高い靴(前)(☆)
社会人×大学生×大学生
「クリスマスファイター!」内の「カウントダウン・ベイビー」及び「如月・弥生」内の「ノーカウントベイビー/掌」、及び「ハルショカ」内の「ハングオーバー・ダンディーズ」、
「ゆるり秋宵」内の「ゆっくりダイヤモンド」及び「逃げ出す小鳥」にそれぞれ関連していますが、未読でもお楽しみいただけると思います。
自分が、高い靴と同じように位置づけられているのは、嬉しい。
丁重に扱われるのは心地よい。着飾った姿を眺められるのも。
でもそれは、少し寂しくもある。
届かないものみたいに最初から遠ざけられずに、気さくに触れてくれたらいいのに。
「誰もあたしのことなんか、好きになってくれない……」
「ソンナコトナイヨー。ワカナハトッテモカワイイヨー」
珍しく若菜が面倒な酔っぱらいになった日、あたしはテキトーに相手をしてはさらに若菜を面倒くさくしてた。
元々悪い子じゃない。むしろいい子。自分の気持ちを見ないふりして、そのせいでマスターの気持ちさえ見えてないってのはどうかと思うけど。
カウンターの上に置いていたスマホが震えて、体の自由を奪われた人が逃げようとするみたいな動きで小刻みに移動する。
手に取る。相手を確認すると、マスターにまだうだうだしている若菜の相手をお願いしてドアの外へ出た。
「はい」
『俺。今家にいるんだけど、これから来れる?』
「一緒に飲んでる子次第だけど、まあ行けると思う」
『分かった、待ってる』
まだ一〇時前だっていうのに、心がしんとなる深い声。その人はいつだって、午前三時みたいな感じだ。声も表情もテンションも、キスも。
好きかといわれれば嫌いじゃないと答えるだろう。真剣に愛しているかと聞かれたら明確にノーと言える。そんな間柄。恋人よりはセフレと家族のハイブリッドのような。
でもきっと、向こうもそんな温度だ。付き合ってもう二年になるから、それくらいの間合いは分かる。
年齢の割にルックスは保たれていて、性格は一見温厚。だから自分以外に相手がいるかもしれないと思う事もあるけど、二股だなんて面倒な選択はしない人だと自分の中に見出した答えで即座に納得する。
お互い本気になれる人を見つけるまでは、暇つぶしに付き合おう。そんな風に交わした約束だった。
小椋さんとは、あたしが酒の味を覚えた頃、誰かに連れてこられたこのバーで出会って、年齢差をよそに、静かに意気投合した。
彼はここを贔屓にしていたらしいけれど、あたしが出入りするようになって『そういう仲』になると、徐々に足を運ぶ回数を減らし、そしてとうとう訪わなくなった。
言うなと口止めされたわけでもなく、ただ正式なお付き合いでもないのだし積極的に言いふらすものでもないだろうと、誰にも二人の関係を漏らしたりはしなかった。なのに。
『近頃、めっきり小椋さんが来なくなってて』
『――そう』
『なので、ボトルどうしたらいいか麻友ちゃんから聞いておいて』
『機会があればそうしておくけど』
あたしがあいまいに答えると、勘の鋭いマスターは静かに笑った。
そんなやりとりをした後、マスターは御執心の若菜が店にやってくると、節度をきっちり守りつつ親しみを隠しもしない態度(もはやあれは接客の域を越えている、というのが、あたしと常連ガイズの見解だ)で若菜つきっきりになったから、その様子を煙草一本分だけ眺めて常連さんの席へと移動した。
この店ではただひたすら無邪気に楽しむ常連さんの多くは、あたしやマスターより年上で、むしろ小椋さんに近い年齢。そんな彼らは終電を待たず、自分で線引きした時間でスッと立ち上がり帰っていくスキルを持っている。ここで、あたしや若菜にセクハラを働く事もないし、度を過ぎた飲み方をする事もない。年齢に見合った大人な人たちだ。悪ふざけはするものの。
彼らがぱらぱらと席を立ち、若菜もお手洗いに行くと、マスターはグラスを磨きながら当たり前のように『続き』を話しだした。
『あの人は、北の方の夏の海みたいだなと思うよ。水温はびっくりするほど低くて、でも一旦海に浸かった体は出るともっと寒いから、震えながら中にいる羽目になる』
いいとも悪いとも言わず、『確かに』と賛同した言葉をこちらから一つだけ投げて、今度こそそれでおしまいになった。
冷たい夏の海、午前三時。小椋さんを象徴するキーワードはどれも、どこか寂しい。
小椋さんの部屋から大学へ行くと、このところよくこちらに話しかけてくる男の子が、今日も犬のように駆け寄ってきた。ショートダッフルのフードについたもさもさのファーが、手入れされていない外飼いの毛みたいでかわいい。
「おはよう麻友さん、今日も素敵だね。好きだよ!」
「おはよう築森君、今日もありがとう」
特定のサークルや部活に属しておらず、キャンパスにおいてあたしは特定の男子とほぼ交流がない。さすがに同じゼミの人とはそれなりに話すけど、大学で友達づきあいと呼べるのは、新入生オリエンテーションで仲良くなった若菜と理子だけだ。後はあたしを遠巻きにチラチラ見て、目が合うとぱっと逸らす人が多いので、好かれているのか嫌われているのかは知らない。男も女も。
そんな中、まっすぐに声をかけてくるたった一人。それが築森君だ。
彼の『声掛け運動』はもはや理子にも若菜にも知られていて、「あ、築森君おはよー」「今日もごくろうさま!」なんて二人してカジュアルにねぎらうほど。それに対して彼も「理子さん若菜さんありがと!」なんて返してるし。
「……ねえ、何度も言うけどあたしなんかにちょっかい出してないで、他の子にした方がいいんじゃないの?」
呆れたようにため息交じりで言ったって、引くどころか築森君はにこっと笑うばかり。
「俺も何度も言うけど、あなたほど魅力的な人はここには他にいないからね!」
一限目を取っている人はさほど多くないとはいえ、構内を歩く人はそれなりに存在する。そんな中、校門を入ってすぐのあたりで声を隠さずにそんな暴言のような賛辞を口走ってしまえば、行き交う女子は皆じろりと彼をひと睨みしていくじゃないの。
「……もう少し空気を読む事を覚えて」
「それが本当に必要なことならね」
あっけらかんとして素直かと思いきや、ああ言えばこういう、一筋縄ではいかない子だ。
素直であけっぴろげで、きっとお友達は多いタイプ。彼の笑顔は場を和やかにするものだし。なのにどうしてあたしに。
「わっかんないなー……」
おじいちゃん先生の講義の間にそう呟くと、隣に座っていた理子が「え? 麻友ちゃんドイツ語得意なのに珍しい」とカンチガイな発言をしてきた。
そもそも、毎日話しかけられるに至るきっかけが思い当たらない。気が付いたら、挨拶を交わすようになってた。それも不思議だ。突然知らない男子に話しかけられたらものすごく警戒する筈なのに、あの犬っぽさに、さすがの自分も絆されてしまったみたい。
人の姿を見つければ、いつだって全力かつ一直線に走り寄ってきて、「おはよう!」をくれる人を、嫌いになれる人なんていないもの。
「おはよう!」はやがて「今日も素敵だね」がプラスされて、さらに「好きだよ!」さえ、加わった。
『ごめんなさいね、そういう風には見られないから』と最初に『好きだよ!』を言われた時、バッサリと切り捨てようとすれば『そりゃそうだよ、君は俺の事まだ知らないもん。だから』と、小学生の男の子みたいにニッと笑って。
『これから知ってもらえるように努力するので、どうするかはもう少し考えた後にしてください!』
――という訳で、切り捨ては叶わなくなって、今日に至るという訳。
キツめの顔立ち、強めのメイク、長身でなおかつハイヒール、なあたしに、ビビらないで毎日やってきて、野の花を集めたちいさな花束のような言葉を、笑顔で渡してくれる男の子。
言葉は枯れないから、彼に手渡されたそれは、心の中で少しずつ増え続けている。そのせいで、今日みたいになかなか遭遇できないと『どうしたのかな』なんて、そわそわしてしまう。そんなあたしの視界へ、見慣れたショートダッフル姿の男の子が不意に飛び込んできた。
「麻友さんごめんね! 寝坊して遅くなっちゃった! 今日も素敵だね! 好きだよ!」
お昼になってから寝癖だらけの頭で、カフェテリアへ息を切らしてやってきた築森君に「寝癖ぐらい直しなさいよ」なんて顰め面しながら、でもホッとして笑顔になっちゃってる。
そうか、あたしにとって築森君のこの『あいさつ』は、嬉しいものなのか。迷惑なんかじゃなく。――それどころかあたしは、知らないうちに楽しみにさえしていたみたいだ。
今まで、こんな風に直球で好意を伝えてくれる人はいなかった。
服やアクセサリーを贈られる事はあっても、容姿を褒められる事はあっても。『俺なんかじゃ中西さんに相手にしてもらえないし』と最初から遠ざけられる事はあっても。見ず知らずの人に愛人っぽいと勝手にジャッジされても。
『好きだよ』
そんなの初めてで、思わず動揺してバッサリ返したのだと、やっとわかった。
築森君が怯まずに毎日まいにち駆けてきて、もう半年くらい経つ。
息を切らして、走り回って、あたしを探してくれたのかな、寝癖だらけの頭のままで。ただ好意を伝えるためだけに。うちの学校、広いのにね。
――ありがとう、って思うのは、おかしい? いまさら? でも、もう少しおしゃべりしてみたくなったの。いつも伝えるだけ伝えると、つむじ風のようにいなくなってしまうから。
「……ねえ、今日もし時間があったら、お茶でもしない?」
年上の男の人にお酒に誘われるケースは数多く嗜んでいても、同世代の男の子をお茶に誘うなんて初めてで、あたしのくせに小声になった。でも築森君はそれを聞くとお座りするみたいにバッとその場でしゃがんで、テーブルにちょこんと両手を乗せて、お散歩待ちの犬状態だ。尻尾がないのがふしぎなくらい。
「いいの!? いつ行く? 今いく?」
そのがっつきっぷりに苦笑しながら、――ものすごくホッとしながら笑った。
「今はまだこれから講義あるから駄目」
「じゃ、それ終ってから行こうよ、ね!」
「ん」
「正門で待ち合わせでいい? てか、もし都合悪くなった時お知らせできないと困るから、連絡先交換してもいい?」
「いいわよ」
「やった――!!!」
大きな声でそう言うとその場でピョンピョンジャンプしたので、思わず「ステイ!」って命令してしまった。
『じゃあね、また後でね!』と築森君が名残惜しそうに立ち去ると、入れ替わりで理子と若菜がお昼を携えてやってきた。そして、若菜は「んん~?」と言いながら物凄い至近距離からあたしを見つめだした。
「麻友ちゃんなんかいいことあった? ちょっと笑ってる」
「……そう?」
「笑ってるって。ね、理子ちゃん」
「そう言われてみるとそうかも」
「なら、そうなんじゃない?」
わざとゆったりと笑ってみせると、二人は「やーねー、すーぐああやって、都合の悪いことは煙に巻こうとするんだから麻友ちゃんはー」「でもそれが様になっててかっこいいんだよねー!」「だめだよ理子ちゃん、それじゃイヤミにならない……」と小鳥のように身を寄せ合って囀る。
文句は言うけれどそれ以上しつこくつっこまない二人は、「レポートが終わんないよー、どうしよう」「ライブ行ってばっかだからだよ」「バーに入り浸ってる人に言われたくない!」とあっさり他の話題にスライドしていく。それを聞きながら、そんなに分かりやすいかなあたし、と窓ガラスに映る自分を眺めた。
初めて世界を見る人のような、ふしぎな目をしていた。
女子三人でのランチ兼おしゃべりも、午後の講義も、どこかふわふわしたまま過ごした。講義の後、図書館で調べ物をするという二人に別れを告げると、正門へ向かう。
築森君は門のところでスマホをいじったりゲームに勤しんだりせずに、ショートダッフルの上から背負ったリュックのベルトを、両手でぎゅっと握ったポーズで、校舎の方を向いて待っていた。そして、あたしの姿を見つけると一目散に駆け寄ってくる。目線の高さは同じか、ちょっと見下げるくらい。
「麻友さん!」
「おまたせ」
「ちっともだよ! どこ行く?」
「築森君はどこへ行きたい?」
「恥ずかしいけど、カフェとかあんまり知らないんだよね」
築森君はそう照れて、「だから麻友さんのお気に入りのお店があればそこに行きたいし、そこに俺を連れてきたくなければスマホで探そうと思って」とこれまた素直に発言した。
――駆け引きとか見栄を張るとか、一切ないのね。
でもその頼りなさが、ちっとも嫌じゃなかった。
「じゃ、こっち来て。ふるーいお店だけど」
「うん!」
先導するあたしの後ろを、築森君は跳ねるようにしてついてきた。
連れだった喫茶店は、一人の時によく来ている。おしゃれなところではないし、喫煙可で、一部の純喫茶好きを除けば女子に好かれそうなランチもSNS映えしそうなドリンクもないので、大学に近い割に静かだ。
あたしはブレンドを、築森君はクリームソーダを頼んだ。オーダーを取り終えた店主がいなくなると、築森君はこちらに身を乗り出して、小さな声で「ブラック?」と聞いてきた。
「そうよ」
「かっこいい! 想像通りだ」
「どういう想像?」
この子の頭の中で、あたしはどういう風になってるんだか。おかしくて問うと、築森君はうっとりと頬杖をついた。
「コーヒーはブラックで、でも猫舌で、ふうふう冷ましてから飲む感じ」
「……あたり。何でわかるの」
「学食で豚汁とかスープとか、いっつも時間置いてふうふうして飲んでるでしょ」
「よく見てるんだ」
ちょっと感心してしまった。そしたら、築森君は慌てて言い募った。
「ストーカーはしてないからね!」
「そうなの」
「ほんとだよ! 絶対絶対後つけたりゴミ漁ったりしてないよ!」
「はいはい」
「ねえそれ信じてないやつだよね!」
「ほら、クリームソーダ来たわよ、おいしそう」
「麻友さあん」
その情けない顔に、また笑った。
この子と一緒にいると、なんでだかいつも笑ってしまう。
「何か面白い事でもあったのか」
「どうして?」
「今、笑ってたから」
「……そう」
小椋さんの部屋でウイスキーをいただきながら、あたしは築森君の事を思い出してた。
彼はクリームソーダを飲み終えると『今日は楽しかった! ありがとう!』って言って、二軒目の打診もその後の予定を聞きだす事もせずにさっさと席を立った。え、そういうのアリなの、と思いながら、自分も席を立つ。
『あたしも、楽しかった』
お店を出てなるべく普通を装ってそう返すと、行きとは逆に先導して歩いていた築森君はぐるりと振り返って、一〇〇パーセントの笑みで『じゃあ、またお茶しよう!』と朗らかに言った。あたしも煙に巻いたりしないで『うん』とそのまま返事をした。
そんな事が妙に楽しくて、何度も思い出してたなんて。
「――ほら、また」
咎めるような声に、引き戻される。見れば、小椋さんは少し苛立った表情を浮かべていた。
「小椋さ、」
どうしたの、という問いは、いつもより乱暴な唇に塞がれた。
珍しい、と思いながら、絡んできた舌をこちらからも迎える。
その日は、激しい雨のような小椋さんに戸惑いながら、与えられるものをひたすら受け止めた。
翌朝、大学に行く支度をしていると、ベッドから「麻友、」と話しかけられた。
「何?」
「……いや、いい」
「? あたし、もう行くわね」
「ああ」
「じゃあ、また」
思わせぶりに聞いておいてうやむやにするなんてらしくない、と思って、その違和感はすぐに忘れた。
それから、何度かお茶をした。いつまで経っても二軒目を誘ってくれない築森君にじれてこちらから『この後、ご飯でもどう?』っていちどだけ聞いてみたけど、『そんなの心臓が破裂するからまだ無理!』という答えが大仰なリアクションと共に返ってきた。そしてその次の時からも、一軒分、お茶をするだけ。
いつになったら、心臓が破裂しないようになるのよ。
いつになったら、夜まで一緒にいられるのよ。
そんな不満を持っている自分に戸惑う。
なあにそれ。そんなのはまるで、
そこまで考えて、まさかね、と思う。
足元にまとわりついてくる人懐こい犬のような築森君と中学生みたいなお出かけをたまにしながら、小椋さんとの付き合いも、静かに潜航するように続いていた。キスもタイミングも角度もそれ以上も、すごくしっくりしていて心地よい。
でもなぜだろう、心にぽっかりと穴が開いているように感じてしまうのは。
20/08/17 一部訂正しました。




