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願い、かなえ!

作者: 津田正

稚拙な文章ですが、一行でも、一文字だけでも読んでくださった奇特な方には、最大限の感謝を申し上げます。

梅雨の季節が終わると太陽は、やっと俺様の出番か、と満を持して登場しくるかの様に、大地を好き放題に照らしつける。

蝉やバッタのような多くの昆虫たちが、そんな太陽を待っていました、と云わんばかりに大騒ぎを始める季節だ。

その日、一人の高校生は遥か昔に見た夢を思い出していた。

真夏のある日、学校のグラウンドを取り囲むように大行進するカブトムシ。

霧がかかったようにぼんやりとした、幻想的な風景。


7月、期末テストが終わり夏休みを目前に控え、学校は俄かに活気付いていた。





終業のチャイムと同時に教員が退室し、同級生は10年ぶりに出所する受刑者のように、我先にと席を離れ始める。

今から部活動に勤しもうとする健全な奴もいれば、カラオケに行くかゲームセンターに行くかと相談している奴もいるようだ。

多種多様な青春を満喫している同級生達と軽い挨拶を交わし、後方窓際の席で鞄に教科書類を詰め込む。

引き出しの中に数冊の教科書を残し、帰宅の準備が完了したところでふと窓を見やる。

外は憎らしいほどに雲一つない青空、絶好の日光浴日和である。

俺は何となく屋上へ向かおうと思い立ち、席を立った。


教室の後ろ側のドアを開け、身を滑らせるように廊下へと出る。

廊下にはようやく自由を満喫できる、といわんばかりの生徒達が溢れかえっており、歩き難いことこの上ない。

希望に満ち溢れた同級生の人波を掻き分けながら、屋上へと続く階段へ向かう。


2年生の教室は何故か三階にある。1年生は二階、3年生は一階だ。

この不可解に思える構成も、おそらく教員達による何らかの意図があるのだろうが、考えるだけ無駄だ。

どうせ1年生はどちらの先輩達にも顔を売ることができるようにするため、それくらいのモノだろう。

ただ、屋上を憩いの場としている俺にとっては好都合である。

2年生のうちは、この配置を決めた偉人に敬礼しておくとしよう。


途中、何となく横の教室を見ると、ちょうど教員が退室するところであるのが分かった。

かわいそうに。このクラスはHRが長引いたらしい。

廊下の込み具合を見るに、おそらくこのクラスが最後に解放される集団であり、彼らは模範囚との刑期の違いを実感しているに違いない。


階段が見えて来る。俺の高校は素晴らしいことに屋上のドアに鍵がかかっていない。

いつかは心配性の保護者から怒号を飛ばされることになるだろうが、せめて俺が卒業するまでPTAには大人しくしていてもらいたいものだ。


階段を目の前にして階下へ降り行く同級生とバッタリと出会った。坊主頭の彼は苦笑しながら


「また屋上か。何か悩みでもあるんか?」


と声を掛けてくる。こいつは松本だか酒井だか、どこかの引越屋と同じ名前の奴だ。悩みがあったら相談したい相手ベスト50にも入らない、その程度の男である。


「馬鹿と煙は高いところが好きなんだよ」


肩をすくめながら無難に切り返すと、坊主は猿に似た笑顔を見せ続け、右手を上げて階下へと消えていく。

屋上への始めの一歩を踏み出すかどうかというときに、遥か後ろで勢いよくドアを開ける音が聞こえたような気がした。




蝉が飛ぶ。一つ所に留まらない旅人のように、自らの歌を響かせるに相応しい次の舞台を探して。

バッタが草むらから抜け出す。少しでも太陽のエネルギーを吸収しようと。

太陽は一日の折り返し地点をとうの昔に過ぎていたが、昆虫たちの一日はまだまだ続きそうであった。





錆び付いた屋上のドアを開けると、そこには舶来の水鉄砲を入手した子供のように調子に乗って紫外線を放射し続ける太陽が幅を利かせていた。


軽く日の光でも浴びようと思っていたが、如何せん暑過ぎる。このままではアスファルト上で干からびるミミズと同じ運命を辿ってしまいそうだ。

少しでも涼しい所へ移動しようと、屋上入口によって作られた日陰側のフェンスに向い、下界を見渡す。

グラウンドは既に部活動を開始している連中が蟻のように一生懸命動き回っていた。

陸上部が放課後のグラウンドを駆け行く。野球部が一夏の夢に向い白球を追い続ける。

そんな青春真っ盛りの連中を眺めていると、部活動に所属していないことに若干の引け目を感じるから不思議だ。

さらに今から予備校に向わなければならない自分がひどく馬鹿馬鹿しく思われる。


「今日くらいサボっても問題ないか」


気分が乗らない日にはいくら勉強しても仕方がない。親からはそう教わっており、予備校の出欠には口を出されることはなかった。

しかし俺はサボり魔という種の学生ではない。予備校を欠席するのは1ヶ月に1,2度、どうしても気分が乗らない時だけであり、今日はまさにその時だ。

とりあえず本屋やゲーセンにでも寄ることにしよう、と今後のプランをやっつけ仕事気味に作り上げ、早々に屋上を去ろうとする。

グラウンドの連中は元気に大声を出し走り回っている。

暑さをものともしない彼らは人間というより、真夏の太陽を恋焦がれる虫、蝉や蟻のようだ。


「そうなると俺は日陰でうごめくダンゴ虫だな」


そう独り言を呟きながら、誰もいない屋上の出入り口に向い歩き始める。


太陽に照らされてジリジリに熱くなったドアノブに手をかける。

と、まだ力を入れるか入れないか分からない内に勢いよくドアが開いた。

最近の学校には自動ドアが導入されているのか、と一瞬脳裏に浮かんだ疑問は、目の前に立つ人物によって瞬時にかき消された。


「ここにいたか、ワトソン!」


願だった。

正式名称、古藤願ことうねがい。通称、願。一応ヒト科に属する生物で、必ず名前の読み方を質問されるという特性を持つ。

その口から発せられる言葉という言葉にはエクスクラメーションマークが付き、常に笑顔を絶やさないため、一重瞼なのか二重瞼なのか区別をつけるのは困難を極める。

部活動には入っておらず、しかし武道を嗜んでいるために小さいながらも腕っ節はめっぽう強い。

また一応どちらかといえば俺の友人に値する人材であり、悩みがあったら相談したいランキングベスト10にはなんとかその名を連ねている。


「どうした、今にも予備校をサボろうするくらい、浮かない顔に見えるぞ!」


「サボるんじゃない、今日は別の場所で人生勉強を進めようと思ってただけだ」


「成る程、これは大発見だ!私の辞書のワトソン項目を入れ替えなくては!」


耳が痛くなる程、声が大きい。

省エネが叫ばれる世界において、何故誰も願の声の大きさを指摘しないのか。

このエネルギーを有効に利用すれば日本の二酸化炭素排出量は確実に5%以上削減できるだろう。


「正式名称、和藤聡一わとうそういち。俗称、ワトソン。ヒト科かメガネザル科か意見対立の真っ只中で、まだ公式に認定されてはいない」


何やら語りだした。のっけから正式名称以外には異議を申し立てたい気持ちで一杯だが、話の腰を折るのも気が引けるのでしばらく様子を見る。


「その頭には高校生4人分の脳が詰められているとの検査結果が出ているが、主に定期テストを用いた検査であるため、真偽は定かではない」


辞書の割には不確定項目が多すぎるのではないだろうか。


「ここを変更した!よく聞いてくれ!予備校にて勉学に励む習性があるが、ゲームセンターで人生勉強を行うこともある!」


話の腰を折っておけばよかったと後悔した。

どうせ腰を折ったとしても、手足がある限り自由自在に動き回るのが願の話だ。

笑い所の入り口すら発見できなかった俺の目の前で、願はけらけらと笑っている。

よっぽどツボに嵌ったのか、右手で腰の辺りをばしばし叩きながら、けらけら、けらけらと。

俺は溜め息を一つ吐き、上空を見上げる。

青い、青い空のやや西方から薄い雲がやってきている。じきに日差しも弱まるだろう。

だが太陽はまだ紫外線を命中させていない標的を発見したかのように、そのエネルギーを願へと向け始める。


視線を戻す。願はまだ腹を抱えて笑っている。

真夏の日差しを受けて黒髪が光る。艶のある光沢はカブトムシの表皮の輝きにも似ている。

穏やかな風が願のすぐ傍を通り抜け、肩の辺りに散らされた毛先を揺らす。


古藤願は、世界一運のいい女子高生である。




雑木林の中で、蝉は自分の命を燃やして歌うのに相応しい木を見つけた。

グラウンドのように広がる砂利の上を、バッタは思う存分飛び跳ねている。

上空では太陽と雲が鬼ごっこをしているかのようで、地上は束の間の日傘を手にしようとしていた。





願に連れられ校門を出ると、漸く太陽に薄い雲がかかるところだった。

校門を出るとすぐ国道が走っている。

国道を挟んだ目の前には雑木林が広がっており、蝉の大合唱が始まっておりひどくうるさい。

木々の葉はピクリとも動かず、ただ若干柔らかくなった日の光を控えめに反射している。どうやら風は吹いていないようだ。


「で、今日は何があるっていうんだ?」


「逆だよ!私は今日、武道の稽古が無いのだよ!ワトソンも今日はたぶん人生勉強に出かけるような気がしたんだ!」


”たぶん、気がする”というが、人間のそれとは思えない程の豪運を持つ願の”たぶん、気がする”とは即ち、”間違いなく”ということである。

ちなみに願は俺のことをワトソンと呼ぶが、特にシャーロック・ホームズ自体に興味はないようである。

以前そのことについて質問をぶつけたことがあったが


「探偵とは事件が起きてから解決するだろう、それでは遅いじゃないか!私の目標はさらに遠大なところにある!」


と数十分にもわたる大演説をくらっただけだった。

その中で、助手はワトソンでなくてはならない、というフレーズを聞いた気がしたが、結局今でも意味が分からない。


「さて、今日は何をしたらいいか、ワトソン!」


どうやら本当に何もないらしい。

満面の笑みでこちらを見つめている。いや、見下している。

この日差しの中ただ静止し続けることは得策ではないと考え、適当に当初の予定を提案してみることにする。


「そうだな、とりあえず人生勉強のために、庶民の集まる遊技場にでも足を運ぶとしますか?」


「よし!射撃の訓練だな!本当に勉強熱心じゃないか!」


胸の前で右手に握りこぶしを作ってそう答えた願は、くるりと身を翻し駅前の中心街へと歩き出した。

こいつは革靴で舗装された歩道を歩くときの音が好きらしい。

だから自転車も使わず、30分もかけて徒歩通学をしている。

カツ、カツと音を立てて歩いていく。俺もそれに続く。


「そういえば、願のクラスはやけに遅かったんじゃないか?もうすぐ夏休みなのに、HRで何をしていたんだ?」


「何、軽い講演だよ。先生がゲームセンターについて余りにも無知な発言をするものだから、ゲームが如何なるものなのかを説いてあげたんだ!」


うちのクラスのHRを思い出してみる。

そういえば夜遅くまで街にいると補導がどうたらこうたらとか言っていた。

そうか、それで願がガンシューティングは射撃の、UFOキャッチャーは空間認識の、格闘ゲームは動体視力の訓練になるとか叫んでいたのだろう。

よくあの程度の遅延で収まったものだと、俺は逆に感心する。


「論文の発表ではなく自分の意見を述べるだけならば、どんな演説でもせいぜい5分から10分で片が付くものさ」


なるほど、先生は願の意見を聞いたところでHRを終わらせたらしい。流石に教員は手馴れているものだ。

願の方を見ると大変満足そうにころころ笑っている。

まるで街頭演説で拍手喝采を浴びた政治家のように。

ふと願の向こう側にある、レンガ造りの尖塔が目に入った。

うちの高校の横にはもう一校、私立の名門高校があり、そこの敷地内にある建物である。

平凡な公立高校のうちとは違い、名門私立らしい建築様式である。

高校内の建物という建物はレンガ造りを模しており、その側壁にはカビ一つ生えていない。

グラウンドも勿論広大で、野球部とサッカー部が同時に試合を行うことも容易なくらいだ。

そして基督系の名門らしく、教義用の尖塔には大きな十字架が掲げられており、大きな入り口の上に美しいステンドグラスが飾られている。


「四つ葉のクローバー・・・」


十字架を見つめているうちに、思わず口に出してしまった。

四つ葉のクローバーは十字架の親戚のようなものらしいと、どこかで聞いたことがあったからかもしれない。


「それだよ!」


いきなり何者かが大声を出した。いや、何者かではない。目の前の演説家だ。


「どうも今日は何かが引っかかっていたんだ!その答えは今、君がくれた!」


俺には”その答え”がわからない。

ただ4択問題の正解率100%を誇る願には、おそらく何か直感にくるものがあったのだろう。

昔、願の中間テストの解答用紙を見せてもらったことがある。こいつは全ての選択問題に正解していた。

極端に頭のいい人物ならよくあることかもしれないが、願のは次元が違う。

選択問題では答えを考えずに数字を見て選んでいるらしいのだから。

その証拠に、テストの結果自体は大したことがなかった。

選択問題以外はあらかた間違えていたため、だいたい平均点ギリギリだ。

選択問題の無い数学に至っては、当然の如く赤点連発で、長期休暇には毎回補修を受けている。

よく高校入試を突破できたものだと人から言われることもあるらしいが、何のことは無い。

1年半前、うちの高校の受験を予定した者の中に有名私立高校に受かった者が続出したらしく、

俺たちの高校の実質倍率は0.98倍程度になっていたのだ。


「今日は実に運の悪いことが重なっていてね!朝は5分寝坊してしまうし、お弁当にはカリフラワーが入っていた!極めつけはHRの延長だ!」


こいつにとっての運の悪い出来事とは、この程度のものである。カリフラワーは願が苦手にしている粒粒とした食感を持つ食物というだけであるし、HRの延長は自業自得の極みだ。


「クローバーを探そう!幸運のために!」


「お前はもう十分幸運だよ。これ以上を願ったらばちがあたる」


「違うさ!人の一生で消費する幸運の総量とは決まっているものであり、四つ葉のクローバーはその絶対量を増やすものだ!私たちが今後もずっと、未来永劫幸運であるためには、幸運の貯金をしておかなければならない!」


現時刻は16時、もうじき日も暮れてくるだろうし、同時に強烈な西日が襲ってくる時間になる。

そんな折に公園のど真ん中に座り込んでクローバー探しに精を出していたら、せっかく屋上では助かったこの命を再度危機に晒してしまいそうだ。

しかし、反対する気は起きなかった。願との付き合いはもう十数年になるが、今の今までこいつの誘いを断ってよかった、と思ったことは一度もなかったのだから。

それにどうせ願のことだ、西日との格闘が始まる前に、あっという間にクローバーを発見するに決まっている。


「わかった、幸運増強剤を探しに行くか」


「よし、それでは出発だ!私たちの幸運はこの手で掴む!」


俺たちは雑木林の奥にある公園を目指し、横断歩道の前で立ち止まった。




逞しくも舗装された歩道に生えてきた雑草が揺れている。

国道向いの雑木林もゆらゆらとその葉を揺らし始めた。

依然として蝉達の唱歌は続いていたが、風が少しずつ強まっているのがわかった。





公園では子供たちが奇声をあげて走り回っている、というのは俺の先入観だったのか。世間の常識ではなかったのか。

雑木林を抜け、数十メートルの歩道を経て辿り着いた公園には、人の影ひとつ見当たらなかった。

この公園には遊具は存在しない。もしかすると子供のことを心配し過ぎる子供のような保護者からの依頼なのか。

登り棒から落ちたらどうする、ジャングルジムから落ちたら責任を取ってくれるのか、と市役所に怒鳴りこむおば様方を想像すると、苦笑してしまう。

次第に西日が強くなってきたが、この公園は風がよく通っていて、大変心地よい。


学校のグラウンドくらいの広さがあるこの公園は半面が砂利、もう半面に濃緑のクローバーが生い茂っている。

もしこの公園で兎を放し飼いにしていても、半年くらいは食料に不自由することはあるまい。

公園南側に陣取っていた願は既にクローバーを探し始めている。

その姿は西日に向かって祈りを捧げている宗教信者にも似ていた。


「早く見つけよう!日が沈んだら私たちの負けだ!」


一体誰と勝負しているというのか。

とりあえず俺も公園の中央付近で腰を屈め、西日に背を向けて目標の四つ葉を探し始める。


「それではダメだ!日の光を利用しないと見つかるモノも見つからない!」


叱責を受ける。西日に向いたら逆に眩し過ぎるような気もするのだが。


「宝を見つけるときに必要なモノは分かるかい?それはランプ、赤々とした明かりだ!ランプ無しでは宝は決して見つからない!」


納得できるような、できないような、よくわからない理論だ。

しかしひとまず願先生の指導に従い、西日に向かってみる。

やはり眩しい。目を細めると、太陽から発せられる光が線になって見えるようだ。

強すぎる光から目を保護してやるため、太陽に挨拶するように下を向く。クローバーが大量に目に入る。

視界の限りクローバーの、緑。そして差し込んでくる日の光は、赤。

足元に出来上がった色は、やや赤黒いクローバーの緑だった。

日の光に打ち勝つ色を持つクローバーには、なるほど、確かに幸運を運ぶ力があるのかもしれない。


絨毯の如く広がるクローバーの表面を手で探っているとすぐ、何か違和感のあるクローバーを見つけた。顔を近づける。

十字架に杭が打たれたような造形。五つ葉だった。

思わずクローバーを摘みとり、願を呼ぶ。


「これ5枚だけど、どうだろう?」


願が走り寄ってくる。顔は笑ってはいるが、あれは先を越された、という表情なのかもしれない。

五つ葉を渡す。願はからからと笑いだす。

と、何かを思い出したかのように笑い声が止んだ。

願は笑顔のまま眉間に皺を寄せ、奇妙な表情をつくりだす。


「これではだめなんだ。四つ葉でないと幸運の証にはならない」


「そうか、なら一枚取ってしまったらどうだろう」


願は首を傾げてしばらく思い悩んでいたようだが、俺の方に向き直ると大きく頷いた。

五つ葉クローバーの葉一枚に手をかける。

何故か願が犯罪に手を染めるかのような気持ちになる。

優しく、そして柔らかに、願の手はクローバーの葉を引き抜いた。

ゴメン、と謝る声が聞こえる。

微かな音を立てたか、立てなかったか。

十字架から引き抜かれた杭は、風に乗って間もなく、緑の絨毯に消えた。

その行方を最後まで見守った後、願は四つ葉をポケットの生徒手帳に挟み込む。

願は手帳をポケットにしまった後、一度の咳払いを挟み再び元気のよい声で指令を出した。


「よし、よくやったワトソン!あともう一枚だ!おそらくもうここにはないだろうから、君は西側を探してくれ!私は東側から探す!」


「近くにもう一枚くらいあるんじゃないか?」


「いや、宝は二つも同じところにあるはずがない!一度の冒険で得られる宝は一つ!欲張る者は罠に嵌る!」


またもやよくわからないことを口走るが、俺は反対する隙すら与えられない。

願は餌を求める兎のように素早く駆けて行ってしまった。

しかしまさか俺の方が先にお宝を発見することになるとは思わなかった。


「今日の願は確かに運が悪いのかもしれないな」


苦笑を交えつつ、誰に向かって言ったのではなく、一人呟く。

さっさともう一枚見つけて帰ろうと思い、俺は太陽に向かって歩き始める。




時刻はまだ17時にも達していない。だが赤く染まりつつある太陽は流石に疲れを見せており、ゆっくりと地平線に消えようとしている。

木の上で歌い続けていた蝉達も同様に疲れを見せ始め、その音量は徐々に小さくなっていた。

そして砂利の上を彷徨うバッタは、緑の絨毯が敷き詰められる自宅へと向い始める。





17時半を過ぎ、太陽が地平線に帰ってゆく。遊び疲れた子供のように。

四つ葉のクローバーはあれから見つかっていない。

願は未だ一枚たりとも四つ葉を発見していないが、今日はよほど調子が悪いのだろう。

沈み行く夕日を目にして、俺はそろそろ潮時ではないかと思い始めていた。

願にその旨を伝えようと後ろを振り向くと、見慣れない人影が眼に映った。

公園中央付近に子供が座り込んでいる。小学生くらいの女の子だろうか。

服の袖で涙を拭っている様子だ。

俺たちがここでのうのうと幸運の葉を探している間に、どこかでいじめにでもあっていたというのか。

一心不乱に四つ葉を探している願は急な来客に気が付いていない。

願を呼ぶ。

すぐに反応を示した願は、こちらを見ると同時に少女の姿も確認したようだ。

身振り手振りによる会話を通し、二人同時に公園の中心でうずくまる少女に駆け寄る。

少女の元に座り込んだ願が口を開いた。


「どうしたんだい?もうすぐ暗くなってしまうよ」


ありふれた呼びかけだが、願のセーブした声を聞きなれていない俺は違和感を覚えた。

女の子は泣いている。それはどうやら間違いない。

泣いている子供からその涙の訳を聞きだすのは相当難易度が高い。

メガネザル科の生物に近いとされる俺がホスト役を務めるよりは、まだ願の運に期待する方が得策であると判断し、願に全てを任せる。

俺の精一杯のアイコンタクトを理解した願は、迅速にハンカチとポケットティッシュを取り出し、少女に差し出しながら言った。


「大丈夫。私がなんとかしてあげるから、まずは涙を拭いてごらんよ」


そういえば願はいつも笑顔であるからして、このような子供には懐かれ易い傾向がある。きっとうまくやってくれるだろう。

少女はハンカチで涙を拭いて、願に促されて鼻をかむ。少しは話せる状況になったのか、願は小声で少女に囁く。


どうやら俺にできることはしばらくなさそうだ、と後ろを向き、沈んでしまった太陽を見やる。

今日はここまでだろう。

この少女をあやした後は、もうすっかり暗くなっているに違いない。

そうすると俺たちは大人の義務として少女を家まで送ってあげる必要がある。

最近は物騒な事件が多いことだし、願も反対することはないだろう。

長いこと中腰で作業をしていたから腰や背中が痛い。

両手を上げて背伸びをする。体のこりが少しほぐれたところで、俺は心地よい達成感を感じた。

が、その達成感はすぐに打ち消されることとなった。


「五つ葉の・・・」


少女の言葉が微かに聞こえ、思わず振り向いた。

願の表情が硬くなっているのに気付く。嫌な予感がした。

もしかしたらこの少女の涙の理由は、俺たちにあるのか?

そんなはずはない。あるはずがない。俺たちはここで四つ葉のクローバーを探し、五つ葉のクローバーを見つけただけだ。

いや、違う。俺たちは杭を抜いた。

十字架に打ち付けられた、あの杭を抜いた。

今俺たちが持っているのは四つ葉のクローバーだ。


どうやら一悶着ありそうだと思いながら携帯を取り出す。

俺は自分の携帯を指差し、願に合図を送る。

即座に俺の肩に願の携帯が投げつけられる。やはり嫌な予感は当たるものだ。


願の携帯を開く。折りたたみ式だ。俺と同じ機種、色違いの携帯なので勝手は分かっている。即座にテンプレートを選択し、送信する。

続いて俺の携帯で電話をかける。


「・・・あ、母さん?今日は遅くなりそうだから、晩飯は先に食べといて」


母親は面食らったような声色ではぁ、とだけ答えた。

その返事だけを確認し電話を終える。さて、これからどうしたものか。

今しばらくは願待ちか。調査が終わらねば対策を講じることもできない。




東の空から濃紺の幕が上がっている。西の空には紅が佇む。

空全体にグラデーションがかかり、砂利の上にいたバッタは姿を消していた。





女の子から事情を聞きだした願はすっと立ち上がり、俺に向かい叫んだ。


「ワトソン!この子を家まで送るぞ!」


まだこの時点では少女の事情を聞いてはいなかったが、俺は無言で頷いた。



少女の話を要約するとこうだ。

女の子は先日ここで五つ葉のクローバーを発見した。

可哀想だったので摘んだりはしなかったが、本日学校で五つ葉のクローバーの話をすると、皆が一斉に嘘つき呼ばわりしてきた。

どうしても汚名を返上したかったので、明日五つ葉のクローバーを学校に持っていくという約束をした。

ところが本日はお稽古塾の日だったので、探しに来るのが遅くなってしまった。

しかし場所は覚えていたので簡単に見つかると思ったら、いくら探しても見つからない・・・というわけらしい。

全く厄介な話である。



少女の家は公園から歩いて15分ほどのところだった。

大きくもなく、小さくもなく、中流家庭の代表格とも思える住居だ。

自宅を目の前にして、クローバーを見つけられなかったから明日またいじめられるのではないかと少女は思っていた。

顔中に不安の色を滲ませていた少女に向い、願が語りかける。


「明日の朝までに、このポストに必ず五つ葉のクローバーを入れておく!五つ葉どころじゃない、六つ葉、七つ葉も入れてあげよう!だから今日はもうお帰り」


少女はまだ決断できないようで門の前をうろうろしていた。

やがて両親に怒られることを心配してか、自宅の扉を開け、ただいま、と言う声を搾り出す。

その姿を見送って、俺たちは二人並んで公園へと引き返す。


願はよほど落胆していたのだろう。頭を垂れ、肩を落としている。


「私のせいだ」


声のトーンが低い。ボリュームが小さい。まるで壊れかけのラジカセではないか。

それにもとはといえば俺が五つ葉などを見つけなければ良かったのだろう。

葉を引っこ抜いたのは願であるが、それを提案したのは俺、五つ葉を発見、捕獲したのも俺となれば、当然責任は俺にある。

ぐったりした姿は願に似つかわしくないな、と思いながら月並みな言葉をかける。


「そういうわけじゃない。主犯は俺であるし、何より今日は運が悪かった」


口にしてから違和感に気付いた。おかしい。あまりにも運が悪すぎる。

今日の願は世界一運がいいどころか、不運な一般人と何ら変わりはないではないか。

普段から頻繁にこのような不運を体験する一般人にとっても、今日の出来事は非常に気分の悪いものだ。

それがこともあろうに数年間一度も気分を害されたことのない願に降りかかって来たのだから、果たして願にとってどれほどのダメージとなっているのかは俺にも見当がつかない。


「もう一枚五つ葉は見つかるだろうか。もし見つからなかったらあの子は・・・」


最後の部分がよく聞こえなかった。マタイジメラレルとでも言ったのか。頭がふらふら揺れている。

五つ葉を人工的に作るという方法もあるが、おそらくどんなに精巧に再現したとしても、俺たちが逆に傷つく結果になる。

少女に嘘をついたという事実は未来永劫俺たちを苦しめるだろうから、未来永劫の幸運を願う俺たちは絶対にその選択をしてはいけない。

それにしても落胆しすぎだ。

もう何と言ったらいいのかわからなくなってきた。

何でもいい、しょぼくれた女子高生に何か励ましの言葉を、5分か10分の演説を、元気を出して欲しいと意見を述べさせて欲しい。


「できないと思うから何もできなくなってしまう。誰かさんが言っていた」


自然と口から言葉が紡ぎだされる。頭には何も浮かんでいないのに。


「願うことは叶うこと。これも誰かさんが言っていたことだ」


言葉が止まらない。


「では、できると思えば何でもできるかというと、そうでもない。多くの人間は挫折を味わって少しずつ成長していくものだから」


願は顔を上げない。だが、俺の言葉を遮ろうともしない。セミロングの髪に隠れた耳が、こちらに向いているのがわかる。


「だが、俺たちは違う。できると思えば何でもできる!挫折を味わったら、増えるワカメ以上に成長する!」


何が増えるワカメだ。このままでは話がとんでもない方向に進んでしまう。とりあえず収束させなくては。


「何故なら、俺たちは他の人とは違うから!特別な人間だから!」


強引に終わらせる。全く意味がわからない。

俺たちの他に歩道を行く人は無く、ただすぐ横を車が駆け抜けていくだけだ。

いつの間にか俺は願の前を歩いていた。振り返り、立ち止まる。

右手には俺の背の高さほどのブロック塀が続いており、アクセントのようにところどころ街灯が立ち並ぶ。

静寂が訪れてひどく気まずい。何故蝉の大群はこんなときに限って働いてくれないのか。職務怠慢ではないか。

ふいに、路上に静止していた願の頭が小刻みに揺れる。ころころと笑い声が聞こえてきた。


「増えるワカメは、いいな。ツボに、嵌りそうだ」


右手で腰のあたりをポン、ポンと叩く。濃紺のスカートが僅かに揺らめいた。


「いい、演説だった。短く、纏まっているのが、特にいい。今後の参考に、させてもらおう」


ところどころ音とびのするCDウォークマンが頭にちらついた。願の声は震えていたのかもしれない。

願はゆっくりと顔を上げると、路上の街灯を見上げる。

そのとき気付く。

願の瞼は二重だったのだ、と。

わずかに潤んだ瞳の中に街灯の光が溶け込んでいる。

久しぶりに願がはっきりと眼を見開いている瞬間を見た。

前に見たのはいつのことだったか、もう覚えていない。





誰が言ったかもわからないような言葉を俺は思い出していた。



人が一生で消費する幸運の総量は決まっている。


だが、願は一日で消費する幸運の総量が決まっており、


宇宙一の幸運が、毎日起こり続ける。


もし不運が続くような日があれば、


願は”その日のうち”に奇跡を起こす。



カブトムシの大行進、道路一面に咲く菜の花、学校ほどの高さのクリスマスツリー。

お菓子の家、空一面四方八方に打ち上げられた花火、家の前に大集合した何とかレンジャー。

俺の記憶の奥底に存在するこれらの情景は、もしかしたら夢ではないのかもしれない。


その時俺の横には、泣きはらして眼を赤くした、”願”が立っていたのだから・・・





突然、願がくるくると笑い出した。ハンカチで両目を押さえながら、くるくる、くるくると。

何も知らない人がみたら、気でも触れたのではないかと思うだろう。

しかし今、願は心から笑っている。

その姿を見て、俺は何故か心から安心した。


じきに願は両の手を下ろしハンカチをしまう。満面の笑みを浮かべているのが分かる。


「ワトソン!走るぞ!」


願が駆け出す。俺もそれに続く。


「懐中電灯、どこかで買った方がいいんじゃないか?」


「たぶん、いらない!そんな気がする!」


出所不明、原因不明、意味不明のこの言葉が、これほどまでに頼りになるとは。

俺たちはクローバーの生い茂る、あの公園へと一直線に向かった。




漆黒の空には最早太陽の面影はなく、上空には満月が浮かんでいた。

やんちゃな太陽の光とは違い、大地を優しく照らすその優しい光のもとに導かれるものがいる。

バッタは緑の住居を抜け出し、肌色の砂利に横たわっていた。





公園へと続く雑木林を抜ける。願はまだ俺の前を走っている。

インドア派の俺には追いつけそうにない。

夜の雑木林はやはり暗い。気を抜くと夜の闇に飲み込まれそうになる。

願を見失わないように、しっかりと眼を凝らす。

俺には見えるはずだ。メガネザルは夜行性なのだから。


「夜という監獄に多くの民衆が囚われている!」


なにやら願が語り始めた。


「五つ葉という国の民衆だ!」


よくもこれだけ速く走りながらあれだけの大声が出せるものだ。


「彼らを助け出すためにはどうすればいい?」


「檻の鍵を開けてやり、逃げ道を確保すればいい!」


自然と口から言葉が発せられる。口という監獄に言葉が囚われていたのだろうか。


「正解だ!素晴らしいぞワトソン!」


抽象的な問題ではあったが悪い気はしなかった。

少なくともテストで100点を取るよりはずっといい気分だ。

カツ、カツといった音が聞こえた。願はどうやら雑木林を抜けたようだ。

小気味良い音だと思った。軽く乾いた、澄み切った音。

雑木林を抜ける。歩道の向こうに公園が見える。

公園の中央には大の字を表現するかのように、両の手を思い切り横に広げた願が立っている。


「監獄の鍵は月!鍵を開けるのは私!」


全力で走る。俺の眼が闇に慣れてきたのか、次第に公園がはっきりとその姿を現す。


「逃げ道はワトソンが準備する!」


早く行かなくては。逃げ道がないと民衆は再び捕らえられてしまう。


「もう心配することはない!一緒に逃げ出そう!」


願の合図と同時に、俺の夜行性の眼が眩む。

スポットライトが当たるように、公園が金色の光で照らし出される。

その太陽の如き強烈な光を発しているのは、月であった。

月から地球に降り注ぐ光の全てを、この公園に集めているかのような光景。

大観衆が注目する舞台に入場するよう、公園に足を踏み入れる。


違和感に気付く。入り口は公園の北側である。硬く黄色い砂利が広がるエリアのはずだ。

しかし足元には緑の絨毯が敷かれており、柔らかな感触を足元に与えている。



公園は一面、クローバーで埋めつくされていた。

見渡す限りの緑。

金色の光に照らされ、その緑は夕方のそれと別物のように感じられる。



その場に座り込み、足元のクローバーを眺める。

予感はしていた。


四つ葉のクローバー

五つ葉のクローバー

六つ葉のクローバー

七つ葉のクローバー


そこにあるのは、全て、夕方見つけることができなかったクローバーであった。


「さあワトソン、彼らを!」


願が声を張り上げる。

無茶を言う。この公園の半面に生い茂ったクローバーを全て移動させろというのか。


「一掴みでいい!逃げ道を示すだけでいいんだ!」


俺は願に言われるがまま足元のクローバーを一握り、できるだけ優しく、摘みとった。

四つ葉、五つ葉、六つ葉、七つ葉、様々なクローバーを手に、ゆっくりと立ち上がる。

願はその姿を見届けると、再び大きく息を吸い込み、叫ぶ。


「ワトソンは逃げ道を示した!逃げ道は・・・・・・・・・・・・空だ!」


突然、足元を強風が襲った。

地面近くに集まった風が、一気に上空へと吹き上がる。

瞬時に目の前が緑に染まり、他には何も、もはや金色の光すら届かない。

俺はその場に立ちすくみ、ただ呆然と眼を見開いていた。


緑の激流が下から上へと流れ続ける。

延々と緑、緑、緑。

この世の全てを飲み込んでしまうかのように、ただ緑が押し寄せる。




満月は公園を照らし続けていた。

クローバーは一斉に舞台から退避するが、その仕掛けは誰にもわからない。

そして密かにクローバーの大群に混じり、バッタも舞台を降りていた。

バッタが舞台から消えていることもまた、誰も気付かない。





風は止んだ。

緑の激流は遥か上空へと消え去り、月は平等に地上を照らしていた。

公園は夕方の姿を取り戻し、半面は砂利に戻っている。

願が空に向けて両手を振り続けているのが見える。

ふと、手の上の感触が消えていないことに気付く。

手を握っていたわけではないのに、何故か俺が摘みとったクローバーは全て手のひらに佇んでいた。

あれだけの風を受けていたにも関わらず、まるで俺の手にしがみついていたかのように。


願はゆっくりと両の手を下ろし、こちらに向って歩き始めた。

上空を見上げる。

先ほどの光景が幻であったかのように、月は控えめな光をただ携えているのみである。

一斉に舞い上がったクローバー達の姿も無い。

ただ夜空には多くの星が瞬いているだけだ。

もしかしたらあの星のどこかに、五つ葉という国があるのかもしれない。

そこには三つ葉のクローバーの方が少数派で、肩身の狭い思いをしていることだろう。


俺の目の前に辿り着いた願が口を開く。


「彼らは救われた!ワトソンのおかげで!」


この大脱走の成功の立役者は、どちらかというと、俺ではなく願なのではないだろうか。

ただそれ以上に気になっていた疑問を投げかける。


「俺の手の平にいるクローバーは行かないでよかったのか?」


二人の視線が同時に俺の手の平に落ちる。数多くの葉を持つクローバーが、そこに佇んでいる。

しばしの沈黙の後、願が口を開いた。


「恩返しだ!この者達は恩返しをするために、ここに残ったんだよ!」


都合のいい解釈にも感じられるが、妙に説得力がある。

俺はつい苦笑してしまうが、願は続ける。


「鶴が猟師に恩返しをしなかったら、どうなる?」


「どうにもならないだろう。鶴は帰ってしまうし、猟師はいつも通りの生活に戻る。」


話の腰を折ってしまったかもしれない。しかし願は切り返す。


「違うよ!猟師は大金持ちにはなれないじゃないか!」


もはや何でもありか、と思う。


「出来すぎだ」


「出来すぎではないさ!何故ならば!」


その後に続く言葉は分かっていた。しかし、話を折ろうとしてはいけない。

手足まで折ってしまったら、流石に願の話でも動けなくなってしまうだろうから。


「私たちは特別な人間だからだ!」


そう言い切った後、願はきろきろと笑い出した。きろきろ、きろきろと。

手を叩いて笑っている。半袖の制服が願の笑声に同調するかのように振動する。

余りにも愉快に笑っている願を見ているうちに、俺も笑い出す。

どのように笑ったかは覚えていない。

ただ、俺たちは心地よい満足感を覚えていた。




ステージには幕が下りた。斑な雲が満月の前を流れ、月光は点滅を繰り返している。

それはまるで拍手をする観客のようであり、舞台袖の道具係のようでもあった。

蝉は木の上で静かにその様子を見つめ、空からは一匹のバッタが地上を見下ろしていた。





翌日、いつも通りの日常が待っていた。

いつも通りの部屋でいつも通りの時間に起床する。

ベッドから抜け出し窓辺に立つ。水色のカーテンを一気に開けると、庭の杉の木はいつも通りの位置に立っていた。

その杉の木の向こう側で、既に高く昇っている太陽が、いつも通りに小憎らしい程の光を部屋中に放り込む。


一つだけいつもと違うことがあるとすれば、それは机の上に置いてある一冊の教科書であろう。

太陽の光に背を向け、椅子に腰掛ける。

教科書をさっと開くと、目的のページが一発で開く。平安時代についてのページである。

正確には教科書自体が変わったのではない。そこに挟んである緑色の押し花が唯一の変化だ。


日本史の教科書の上には、小さな四つ葉のクローバーが佇んでいた。





俺たちは日常を取り戻した公園を後にし、少女の家に直行した。

時間はいつの間にか21時を回っていたが、どうしても約束を守らなければならない。

道中では一言も言葉を交わさず、ただ革靴が歩道を打ち付ける音が辺りに響き渡っていた。

少女の家に辿り着き、郵便受けを探す。金属製の無機質な直方体が、クローバーを迎え入れようと門の横で口を開けて待っている。

俺が手の平にあるクローバーを全て郵便受けに放り込もうとしたとき、願がふいに口を開いた。


「四つ葉だけは、いいんじゃないか?」


思いがけない言葉に思わず手を止め、驚きの表情を浮かべて願を見やる。願はなおも続けた。


「四つ葉くらいは、私達が連れて行ってやるというのはいけないことだろうか?」


あまりにも子供染みた提案に、つい吹き出してしまう。本当に幸運については貪欲な奴である。

多く持つものはもっと欲しくてたまらない、というのはどうやら事実だったようだ。


「そうだな。こいつはうちに連れて帰ってやるか」


「もうひとつ、できれば私に譲ってくれ」


お前はもう持っているじゃないか、と言おうとしたが、願が持つものは元五つ葉を整形したものであると思い出し、口をつぐむ。

手の平に犇くクローバーを見ると、上手い具合に二つの四つ葉が身を寄せ合っているのがわかった。

左手で二つのクローバーを摘み上げ、願に手渡す。その後、俺は右手のクローバーの群集を郵便受けに放り込んだ。


「これであの子も大丈夫だな」


願から一つの四つ葉を受け取りながら、俺は言った。


「大丈夫だ!」


願は生徒手帳を取り出しながら言った。俺も手帳を取り出す。


「一旦は生徒手帳に保管するが、やはりクローバーは歴史の教科書に挟むのがいい!」


手帳を開く。校歌のページが開かれた。


「別に本であれば何でもいいんじゃないか?」


校歌の上にクローバーを大事に乗せる。


「いや、少しでも幸運を吸収するために、やはり歴史上最も運のいい人物に近づけておくべきだ!」


手帳を閉じる。俺はその手帳を大事にポケットにしまい込む。


「そう!藤原道長が登場するページが望ましい!」


願はそう締めくくった。





顔を洗い、着替えを済ませ、階下に降りる。俺の部屋は二階にあり、うちの居間は一階にある。

母親は朝食の支度を済ませ、椅子に腰掛けテレビを眺めていた。

父親は既に出勤してしまったらしい。テーブルの上には二人分の朝食が並んでいる。

俺がおはよう、と声をかけると、母もおはよう、と言った。母は続けて言う。


「聡君知ってた?クローバーのこと」


思わずへぇ、と間の抜けた声を上げてしまう。

昨日の今日で随分タイムリーな話題を振ってくるものだ。

ただ別に俺が保護した四つ葉がどうたらという話ではなく、先日テレビ番組が特集を組んでいたらしいことが分かった。


「クローバーって、四つ葉が最大値だと思うでしょう?でもその上に五つ葉、六つ葉以上もあるらしいの」


再びへぇ、と返事をする。

そんなことは昨日この眼で確認してきたところだ。


「でね、四つ葉より五つ葉の方がラッキーだっていう説もあるけど、違う説もあるとか」


少し興味を引かれる。俺はクローバーには詳しくないが、知識を蓄えておくに越したことは無い。


「五つ葉には”別れ”の意味もあるんだって」


別れ、という言葉を聞き、先日五つ葉を目の前にした願の奇妙な表情が思い出される。

もしかしたら願はこの説を知っていたのかもしれないな。

やはり俺はへぇ、とだけ返事をし、トーストにバターを塗り始めた。

曖昧な返事を繰り返す俺に気を悪くしたのか、母親は意地悪く別の話題を振ってきた。


「さて、聡君は昨日どちらで何のお勉強をされていたのですか?」


トーストにバターを塗る手が止まる。

母親はざまぁみろといった具合に、にやにやとこちらを見据えている。

呆然と母親と視線を交わしているうちに、何故彼女が予備校を休んだことを知っているかの原因に思い当たった。

もともと予備校の日は帰りが夜遅くになるため、家では晩飯を食わないのが常である。

それにも関わらず晩飯はいらないなどと電話を入れてしまえば、サボタージュを自白したも同然だ。

おそらく電話を受けた当初、彼女は相当困惑していたことだろう。

初めから俺の夕食など準備されてはいなかったのだから。


俺は苦笑いを浮かべる。母親もどんな答えが返ってくるかを心待ちにして笑みを浮かべる。

とりあえず今度から気をつけることとしよう。


この後なんと答えたかは覚えていないが、俺は思った。


『どうやら今日、俺の運勢は悪いらしい』


クローバーを手にしてこの体たらくだ。


我が幸運の女神様はいささか気まぐれで猪突猛進な御方だが、

彼女との別れは当分先のことであって欲しいものだ。






東の空には目覚めたばかりの太陽が元気良く燦々と輝いている。

黒い屋根の上に寝そべっているバッタはその日、生涯で一番高い場所からのご来光を眼にすることができた。

バッタの眼下にのびるアスファルトの道路上、遥か遠くから一人の女子高生らしき人間が歩いてくるのが見える。


また、ある杉の木の上では一匹の蝉が独唱を始めようとしている。

蝉はいつもの男子高生が家屋の外に現れたことに気が付くと、一日の始まりを実感し、歌いだす。

今日もまた彼は、たぶん門の前でいつもの女子高生に出会うのだろう、と蝉は思った。

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