火をつけて
カメラマン×ライター
※『王子と巨匠』の続きに当たります。そちらを読んでいないと意味不明な箇所があるかと思われます。
嫌がるその人を、「巨匠」と呼んでいたのには訳がある。
うっかり名前で呼んでしまったら、絶対ばれてしまうから。私が、あなたのことを好きだって。
「もう巨匠って呼ばないンだな」
一二月二五日の夜、晴れて恋人になった恵一さんに、揶揄された。
「だって、もう自分の気持ちを隠さなくてよくなったから」
そう返せば、簡単に恵一さんは照れて、顔を背ける。
「ほんとお前、凶悪」
「恵一さんに云われたくない」
不機嫌な顔で禁煙パイポを齧る姿も、壮絶に男を発散しながら撮影対象にカメラで迫る姿も、私の心を捉えて、決して離してくれはしないんだから。
気弱ピアニストのドキュメンタリーでタッグを組んだのは、顔合わせから出版の打ち上げまで含めるとふた月弱だった。
実際に密着していたのは三週間程度だったけれど、最後の三日間の彼の変貌には目を瞠るものがあった。クリスマスの奇跡、なんて揶揄するスタッフさえいた。
「ピアノに関係しない取材は今後一切お断りして下さい。それから、テレビ番組への出演も」
優男な彼には、確かにピアノ全然関係ないだろ! と云う紹介記事――欄外の小さなキャプションでコンサート情報がちらりと取り上げられる程度――や、使い捨てのような情報番組への出演等が多かった。
本人が周りに任せていた面も大きかったのだろう。今まで、イヤイヤやっている風ではあっても決して文句を云わなかったことに胡坐をかいていたマネージャーが顔を青くしている。
「本気か?」
コンサートの前日、彼の事務所の社長もその場に来ていた。なかなか眼光が鋭いその人に凄まれても、彼の決意は変わらなかった。
「もうこんな逃げるような真似はしません。だから、僕のことをただのピアニストとして扱って欲しいんです」
行方をくらましていた三時間に一体何があったのだろう。失踪前と後では別人かと思う程に違う。
事務所の社長が私たちの方に顔を向ける。
「今、やってもらってる密着の方は?どうするつもりだ?」
彼はきっぱりと云い切った。
「三週間近く来て戴いて、それをフイにしろとは云えません。ただし、これが最初で最後です」
お願いですらなかった。決定事項を告げられただけだ。
そこまで話の成り行きを黙り込んで見守っていた白井さんがふらりと前に出た。
「まずはさ、俺たちがアンタの何を見て何を残したいと思ったのかを見てもらいてェんだけど」
ホレ、と紙に落とした写真と文章を彼の前に突き出した。
それは、王子バージョンじゃない方だった。
かっこ悪い、気弱な、楽譜とピアノと己とが格闘している男の姿。
彼はそれを目を丸くして読んで、写真を見て、私たちの顔を見た。
「これ……」
「アンタが望んでンのはこっちだろ?」
一応こー云うのもあるけどよ、と、事務所と出版社サイドから依頼されていた線も見せる。彼はそちらにも丁寧に目を通したが、静かに紙の束を整えて白井さんに返した。
「こちらも丁寧に、今までの僕の売られ方を壊さないよう作られていているなと思いますが、先に見せていただいた方、あれがいいです、僕は」
「だよな」
にやりと白井さんが笑う。
「よかった。二つ並行して進めンの、大変だったンだぜ」
「僕がもっと早くにはっきり自分の意見を云えればよかった、すみません。あと二日ですが、よろしくお願いします」
見違えるほど堂々としているけど、やっぱりお辞儀は上手じゃなかった。
「女だな」
その日の帰り、LED電飾でカラフルにおめかしされた並木道を駐車場まで歩いている間、白井さんがぽつりと漏らした。
「きっと、あの三時間の間になンか運命的な出会いがあったに違ェねえ」
「ロマンティストだなあ」
白井さんの写真は被写体が持つ、今まで見せたことのない魅力が引き出されているなと思う事が多い。それは彼自身がロマンティストだからなのか。
顔合わせで『素っ気ない』と評された写真だが、実は緊張感をはらんだ、コップの水が溢れるか溢れないかと云ったぎりぎりのテンションで撮られていると云うことは一部に根強いファンの間では周知の事実で、そこが魅力であると熱く語られている。
「まあ何にせよ、アレが日の目を見る事になってよかったよ。アンタの文章を葬り去るには、惜しい」
「それを云うなら、白井さんの写真を埋もれさせておくのだって」
「ようやく名前で呼ぶようになったんだな」
思いのほか嬉しそうに白井さんが笑った。――もっと早く呼んでいればよかった。
と云うのは、両想いになったからこそ云えることだけど。
乗れ、と促されて、古いパジェロの助手席に初めて座る。
「とりあえずアイツのコンサートが終わるまではなンもしねえ」
思いを伝えあったものの、連れだって仕事をしている最中だ。当然のことだ。
そもそも、告白だって、本当はちゃんと終わるまで――本が無事に出版されるまで、我慢するつもりだったのに。
あの圧倒的なピアノと、カメラでピアニストを丸裸にしそうな白井さんにすっかり心がやられてしまった。と二人の男のせいにしてみる。
「分かってます」と一言、そっけない返事をした。
「……そう、いい子チャンでいられるのも癪なンだよなァ」
「え?」
呟くと同時に、ハンドルに片手をついて、キスを仕掛けてきた。襲いかかるような勢いだったくせに、予想外に優しく食まれる唇。無精髭が当たって少しだけ痛い。もっと、と望む手が白井さんのジャケットの胸のあたりにしがみつく。
なのに、解放された唇はかわいくない言葉を紡いだ。
「……何もしないって云った癖に」
「キス位くれよ、クリスマスなんだろ?」
しれっと甘い言葉を放つだなんて反則だ。イブは明日だもん、と云う屁理屈は口の中で立ち消えた。
「とりあえず、コレで我慢しといてやる。……行くぞ」
キスしたなんて嘘みたいにあっさりと車を出してもらった。
車が走り出してからは無言だった。
私は主に、赤い頬と早い鼓動をどうにか宥めようと必死だったから。白井さんの方がどう思っているかは、分からない。
先に口を開いたのは、白井さんの方だった。
「なあ、何で顔合わせの時、『お久しぶりです』って云った?」
私は、ああそれ覚えてくれていたんだと嬉しくなりながら、勿体ぶらずに答えた。
「私と白井さん、一〇年前にも顔を合わせたことがあるからです」
一〇年前、白井さんはもうプロのカメラマンとして雑誌で活躍していた。片や私はまだ、都内まで電車で一時間の郊外に住む高校生。自分が何になりたくて、何処へ向かえばいいのか分からないまま、ただ時が過ぎて行くことに焦っていた。
天気のいい日だった。ぽかぽかと云う音が本当にしそうな、初冬なのにあったかい日。
ふと、学校の最寄駅に向かって走る電車を、途中の駅で降りてみた。――あと何日かは欠席しても、推薦に響かない。そんな計算をする自分がちょっと嫌だなと思いながら、生まれて初めて学校をさぼることにした。電車でいつも見て通り過ぎるだけの公園に行ってみたいと思った。
まだ朝早い公園には、それでもたくさんの人と犬が来ていた。鳩もカラスも。私は日当たりのいいベンチに腰かけて、ぼーっと行き交う人や目の前の池に繋がれて浮かぶ、眠っているようなボートを見ていた。
売店でパンを、自販機でブラック無糖のコーヒーを買う。
ゆっくりと食べていたら、いつの間にか横にどっかりと座りこんだ人がこっちを見ていた。
「すっげー遅回しみてェに食うのな」
揶揄は含まれていなくて、単純に感心されていた。
「食べるの遅いんです」
なので、ムキになることもなくそのまま食べ続けた。
「しかもやたら旨そうだ、そのコロッケパン」
「そこの売店に売ってますよ」と教えてあげたら、その人はすぐに買いに行った。にこにこしながらパンとびんのコーヒー牛乳を手に戻ってきて、当たり前のように私の横にまた座り、ばりっと乱暴に袋を開けて齧りつく。スーツも着てないでこんな時間にこんなところにいるあたりマトモじゃなさそうな大人なのに、何で私は警戒しないでいるのだろうと不思議だった。
ん? と首を傾げるのがかわいらしいな、とさえ思った。
「思ったほどでもない」
「そうですか? おいしいですよ」
コロッケはまだ温かかったし、ソースのかかり具合は絶妙だった。
いや、とその人は首を振ってからまた大きくかぶりついた。
「アンタの食べ方が、旨そうだったんだな」
うん、と感心しながら食べ進めて、私よりも早く食べ終わった。そのままぽいとしそうな人なのに、ビニール袋はデッカイバッグの中にぐいと押し込まれていた。
「ジョシコーセーは、学校サボりか?」
「そうですよ、悩める仔羊なんです」
自分から云ってやった。それを笑ったり、嗤ったりせず、その人は池を見て云う。
「アンタらの年に悩んでない奴なんかいねェけどさ、それにしてもスゲェ目してたぞ。ギラギラしてた。思わず声掛ける位」
「目で人を殺せそうでした?」
冗談のつもりで聞いたのに、真面目な返事が来た。
「ああ」
「……大丈夫ですよ、私無気力だもん、そんな、人をどうこうするようなエネルギーないです」
「あるよ」
初めて会ったその人が断言する。
「思わず撮りてェって思っちまった。不審者扱い覚悟で」
「え」
こちらもようやく食べ終えてビニールを小さくたたんでいた手を止めてしまった。
「コレ」と、彼は傍らのデッカイバッグを叩く。
「カメラマンだ、一応。気になる奴に声掛けてその場で撮ってる。ギャラは出ねェ」
「いやらしいのでは、ない?」
一応そう聞いてみる。無気力でも危機管理は求められるから。
「ねェな。アンタがソレを望むなら撮らないでもないけど」
「遠慮します」
「だろうな」
即答には即答が返って来る。何だか、リズムが合う人だ。
ほれ、と名刺を渡された。
「アンタは名乗らなくっていい。連絡先もいらねェ。雑誌は毎月二三日の発売だ。今日撮れば来月のに載る予定。やっぱ載るのは勘弁て事なら連絡くれ」
そう云って、ユニセックスなライフスタイル誌の名を告げた。
「どうする?」
「やりたいです」
「ン、じゃ撮ろう」
座ってるのと立ってるのを撮った。撮りながら、取り留めもなく聞かれるままに、親や友達には話さないようなことも話した。
「アンタ、学校ではそつなくやれてそうなタイプだな」
「そうですね、空気読むとか社交とかばっかり、上手だと思いますよ」
「それは社会に出ても必要なスキルだ、磨いとけよ」
「……でもたまに、焦って『うわああ――――!』って叫びたくなる」
「無気力じゃねェじゃんちっとも。どれ、一つヒントをやろう」
「ヒント」
きょとんとしていたら、それも撮られた。
「好きな事を探せ。やりたいことをやれ。云っとくけど『自分探し』なンざ勧めてネェぞ。やりたくないことも仕事ならやれ。学校行ってまっとうに働いて、そン中で見つかるはずだ、アンタの満足出来る何かが」
お説教なんか大嫌いだ。いつもの自分なら反発して、『まっとうな職についていなさそうなアンタにそんな事云われたくない』とか云ってしまうパターンなのに、素直に聞いてしまう。
「まァ一生かかっても満足出来ないってパターンもあるけどな。でも、求めていることで歩める人生もある」
「……それ、体験談?」
「かもな」
乾いた嗤いを漏らしながら、鋭い目つきでファインダーを覗き込む、その人。
「満足してる?」
「まだだな、まだまだだ」
大人なのに酷く悔しげに云う。
「でも、今日みたいにいい素材でいい写真が撮れると、いつか満足出来るって気がするよ……まだ現像してねェから、いい写真てのはあくまで想像だけどな」
おしまい、と唐突にそれは終わって、その人はカメラをしまい始める。
「アンタが満足する日が来るのを、祈ってる。じゃあな、ジョシコーセー」
そう云って、まだ撮影の余韻でボーっとしている私を捨て置いてその人は去っていった。
冷え性でもないのに、体のどこかがいつも冷え冷えとしていた。なのに、何で今、指先まで熱いんだろう。
……あの人にもう一度会いたい。どうしたら会える?
名刺見て連絡取るのはハナから論外だ。私は遊びの相手をして欲しいんじゃない。
一対一で対等に見て欲しい、カメラがなくても私の事見て欲しい。
写真は興味すらないから無理だ。モデルさんになるのは体型が無理だ。なら、写真に携わる仕事は。編集者になるなり、ライターになるなり。
それは、私の進むべき道が決まった瞬間だった。導火線に火をつけたのは、白井さん。
『不機嫌なジョシコーセー』というタイトルの写真が、聞いた名前の雑誌に載っているのを聞いたとおり翌月の二三日に本屋さんで見つけた。
不機嫌な顔を隠さず、ちょっと煽る角度からカメラを睨みつけてる。普段は絶対やらないけど、両手をジャケットに突っこんで、足を開いて立って。知ってる人が見ても、きっと私とは思わない。いつもの私は、裏ピースでアヒル口で内股だったから。
ギャル雑誌でもなければ、女子高生が積極的に読む雑誌でもない。載ったことは誰にも云わずに、本屋さんで買い求めて、もらった名刺と一緒に大事に仕舞っておいた。
それからは、無我夢中だった。大学を卒業後ライターとして彼に会うまで、あの日から一〇年かかった。
白井さんが私を覚えているだなんて期待はしていなかった。なのに、その懐かしい変わらぬ姿に思わず「お久しぶりです」と云ってしまった。そして思いきり不審がられた。
「と、云う訳です」
長い長い話をしているうちに、私のマンションの駐車スペースまで着いてしまった。
白井さんは、はーっと長く息を吐いて、ハンドルに凭れた。
「……俺が、アンタの人生変えちゃったか」
「変えたんじゃない、導いてくれたんです」
「同じだよ、元ジョシコーセー。……アンタのこと、たまに思い出してたよ、元気にやってりゃあいいなって思ってた」
「顔、忘れたくせに」
「それは謝る」
くすくすと笑い合う。
「お詫びに、恋人になってくれます?」
「お詫び関係なく、なるンだって」
そう云いながらまた近づいてくる不埒な唇を、掌で受け止めた。惚れたと云ってもらえたし、一度きりにはならないと分かったから、安心して撤退出来る。
「じゃあ、続きは明後日。――おやすみなさい」
「しっかりしてンなあ、――おやすみ」
ちょっと悔しげに、白井さんが云う。
少し焦らすぐらい許して欲しい。こっちは不用意に火をつけられてからまた会えるまで一〇年かかったんだから。
ずっと好きだと云ったのは嘘ではないけど一途に思い続けていた訳じゃない。それなりに恋愛も経験してきた。
なのに、一八の私がまだ心にいて、この人が好きだ好きだと騒ぐから、二八の自分もその気になってしまった。
憧れだけじゃない。傍で見ていて、まっすぐで不器用で熱い、そんな白井さんに改めて魅かれた。幾度その猫背の背中に飛びつきたいと思ったことか。仕事のパートナーで大人の女としては、断固阻止したけれど。
それから二日後、ちゃんと恋人になって、存分に貪りあった。
事後、ベランダで柵に凭れて寒そうに煙草を吸う猫背の後ろ姿に、念願かなって飛びついたら「危ねェだろ、腰悪いんだからやめろ」と怒られてすごすごと退却した。
「ごめんなさい」
部屋の中に戻ってきた恵一さんに謝ると、「ンな可愛い顔されたら許すしかねェだろ」と髪の毛をぐしゃぐしゃにされた。
「けーいちさんのタラシ……」
悔し紛れにそう呟くと、「誑し込ンだのはお前だけだけどな」って笑われて、キスされた。ほら、またそうやって火をつけるからいつまでたっても消えない。
私と同じ位、夢中になって欲しい。ゆっくり、焦らすみたいに近付いてくる唇が待ちきれなくて、彼の後頭部を引き寄せた。
その後、無事出版された『王子だった男』と云うタイトルのドキュメンタリー本は話題となり異例の再販を重ね、私と恵一さん双方の代表作となった。これがきっかけで、この後いくつも二人でドキュメンタリー本を手掛けることになる。
一八の日に灯された火はまだ消えないどころか勢いが増している。これ以上煽らないで、と恵一さんにお願いしたい位。
まだ満足は掴めていない。精進あるのみ。
それは恵一さんも同じみたいで、未だに格闘しながら写真を撮っている。
ある晴れた、佳き日。
不意にレンズを向けられることにもいいかげん慣れたけど、今日くらいやめてくれてもいいのにと、花嫁控室でため息を吐く。私と恵一さんのお式は、三〇分後だ。
「もう、恵一さんも支度して下さいよ」
「ヤローの支度なンざこれで十分だろ」
肩を竦める恵一さんは、フロックコートがやけに似合っている。ああもうかっこいいったら。
「そんなに熱烈に見つめられるとココで挑みたくなるからやめてくれ」
「そんなつもりじゃありませんから。誤解です」
「ん? 俺のじゃ『満足』出来ないって?」
わざとそんな風に云う恵一さん。この神聖な場で云うとか信じられない。
珍しく無精髭のない顔をヴェール越しに睨みつける。それもすかさず撮られた。
「恵一さん?」
ゆっくりと区切るように低く呼べば、恵一さんはようやくやり過ぎたと分かったらしい。
「おお、コワ。ここは退却しとくか」
大げさに怖がって部屋を出て行きざまに、振り向いてもう一枚。予想していた通りで思わず笑ってしまったから、きっといい一枚に映っている筈だ。
――私、知ってる。
彼と仕事でも私生活でも高めあったそのずーっと先に、きっと満足があるってこと。
そこまで頑張って二人で、歩いて行きましょう?
だりィから車で行こうぜ、とか云われそうだけど。
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