王子と巨匠
カメラマン×ライター
※作中に一部BLを思わせるような表現がありますが、それを意図したものではありません。
『ピアノドルチェ』に関連していますが、未読でもお楽しみ戴けるかと思います。
ぎり、と禁煙パイポの吸い口を噛んだ。齧り過ぎて既に犬が噛むおもちゃのように歯形が付きまくっている。
俺が苛々をソレにぶつけているのがよく分かるのだろう、俺の隣で立っている黒沢と云う女が、「歯、欠けますよ」と前を向いたまま呟いた。「だな」と俺も同意して、もう味のしないそれを口から外す。
消音が施されたこの部屋は窓がないせいか、圧迫感を感じる。
ピリピリとした空気の中で暢気な会話を聞き咎められ、突っかかられてはたまらないので、自然俺たちの会話は小声だ。しかも、顔は現状を憂いているような表情を作り出して。
大人って云うのは素晴らしいねェと自画自賛。それにしても。
「顎、痛ェ」
無精髭のはびこる顎の関節当たりを撫でさすると、呆れた様にちらりと見られた。
「そりゃそうでしょう、折れるんじゃないかってほど噛み締めてましたからね」
「ありがとな黒沢、注意してくれて」
「どういたしまして、巨匠」
「やめろってソレ」
俺は心地の悪さを感じつつそのデカすぎる冠を拒否する。でもいつもこの女は、俺の脱いだその冠を受け取らずにまた被せようとするのだ。
「私にとっては憧れのカリスマフォトグラファーですから、白井恵一は」
「ンなこと云ってもなンも出ねェぞ」
この会話を交わすのも、これで何度目だろうか。云っとくけど世間様の俺の評価は黒沢のソレとイコールではない。
小器用に、アイドルも俳優もアスリートも撮るので色ンなとこから声を掛けてもらっているが、手がけた写真集がアイドルじゃなく俺の名前でバカ売れすることもない。密着ドキュメンタリー本の写真なんて添えモンだと思いつつも、今回この仕事を受けた。読者は本人の内面に深く迫る文章や、知られざるプライバシーを覗けることが嬉しいのだから。『俺の撮った写真』である必要性は、どこにもない。
俺の隣に立つ黒沢が、今回タッグを組んだライターだ。一緒に仕事をするのは初めてだが、向こうは俺のことをよく知っていたらしく、公式な顔合わせの前に共通の知人を介して呑みに行った時には「やっと、白井さんのいるところにまで来ました……!」と手をギリギリ握りしめながら感涙せんばかりに云われた。初対面の筈なのに何故か「お久しぶりです!」とも云われ、その時はなンだヤベェなこの女と慄き警戒したものだが、黒沢の仕事に取り組む姿勢は真摯で、読ませてもらったサンプルの文章も簡潔でありながら冷たくも押しつけがましくもなく、組むには良い相手だとすぐに分かった。
口から外したパイポをジャケットのポケットに突っ込み、俺はボソッと呟く。
「それにしてもよ、アイツはどこに行っちまったんだろうなァ」
ぼろぼろの俺のドクターマーチンの、傷付いて革が捲れたところに黒沢のヒールのつま先がこつんと当たる。
「アイツって云わないの」
「仕事を放棄するような奴ァ、アイツで十分だ」
黒沢はこっち側の考えなので、重ねての否定はしてこない。さっきのも、聞き咎められると厄介だから一応したって程度の注意だ。
「……どこに、行っちゃったんでしょうね」
俺たちが密着ドキュメンタリーを手掛けるその張本人が演奏することになっている、明日と明後日のコンサート――若手の新鋭ピアニスト、満を持しての日本凱旋――は、今危機的状況に晒されていると云って過言ではないだろう。
ピアニストが、このリハーサル室から何も告げずに姿を消して三時間が経っていた。
目をやった先では奴のマネージャーが誰彼となくしきりに頭を下げている。アイツに見せたいっつうの。
聞いた話じゃヨーロッパでは自由にのびのびと弾いていたらしいが、活動拠点を日本に移す為に久しぶりに帰ってみればその王子様みてェなルックスにマスコミが食いついてしまい、それにファンが食いついてしまい、本人の意志とは違う方向にアーティストとしての活動が進められているらしい。おそらく、本人はこの密着取材も歓迎していないのだろう。気弱な青年からは不服めいた言葉は何一つ聞かれなかったが、その目にはいつも戸惑いと不満が浮かんでいた。
今回の依頼主である出版社と奴の事務所サイドからは顔合わせ時に「カッコ良く撮ってくださいね、舞台裏の王子」と念を押された。はいはい、と頷いていたらそのうちの一人が「白井さん、いつもみたいな素っ気ないのはNGですからね?」と、じゃあなンで俺にオファー寄越したと云いたくなるようなことを笑って投げてきた。――ギャラと仕事の速さだって分かっていても、ムカつくモンはムカつく。
そんなに王子臭を出したいのなら写真を加工して箔押しでもしておけ、ついでにバラの香りもさせとけと口に出そうになってしまった。
その時それを留めてくれたのは黒沢だった。
「わかりました、任せて下さい」と一言告げて、俺を喫煙コーナーまで引っ張っていく。
「ほら、煙草吸って。ニコチンが足りてなくてイライラしてますよ」と煙草を吸わせ、どこかに消えたと思ったら吸い終わる頃「はい、これ飲んで」と好物の甘い缶コーヒーを渡された。
ベンチに横並びで座る。黒沢は無糖のブラックだ。渡された缶を両手で弄んで、「……悪ィ」と謝った。
「俺一人じゃなく、アンタと組むってのに、迷惑かけるとこだったな」
ついこの間初めて呑んだばかりなのに、こんな尻拭いまでさせて。かけるとこじゃなくもう迷惑かけてるじゃねェかと、苦い思いでそう告げると「いいです、ふざけんなって思いましたから、私も」と思わぬ返事が返ってきた。
え? と体ごと向き直り澄ましたその横顔を見ていたら、黒沢はいたずらっぽく笑った。
「だからね、二つ作りましょうよ、王子バージョンと、ちゃんとドキュメンタリーバージョン」
その心躍る申し出に、一も二もなく飛びついた。作業は倍になるが、この方が断然楽しい。――プロとして正しい姿勢ではない事は、重々承知だ。
王子バージョンでは、奴が語った言葉は美化され、美辞麗句がちりばめられており、俺の写真もアイドルかよってなモンだ。ちゃんとの方は、奴がヘタレで弱音を吐き、ピアノと格闘している様が黒沢の筆致で生生しく描かれている。写真も、思うように演奏出来ずに苛ついてふわふわな髪をかきむしってたり、楽譜を顔に乗せて椅子から崩れ落ちそうな格好で座っていたりと、等身大の情けない男に仕上がっている。
こっちの方がイイぜ、と俺たちは出す当てもないソレを見せ合い、褒め合った。
それも、奴がいればこそ。いなけりゃ何も生まれやしない。
この空白は、王子ドキュメンタリーじゃどういう扱いになるのか。王子、カフェで息抜き、か?
なすすべもないまま一旦休憩になった室内から、人がわらわらと出て行った。俺は、ほぼ無人の室内と、主のいないピアノにレンズを向ける。乾いたシャッター音だけが響いた。
「俺たちも、なンか食いに行こうぜ」と黒沢を誘う。
「そうですね、巨匠は何食べたいですか?」
「ソレよせ。外でも呼ぶな。……ラーメン食いてェな」
「いいですね、行きましょう」
大小のホールを有する文化センターを出て、近くのしょぼいラーメン屋に足を運んだ。
小汚い外見に反してうまかったラーメンで腹を満たした。俺の倍ほど時間をかけて食う黒沢を待ち、温まった体が冷えないようにと小走りでリハーサル室に戻ると、ちょっとした騒動が起きていた。
王子、帰還。
揶揄じゃなくそう云いたくなるほど、奴からオーラを感じた。それは黒沢も同じようだった。逃げ出す直前の、塩をぶっかけられて今にも消えちまいそうなナメクジみたいな奴じゃない。
俺と黒沢の後にもスタッフが帰ってきて全員が揃っても、誰もが無言だった。
しんとした空気を、奴の言葉が破った。
「ごめんなさい」
それは三〇男の謝罪の言葉じゃねェ――――!!!
反射的にツッコみそうになってしまった俺の上着を、心配そうに黒沢が引っ張る。大丈夫、大丈夫だ。黒沢にジェスチャーでそう示して、奴を見る。
「もう逃げないから、よろしくお願いします」
思いのほか力強い言葉と、目。いつもおどおどしていたのが別人みたいに。
ただ、ひょこんと頭を下げたその下手っぴいなお辞儀はそのままだった。
近付いて来たマネージャーを一瞥で制して、ピアノへ一歩一歩近づく。――お前、誰だよ。
その佇まいは、気弱な王子ではなく、一人の男だ。
すぐには座らず、犬を撫でるようにそっとピアノに手を添えている。
気が付いたら、近付いて写真を撮っていた。いつもならソレも一瞬少し迷惑そうにするのだが、シャッター音さえ聞こえないほど集中しているらしい。
ようやく座ったものの、なかなか弾き出さない。両手を組んで何かぶつぶつと呟いている――たのしく、たのしく、たのしくなあれ。
何だ? と思っているうちに、ソレは始まった。
かわいい顔して、これが本質かよ。
今までとは全く違う演奏だった。
自信と色気に満ちた音。力強いタッチ。云うことを聞かない女を宥めるように、甘く囁くようなタッチ。指が縺れても途切れない音とテンション。
弾きまくる奴の周りで俺はうろうろと写真を撮る。
まるで、フォトセッションをしているように興奮している。し過ぎて、ジーンズの下で反応しそうにさえ、なってる。
最後の一音が空気を震わせて消えると、奴が「ごめん、限界」と囁いて、ふらりと椅子から退いた。そのままずるずると滑り落ちるので、慌ててその手を引いて支えた。
マネージャーがミネラルウォーターを差し出すと、零れるのも構わずごくごくと呑み干す。気が付けば明日予定しているプログラムを一気に弾き通していた。
そのままマネージャーに奴を預けて、荷物置き場になっている一角の、長テーブルの下に座り込んでいた黒沢のところへ行って声を掛けた。
「すげェな」
「すごいです……」
上気した頬と潤んだ眼は、俺を見ていても奴の演奏のせいかと思うとむかっ腹が立った。と告げるのも癪で、思わず禁煙パイポを入れた胸ポケに手を伸ばした。
「巨匠、かっこよかったです」
禁煙パイポに触れた手が、止まった。
「……俺?」
「そうです、巨匠が、かっこよくって、色っぽくって、一緒に仕事しているだけで満足している筈なのに、こんなの伝えたら迷惑になるって分かってるのに私、もう止められません」
おいおい何云いだす、と慄きながら聞いていると、黒沢は色っぽく潤んだその瞳で俺をロックオンした。ロックオンされて、もう逃げられない。
「白井さん、好きです。ずっとずっと好きでした」
ソレの答えは、黒沢の目の前に膝をついて即座に返した。ビクッとされたって怯まねェぞ。
「こっちだってな、はじめにフォローしてもらった時にゃもう惚れてンだよ」
ショートカットの頭を冠のように両手でそっと抱えてキスをした。
誰も二人を見ちゃいない。皆あの男を囲み、喝采を送っている。
「いいコンサートになりそうだな」
唇を僅かに離して囁くと、今まで決して見ることのなかった女の顔した黒沢が云う。
「明後日のコンサートの後、二人でお祝いしませんか?」
「お祝い?」
何の祝いか分からないでいると、ため息を吐かれた。
「……白井さん、明日はイブで明後日はクリスマスですよ」
「そういやそうだな」
他人サマの誕生日を祝うだなんて、もう何年も御縁のないイベントだったので忘れていた。
「……もし迷惑でなかったら、一緒に過ごしませんか?」
「打ち上げも済む頃にゃ二六日だぜ?」
「分かってますよ。ただ、ちょっとでも一緒に過ごせたらいいなと思って」
照れながらの申告がかわいくて仕方ない。黒沢を思う気持ちからは蓋が外れて、もう隠す必要はないと知れると遠慮なくざぶざぶ溢れた。
「いいよ、明後日の夜はうちな。着替え持って来いよ」
言外に泊まりを示せば、真っ赤になって頷いた。その頭を撫でて立ち上がる。
「うし、じゃれるの終わり。働くぞ、奴に独占インタビューだ」
「はい」
俺の惚れた女は、その瞬間から仕事の相方に変身した。その切り替え具合がイイ。
若い女の好むものなンざ詳しくない。
とりあえず、彼女が仕事に使っているバッグのブランドの宝石部門に行って、何か身に着けるモノでも買ってくるとしよう。早起きをすれば寄り道してきても間に合う筈だ。――八時起きを世間様は早起きとは云わないらしいが。
早起き早起きと、明日最優先ですべきことを頭に叩き込み、再びカメラを手にした。
――振り向きざまに、油断していた黒沢を一枚撮って、何事もないようにピアニストの方へと向き直る。遅れて横に並んだ黒沢も何事もないようにしているが「もう」と小さなかわいい声を耳が拾って、頬が緩んだ。
怒ンなよ。こっちは久しぶりの恋愛で浮かれてンだ、見逃せ。打ち合わせのふりして真顔で囁いたら、黒沢はどんな顔をするだろうか。
まァ、どんな顔したってかわいいことに変わりはないけどな。
次の話に続きがあります。
13/12/11 誤字修正しました。