この先も愛しましょう(☆)
「ハルショカ」内の「春先に逢いましょう」の二人の話です。
彼女にはかなわないな、という瞬間がたくさんある。
ブティックみたいなショコラティエのお店に並ぶ高級な一粒と、どこにでも手に入るロングセラーのチョコ菓子。君は、どっちかって云うと後者だ(と本人に告げたらめちゃくちゃ怒られそう)。もちろん俺には高級な一粒よりも素敵な存在だし、昔からあるチョコ菓子は大好物ってことを強調しておく。
そして大好物は、皆に好かれる存在でもある。
「怖いな」
「なにが?」
高いところも虫も全然怖くないじゃん誠二さん、と彼女はおかしそうに笑っている。云われた二つがまったく平気な訳じゃない。ただ、怖いことは怖いけど週末の登山で多少は慣れているから、ちょっとした高所も虫も、このあたりのものなら足が竦んで動けなくなってしまうような事態にはならないというだけ。
怖いのは、君が俺に愛想を尽くすことだ。
山登りや屋外での遊び、ランニング。俺の好きなものはそのまま彼女の苦手なもので、そういう人にはそれらの魅力をいくら語ったところで『ふーん、えらいね』と云われて終ってしまうことが多い。でも、彼女は違った。
沢で捕まえた魚を枝に刺して焼いて食べる、と云えば「ざんこく!」と笑いながら「でもおいしそう」とちょっと羨ましそうに感想が続いた。
「……嫌いじゃないの?」
「嫌いだよ、体力使うのも虫とか蛇とかいるとこも。でもなんか、聞いてると面白いんだよね」と彼女は目を輝かせた。
知人宅で、知った顔も知らない顔も入り混じってたクリスマスパーティー。その会場の片隅で共通の友人に引き合わされて、最初こそ『ですます』で話してた。でも、彼女が「そういうのなしにしよ。お互い友達の友達なんだし」と云ってくれたので、大人しくその流儀に従う。本当はもう少し『ですます』の距離派なのだけど頑なに拒むほどのことではないしと、着慣れたシャツを扱うくらいの雑さで話すと、彼女は肉をほおばりながらニッ! と笑ってくれたからこっちが正解と、それだけで嬉しくなった(我ながら単純だ)。
「見るからにフットワーク軽そうだけど、なんかしてる人?」
「ああ、春先以外は山行ったり体鍛えたりしてる」
「わーやっぱりー」
その口調が「わあ♡(媚び)」じゃなく、「わー(フラット)(低音)」+顰め面+鳥肌立った、みたいに自分の腕をごしごし、の合わせ技だったから、飲んでたサングリアを噴きそうになった。だったらわざわざ聞かなきゃいいのに。
苦手と明言していたくせ、彼女は俺の話に食いついてきた。もっとと請われて、この日初めて会った、おそらく自分とは一八〇度活動の方向性が合わなそうな人相手に、自分の遊びの話を披露しては、その報酬のように惜しみない笑顔を受け取った。
こういう場ではいつも今一つ楽しめない筈なのに、気が付けば自分も随分笑ってた。二時間経ったら帰ろうと思っていたのがもう少し、あと少しと延長を重ね続けて、気付けばずいぶんと居座ってしまった。さすがに、異性の知人宅――彼女にとっては親しい友人宅――に泊まりこむほど若くも厚顔でもないので、彼女ともっと話したかったな、と大いに後ろ髪を引かれつつ日が変わる前にその部屋を辞した。
なんか元気が出るモノください。
その場限りだろうと思いつつもしかして、という期待も捨てられないままお約束で交わした連絡先には、ラッキーなことに時折そんなメッセージが届く。
仕事が大変なのか、とか、元気出せよ、とか思いつつ、とっておきの山写真を送る。いつもより濃く見える空の青、いつもよりデカい雲(と虫)、コースを塞いでた大きな落石、ご主人と一緒に山登りしているわんこ、などなど。
レスポンスはいつもびっくりするほど素早くて、『いいなあ、山頂まで江の島みたくエスカレーターついてたらいいのに。そしたら私だって行けたのに。あ、虫いるから無理か……』だの『道を塞ぎまくってるその石をみて登山を諦めない心の強さを少し分けて欲しい』だの、やっぱりインドア丸出し。――でも、不思議と嫌な気持ちにはならない。それどころか、いつの間にか彼女の『なんか元気が出るモノください』を心待ちにさえしてた。
――この感じを、知っている。
自覚してしまったら、もう駄目だった。
自覚して間もなく届いた『元気が出るモノ』リクエストの返事に、初めて山画像ではなく『じゃあ何か元気が出るようなものを食いに行きましょう』と誘った。
返事はやっぱり駆け引きだの慎重に考えるだのが一切ない素早さで、『焼肉? ステーキ?』と肉っ気と食い気がたっぷり。思わず噴いた。そういやパーティーでもいい食いっぷりだった。
『どちらでも、会う日の気分で』と返せば、また『なんていい人なんだ!』とマンガ肉のスタンプ付きのコメントが速攻で返されて、ブレねえなあこの人、と感心しながらいつまでもおかしくてずっと笑ってた。
会ったその日の気分は『ステーキ♡』とのことだったので、目の前で焼いてもらえるお店に行った。一応異性の誘い――すぐにどうこうするつもりはもちろんなかったけど、あんなに肉まっしぐらでほいほい釣られてこられると、逆に心配になる――に応じてやってきた彼女は、それはもう実においしそうに、見ているこっちが気持ちいいほどよく食ってくれた。なんか、運気の上がるものを見せてもらった感じ。元気が欲しかった彼女より、むしろこっちが元気をもらった形だ。
以来、『なんか元気が出る画像』と『なんか元気が出る肉』で繋がってた。互いの都合で会えない時には『画像』、会える時には『肉』。
何とも思っていない異性と繰り返しサシで食事に行く趣味はないのでこっちとしてはデートにしたいけど、あっちはどうだろう。そもそも男として認識されてるのか。あの感じは下手したらただの肉友かも。そう思ってた矢先の何回目かの『肉』会合で、ほろ酔いの彼女は「連れてってくれるとこはいつもおいしいし、話は面白いし、誠二さんいいなあ。好き」と軽―くそう云ってくれた。
――その『好き』は、どう受け取ったらいいんだ。肉友としてなら『ありがとう』だけど。てか今日の肉会合の返事には『焼肉♡』とハートマークがついてたけど、今の言葉にはついてなかったよな多分。
と考えつつ、彼女の告白? の温度のあっさり具合に少しも気持ちが波立たなかった訳じゃなかったので、たいそう大人気なく返してしまった。
ワイングラス片手に、何でもないように「俺も」とそれだけ。すると彼女はチーズの盛り合わせの載った皿に伸ばしかけていた手を一瞬止めてから「またまたー」とチーズをつまみ、その一片を齧りつつ笑う。
「まあ俺は、真面目に好きなんだけど」
改めて釘を刺すと、分かりやすく困った顔になる。でもそれは拒否の色ではなかったから、さらに大きく踏み込んだ。
「迷惑?」
「いやいや全然!」
「夏南さんの云ってくれたのは、どういう意味の好き?」
「え、」
「両想いってことでいい?」
「うん? うーん……」
何故そこで考え込む。
「ちょっと待ってください……」
何故敬語。
そして何やら熟考に入ってしまった。
グラスの中身を空にして、新しくデキャンタから注いで、それを半分まで減らしてから、やっと返事があった。
「ていうことは、これはデートだね」
「……そう認識してもらえて嬉しいよ」
デートの相手は今、なんでだか頭抱えちゃってるけどね。
「ええー……? 誠二さん好きだけど、全然見込みナシだと思ってたから安心して好きでいられるっていうか、逆にアウトドアと山と走るのが好きな人とお付き合いとか無理だしなー……」
「……ちょっと待って夏南さん」
「ああごめん付き合うとか勝手に」
「いや、俺は是非付き合いたいけど」
「でも無理―山連れてかれたら絶対泣く! 別れるー! 運動もヤダー!」
「いやそういう無理強いはしないから! そのかわり週末は会えたり会えなかったりで寂しくさせちゃうかもだけど」
「えっそれなら全然いいよ、一人の時間があるのは大歓迎、むしろないと困る」
月の半分くらいは一人で遊んでねと云われて、逆に寂しかったり……。いや、いい。構わない。
それでも、なんとかお付き合いを漕ぎ出して、今日に至るのだから。
無理強いはしないけど、アウトドアが苦手な君を連れていけたら楽しいのに、と思う場所はたくさん。高い山じゃなくていい。ちょっとしたハイキングコースだって、素敵なものはいくらでもあるから。
山の沢水を沸かして飲むインスタントコーヒーがすごくおいしいことや、谷渡り練習中の鶯の声がたどたどしくてかわいいこと。実際に体験してもらえたら、きっとニッ! ってしてもらえると思うんだけど、まあ無理だろうな……。
彼女のレスポンスくらい素早く諦め、苦笑しながらこの日も色々と写真を撮っていたら。
「インドアの彼女なんてつまんなくない?」と、山仲間の一人にそんな風に云われた。――それに、自分でも驚くほどムッとした。多分ぜんぜん不快感を隠せてない。隠す気もないけど。
「つまらなくない」と返す声の、我ながら硬いこと。自分はいろんなことを上手に流せる方だと思ってたんだけど、どうやらそうでもないらしい。
口にしたのは気のいい男で、脳筋気味のそいつは何の気なしに云ったんだって頭では分かってる。悪い、と俺が口にすればいやこっちこそ、って云ってくれる準備は多分向こうもしてた。分かっていたけど、どうしても口を開けないまま謝るタイミングが流れていった。
つまらなくなんかない。――ただ、さみしいだけだ。
山登りの予定が入ると、日帰りの行程でなければ会えない週末、俺はいつも山へ行く。そして、補色が見えてきそうに続く暗緑色の世界を、いつもより近い雲を、写真に撮る。
恋人がいるのに変わらぬペースで山に来続けるのは、単純に好きだからだし、自分を抑えるためもある。俺は君を束縛しませんよ、ほら、こうして君と離れて遊びにだって行きますよと、誰に向かってか示したいような気持ちで。
花粉の季節でもないのに平地にいたら、俺は夏南を独占したいと思ってしまう。平日も休日もずっと一緒にいることを望んでしまう。彼女には彼女のペースや、やりたいことがある。どうしてそれを全て俺に向けてくれないのかと詰ってしまいそうな自分を少しずつ山へ持って行って、捨てる。
本当なら、花粉の時期も会いたくはなかった。みっともない姿を恋人に晒しては幻滅されるという一連の流れは、もうこりごりだったから。でも夏南は、そんな俺を見て呆れるどころか喜んだ。そして、嬉々として毎日面倒を見てくれた。以来、何かにつけて甘えてしまう。
一人で平気だったのにその心地よさを知ってしまった。そうしたらもう、知らなかった自分には戻れない。
結局、次の週末に行く筈だった山は、仲間――この間の脳筋気味とは別の奴――に断りの連絡を入れてまるまる二日こっちにいることにした。そして土曜の昼近く、メールで『今から行っていい?』とお伺いを立て、ほどなく返ってきた『いいよ』を携えて、彼女の部屋のドアをノックする。はーい、という声を聞いて、それだけで泣きたくなる自分が正直気持ち悪い。
がちゃ、と重々しく開いたドアと、ルームウェアですっぴんのまだ眠たそうな彼女が、約束していない休みの日に来るなんてと怒るより先に「どしたの? 山、行く日じゃなかった?」と心配してくれた。堪らず、玄関のドアの内側で、ぎゅっと彼女を抱きしめる。
「行かない」
「もしかしてスギだけじゃなくなんか他の花粉にもなっちゃった?」
「そうじゃないけど……今週はずっと夏南といたい」
そう云ったら喜んでくれるどころか「ええー……?」と予想通り戸惑われて、分かってはいたもののそれなりに凹んだ。それを、腕の中にいながら察知したのか「ヤな訳じゃないよ嬉しいよ、でも急に云われてちょっと困ったっていうか!」と一生懸命言い訳してくれた。しどろもどろ具合がかわいかったから、凹みもフラットに戻った(我ながら単純だ)。
部屋に通されて、俺専用に使わせてもらっているマグにコーヒーを注いでもらって、少し心が落ち着いた。
「ごめん、急に来て」
「んーん、会えて嬉しい」
とは云うもののやっぱり眠そうだったから、コーヒーを飲み干すと二人でベッドに入った。
「会えて嬉しいのはほんとだし、誠二さんが弱ってる時お世話出来るの楽しいけど、私は今くらいのペースがちょうどいいよ」
「うん」
「何かあったの?」
「……うん。ちょっと山の友達と、ぎくしゃくすることあって」
横になって目をつむってする話は、嘘がつけなくなるのはどうしてだろう。格好悪いから隠そうと思っていた自分は、眠そうな声と暖かい手にあっさりと懐柔された。
「怒ってる? 悲しんでる?」
「……両方かな」
「そっか。でも気が済んだら、また行きなよ」
その一言が、友人に背を向けた頑なな自分を、少しだけ押し戻してくれる。
「うん」
「早くお友達と仲直りするんだよ、誠二ー」
彼女お得意のお母さんモードでそう云ってくれたから、ようやく笑えた。
「私、誠二さんが送ってくれる山の写真、知ってると思うけど楽しみにしてるんだからね」
そんな風に甘やかさないでほしい。ますます抜け出せなくなる。
踏み込み過ぎた心の戻し方なんてきっと誰も知らない。戻りたくもない。でもそれが、君にとっても幸せかどうかは、俺には分からない。もしかしたら神様だって。
おでこをくっつける。鼻の先をつける。こうやって、コピーロボットみたいにして、伝えたい気持ちをすべて分かち合えたらいいのに。不安も愛情も嫉妬も、なにもかも。
「……好きだよ」
「私も!」
おそるおそるその言葉を口にすれば、君は軽やかに拾い上げてすぐに返してくれた。俺には絶対出来ないようなそのやり方が好きだ。
君みたいになりたい。雨雲が低く垂れこめる重たい空を難なくすいすい飛び回るツバメのような人。
でも同じように飛び回ることは出来ないから、俺はまた山に行く。君が楽しみだと云ってくれた写真を撮る。そのうち、脳筋にもちゃんと謝る。
雨降りの週末には君と肉を食いに行く。『ええー……?』って云われない頻度で構ってもらう。
それで、花粉の季節にはまたスペシャルに甘やかしてもらう。
そうやって、アウトドアな俺といつまでもインドアな君と、たまにはケンカもしながら、ずっとこんな風に居られたらいいなあなんて思うんだけど、どう思う?
「アウトドアと運動に私を巻き込まないって約束できるならね」
という確約をもらえたのは、旅行やデートにちょいちょい彼女の苦手分野を差しこんでみては『やっぱ無理!』と宣言されて、諦めがついてから。




