高い靴(後)(☆)
築森君と二人で会っている事は、ほどなく若菜と理子にも知られるところとなった。せっかくLINEも交換したというのに、築森君は相変わらずあたしに『今日も素敵だね! 好きだよ!』をわざわざ言いに来るし、約束のある日は『今日、また講義のあと正門のところで待ってるね!』もこちらの都合なんておかまいなしに直接伝えるから。
案の定、女三人での少し早めのクリスマス飲み会の場で、若菜は『興味津々だけど、あたしは麻友ちゃんのいやがることはしませんよー』というバレバレの態度のまま、「築森君とのお出掛けはどう?」なんて聞いてきた。そんなの、興味本位だけで聞かれてたら絶対に答えてあげたりしないけど、若菜はちゃんとあたしの事を考えてくれてると分かっているので、一応ちゃんと答える。ただし、普段は大人っぽく振る舞っている自分がお茶程度で心を揺さぶられてるなんて言いたくないし照れくさいから、「なんかいちいち初々しくって、調子狂う」なんて、つい苦い顔で返してしまう。
それを若菜も聞いているんだか聞いていないんだか、スマホを見ながら「ふうん」と生返事を寄越してきた。
でも、おっとりしているくせに案外引かない理子は、若菜が敢えてスルーしたこの話題を携えて、こちらへと踏みこんでくる。
「ねえ、立ち入ったこと聞くけど、麻友ちゃんてもしかして築森君とお付き合いしてるの?」
踏みこむくせにおずおずと聞いてくるので「そんなんじゃないけど」と笑う。
「じゃあ、……好き?」
それにはそんなんじゃないけど、と返す事は出来なくて、煙草で沈黙をかせいだ。――ごまかした。
好き? あたしが、あの子を? 冗談でしょう?
そう思うけど、気持ちが溢れっ放しのコックの止め方を、知らない。
あの子は、あたしをどう思ってるんだろう。あんな、真夏に咲き誇るヒマワリみたいな笑顔の好きだよは、今まで他の誰からももらった事がないからどう受け止めたらいいのか、皆目見当もつかない。
『好きだよ!』と言われるからにはすごく好かれている気もするし、ただ『かっこいい異性』として憧れられているだけな気もする。
でも、そうか。あたし、あの子の事が好きなのか。
それはもっと晴れやかな五月の空のようなイメージだったのに、まだうそ寒い花曇りの、つぼみの硬い桜の頃を思わせた。
混乱している。
混乱しながら、気持ちに名前が付いた事でいろいろと腑に落ちた。
会えると楽しい事。
会うだけなのは焦れてしまう事。
思い出すたびにずっと笑顔でいられる事。
それと分かった事が一つ、――小椋さんとのお付き合いを、おしまいにしなくちゃいけない時間がきた事。
恋人づきあいではなかったけれど、これだけ長く時間を共にしてきた男の人には、当然それなりの情がある。なので、電話やメッセージで一方的にお別れをするのはあまりに不実な気がして、『話したい事があるの』と彼の部屋ではなく外へ呼び出した。
大学と、彼の仕事場と、彼にとっては元のつく行きつけのバーは、さほど遠くない。待ち合わせも自然とそのあたりになった。連れ立って歩いて、築森君ともよく行く喫茶店へ入る。
オーダーを済ますと、小椋さんが「そっちから声をかけてくるなんて、ドカ雪でも降るんじゃないのか」と口火を切った。
「会って早々ひどい言い草ね」
「でもそうだろう。いつも、俺からだ。麻友は、俺の誘いを断りはしないけど自分から動く事もない」
「もしかして、今あたしは駄目出しされている?」
苦笑しながら返すと、テーブルの上の煙草ケースに伸ばした手を、上からぎゅっと包まれた。
なあに、と聞く筈の口は、思いのほか真剣なまなざしに射すくめられた。
「駄目出しにして、いいか? 君の男に俺はなれるのか?」
その言葉は、二人で取り決めた関係の終わりを示していた。――ただし、こちらとは正反対の方向から。
うっすら流されているクラシックのBGM。小椋さんのひんやりした手に包まれている自分の手を見つめながら、「……ごめんなさい」と口にした。
すると小椋さんは「そう言うと思ってた」とあっさり手をひっこめ、そのまま自分の煙草とライターを手に取る。カチン、と音を立ててライターの蓋を上げる。火をつける。深く吸い込んだ煙を、細く長く吐き出す。
こんな時にも、彼の目はやっぱり北の方の凪いだ海のようだった。
「君と別れるなんてな」
「あたしも、まだちょっとびっくりしてる」
「……ずっとこんな風に居られると思ってた」
「何よそれ、あたしに一生好きな人が出来ないっていいたいの?」
「自分と同類ならそうだった。その筈だった」
同類とは『あたしが小椋さんの同類なら好きな人なんて出来ない人間』で、その筈、が指しているのは『小椋さん自身にも、好きな人が出来てしまった』という事、なんだろう。
そしてそれは、あたしなんだろう。
大人のくせにこんな場面でも素直に好きとは口に出来ない人が、いつか次に誰かを好きになった時には、今度こそきちんと伝えられるようになるといい。
心から、そう願った。
店を出て、すぐに別れるのも名残惜しくて、二人でドアの前から壁側によけて並んで立ち話をした。
「うちに置いてある私物、どうする」
「送ってもらえると助かる。急いでないし、着払いで構わないから」
「いや、着じゃなく普通に送ると思うけど、分かった」
「真面目ねー……」
背中を向けて小さく笑っていたら、後ろから抱き止められた。
あたしに触れる時、いつもひんやりしていた指の温度を思い出す。その骨っぽさも。
抱き止める、けど抱き締めはしない臆病な人。
多分、魅かれてた。でなきゃ、身体だけでも付き合ったりしなかった。それでも。
「……俺の側にいてくれ」
「無理よ」
腰に巻き付いていた腕をそっと外す。真正面に向き返って見つめ合う。小椋さんの部屋の中だけでなく、外でハイヒールを履いていても見上げる、この首の角度も、これが最後だ。
「本当に好きな人が出来たから」
「俺よりも、いい男なのか」
「それはまだ未知数」
今はまだ、お茶しかしていない男の子。でも、誰もくれなかった言葉を花束にして渡してくれる。それだけだ。
もしかしたら、食べ方が汚いかもしれない。ものすごく嫌なやつかもしれない。
まあそれは、その時考える事。今はただ、自分もまっすぐ築森君を見つめてみたい。
「じゃあ、もうこうして会う事もないでしょうけど、お元気で」
「……薄情だな」
「そう思うなら好きなだけ詰って」
「うそだよ。……いい女だと思ってる」
「ありがとう」
お互いに情はあった。けれど、小椋さんのあたしの扱いは、最後まで『高い靴』のままだった。
もっと、ちゃんと触って欲しかった。触りながら遠ざけるようなやり方でなく。そうすれば、もしかしたら。――いいえ。
もしかしたらなんて、築森君に失礼だ。『そうだよ!』ってぷんぷん怒る彼を想像して、思わず笑っていたら、夢から覚めたような顔をした小椋さんが「……そうだった、麻友はまだ、若い子だったな」なんて言った。
「失礼ね!」
「いや、……君の事を俺は、年下の皮を被った大人みたいに思ってたから」
そう返されてハッとなる。
自らのルックスの引き立つ服を着て、都合の悪い事はよそいきの笑顔でかわして。そうして、ずっとやってきた。中身はちっとも大人じゃないくせに、大人のように振る舞って。でもそれももうおしまいだ。
まっすぐ見つめて、まっすぐに言葉をくれて。そんな人好きになっちゃったら、取り澄ましてなんかいられない。
「ありがとう」
今まで付き合ってくれてなのか何なのか、自分でも分からないまま、またそう口にすると、小椋さんはふ、と息を漏らすように笑った。
そして背を向けた後片手を一回だけ軽く振って、それが『さようなら』になった。
人にまぎれて見えなくなるまで見ていようと思ったけど、そうなる前に小椋さんはさっさと地下鉄の入口に消えた。まったく、最後まで彼らしい。
ありがとう。
いくつもの夜を共にした戦友のような男に、そっと心の中でお礼を呟いて、あたしも踵を返した。
さ、築森君に会わなくっちゃ。
そう思って、勇ましくヒールを鳴らしたところで、いま会いたいその子をさっそく発見した。ベタな恋愛映画みたいだけど、そういえば学校にも近いんだった。
はやる心をおさえて、ショートダッフル姿の築森君の方へ、わざとゆっくり歩く。そうだ、いつだって向こうから駆け寄ってもらってたから、自分から歩み寄るのはこれが初めて。
「こんにちは、築森君」
「……こんにちは」
やっぱりいつもの逆で、あたしから話しかけてみた。でも彼は笑顔になってくれず、言葉数もなんだか少ない。
「講義、今終ったところ?」
「……うん」
「今日はいつもの、言ってくれないの?」
ふざけたふりで聞くと、泣きそう顔でふわりと笑う。
「あんなにカンペキな大人の男の人をあんな風に見つめる女の子に、俺なんかもう何も言えないよ」
小椋さんとのさっきのところを目撃されていたと分かった。ハグも見られたかな。
「あのね、」
「いいよ、もう分かった」
「何がよ」
一方的に話を切り上げ、一人で先を行くスニーカーは、いつもよりうんと速い。あたしのヒールが焦ったように追いかけているのも聞こえているだろうに。二人で歩く時はいつもスローテンポだったから、のんびり歩く人なんだと思ってた。違うのね。
違うところも、ぜんぶ見せてよ。まだあたし、何も知らないじゃない。なのに。
「諦めるの?!」
あたしが声を張り上げると築森君はぴたりと歩みを止めた。その、振り向かない背中に届け、と思いながら言葉を放つ。
「あなた、あたしの事好きなんじゃなかったの! あれ、全部うそだったの!?」
「嘘じゃないよ!」
ぐるりと振り向いた築森君は、見た事ないくらい苦しげな顔をしてた。なのにあたしは、『あ、やっと顔見れた、目が合った』なんて喜んでる。
「……あの人と、付き合ってた」
目をそらさずに、誤魔化さないでそう言うと、傷付いた顔をする。ごめんね。
「でもさっき別れたの」
「え、」
「なんでって、聞いてくれないの?」
「……なん、で」
「築森君が好きだから」
「俺も」
被せるように築森君が言う。
「俺も、好きです」
「うん、知ってる」
「付き合ってもらえませんか」
「もちろん、喜んで」
当り前のようにそう返す流れだったのに、なぜか彼はきょとんとしている。
「ほんとに……?」
「なんで『ほんとに?』なの」
「だって俺、ただのとりえのない大学生だよ」
「あたしだってそうよ」
「麻友さんは違う。……麻友さんは、かっこよくてかわいい人だよ」
「どこがよ」
照れ隠しで笑うと、ようやく見慣れた笑顔が少しだけ戻ってきた。
「黙ってるとすごく大人っぽくて、早足でヒールで歩くとこは思わずぽーっと見とれちゃうくらいすごくかっこよくて、話す前からよく見てたよ。だから、麻友さんのかわいいところも俺、少しだけど知ってるつもり」
「――どこが?」
「熱いものを冷ましてから飲むところ」
「それは猫舌の人ならみんなそうよ」
「理子さんと若菜さんといると楽しそうにしてるところ」
「それは、理子と若菜だってそうよ」
「でも俺には、麻友さんが素敵に見えるよ。麻友さんがいるとこだけ、雨が止んでぱーって光が差してるみたいなんだ。目が離せなくて、でもこれ以上黙って見てたら自分が破裂しそうって思ったから、わーって走ってついうっかり声掛けちゃった」
「何それ」
そう返しながら、気を付けていないと泣いてしまいそうだった。
遠巻きに見てるだけじゃなく、ちゃんと近付いてくれた。話しかけてくれた。
あたしの事、高い靴じゃなく、一目ぼれしたスニーカーみたいに見つけて、駆け寄ってくれた。
並んで歩きだす。予告もなしにするりと手を繋いだら、全身ビッ! と一瞬硬直させてしまったけど、離してあげたりなんかしない。繋ぐだけでは飽き足らず、先制攻撃とばかりに指を絡めながら(また全身ビッ! とされたけどもちろん離さない)、「ねえ」と話しかけた。
「な、なにっ」
「そのうち、デートしてくれる?」
「いいの!? いつ行く? 今いく?」
そのがっつきっぷりに苦笑しながら、笑った。
「今はこれからバイトあるから駄目」
「じゃ、あとでLINEするね。どこ行く? 何したい?」
「スニーカーを買いたいの。あんまり詳しくないから、探すの手伝ってもらえる?」
「よろこんで!」
似合わないかも知れないけど、ハイヒールだけじゃなくスニーカーを履いてみたい。築森君の横を歩くなら(もちろん、今までどおりヒールも履くけど)。
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そうやって、とりあえず二人で歩き出してみよう。歩く先に何があるか分からなくても、彼となら何とかなりそうって思うから。
――まだまだ照れくさくて、人に聞かれればやっぱり『いちいち初々しくって、調子狂いっぱなし』なんて、つい苦い顔で返してしまうけど。
20/06/07 一部訂正しました。




