ピアノドルチェ
気弱な三〇男×もぎり嬢
クリスマス時期にクラシックのコンサートにお出かけって、なんだか大人っぽくて素敵だなあ。
私の目の前を通り過ぎてゆく、ふわふわゴージャスな毛皮の人や、仕立ての良いスーツの人たち。
コンサートホールの扉に立っている私は、コンサートが始まるまではチケットの半券を拝見して、お客様のお席に一番行き易い扉の番号をお伝えする係。開演後は、扉の外に立って、遅れていらしたお客様を内扉に待機している他のスタッフに託す。スタッフはお足元をペンライトで照らしてお席にご案内するのだけど、曲と曲の間でないと出入りを許可しないと云う演奏者の時にはお客様に事情を説明した後、勝手にお入りにならないようにしたり。日によってはクロークに立つことも、ホールの入口ゲートでチケットをもぎることもある。
ミーティングで聞いた今日の担当を、頭の中でおさらいした。
扉前対応が落ち着いたら、ホワイエ――ロビーのこと――を巡回する係。今まで一度も遭遇したことはないけれど、不審物があれば即通報することになっているので、念のため開演後のがらんとしたホワイエで、植木の陰やいすの下を覗き込んだりする。
今日は祝日のせいもあってか、早くいらしてゆったり楽しまれる方が多い。シャンパンも特別に販売されていて、ホワイエのあちらこちらで味わっている人たちの姿がある。……ぜいたくにおしゃれしているのにプラカップって云うのが味気ないけれど、いいなあ。
でも、私も楽しいもんね、このお仕事。と、楽しげな人たちに対抗してみたり。ネイビーブラックのシンプルなワンピースのユニフォームは、大人っぽくって大好き。
時給はさして高くもないものの、クラシックや歌舞伎公演を行うホールでのお仕事が多いから、やんちゃな若者も、困った酔客もいない。
今まで芸術関係はとんと疎かったけど、会場内の係の際に見聞きしたり、こうして扉の外でもモニターで演奏は楽しめるから、曲や演目にもちょっとだけ詳しくもなった。
場内では今一曲目が終わって、拍手が起きている。
さぁて、今日も気合いを入れて頑張ろうっと。
そう思って、まだ見ていないところを巡回しようと思ったその時。
一人のお客様が、いつのまにやらホワイエにぽつんと佇んでいた。
クラシックのコンサートに、くどいけどクリスマス時期の、お洒落な人の多いここに、汚れたスニーカーとくたくたの色の抜けたジーンズ、Pコートという大変にカジュアルな服装をした、三〇代前半くらいの男性。
ホワイエの真ん中に飾られているツリーをじっと眺めては、ため息を吐かれていた。
「お客様? どうされましたか?」
もしやまさかの不審者? と嫌な汗を背中に書きながら笑顔で応対する。
「お席に御案内致しますか?」
開演後によくある対応が求められるかな? と思いながら口に出した。するとその方は、茶色いふわふわの前髪を横に揺らして、「……今、もう出てきたところだから」と仰った。
「ご気分でもお悪いのですか?」
それか、急用でも出来たのか。なんせ、ピアノの演奏はつい二〇分前に始まったばかりだ。
いいや、とまた前髪が横に揺れる。
「……打ちのめされて」
ああ、この人も演奏する人なのかも。
チケットの半券を弄ぶその奇麗な指を見て、「ピアノ、弾かれるんですか?」と当てずっぽうで云ってみた。すると、目を丸くして驚かれたので、「まぐれです。思い付きで」と釈明すると、ほっとした様子を見せた。
うーん、不審者ではないと思うんだけど、じゃあって置き去りにも出来ない感じ。そう判断して、チケットを拝見するゲートで一人残っていたチーフ格の先輩に「ホワイエでお客様対応してますね」とお伝えしてからその人のところに戻った。
「打ちのめされたって、その……」
要は今日の演奏者さんが自分よりうまかった、ってことだよね。当たり前じゃん相手プロだよと内心つっこむ。
「……だんだん本番の日が近づいてきているのに思ったように指は動かなくて、焦って。今日のチケットをもらって、気分転換に聴きに来た筈がこのざまだ」
はは、と笑っているけど気持ちは泣いてるよね絶対。大の大人、しかも知らない人が泣いている時の対応なんかマニュアルに載ってないから困る。苦しみ紛れに「発表会でもあるのですか」と問えば、「……そんなものかな」と歯切れの悪い返事が返って来た。
そう云えば明日も、この大ホールに隣接する小ホールで、ピアノ教室の発表会がある。それに出る人とか、かな。
「それは、楽しみですね」
「……さっき云った通り。出来が悪くて、逃げたい気持ちだよ」
「いいじゃないですか、悪くったって」
私は笑って見せた。
「うちの甥っ子のピアノの発表会を夏に聴きに行ったんですけど、初めてのせいもあってつっかえつっかえ。だからって、文句を云う人なんかいませんでした。本人が一生懸命演奏しているのが伝わってきたから、終わった時には盛大な拍手まで戴いて」
私は甥っ子の雄姿に感激してスタンディングオベーションをしてしまった。そんなことしてる人は他にいなくて、恥ずかしそうな姉に、「もう、座ってよ」と小声で云われて我に返ったんだった。
「一生懸命か」
「ええ。それと、楽しんでいる演奏なら、聞いている方も楽しいです」
同じピアノ教室の、『トルコ行進曲』をノリノリで弾いていた女の子を思い出して云ってみた。
「難しいな」
困ったように笑うと、気弱で気難しい雰囲気が柔らかく変わった。
「発表会には、大切な人もいらっしゃるんですよね?」
「……そうかもね」
「だったら、その人の為に弾かれてみては?」
前述の甥っ子は、ママの為に俺は弾く! と息巻いていた。それにしても、さっきから大人の男の人に対して小一の甥っ子を引き合いに出してしまって申し訳ないけど、身近にピアノ弾きのサンプルがそれしかないので勘弁して欲しい。
差し出がましいことを云っているのも承知している。でも、何か云わないと塩を掛けられたナメクジみたいにどんどん小さくなって、この人消えちゃうんじゃないかと思うような風情だったのでこっちも必死だ。ここで世を儚まれるのは勘弁です。
「そうしたら、ちょっと楽しくなりませんか? それにもし自分の為に誰か演奏してくれるなら、夢みたいに嬉しいと思います」
そんな素敵なシチュエーション、私にもいつか訪れたらいいのに。って恋愛映画の見過ぎ。
「本当に?」
「ええ」
私の真意を探るみたいに、じっと目の奥を覗かれる。でも、覗かれたって隠してることなんてないもん。ほんとのことだから、負けじと笑顔で見つめ返した。
無言で見つめあう二人。先に目を逸らしたのは、彼の方だ。やった! 私勝ったよ! 謎の勝利感と満足感。
一度逸らされた目が、もう一度私に向けられた。さっきまでどんどん小っちゃくなっていた彼の眼の中の光が、きらん、て大きく光ったように見えて、それをダイレクトに見てしまった私の胸がどきんて高鳴った。はい、少女漫画の読み過ぎ。
何故か顔を赤くした彼が、ツリーの方にぐるっと体ごと向いたままぼそぼそと云う。
「じゃあ、僕は明日君の為に弾こう」
「え!」
正直、よく知らない人に弾かれても、とか、キモ、とか思ってしまった。
とは云えお客様だから無下にも出来ないし、……やっぱりちょっとは嬉しいんだ、『誰かが自分の為に弾いてくれる』っていうシチュエーションが。――恋愛小説の読み過ぎ。
あ、でも。
「さっき、大事な人がいらっしゃるって」
恋人さんがいるならその人の方が、相応しいでしょうが。
「気難しいおじいさん連中により、かわいい女の子一人の為に弾きたいんだ」
「……ありがとうございます」
今度は私が赤面する番だった。かわいい女の子、だって。そんなの云われたことないから、何度も何度も再生してしまう。そして、「あ」とガッカリすることを思い出す。
「どうしたの」
「私、明日もここでバイトなので、せっかく弾いて戴いても演奏、聴けません」
しゅーんと、尻尾が下がってしまった。明日と明後日は、ヨーロッパを拠点に活動している若手の新鋭ピアニストの凱旋公演があるんだそうだ。両日はクリスマスのせいもあって、入れる人を確保するのがちょっと大変そうだった。予定のない私は両日入るけども。
「君は、明日もここなんだ」
彼が確認するように云う。
「はい。……せめて、成功をお祈りしてますねっ」
「うん、頑張る」
私よりよっぽど大人な人なのに、子供みたいで可愛らしい決意表明だった。
「でも、緊張しそうだ。……なにか、魔法を掛けてくれない?」
「魔法ですか」
くすりと笑ってしまった。でもその人は大真面目な顔をして掛けられるのを待っている。
「……では」
こほんと咳払いをわざとらしくして、それからテキトー呪文を唱えてみた。
「楽しく、楽しく、楽しくなーあれ!」
がらんとしたホワイエで、こっそりと掛けた。
「……どうですか?」
やってはみたけど後から思い出したらアイタタタって云いたくなりそうだコレ。でも掛けられた本人は、満足げだからいっか。
「うん、なんだか気持ちが楽になったみたいだよ、ありがとう」
魔法が指先に宿ったみたいに、手を広げて見ながら、その人は笑顔になってくれた。
「どういたしまして」
「それじゃあ、僕はこれで。――相手をしてくれて、ありがとう」
ひょこんとあんまり上手じゃないお辞儀をされた。
「いいえ。明日、応援してますね」
お客様対応とは云えいつまでもおしゃべりは出来ないので、切り上げてくれてほっとしたけど、……ちょっとだけ、名残惜しいような気もした。
「うん。じゃあまた明日」
「?」
明日はここで仕事だってば。
不審者じゃなかった人はここから出て行くと、小ホールや会議室などが入った建物の方にまっすぐ歩いていく。ホワイエのガラス越しに見送っていたら、その長身の人は立ち止まり、こちらに大きく手を振ってきた。ほんと子供みたい、と笑いながら、こちらも白い手袋を嵌めた手を胸の前で小さく振り返した。
翌日のコンサート前のスタッフミーティングで、チーフ格の先輩から「あなたは扉前対応から、会場内一L一扉に変更」って急に告げられた。あんまりこんなことないんだけどな、って首を捻りつつ承諾すると、「上の上の上ーの方からのお達しらしいけど、何したの?」と、人差し指を上に向けたゼスチャー付きで苦笑された。
「何もしてませんよー」
ほんとに覚えがないので焦る。
「そう?まあ、クレームだったら外されてると思うから、あんまり気にしないで」
「はい」
それから全体への伝達に移ったので、私もそっちに気持ちがスイッチしていた。
若手の新鋭ピアニストはどうやら人気急上昇の人らしく、会場にはいつもより若い女性客の姿も多く見られた。
どんな演奏をする人なんだろう。仕事で聴かざるを得ない状況なので、出来れば知っている曲や、奇麗な曲だといいな。難解な曲は、正直云って苦手だ。
プログラムを見る機会はない(曲の間にご案内の時はペラで一枚配られるけど)ので、聴いてみてのお愉しみ。クラシック雑誌も読まないし、ホールへの入場も、関係者口からだから正面に掲げてあるポスターも見ることがなく、今日の人の顔も名前も知らない。
お客様を誘導して、お年を召した方が階段を歩かれる時は注意して見ているうちに、あっという間に開演五分前の一ベルが鳴る。開演中の注意事項を告げる影アナの声を聞いている間、あの人も今頃緊張しているかなあと思いを馳せる。――頑張って。
気弱なその人に、そっとエールを送った。
客電が落ちて、ライトがステージを照らす。演奏者登場。って、―――ええええええ???
そこで叫びださなかった私のプロ根性を褒めて欲しい。
ちょっと、アナタは隣の小ホールのピアノ発表会に出るんじゃなかったのっ!
燕尾服に身を包んだ別人のようなその人は、茶色いふわふわの前髪とひょろ長いシルエットで同じ人だって分かった。
舞台中央まで歩いてきて、一L一扉――舞台から一番近い一階の、舞台向かって左の扉――に素早く目をやって、そこに私がいるのを見て取ると少しだけ笑った、気がした。
ひょこんとあんまり上手じゃないあのお辞儀をして、ピアノに歩いて行ってそして。
「君の為に、弾いたよ」
本人から直接告げられたのは、コンサートが終わってお客様が完全にはけてからのこと。
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