

 手記に戻ると、湊は長い苦悩の日々から、ようやく解放される策を導き出したらしく、文章は歓喜していた。その内容は読んでいる透からすれば、まさに滑稽の一言に尽きる。

 湊の解決方法は、詩織の有能性を自らの手で潰す事だったのだから。

 散々馬鹿にしてきた無能な周囲と同じ事をしようとしている。

 それを実行すれば自身も、無能な周囲と化してしまうのに、その事に湊本人は気付いている節はない。潰す行為すら自分が行う事で、特別な意味を持つと本気で信じているのか。もしくは手記に書かないだけで、 本当は気付いているのか。そのどちらかと思われる。

 透は現時点が一番読むスピードが乗っていた。彼はどうやって詩織の有能性を潰すのか興味が湧いたのである。

 一体、湊はどういう方法を使うのか。

 手記のページを捲り、その方法を読んでみると、そこに書かれていたのは、想像すらしていなかった最悪な方法だった。頭を氷のハンマーで殴られたような冷たい衝撃に襲われる。

 高校生の頃にそんな事があったとは、とても信じられない。だって、詩織とは何度も会っているのだ。普通に会話をして笑っていた。それは透だけじゃない。彩子を含めた女子生徒。彼女達にも勉強を教えたり、仲良く話をする仲なのだ。

 その裏でココに書かれている事が行われていたとは。当時、詩織が平然と学校生活を送っている姿が目に浮かんで、透は瞳が潤み始めていた。詩織関係で、もう涙を流す事はないと思っていたのに、まだ絞りカスが残っていたらしい。

 透の目が止まっている事から彩子は、彼が今どの部分を読んでいるか察したようだ。彼女の瞳もまた、潤み始めている。もっとも彼女の場合は、手記の内容を予め把握している。

 にも関わらず、瞳を潤ませているのは、透の気持ちを汲み取った表れである。

「すみません、不快な部分を読ませてしまって」

 彩子は頭を下げて謝罪する。だが、彼女が謝る必要はドコにもない。透は首を左右に振って彼女の頭を上げさせた。

「彩子が謝る必要はない。まさか、詩織がこんな事態に陥っていながら、気付けなかったとは、俺は一体何をやっていたんだか……」

「先輩も深く責任を感じないでください。普通気付きません。ええ、こんなの誰も気付きませんよ……」

 透と彩子は互いに責任の取り合いとなった。

 互いに相手を庇いつつ、自分がその責任を感じる事は譲らない。

 そこまでの事を二人に感じさせていた湊の行為。

 それは、詩織に性的暴行を行って、彼女の自尊心を傷付ける事だった。

 そうする事で、彼女の有能性を潰せると判断したらしい。なんと浅はかで愚かな考えだろうか。透は一度 でも自分が彼の感情を理解出来ると思った事が、酷く恥ずかしかった。手記をテーブルに落として、目頭を押さえて上を向く。

 そうしないと、今にも涙が零れそうだった。他の客にどう見られようと知った事ではない。最優先すべきは、涙を止める事である。

 幸い、周囲の声は耳に入って来なかった。店内に流れるBGMが透の耳にフィルターをかけて、雑音をシャットアウトしてくれている。

 涙が落ち着くのを待って透は深呼吸をした後、顔を下げた。目の前にはこちらを心配そうに見つめる彩子がいる。

「気分は大丈夫ですか? もし無理なら、やはり今日はココまでにしましょうか? そんなに急ぐ必要もない訳ですし」

 そう言って、再び透を気遣う彩子。

 彩子は最初、手記を読んでほしいと言っていた。出来るならば早く目を通してほしいだろう。それなのに透の様子を考慮して、譲歩案を提示してくる。その事を彼は充分理解していたし、同時に感謝していた。

 だからこそ、その優しさに応える意味も込めて、透は首を左右に振る。

「今日で読み切る。次回なんてない。心配してくれてありがとう」

「でも、それは……」

 彩子の心配を微笑んで遮り透は、湊の手記に目を通し始める。

 手記には詩織に行った性的暴行の詳細が嬉々として記されている。感情が文章を通して伝わってくる程、文字は踊っていた。

 湊はまず、詩織を出納準備室へと呼び出す。鍵を持っているので、密室は簡単に作成可能である事。更に使用中の札を掛けておけば、大学図書館側であっても一旦時間を置くか、最低でもノックをする。まさに最適化された部屋だった。

 透は、詩織が亡くなった部屋が出納準備室だった事を思い出す。

 これはどう考えても偶然ではない。このまま読み進めれば全てを明らかになるに違いない。そう思ってページを進める。

 初回こそ、一番神経を張り巡らせたが五回、十回と回数を重ねる内に湊の神経は少しずつ緩んでいった。詩織も最初は驚いた表情を見せていたが、すぐに受け入れて、今では何をしても大した反応を見せない。

 それを湊は、彼女がやせ我慢をしていると考えた。その事が彼にはとても悦に感じて、彼女の上に立てた。征服出来たと実感させたのであった。

 そこまで読んで、透は眉をしかめる。

 まるで、味のない酒が体を巡っているような独特の不快感が生まれる。

 手記には、湊の心情の他に、より詳細な手法も記されていたが、想像するのが酷く苦痛だったので可能な限り、文字列の集合体として読むようにした。その弊害で少々、読むスピードが遅くなったが止むを得ない。

 透はそこで、手記を閉じて席を立った。目的地は心に溜まった膿を吐き出す為のトイレではなく、カウンター。彼はそこで店員に氷水を二人分貰って来た。

 一つは言うまでもなく、彩子の分である。事前に彼女に必要か問わなかったのは、仮に彼女が拒否すれば自分が飲めばいいと考えているからである。

「飲むだろう?」

 彩子に小さい紙コップに入った氷水を差し出す。

「わざわざすみません。いただきます」

 彼女が両手で大事そうに受け取る。透は元の席に座り、氷水に口を付けた。試飲用というのが相応しい小さな紙コップ。彼は一気に飲むような真似はせず、喉に細い川を流すようにして、大事に飲んだ。

「この水が空になる頃には、全部読み終わっているといいんだけど。悪いが、もう少しかかると思う」

「平気です。待ってますから」

 そう言う彩子の返事に頷いてから透は、再び手記を手に取り、ページを開いた。水を飲んだ影響か、先程よりは思考が冷静になっている。

 行為により、詩織は順調に有能性が壊れてきていると湊は書いていた。

 手記によると、それが確認出来る最も大きな事は、彼女が行為中に笑顔を見せ始めた事であると記している。無反応の期間のまま繰り返すうちに、次第に笑顔になっていったのだ。そしてその笑顔は独特で、悲しく笑っている。

 湊はそれを詩織が屈服したから見せるのだと判断した。悲しく笑うという相反する二つの感情が混ざり合う笑顔。見ているこちら側の捉え方によって、幾分にも変化する彼女の表情は、湊の心に大きな安らぎを与えた。

 また、湊は行為の前に必ず相談という体で詩織と世間話をする。実際に相談はせず、単純に初回時に相談があると呼び出した風習が、そのまま残っているだけである。止めようと思えばいつでも止められる。

 けれどそれをしなかったのは、その相談の時間に彼女に自分の事を話すのが楽しかったから。下手をすれば行為そのモノよりも楽しかったかも知れない。

 あの行為は、あくまで肉体的快楽しかない。極論だが、目を瞑ってしまえば他人と行っているのと大差はない。よって、彼女を占有して話す事は、湊の心にまた違う種類の快感を与えていた。

 この二種類の行為によって、詩織の有能性を潰そうとしていたのである。

 透はそこまで読んで、次のページを捲ろうとする。

 ところが、そのページには付箋が貼られていなかった。彩子が用意した次の付箋は十五ページ程先にある。透は素直に手記をバラバラと捲り、次のスタート地点へと進んだ。

 付箋の色が赤から青へと変わり、次の場面が始まる。

 湊は順調に詩織を占有して日々を送っていた。行為数は既に五十回を超えようとしている。初期こそ、何度か想定外の場面があったが(出納準備室に想像していない来客等)それは回数を重ねる度、自己学習していくプログラムのように、最適化され続けて今では実に手馴れていった。

 放課後に詩織に用事があると言って出納準備室へと誘う。

 これすらも、今では誘わなくても詩織自ら部屋の前まで訪れるようになった。図書室内を通ると他の生徒に見られるので、職員用階段を使うのだが、あの階段を使う人間は、完全に把握しており隙はない。詩織自身も誰にも見つからないように辿り着けるようになっていた。

 そんな日々が続いたある日の事。

 いつものように詩織と出納準備室で二人きりとなり、会話を楽しんでいると、ふと彼女の口から初めて聞く人物の名前が出てきた。

 その人物の名前とは、内田透。

「俺?」

 突如、出てきた自分の名前に透はそう口走る。いつかは出てくるだろうとは思っていたが、予想よりもずっと早い。彼がそう口走った事で彩子には、今どのあたりを読んでいるかが把握出来たようだった。

「あっ、先輩出てきましたか?」

「ああ。意外と早く出て驚いている」

 顔を上げないままそう答えて、再び手記を読む。

 詩織は、透が図書室での閉室時に湊に挨拶をした話をしていた。

 それは透が詩織と会話の接点を作った最初の出来事である。その事は彼自身も良く覚えている。それが彼女の口から語られるのは、とてもこそばゆい気持ちになる。初めて、この手記を和やかな気分で読む事が出来た。

 ところが、それはたった一瞬の事でしかなかった。

 和やかな気持ちになった透とは反対に、湊は怒りを露わにする。

 湊は、詩織の頬にその激情に任せたまま、大きく平手打ちをした。どうして、怒りを感じたのか。今まで性的暴行こそ行っても直接的暴行は一切しなかったのに、何故彼女の頬を叩いたのか。

 そこには湊の生々しい独白が記されていた。

 彼は詩織が透の話をした時に見せた笑顔が気に食わなかったのだ。しかもその笑顔は、普段自分に見せている笑顔とは違って、本当に心の底から笑っている顔だったのだ。

詩織の笑顔を見て湊は、自分が決して彼女を屈服させられた訳ではないと知った。だからつい、反射的に彼女に暴力を振った。暴力を振った事をとても後悔している。彼自身は暴力を振るおうとは、微塵も思っていなかった。そもそも暴力で屈服させるような選択肢は選ばなかったのだ。何故ならば、そういう行為をする事は、今まで散々蔑んできた能力のない哀れな周囲の大人と同列になってしまうと、彼なり考えがあったからである。

 だからこそ、湊は直接的暴力だけはしないでいた。

 ところが、この日初めて暴力を振ってしまう。同列に落ちてしまった。

 詩織は殴られると、すぐに笑顔を消して謝罪してきた。自分が叩かれた現認がを瞬時に理解したのである。

 いつもなら、相変わらず能力の高さに驚く場面であるのに、この時に限っては、湊は大きなショックを受けていたので、それどころではなかった。

 結局、詩織の有能性は低下などしていない。

 その事実に気付いてしまったのだ。悲しい笑顔を見せてくる事で、屈服させたものだと、手中に収めたと考えていた。

 ところが現実は、収めるつもりが逆に収められていたのだ。行為中に見せる詩織の笑顔は、自分を満足させる為に用意した偽物だった。彼女は最初から湊が喜ぶように接していたに過ぎない。

 その部分を読んで透は、湊の愚かさを哀れんだ。彼の行為は最初から一つ足りとも正解がない。それは手記を読んで早々に得た感想である。

 その事に気付いていなかった湊は、ココに来てようやく気付いたようだった。

 手記にもこの行為に意味はあるのか? と言った自問自答する文章がある。透はこれで湊が馬鹿な事を止めてくれるだろうと思った。

 一応、湊だって教師の一人。自身の行いの無意味さを自覚したのなら、すぐに止める。透は少なくとも本気でそう信じた。彼がそう考えたのは、この手記に自分が登場人物として出たからである。このままの流れで穏やかに終わってくれたらと切に願う。

 だが、そんな簡単な話で終わる訳がない。

 こんな所で終わる話ならば、彩子はもっと早く話している。今日まで長引いたのはそれ相応の結末が用意されているから。

 透は深いため息を吐く。

 手記では、その後も湊は詩織との関係を維持したままであった。

 その理由は二つ。

 一つは、もう自分は引き返せるような場所には立っていないという事。

 そしてもう一つは、詩織が誰かに告発する可能性があるという事である。

 関係を止めたという解放感から、詩織が現実的思考を取り戻した時、真っ先に考えられるのは、周囲に話す事。無論、証拠を残すような事はしていない。

 彼女が記録を取っているような素振りはない。また、目撃される、不審に思われる。といった行動も取っていない。

 外部に発覚するとしたら、詩織の口から言われる他ない。

 透はそこまで読んだ時、ふと疑問が浮かんだ。どうして詩織は周囲に言わないのだろうか? っという疑問である。二十四時間監視されている訳ではないのだから、話すチャンスはいくらでも存在していた。それなのに話していない。

 どうしてなのか?

 本人がいれば直接問い詰めたいものだが、こればかりは叶わない。せめてこの手記を読み進める内に解決出来ればいいのだが……。

 そう思いつつ透は更にページを捲る。

 詩織を叩いてから彼女は一切、透の名前を出す事はなくなった。

 そして、何事もなかったかのように湊の好きな笑顔を見せるようになる。その詩織の行動に流石の彼も動揺を隠せないでいたものの、月日が経つというのは恐ろしく、次第に気にしなくなっていった。

 湊はその事を詩織との二人だけの世界が再構築出来た事による、安心感だろうと自己分析していた。

 湊の精神も安定して、しばらく彼の中から透は消えていた。

 再び、詩織を出納準備室へと呼び出す毎日が続いていた。そして、いつしか彼女に世間話をしなくなり、ただ行為のみを行うようになった。

 湊はある日、珍しく有給休暇を取り繁華街を一人で散策していた。会社員時代とは違って、休日が不規則な彼は、誰かと遊ぶ事はしなかった。学生時代との街の変化を楽しみながら、買い物を済ませてそろそろ帰ろうかと駅に向かう。

 そして地下鉄に乗る前に駅前にある書店へと寄った。そこで、湊は目撃してしまう。書店と併設しているパン屋の二階、まるで隠れ家のような喫茶スペースへと続く階段を上がる詩織の姿を。

 ココに来るまでに湊の帰る時間が、丁度学生達が下校する時刻と被っており、知っている顔の学生達何人かとすれ違っている。だが、今日は休日な事もあって、特別彼から声をかけるような真似はしなかった。

 しかし、詩織は別だ。

 湊は詩織に声をかけようと、レジでコーヒーを注文して、彼女が上がった階段を上がっていく。その際、驚かせようと自身の足音を消していた。それは結果的に功を奏する。一人で階段を上がったので、てっきり誰もいないと、考えていた。

 ところが、湊の考えは大きく外れる。足音を消して、ゆっくりと階段を上がり、途中で背伸びをして、詩織の様子を窺う。そこには彼女の向かい側に誰かがいるのが分かったのだ。彼女の背中に隠れて正確にその姿を捉えられない。

 二人で下を向いて、勉強をしている。ただ、二人以外に客がいなかった事から、自然と耳に入る話声で、 相手の正体が分かった。

 相手は内田透。気付かぬ内に湊の頭から消滅していた彼だった。

 手記には状況説明の後。湊の心情が細かく記されている。

 心臓がやたらと熱くなり、三半規管が狂って、酔っているようなふらつきに襲われる。それは、詩織の笑 顔のせい。以前に名前が出た時と同じく、その笑顔は出納準備室でいつも自分に見せる笑顔ではなかった。あと、数段階段を上がれば、確実に二人に気付かれてしまう。

 これ以上、上がると自分の体に悪影響を与える。そう判断した湊は、ふらつく体をどうにか動かして、店を後にした。

 店を出て外の新鮮な空気を吸い、手元に持っていたコーヒーを喉に流し込み、心臓の火照りと体のふらつきが治まってから、湊は駅の改札を通った。

 ホームで電車を待っている時から家に帰るまでの間、休まずひたすら考えて最終的に一つの決断をする。

 透はそこでまた次の付箋が遠くにあるのを確認する。そろそろ物語は転換期に入る頃だろう。そう判断して手記を置き二度目の水分補給に入った。

「今、どの辺りですか?」

 水を飲んでいたタイミングで彩子が尋ねてきた。透は紙コップを口から離してから答える。

「えっと、喫茶スペースで俺と詩織が会っていたのを彼に見られた辺り」

「そこ読むのって嫌になっちゃいますよね。本当、独りよがりで」

「確かに。頭が痛くなってくるよ」

「分かります。私だって何ヶ月もかけてじっくり読んだんですから。先輩がいくら付箋を貼った箇所のみを読んでいても疲れるのは当然ですよね」

「こんなのを全部読んだ彩子には感服するよ。本当に凄い」

 透が心から思った事を述べると、彩子は笑った。

「初めてこの苦行を理解してくれる人が現れました。嬉しいです。それで先輩、もう予想は付いているとは思いますが、この後の展開は、相当キツいので、覚悟して下さい」

「分かってる」

 彩子の言葉に透は頷いた。

「何度も言いますけど、無理ならいつでも止めて構いませんから。その場合は、ココを出て、美味しい物を食べに行くだけです」

「ははっ。それはどーも」

 彩子の気遣いに透は笑う。彼女との会話で体内に溜まった手記の膿は、ろ過されたようだった。今の彼の心は大分軽い。

「さて、それじゃ続きを読むとしようかな」

 透は再び手記の世界へと想像力を没入させていく。

 湊は二人が会っているのを知ってから、多大なショックを受けていた。

 そのショックは相当で、あの日から一度も詩織との行為に至っていない程である。あの笑顔を見てしまった後では、自分に向けられる笑顔なんて、苦痛でしかなかったからだ。次第に彼女から逃げるようになってしまう。

 詩織が時間になり出納準備室の前に立っていても、湊はその場には行かない。そんな日が何日か続いていた。

 解放感から詩織が周囲に告発するのではないかと考えていたのは、所詮あの日の前の事。今となっては、そんな事は些事でしかない。

 湊は、詩織に会わない日々の中で、あの日に決めた事を計画していた。それは彼女の最大の理解者である自分にしか出来ない。これを行う事で現在、自分に抱えている全ての問題が解決出来る。それは至ってシンプルな事。


 森野詩織の命を奪う。つまり、殺す事である。


 殺す。その二文字を読んだ時、透の口がヒュっと短い音を立てた。予想は付いていた。ココの箇所に辿り着くまでに自分なりの覚悟もしていたつもりだった。

 それなのに、どうしても体は反応してしまう。

 透は彩子に気付かれないように慎重に深呼吸をした。

 湊によると、詩織の有能性を潰すのは、これ以外に思い付かなかった。散々した出納準備室での行為も最終的には何の効果も得られなかった。だから彼女を殺す事で、その有能性を永久に滅せられると考えたのである。

 そして、これは何も自分だけの問題ではない。どうせ、もっと成長すれば嫌でも有能性は周りに潰される。

 また、潰さずに成長を続けたとしても大人になれば、自身の能力を妬んだ周囲との確執に苦悩をするのは必然。その時に自分は隣にいられるか分からない。

 それならば、詩織が後悔する前にその命を刈り取ってやれば、彼女も救われる。

 手記に書かれている湊の心境は、今まで読んだ中でも群を抜いて気分を害するモノだった。最初から最後まで、彼は自分の事を最優先にして考えている。

 加えて、自分が優秀だと考えているからこそ、詩織をどうにも出来ない事に我慢ならなかったのだろう。だからと言って、殺人という人の道に反した行為に何ら抵抗がないのは、もうこの時点で彼が狂っているからである。

 恐ろしいのは、その狂気を彼が周到に隠していた事。

 透は在学中、湊の本質を微塵も感じ取れなかった。倉澤との話にも彼は一度たりとも出て来ていない。という事は、警察すらも見抜けなかった事になる。

 それ程までに隠蔽された彼の心の中身。

 それを一人で引き受けていた詩織は、一体どんな気持ちだったのだろうか。

 あの喫茶スペースでの日々、あれだけ会っていたにも関わらず、一度も詩織は、助けを求めなかった。当時の自分でも彼女から求められたら、いつだって動いた。それは間違いない。それなのに一体どうして……。

 透は考えを巡らせるが、満足のいく解答は導き出せなかった。

 手記には意外な事に透を殺そうという気持ちは一切起きないと記されていた。

 その部分を読んで透は安堵する。そこにはその理由が詳しく書かれていた。

 曰く、透を殺したところで、詩織がまた新しい透のポジションの人間を作られては、意味がない。あの笑 顔の対象者を作り続けられたら、その度に殺さなくてはならない。そこまでするのなら、大元を絶てばいい。

 これも詩織を殺す理由の一つだった。

「先輩」

「えっ?」

 ふいに彩子に呼ばれて透は顔を上げる。彼女は心配そうな表情でこちらを見つめていた。今日、彼女はそんな顔ばかり見せる。

「どうした? ああ、今読んでいる所なら……」

 読んでいる箇所を教えようとする。しかし、その先の言葉は彩子に遮られた。

「先輩のせいじゃないです。先輩と関わったから、詩織さんが死んだなんて事は絶対にありません。私が断言します」

「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい」

 彩子の優しさに透は感謝の意を述べる。

 湊自身も手記に書いていたのは、自分を殺しても詩織には、新しい自分が出てくるだけだから、殺しても意味がないと言う事。その少し前に長々と記述していた、彼女の有能性とは全く関係がない。完全に彼の感情による理由だ。

 その事にきっと湊の自覚はない。有能性を潰す手段という身勝手な大義名分が彼の感情を全て覆い隠したと推察される。

 しかし、少なくとも詩織との関わりがなければ、死期が延びたのは事実である。

 もしかしたら、詩織に心境の変化が生まれて、周囲に話す未来があったかも知れない。そういった可能性を潰してしまったのは、間違いなく自分なのだ。

 それを透はきちんと感じていた。

 だが、自分を責める事はしない。何故なら透は、森野詩織が自殺した理由を知っているからである。そこを知っているか知らないかが、透と彩子の大きな違いであった。

 湊は、詩織を殺す計画をより具体化させていく。

 学校外で殺すのはいとも簡単に行える。詩織は母子家庭で夕食は基本的に自炊している事から、帰り際に待ち合わせて殺すのは可能。外部犯に思わせた方が不幸な女子高生が暴漢に襲われたと出来る。しかし、湊はそうしなかった。

 それは湊の殺し方にある。

 詩織をただ殺すのではない。彼女を自殺に見せかけて殺そうとしているのだ。自殺に見せかけて殺す行為に意味はある。外部犯に見せかけるよりも自分で死を望んで死んだと思われた方が、平穏が保たれる。手記にはそう書かれていた。

 透は、湊は無意識に自身が詩織より劣っている事、またそのせいで自分の手を汚してまで、彼女の有能性を潰す事に抵抗を示したのだと考えた。

 手記自体にはそんな風には記されていないが、これまでの彼女に対する文章から、それは容易に想像がいた。

 湊はクレモナロープを入手する。そして場所は出納準備室。

 敢えて自分の知り得る場所で彼女を殺すつもりだった。仮に自分に疑いの目が向けられてようとも完璧な対策を施していれば、逆に優秀な盾となる。

 全ては順調だった、まるで誰かの後押しを受けているように。

 典型的な自己陶酔。そう透は思ったが、次のページに続く文章は前ページを否定する内容だった。

【間違っていなかったのに】

 そう始まる手記はいつもと違う文体で、まるで小説のような語り口。

 森野詩織が亡くなる日の様子が、丁寧に情景描写も加えた上で書かれている。

 湊はクレモナロープを出納準備室へ前もって用意しておいた。詩織は時間になったら、勝手にドアの前まで現れる。ノックが三回、いつも通り。

 ドアを叩く音を聞いて、湊は詩織を部屋に招き入れる。久しぶりだと言うのに、彼女は驚く顔一つ見せず入った。そして、ドアの鍵を内側から施錠した。

 普段はココから行為が始まる。詩織はもう既に始まると思って、湊が何を言うまでもなく、制服を脱ごうとする。

 汚れ一つない白いブラウスに手をかけた時、湊は詩織にストップをかけた。初めての行動に彼女が首を傾けて制止する。湊は彼女に、“一つ書いてほしいモノがある。本当は一時間後に職員室に提出しに行かなければいけないのだが、さっき指をドアに挟んでしまって、上手に書けない。代筆してくれないか。”

 そう詩織に自身の赤く腫れ上がった指を見せながら提案した。

 そして、クレモナロープと同じく用意しておいたプリントを彼女に見せる。

 無論、そんな書類は存在しない。詩織に遺書を書かせるようと用意した偽物だ。更に、より信憑性を持たせる為に、本当に自分の指をドアに挟んだ。

 言葉自体に嘘はない。詩織も騙されるはずだ。

 詩織は湊の手と、プリントを交互に見てから、何かを考えるように目を閉じていた。予想では彼女は二つ返事で了解するはずだった。今までに彼女が自分との会話において、躊躇する事など一度もない。

 湊はまさか自分の考えが読まれたのかと、笑顔の裏で酷く動揺していた。

 しかし、現状では詩織に余計な材料は与えていない。彼女の能力がいかに高くても、それは取っ掛かりがあってこそ成立する。何もない今の状況では、彼女が何かを獲得するというのは不可能なのだ。

 湊はそう自身に言い聞かせた。そうする事で理性を保っていたのである。

 やがて詩織がゆっくりと目を開けた。彼女の二つの瞳が真っ直ぐにこちらを捉える。その何もかも見透かしたような、湊が征服したくて堪らない瞳で。

 こちらから口を開き、返事を聞いた。もしやってくれなくても、大した問題ではないと言って、プレッシャーを与える。大した問題ではないと言いながらもこうして、ココに持って来ている状態を読み解かない詩織ではない。その洞察力を湊はこの学校で一番理解している。

 言うなればこれは、湊の追加攻撃に過ぎない。

 それを受けても詩織の瞳は微かに揺れるだけ。動揺らしい動揺は見受けられない。次の手を考えるべきか。

 湊がそう考えた時、詩織がゆっくりと口を開いた。上唇と下唇が離れて、口内に残る二酸化炭素が出納準備室へ放出される。そして、喉を震わせて返事をした。

“分かった。何を書けばいいの?”

 詩織の了承を得て、湊は大きく安堵の息を吐く。それは演技ではなく、本心であった。笑顔を作って礼を述べる。彼女を机まで近付けさせて、ペンを持たせた。

 そして、湊が口頭で述べた通りの文章を詩織が書き始める。プリントは白紙だと怪しまれるので、書類に見えるよう体裁は整えている。

 長方形で囲まれた中に詩織が文章を記入していく。

 隣でその様子を見ていた湊の顔は、鏡を見なくてもはっきり分かる程に勝ち誇った笑顔だった。

 詩織の肉筆で文章を書かせる。内容自体は普通だが、彼女の死後に余計な文脈を切り取れば、立派な遺書へと変身する。

 手記にはどういう内容の文章を書かせたのかまでは、記されていなかった。

 分かるのは、湊の過剰な自信。透は長々と垂れ流されている彼の心情に今日何度目か分からない嫌気を覚えつつ、読み進めていく。

 詩織に文章を書かせ終えて、湊はもう一度礼を述べてから、プリントとペンを内ポケットにしまった。これで前提条件は全て完了。

 いよいよ計画を実行に移すだけである。

 書き終えた詩織は“どういたしまして。”っと短く返してから“こんな事は今までなかったわね。”っと言ってきた。湊はそれを苦笑いで流しつつ、彼女と距離を取る。目的地は、出納準備室の中心。天井には太い吸排気パイプがあり、そこには目立たないよう湊が予め用意していた、クレモナロープが結ばれていた。

湊がペンを持って手を伸ばせば、クレモナロープの先端の輪に引っ掛かる仕組みとなっている。

 湊が移動した事で詩織は自然と彼の後を追う。このままの流れだと彼女は、また、ブラウスを脱ごうとするだろう。それは普段、この部屋では当たり前の行動。

 しかしながら、今日は彼女に脱いでもらう訳にはいかなかった。裸で死なれると、後で着せる必要がある。そうなってくると、予期せぬアクシデントを発生させる可能性が生まれてしまう。

 なので、湊の横に近付いて来た詩織に一つの提案をする。

 その提案とは、詩織の服を自分で脱がしたいと言うモノだった。彼女は制服のブラウスのボタンに掛けた手をピタリと止めて、“うん、分かったわ。”っと二つ返事で了承した。先程よりもスムーズに事が進んだのは、彼女の服を脱がした経験があるからである。

 湊は詩織の後ろに回った。普通、前からでないと脱がせられない。その突飛な行動に彼女は振り返ろうとする。それを阻止すべく彼女の両肩に手を置いて、後ろから脱がしたいと耳元で囁いた。すると、振り返るのを止めて、首を一回コクンと縦に振る。了承の合図だった。

 湊は内ポケットから先程しまったペンを取り出すと、クレモナロープに向かって手を伸ばした。クレモナロープは滑車の要領で結んでいるので、輪の部分と吊り上げる部分の両方を下に垂らした。

 背後で手が動いた気配を感じたのか、詩織は大きく息を吸っていた。何をされるか分かっていても、見えない以上、緊張してしまうらしい。だが、彼にはそんな事はもう関係ない。

 湊は詩織に当たらないよう、慎重にクレモナロープを手繰り寄せると、先端の輪を彼女の頭上で広げた。まるで、天使の輪のような神々しさだと、手記にその時の感想が記されている。そして、その天使は自分の作品であり、完成をもって、彼女の有能性を完全に消滅させられる。その幸福感に思わず涙が出そうになったとも記されていた。

 その気味の悪さに透は吐き気を催したが、唾を飲み込んで抑え込む。

 詩織を完全なる天使へと落とす為に、湊は彼女の頭上に待機させた輪をゆっくりと細く白い首へと下ろす。目の高さより下になった時、彼女がピクッと反応した。再び振り返ろうとする。

 それよりも早く、輪を絞めた。突然の衝撃に振り向く事が叶わず、詩織は喉から空気が漏れる声を出しながら、首元へ手を伸ばす。

 このまま湊が輪を閉じる力緩めない限り、詩織は簡単に死亡する。

 詩織を殺す事が出来る。

 湊が歓喜に震えながら、今まさに腕に力を入れようとしたその時だった。

 前方の詩織から呻き声とは別に微かな声が聞こえた。

 “何かっ、怖い事があったっ、の?”

 詩織は声を出す事だって苦しいはずなのだ。自分の指の先端を辛うじてクレモナロープと首の間に差し込む程度の抵抗では、喉を充分に守り切れない。

 そんな余裕のない状態なのに、詩織は確かにそう言った。

 その声に湊の手はピタリと止まる。誰かに操られているのかと錯覚する程に両腕に力が入らない。それどころか、次第に力は緩んでいく。

 いけない、今、ココで失敗してしまったらもうチャンスはない。そればかりか、詩織は全てを周りに話すだろう。(命を狙われたのだから、普通は話すに決まっている)そうなれば、湊は全て終わる。

仕事も家族も金も。一つ残らず消えてなくなってしまう。

 そうなってはいけない。脳内の非常ベルは鳴り響いている。全神経が両腕へと一斉にアクセスしようとしている。それなのに一向に繋がる気配はない。やがて、湊の両腕は徐々に弛緩していった。

 詩織の首に掛っていたクレモナロープの拘束が緩んでいく。

 大きく咳き込む彼女。何回か咳を繰り返した後、大きく深呼吸をして、呼吸を整える。その間、湊の両腕はずっと動かない。そればかりか、両足や口の機能まで停止していた。

 辛うじて稼働しているのは呼吸と視覚、聴覚くらいだろうか。いや、それすらも今の湊には正確に動いていると言えるか、自分では分からない。

 その場に硬直してしまっている自分自身を俯瞰で見ている。まるで夢の中にいるような奇妙な世界。いっそ本当に夢であってくれたらと湊は、心底思った。

 そこまで書いてある手記を読んで、透はホッと胸を撫で下ろした。

 詩織が湊に殺されなくて本当に良かった。湊が殺すと決めた時点で、彼女の死の瞬間を覚悟していたくらいである。

 どうやら最悪の結末だけは回避されたようだった。本当に嬉しい。涙が出そうなくらいである。

 透は震える瞳を強く閉じて、湧きかけた涙を引っ込めた。

 手記の中ではその後の物語が、湊の主観によって進行していく。

 湊は相変わらず硬直したまま、指先一つ動かせない。正面に見える詩織の髪をずっと視界に捉えたままであった。一方の彼女はもう完全に息を整えて、しばらく沈黙を守っていた。一体、どうしたのだろうか? 今なら首に掛っているクレモナロープを抜けて、すぐ出納準備室から脱出出来るというのに。彼女はそう言った行動の気配を一切感じさせない。

まさか詩織まで自分と同じように硬直状態になったのかと、一瞬考えたが、すぐにそんな訳はないと否定する。彼女が固まる理由などない。

 詩織がこうして動かないでいてくれるからこそ、湊は首の皮一枚繋がった状態を維持出来ている。もし彼女が動き始めたら、彼には止められない。

 湊は詩織が動き始める前にどうにかして硬直を解く必要がある。

 しかし、湊のそんな甘い考えは早々に打ち消された。目の前の詩織が動き始めたのだ。ゆったりとした動作で振り返ろうとしている。この時、湊の口から得体の知れない味の短い息が漏れた。声とも言えない声を出したせいで、喉に細い傷みが刺さり、軽く咳き込む。咄嗟に目を瞑り顔がやや下がった。

 湊が顔を上げた時、振り返った詩織の顔が正面にあった。

 その白く細い首にはクレモナロープの後が轍のようにしっかりと残っていた。詩織は未だに首に掛っているクレモナロープを取る気配はない。緩んだそれは、まるで自由を得ようとしている動物のようだった。

 詩織の両手が静かに上がる。何が起こるのか、湊には予想が付かない。瞳が彼女の動作に釘付けとなっている。

 詩織は上がった両手を湊へ向かって伸ばした。

 白い二本の腕が自分に向かって伸びて来た時、一瞬、詩織に首を絞められると思った。なのに不思議と、それに対する恐怖はない。それどころか、彼女に殺されるのならば、本望だとすら思い始めていた。十五分もすれば、そんな訳は絶対にないと言い切れるのだが、この時の脳まで硬直しかけた湊にはそこまでの思考力はなかった。 

 ところが、湊の予想は外れて、詩織の両手は彼の両頬へと張り付いた。触れられた瞬間、生暖かい感触がぞわりと全身を蛇のように這い回った。

 詩織と目が合う。自分の脳内を全て見透かされている錯覚に陥る。

 詩織の息遣いがはっきりと聞こえる距離まで接近する。いつもなら、興奮する彼女の甘い香りが恐怖を生んだ。彼女は、両頬に張り付いた両腕をスライドさせて、背中へと回した。それから彼女は沈黙する。

 どれくらい時間が経過したのか。一瞬にも永遠にも感じられる時間間覚の中で、ようやく詩織が行動を起こした。

 背中に回した詩織の手がトントンっと湊を優しくノックする。一回一回のノックが体全身に衝撃を与えた。彼女の表情を見る事は出来なかったが、それで構わらないと思った。

 手記には、この部分を描写している字が前の文章に比べて荒くなっていた。

 余程その時の詩織に恐怖を抱いていたのであろう。ココに至るまでの余裕のあった湊の心境は完全に崩れている。

 詩織のノックに衝撃を受けたのが、思わぬ功を奏した。硬直していた湊の体に活力が戻り始めたのである。しかし力は入らないままなので、もう彼女の首に掛っているクレモナロープに再度力を込める芸当は出来ない。

 だが今は、出来る事をすべきだ。そう結論付けた湊は、詩織に向かって、問いかけた。“どうした?”っと。自分がやった事を山の頂上に置いて。

 湊の問いを受けて、彼から離れて詩織が顔を上げる。そして、口を開いた。

 上唇と下唇が離れて、詩織の声が空気を震わす。

“ゴ、ヨン、サン、……。”

 突如始まったカウントダウン。それは、決して大きな声ではなかった。

 にも関わらず、湊の耳に正確に侵入してきた。彼にはカウントダウンの意味が理解出来ない。一体、何のカウントダウンなのか? ゼロになった時、自分はどうなるのか? 怖い、ゼロが来るのが怖い。

 壊れかかった脳内で必死に答えの出ない問題を解こうとする。カウントダウン中も詩織は湊の背中をノックし続けている。

 その衝撃は四肢にとって刺激となり、また活力を与えた。今度は完全に動く。力配分も間違えない。このまま詩織の首を絞める体力は回復した。

 だが、回復したのは体力だけだった。

 何日も前から考えて用意したクレモナロープや実行計画。当初のラインから多少傾いてはいるものの、今ならばまだ修正は可能である。なのに、湊の脳内のどこにも詩織に対する殺意は消えていた。殺意がなければ、人を殺せない。

 湊は短い息を口から漏らした。それが諦めなのか、それとも別種のモノなのかは分からない。目を細くして視界を制限する。そして詩織から一歩下がって、そのまま彼女を避けて出納準備室から出た。

 出納準備室のドアがしまり、一回大きく深呼吸。閉塞感のあった出納準備室よりはマシだが、廊下も空気が重い。湊は廊下の窓を一つ開けて顔を出して、再び深呼吸をした。新鮮な空気が彼の肺を洗浄する。

 肺を綺麗にしてから、湊は一切をそのまま放置して、図書室経由で司書室へと帰った。いつもは、用心の為にこんな事は絶対にしないのだが、今の彼にはそこまでする余裕がない。とにかく司書室のソファに腰を下ろしたい。その欲求が何よりも優先された。

 誰もいない司書室に入り、望み通りソファに腰を下ろす。だらしなく全体重をかけて、埋没していく自分の体。

 何故、詩織に対する殺意が失せてしまったのか。

 その問いに今日は答えを出せそうにない。数日から数ヶ月を要するだろう。湊は大よその目安を立てた。そして同時に答えが出る頃には、自分はきっと檻の中だとも思った。

 今頃詩織は、出納準備室を出ている。あと、数分もすれば大量の大人達が自分を捕まえる為にココへやって来る。

 あの時、詩織を放置した事で次の未来が容易に見えている。

 そして、今の湊には捕まる覚悟が出来ていた。

 殺意と同様に捕まらないようにと、異常な執着を見せていたのに、嘘のように消失している。下手に逃げる気は毛頭ない。せいぜい最後の余韻に浸るとしよう。

 そう思って、湊は一杯分のコーヒーメーカーに粉とお湯を入れてスイッチを押した。コポコポと音を立て、コーヒーの香りが司書室中に充満していく。 

 果たして飲み終わるまでいや、出来上がるまでに自分は無事でいられるかどうか。そんなおかしな賭けが始まった。だからと言って、そわそわとドアの向こうの足音に怯えるような無様な真似はしない。

全ては神の采配に任せるべきである。

 不謹慎ながら湊に高揚感が生まれ始めていた。

 用意したコーヒーは一杯分。出来上がり飲み終わるまで、三十分も掛らない。

 この瞬間にも大人達が突入してくるかも知れない。確実なのは、自分は明日この部屋にいない。そういう事だ。

 そこまで手記を読んでいる透が感じていたのは、湊への強い怒りだった。

 まるで小説のように自身の体験談を記しているが、先程の荒れた筆跡とは違って、通常の筆跡に戻っている。落ち着こうと、日を改めて書いたのかまでは分からない。しかし安定を取り戻しているのは確かだ。そんな彼を透は許せない。

 思わず舌打ちをした。それにしばらく黙っていた彩子が反応する。

「すいません……。不快な思いをさせて」

「あっ、いや……。彩子が謝る必要はないから」

 つい家で読んでいるような錯覚に陥ってしまった。それ程、この手記の世界に入り込んでいたと言える。確かに登場人物全員を知っているだけに、展開には引き込まれる。それでも舌打ちはやり過ぎた。彩子への配慮が欠けている。

「悪い。つい、家で読んでる気になってたよ」

「いいんです。舌打ちする程、集中して読んでくれてるのは、喜ばしい事ですから。ただそれでも、舌打ちの原因を作らせてしまった事は申し訳ないです」

 そう言って彩子は頭を下げる。周囲の目など今更気にはしないが、だからと言って容認は出来ない。透は彼女に頭を上げるように言ってから口を開く。

「ったく、彩子が謝る必要はないって。さっきも言っただろう? まだ読み切ってないから、今後の展開次第では……、ってのはあるが、少なくとも現段階では彩子はどこも悪くない」

 そう言って安心させる為に笑顔を作った。

その笑顔の意味を彩子は、すぐに理解して微笑む。

「ところで先輩、今はどの辺りを読んでいるんです?」

「湊先生が詩織を殺そうとして、失敗して司書室にいる辺り」

「そこですか~。私、最初その部分を読んでて、凄く腹が立ったのを覚えています。先輩もそうじゃありません?」

 彩子の言葉に透は強く頷く。

「確かに。イライラしながらページを捲っているよ」

「そこを共感し合える人が、やっと現れてくれて嬉しいです。私はそれを一人で読んでましたからねぇ」

「俺もイライラし合える人間に出会えたのは、嬉しい」

 彩子が笑ったのを確認してから透は手記の世界へと戻っていく。

 手記の世界では、場面はトントン拍子に進んでいた。

 コーヒーはいつの間にか出来上がり、(その間に親指の腫れを流水で冷やした)パソコンでインターネットをしている内に飲んでいると空になっっていた。時間は当初の予測の三十分を超えている。

 湊はようやく、事態がおかしい事に気付いた。

 先程まで観念して余裕があった心情が曇っていく。だが、それは焦りとは違う曇りの色。湊は自分を捕まえに誰もココに突入していない事におかしさを感じているのだ。

 司書室の前を通る足音はない。聞こえてくるのは、いつもの吹奏楽部の練習音とグランドで練習する運動部の掛け声。そして、図書室で自習をする生徒の足音。

 大勢の大人達が乱暴にこちらを目指す足音など、依然として聞こえない。

 湊は腕を組んで原因を考え始めた。 

 まさか、詩織が大人達に事情を話していないのか?

 真っ先にその可能性が浮かんだが、すぐに首を左右に振って否定する。

あり得ない。詩織の行動原理には、奇妙な部分があるのは確かだが、一般常識は持っている。普通に考えて彼女が周囲の事情を話さない訳がない。

 湊は考えを巡らせるが、どれだけ巡らせても納得出来るだけの答えは出て来なかった。そこで彼はもう一度、出納準備室へ行こうと腰を上げる。

 司書室を出て、今度は用心深く職員用階段を使って出納準備室の前に来た。

約三十分ぶりに見るドアは、出て行く時と気味が悪い程変化がない。一分後に訪れたのかと混乱してしまう。ドアに掛った使用中の札。先程、自分が出た時の衝撃で少々傾いている。それすらも変わっていない。

 詩織はまだこの部屋から出ていない?

 一つの結論が導き出された湊は、出納準備室のドアノブに手を掛けて、慎重にドアを開けた。鍵は開いている。この部屋の鍵はまだ室内にはあるはずだ。自分は持っていない。いつも行為中に鍵の音が邪魔になるので、ポケットには入れず、適当に机に置いていた。そして部屋を出る際、一緒に出ないよう時間差を付けて出る。最初は自分、そして最後は詩織。

 最終的に詩織が司書室に鍵を返却しに来るのが、いつもの決まり。

 だから、彼女は鍵がいつもどこにあるのか知っている。

 今日もその癖が抜けず、いつもと同じ場所に置いているはずだ。ドアを開けると部屋の電気は消えており、廊下の明るさの下、とある光景が目に浮かんだ。

 部屋に入らずドアだけを開けた状態で、湊はストンっと電池切れのオモチャのようにその場で腰を抜かす。

 息苦しかった。

 廊下の酸素が誰かの手によって薄くされたのかと、本気で考えた。

 口を開けて大きく息を吸い空気を補充する。

 どれだけ息を吸い込んでも足りなかった。

 息を大きく吸って、時折そのせいで咽ながらも彼は立ち上がる。

 出納準備室には入れなかった。とても一歩を踏み出す足が存在しない。

 廊下からの光のみで映る部屋の様子を湊は荒い息で見ていた。


 森野詩織が首を吊って死んでいる。


 湊の口から乾いた笑い声が出た。これは彼が目指した光景だったからだ。

この瞬間を自分の手で作り出そうとしていた。道具を揃え時間を考えて、手順を計画した。ところが直前になって、その全ては瓦解してしまう。

 それなのに今、こうして目の前にあるのは自分が用意したクレモナロープで首を吊って死亡している森野詩織の姿。

 成功したのだ。

 それも自分が用意した計画より、遥かに純度が高い手段。

 詩織自身の手で死ぬ事によって。

 されど、湊がそれを目指したのは、この部屋を出る前の自分だった。今はもう目指していない。その気持ちは完膚なきまでに萎えている。よって、こうして目の前に詩織が死んでいる姿を見ると、喜びよりも放心状態となる。

 周囲が今の詩織を調べても自分が殺した、なんて結論は出ない。

 それはそうだ。詩織は最後、本当に自分の手で死んだのだから。

 とは言っても、捜査が進めば火の粉は飛んでくるのは必至。詩織の自殺において原因がゼロではない。出納準備室の鍵を追えば、必ず自分までぶつかる。

 最終的には、自殺をしたのは詩織の意思。

 その意思を尊重するのなら、わざわざ疑いの目を向けられてはならない。

 手記にはその後も自身を正当化する文章で溢れていた。

 容易く自分の意思を変える。安い天秤のような湊の心境に透は、ついていけなくなってくる。それでも手記に目を通しているのは、真実が記されているからだ。

 そして、ついてはいけないが湊自身も混乱しているのは流石に想像が付く。

 殺そうした人物を諦めたら、最終的に本人が自殺していたのだ。

 まず、生きていて味わえない体験をしている。この日の湊の脳は、とっくに容量をオーバーしているに違いない。

 リアルタイムに書いている訳ではないこの手記ですら、整理する事が出来ず心境が崩れている。ひょっとしたら、目まぐるしく変化する状況についていっているように見せて、一つ一つの出来事の正確な心境は、無なのかも知れない。ただ反射的に、その場その場で対処しているに過ぎない可能性が高い。

 この後の湊の行動からもそれは明白だった。

 湊は、詩織の自殺をより絶対的なモノへと昇華させる補助をしている。

 具体的に述べれば、湊はそのまま室内には入らなかった。

 余計な足跡や髪の毛を残さない為である。無論、普段から入っている為、両方ともない訳ないだろうが、例えば、このまま彼女に駆け寄って出来る足跡と普段から歩いている跡では、意味が天と地ほど違う。先程までに詩織の傍にいた為、出来た足跡に付いては、後になっても対処は可能だ。

 とにかく今は、余計な事はしない方が良い。指紋については、ドアノブと使用中の札程度しか触れていない。この二点については、どうにでもなる。

 湊がした事はとても単純な事だった。

 ただ、そのままドアを閉めたのである。

 施錠すらしていない。

 使用中の札がある限り、用務員の墨田はまず入ろうとしない。彼にはそこまでの勤労意欲はない。大学図書館からの者も入らない点は同様だ。

 使用中プラス電気が点いている。

 それだけで周囲は出納準備室に誰かがいると考える。

 その状態が後二時間程、続けば完成だ。

 その後の様子は容易に浮かぶ。墨田が自分を尋ねに司書室を訪れる。そこで鍵がない事、加えて出納準備室が施錠されていると演技をすれば、彼が予備の鍵を持って来る。年寄りの男性一人騙す程度、造作もない。

 鍵を持って来た墨田と緒に堂々と中に入る。警察には簡単に説明が出来る。さらに自分から詩織を降ろす役割を果たす事で、足跡の件は誤魔化せる。

 最後に、墨田に警察への連絡と人を呼びに行かせる、この両方をさせている隙に鍵を彼女が持っているかも調べる時間も作れる。

 ミステリー小説のような奇想天外なトリックは必要ない。

 必要とされるのは演技力だけだ。

 最大の難関は今から司書室で待機する二時間弱。普段は発生しないイレギュラーが一つでも起こってしまえば、何もかも水の泡となる。

 この時間だけは賭け以外の何者でもない。自分が出来る事は精神を集中させて、いつも通りに仕事をする事。

 湊は全ての予定を組み立てたのち、職員通用口を通り司書室へと帰った。

 これ以降のページには付箋は貼られていなかった。

 どうやら読むべき所はココまでのようである。

 透は手記を閉じてテーブルに置く。それに反応してこちらを向いた彩子に深々と頭を下げた。

「貴重な物を読ませてもらった。お蔭で今日まで知らなかったあの日の真実を知る事が出来たよ。ありがとう」

「頭を上げて下さい。先輩がお礼を言う事なんてありません」

 そう言われて頭を上げる透。目の前には瞳を潤ませた彩子の顔があった。

「不快な物を見せて申し訳ありません。決して楽しい気分にはならなかったはずです。それにこんな短時間で読んでもらった事にも感謝しています」

「そりゃ確かに、不快な部分は多々あったけど……」

 流石にその点を否定する訳にはいかず、透は後頭部を掻いた。だがすぐに「けど」っと言って言葉を繋ぐ。

「高校の頃から考えていた事に決着が付いた。結果として残念なモノになっているが、今後の人生知らないで過ごすよりも遥かにいい。得るモノはあったよ」

「そう言っていただけると、本当に助かります」

 笑顔を作り彩子を安心させる透。彼の笑顔の効果により弱弱しくではあるが、彼女もまた笑顔を作った。

 透はテーブルに置いた手記に目を向ける。彼は手記に挟まれた付箋の意味を良く理解している。

 これは必要最低限のみに付箋を付けただけではなく、今日読む自分の負担を軽くする為でもある。おそらく付箋以外のページにはもっと酷い事が記されているのだろう。彩子は全部読んだ上でガイドを付けてくれているのだ。

 負担は彩子の方が圧倒的に多い。

 だから、もう手記の内容について。付箋以外の部分まで尋ねない。聞きたい事がないと言えば嘘になる。しかし、我慢をするべきである。モヤモヤとした感情が胸に湧くも透は理性を用いて強引に封じ込めようとした。

 そんな透の様子が彩子には筒抜けだったようだ。

「手記について、何か聞きたい事があるのなら、何でもお答えしますよ?」

 彩子の声に透は思わず驚いた顔で彼女の方を向いた。それが決定的な証拠を作る。目が合った彩子は微笑んだ。

「だって、先輩私に聞きたい事があるんでしょう? それくらい分かりますよ。大丈夫、どんな質問にも答えます。たとえ、付箋に関わらずとも」

 一枚上手だった彩子に透は、降参のため息を吐き、ソファに深く体を預けて、紙コップを手に取り水を飲んだ。多少は小さくなった氷だったが、それでも、冷たさは充分に保たれていた。

 リセットした思考で透は、彩子に質問を投げかけた。

「じゃあ一つ聞くけど」

「はい、何でもどうぞ」

「湊先生は学校を辞めた後、どうしたんだ?」

 透の知っている湊の最後は、学校を辞めた部分まで。それ以降は全く知らない。

 手記の内容からは、決してその後の人生が円滑だとは感じ取れない。

 それは短い部分しか読まなかった透にも分かる。

「あの人は、学校を退職してから、しばらくは株やFXで生活費を作り家族を養っていました。でも、そんなのは長続きしません。先輩なら察する事が出来ると思いますが、その時点でもう精神的におかしく、情緒不安定でしたから。夜は毎日、酒を飲むようになりました。また株やFXでは、安定したお金を得られませんでしたから。徐々に借金をするようになります。その借金は、最終的に家を売って返済しました」

 淡々と湊のその後を話す彩子。透は彼女の口調に感情が殆ど込められていない事を怖く感じていた。まるで、架空の人物について説明しているような口ぶり。

 何か言いたくても、どう言っていいのか分からず、透は曖昧な相槌を打つ事しか出来なかった。

 そんな透の心境を知ってか知らずか、彩子の話は尚も続く。

「家を売却した事で借金の問題がなくなりました。けれど、家庭は完全に崩壊。両親は離婚をしました。私は母の実家で一緒に暮らし始めます。その時点であの人とは会わなくなりましたので、どういう生活を送っていたのかは、実際には知りません。ただ、手記にはある程度、記されてしました。あの人はその後、職を探すような事をせず、ホームレスとなり公園で生活をしていたそうです。地頭は良かったから、充分に働ける能力を持っていたのにどうしてか? 私は疑問に思っていました。その点も手記には記載されています」

「どういう風に?」

 透が聞くと、彩子はテーブルの手記を手に取り、慣れた手つきでパラパラとページを捲った。捲られたページには当然ながら、付箋は貼られていない。

「長々と書かれていて、解釈が面倒なのですが、簡潔に述べるとあの人は他人の能力が見抜けなくなり、自分自身の有能性が地に落ちてしまった事がショックだったようです。今までの人生で、周りの人間の能力が高いか低いかを常に観察し続けてきた訳ですから。それが失われると他人とのコミュニケーション方法が分からないのです。それに伴って、自身の能力も大きく低下してしまい、依然のように働く事が出来なくなってしまった。最早、当時の仕事をしていたのは、本当に自分なのかと疑う程だと書かれています」

「そうなってしまったのは、やはり詩織が……」

 その続きを最後まで透は言えなかった。だが、その最後まで言えなかった言葉は、彩子にはちゃんと伝わっており、彼女は一回ゆっくりと頷いた。

「確かに、詩織さんが大きく関係してします。けれど先輩、間違ってはいけません。彼女が関わった事と、あの人が借金を作って家庭を崩壊させた事は無関係です。先輩が不憫に思う必要は一パーセントもありません。同情なんて皆無です」

「大丈夫、分かってるから。そうだ、詩織には一切の責任はない」

 透は頷いて彩子を安心させる。

 たとえ、詩織の行為が湊のその後を左右する原因だったとしても、彼女が責任を負う必要はない。ただ、口にしたくなかっただけである。

 それが、結果として余計な気を遣わせてしまった。

 彩子は透の言葉に「分かっているならいいです」っと安堵の表情を浮かべた。

「話を続けますね。ホームレスとなったあの人と私は、長年会っていませんでした。私が次に会ったのは、あの人が、公園で首を吊って死んでからです。その時、本人が持っていた空の財布に入っていた期限切れの免許証で、警察が私と母に辿り着いたのです」

「手記はその時に?」

「いえ、手記は本人の持ち物にはありませんでした。この手記、私があの人のホームレス仲間から貰ったんです。正確には手記ではなく、駅のコインロッカーの鍵ですけどね。もし、公園に家族が来たら渡してほしいと頼まれたそうです」

「どうしてそんな事を?」

 奇妙な事実に透は眉を潜める。

「おそらく手記の内容に配慮したと考えられます」

「あっ、そうか」

 十年近く前の出来事とは言っても、手記にはありのままに当時の事が記述されている。もっとも事件の中心人物二人は、既に死んでしまっているが、それでも公の場に出回ったら困る人物は少なからず存在する。

 その人物の中には勿論、彩子も含まれている。

「正直、私から言わせれば今更です。そんなミクロな気遣いをする前にもっとやらなければいけない事が沢山あったはずでした」

「ああ、そうだな」

 淡々と意見を言う彩子に若干恐怖を感じつつ、透は同意する。

「それと、人の有能性を見抜く能力が失われたと本人は手記に書いていました。でも、相手がホームレスなら大して問題はないと判断したのでしょう」

「まっ、確かに。預けるだけなら、能力の有無に関わらないからな。でもよく、そのホームレス捨てなかった」

 ホームレスの損得勘定次第ですぐに捨てられてしまう。何より自殺した人間の持ち物なんて気味が悪くて捨ててもおかしくない。コインロッカーの鍵といった換金不可の代物だと尚更である。

「私も疑問に思って、受け取ったホームレスの方に尋ねました。どうして捨てなかったのかって。そしたら報酬に十万円を貰ったそうです」

「十万?」

 ホームレスにしたら……、いやホームレスでなくても魅力的な報酬だ。

「ええ。それに肝心の鍵が、ドコの駅のコインロッカーのなのかは分からないと言っていました。コインロッカーの取り置き期限は長くて三日程度。それを過ぎたら捨てるようにとも言われていたそうです。受け取った時、私は昔住んでいた町の駅のコインロッカーの鍵だと分かりました。あの人はよく、その場所を使っていましたから。家族宛なら、そこしかあり得ません」

「成程」

 十万円の報酬、そして内容自体は難しくない。中々頭の良い作戦だ。案外、湊の能力は、まだ落ちていなかったのではないか。透はそんな事を思った。

「まっ、私が行ったのは、あの人が死んでから二週間後ですけどね。ホームレスの方が、まだ持っていてくれた鍵を手に入れたのは良かったですが、コインロッカーはとっくに空。念の為、管理会社に連絡したら、偶然まだ保管してくれていたので、家族の遺留品という事で受け取ったんです」

「三日過ぎても鍵を持っていてくれた事と、彩子を瞬時に娘だと判断するのは凄いな、そのホームレス。あっ、予め写真を渡していたのか」

 透の指摘に彩子は渋々頷いて肯定する。勿論、彼女が嫌なのは、ホームレスが写真を持っていた事ではないだろう。

「写真は返してもらいました。そのホームレスの方、人の良い感じのお爺さんでしたよ。あの人より全然マシでした」

 そう言って、彩子は手記をビニールに入れてからハンドバックにしまった。

「かなり長い時間を話しましたが、私が知っている事はこれで全部です。手記はもう必要ないので片付けますね」

「ああ……」

 有無を言わさぬ勢いで手記をしまわれて、テーブルの上が妙にスッキリした。それだけ手記の存在感が大きかったのだ。

「さて、今日の本題へ入りましょうか」

「分かった。彩子が詩織との交換日記を欲しがった時点で、大体の検討は付いている」

 透がそう言うと、彩子は「へぇー」っと言って感心した。彼女に続く言葉を言われる前に尚も彼は話す。

「だが、その前に確認したい」

「何です?」

「彩子、お前はあの大学に入ったのは、俺を追いかけたからではないと言った。それは手記を読めば本当だと分かる。だけどそれとは別に、大学で俺を見つけてから、この前ココで俺に詩織の話をさせるまでの間、俺との交友関係は全て演技だったのか?」

 透にとって、彩子との関係は大学時代の良き先輩後輩であった。授業を教え合ったり、時には学校帰りに食事に行ったりと、決して不仲ではなかった。

 在学中、互いに恋人が出来た時期もあった。だが、その時期も互いに変な意識を持たずに普通に接していたのだ。少なくとも透は、彩子との大学時代をとても楽しいモノと認識している。よって、あの時の全てが、詩織を聞き出す為だけの演技だったとは、とてもじゃないが、考えられない。

 否定してほしい。その想いを胸に彩子の答えを待つ。

 彩子はゆっくりと口を開く。

「全てというのは間違いです。少なくとも最初の一年は、詩織さんの事を意識しながら接していました。ですが、彼女の件があったとはいえ、先輩とは純粋に後輩として接したつもりです。だからこそ、一週間前に詩織さんとの話を丁寧に教えてくれたじゃないのですか?」

「そうだ、誰にでも話す訳じゃない。彩子が友達だから話したんだ」

「その気持ちは素直に嬉しいです。最初に言った通り、私が今日先輩と美味しいご飯を食べに行きたいのは、本当なんですから」

 彩子は、笑顔で透に言った。その笑顔は透が大学時代に何度も見た笑顔だった。

「安心したよ。さあ、本題とやらに入ろうか」

「はい。でも先輩が予想しているのなら、わざわざ私の口から話さなくても大丈夫だと思います。当ててみてください」

 挑発的な態度の彩子に透は不謹慎ながら、今の状況が面白く感じてくる。それをいけないと思いつつ、彼の頬は盛り上がるのを抑えきれなかった。

「またか? いいだろう、当ててやる。彩子が知りたいのは、詩織が自殺した本当の理由。そうだろう?」

 今日の話から、透が考える彩子の目的はそれしかない。

 手記という詳細に記されたアイテムは存在した。しかしあれですら、詩織が自殺した本当の理由までは分からない。

 だからこそ、彩子は手記を見せたのだろう。付箋を貼り、読む場所を限定させても、あの内容は中々に酷い。自分が彼女の立場なら、まず人には見せたいと思わない。にも関わらず見せた理由、それはもうこれしかない。

 透がそう考えながら、彩子の答えを待っていると、彼女は小さく拍手をした。

「凄い。今の先輩には、もうノートなんて必要ないですね」

「ありがとう」

「先輩が話す通りです。私は詩織さんが自殺した本当の理由を知りたいんです。先輩は詩織さんに一番近い人じゃないですか。あの人みたいに紛い物じゃありません。本当の意味での理解者です」

「湊先生よりは詳しいだろうな」

 そこは否定せず同意する透。彩子はそれが嬉しかったのか、嬉々として話を続けた。

「そうですよ。週刊誌や手記には、彼女の自殺の理由が憶測で色々書かれていましたけど、私には、あれらが本心とは思えません。本当言うと、実際は知らないんじゃないかって大学時代に先輩を疑った事もありました。だから、今日は私にとって賭けでもあったんです。でも、先輩は詩織さんのMDの日記まで持っていた。あれは手記なんかよりも遥かに貴重な物。それ程の物を彼女から貰っていると言う事は、先輩ならきっと知っているはずです。教えてください」

 彩子はそう言って、最後に深々と頭を下げる。透は彼女に頭を上げさせてから口を開いた。

「まず、知ってどうする? 手記の内容は中々に酷かったが、詩織の自殺理由だって、それに匹敵するかも知れないだろう。彩子なら安易に手を出してはいけないのは分かるはずだ」

 彩子を牽制する。無論、ただ彼女に意地悪をしているのではない。話した言葉通り、どうして知りたいのか。それをまず先に知る必要がある。

 透はそう考えた。彩子には酷いが、湊を除けば彼女個人の詩織との繋がりはあくまで、勉強を教えてもらっていた先輩に過ぎない。何もかも知るのは、負担が大き過ぎるし、忘れるというのも一つの解決法ではある。

「その言い方をするって事は、先輩は知っているんですね?」

「知っている」

 透は何も隠さず肯定する。彩子の口から息を飲む音が聞こえた。

「私、今度結婚するんです。だから、結婚する前に何年も前から抱えていたこの問題にケリを付けたいんです。詩織さんの事、全て分かったら、手記は燃やすつもりでいます。母に渡そうとも思いましたが、元々存在は知りません。それで笑顔になってくれているのなら、いいと思いました。だけど、私は忘れられません。大好きだった詩織さんの事を」

 透は腕を組んで長考する。結婚まですると言われたら、話さない訳にはいかない。もし、詩織に聞いてみたら彼女は二つ返事で話して構わないと言うだろう。

 透は小さく鼻息を出してから、自分の発言を今か今かと待っている彩子に向かって口を開いた。

「分かった、話そう」

 そう言うと、彩子の顔が一瞬上に持ち上がり、安堵のため息を吐いた。潤んだ瞳と両頬を上気させて礼を言う。その礼に応えつつ、透は一つ条件を提示する。

「彩子、話す事は承知した。だけど、一つだけ覚悟してほしい事がある。それを呑んでくれないと話せない」

「覚悟して欲しい事? 何ですか? 私に出来る事なら何でもします」

 透が提示する条件が余程、困難な代物と考えた彩子は、前にのめり出す勢いで了承した。透は自分の言い方にも問題があった事を反省して、彼女の前に両手を開いて出す。

「すまん、俺の言い方が乱暴だった。そんなに難しい事じゃないんだ。ただ、話を全て聞いた後、どういう結果に繋がるか分からない。そこを、最初に覚悟してくれって言うつもりだったんだ」

「大丈夫です。詩織さんの自殺した理由がどんなモノであっても、それを受け止めて成長の糧にする覚悟は出来ています」

 力強く頷いて、彩子は透の出した条件を呑んだ。

 成長の糧という言葉を聞けて、透はつい頬が緩む。そのせいで彩子は首を傾げているが、今はそれを気にしない。

 そこまで考えてくれているなら、本当に詩織も文句は言わないだろう。

 透はそう思って、つい頬が緩んだのである。

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