五月青葉想
五月雨は静かに、そして時々強く降り続く。ふと窓を見ると夕焼け空が杏色に染まっていた。その夕焼け空と共に僕の無気力そうな顔がガラスに写る。恋をして――そして相手を傷つけて――寂しい思いをさせて――いったい僕は何をしているのだろうか?
いつからお互いの心はすれ違うようになってしまったのだろうか?
ガラスに写る夕焼け空はもちろん教えてはくれなかった。
***
バスから見る景色はゆっくり穏やか。静かに道路のカーブに沿って止まっては進む。ちょうど夕方の帰宅ラッシュと重なったのも原因なのかもしれない。空は相変わらずの雨模様。天空から降り注ぐ雫は大地を潤しこの世界に恵みを与えていた。
ふと周りを見渡すと所々で折り畳んだ傘が揺れる音が所々で聞こえる。なぜだが僕はその音が心地の良い音色のように聴こえてきた。
目的地の公園まであと少し。バス停に止まる度に増えたり減ったりする乗客達。あるものは柔らかな笑みを浮かべまたあるものは険しい顔つきをしている。その時、ふと思った。――僕の今の表情はどんなものなのだろうと。
彼女とケンカをしてから一週間がたつ。きっかけは些細なことだった。その時、僕は心にもないようなひどい言葉をつい言ってしまった。あの時見せたキミの悲しげな表情が今も脳裏に焼き付いている。今思うと月日が立つうちに二人の心の距離が離れていったのかもしれない。でも僕がさっき意を決して電話をした時、キミは怒りながらも――二人の思い出の場所である公園で待ってるからと言ってくれた。その言葉が僕にとっては何よりも嬉しいことであった。
バスを降り傘をさす。都心に比較的近いこの公園ではあるのだが、あいにくの雨模様ということもあり人気は少ない。
僕の足は重くなかなか前に進むことができない。――キミの顔を見ながら僕は何を話そうか。そんなことで頭がいっぱいだった。その時、ふと目を閉じてみた。もちろん何も見えない。そして、聴こえる音といえば雨音のみ。こんな世界で僕は今ひとりぼっちだ。時々、傘を持つ手が震え落としてしまいそうになる。
僕はその度に遥の心の重さをひたひたと感じていた。
***
二人が出会ったのも今日のような天候だった。午前中は雨が降ってなかったのをこれ幸いと思い日課になってた公園でのジョギングに向かったまでは良かったのだが、走り出そうとした瞬間、雨が降ってきた。
突然の強い強い雨だった。まるで溜まりに溜まった涙をひっくり返したような。青めく世界は僕の頭上に光輝やいていた。
公園内で思い思いの行動をしていた人達は雨の到来と共にフッといなくなり、僕の前からは人影はなくなった。もちろん雨の大切さはよく知っている。今、降り続いている雨によって大地は潤い草木は活気づく。そんなことを考えながら僕も家に帰ろうとした時だった。誰もいない公園のベンチに傘が一つ置いたままの状態になっている。――誰が忘れたんだろう。そんな言葉が脳裏を過る。不意に横を振り向くとあの傘の持ち主らしき人がいた。彼女は読みかけの本を鞄の中に入れて足早に立ち去ろうとしていた。
「あっ――。すいません!」
頭で考えるよりも先に声の方が早かった。このタイミングを大切にしたい。その時、僕は心からそう思った。
振り向いたキミの顔はどこか悲しそうでその憂いを帯びた瞳で僕の方を見ていた。
「傘忘れてますよ?」
僕は彼女の目を見ながら一言そう言った。
***
「ありがとうございます。私、慌てん坊で……」
まだ名前も知らない彼女はそう言いながら自分の髪を撫でる。その時、雨特有の匂いに混じってシャンプーの淡い香がした。ふと足元を見ると大きな水溜まりができている。その水溜まりに映る二人の顔がとても印象的だった。
「本当に突然の雨でしたね。僕も今日は降らないとおもってましたし」
何気無い会話に花を咲かせる二人。こんな天気だからこそこうして巡り会えたのかもしれない。
「私この公園よく来るんですよ。あなたよくここでジョギングしてるでしょ?」
彼女は不意に僕の顔を覗き込むような姿勢で一言そう言った。まさか僕のことを知ってくれてただなんて。そのことがなんだかとても嬉しかった。
「今日はもう出来ませんけどね」
まるで苦い飴を食べているような表情で僕は彼女にそう言った。
止む気配はいっこうにない五月雨の元、こうして二人は出会った。
***
懐かしい思い出に浸ったのも束の間、シトシトと降り続ける雨の音が僕を現実の世界に連れ戻した。
――こんな雨早く止めばいいのに。大多数の人はそう思うだろう。でも今の僕は違う。正直、もう少し降り続いてほしい。彼女と出会ったのも今日のような雨の日。なら、もう一度やり直すのもそんな日でなければならなかった。二人でもう一度青空を見よう。今の僕の頭の中はそんな思いでいっぱいになっていた。
久しぶりに来た思い出の公園はあの頃とまるで変わっていなかった。いや、厳密にいうと――二人の心の距離はあの頃とは変わっていた。実際のお互いの距離はもちろん近い。今、彼女もこの公園内にいる。でも……。たぶん顔を合わせてもうまく接することはできないと思う。会った時、まずなんと言おうか。――ごめん? 仲直りしよう? そんなフレーズが頭を反芻する。しかしこう言うことはなかなか答えがまとまらない。今の僕だって同じような心境になっている。
「よし、ちゃんと目を見て話しそう」
僕はとりあえずそれだけを決めてまた一歩ずつ歩き出した。
電話で約束した通り、遥はトイレ横の屋根があるベンチの下にいた。熱心に本を読んでいる。なんの本だろう? ついつい気になってしまう。そう言えばいつのごろからだろう。キミの趣味に関心がなくなってしまったのは。こんな気持ちは久しぶりだ。
「やぁ……。久しぶり」
その時、僕は彼女の名前を呼ぶことができなかった。
「久しぶりね。待ってた」
遥は僕の存在に気づいた途端、パタリと読みかけの本を閉じて一言そう言った。その声は雨のなかでも聴こえるようなしっかりとしたものだった。
「横座ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
その声に導かれるように僕は彼女の横に座った。
***
「私、雨好きだな」
数秒間の沈黙の後、遥はそう言った。屋根を伝って滴り落ちる雨の雫はゆっくりと僕達の目の前を落ちていく。
「雨好きなの?」
「うん。好き。心が落ち着くから」
「たしかにそうだね」
片言の会話を然り気無く交わす。ベンチに立ち掛けた傘は今にでも地面に倒れそうで、その度に僕は傘を改めて置き直した。
「遥ごめん。僕は君を怒らせてしまった」
一生懸命コトバを絞り出しながら俺は彼女に一言そう言った。
「もうそのことはいいわ。ただ私はね――あなたの笑顔が見たいの。前はもっとよく笑ってたじゃない」
その時、僕はハッとなった。たしかにそうだ。遥に言われて初めて気がついた。ここ最近、笑ってない。それは紛れもない事実だ。
その時、僕は不思議なものを見た。空から小さな羽がヒラヒラと落ちてきたのだ。白い白い綺麗な羽だ。五月のそよ風に吹かれた羽は遥の髪にくっついた。それは一見したところまるで白いブローチのように見えて彼女の黒髪を更に魅力的に魅せていた。
「遥これ――似合ってるよ。いいね」
「んっ何?」
彼女は僕が指摘するまで羽の存在に気づいていないようだった。
「今、笑った」
「えっ!?」
「あなた今、私を見て笑ったでしょう。またそんな笑顔を私に見せてよ。ね?」
「うん。そうだね。僕と仲直りしてくれる?」
「もちろんよ。これからもよろしくね」
雨が降り続く空の下、こうして僕達はまた心を通い始めた。
***
十分後、雨は止んだ。青々とした緑葉から光が溢れてる。まるで心を癒すかのような魅力的な光だった。
「雨も止んだし帰ろうか?」
「そうね」
遥の声を聞いた途端、僕は立ち上がった。そして歩き始める。
「ちょっと待って!」
「えっ何!?」
「あなた忘れるわよ」
彼女の言葉を聞いて気がついた。ベンチに傘を忘れていることに。
「あぁ、本当だ。傘を忘れるとこだった」
「それもだけど――あなた私のことも忘れてるわ。もう手を離さないでね?」
「ごめん。また離すとこだった」
その時の遥の手は雨の冷たさに打ち勝つくらい温かくて――その力強い温かさがそっと僕の心を優しく包み込んだ。