とげとげマシュマロ(後)(☆)
翌日、出勤日にもかかわらず小早川さんは現れなかった。訝しみつつも私がそれを聞けずにいると、店長が「あいつはしばらく欠勤。大変だけど店は今いる面子で回してくぞ」と何でもない風に云う。
「……それって、いつまでですかー?」
「お前の身の振り方が決まるまでは」
「!」
辞めろ、と遠回しに云われているのだろうかと息を飲むと、「違う違う、辞めさせんならあいつだ、お前の意思は尊重するけど、柳井は出来ればうちに残って欲しい」と店長は慌てて云い募った。
「私、ですか?」
どうして? カットも何もかも、まだぜんぜんあの人より未熟なのに。
そう思ってたら、店長が笑う。
「技術なんてのは真面目にやってりゃ身に付くもんだろ。下手な奴が一生懸命やってれば応援したくなる。でも、半端な実力で奢ってたら、そいつはいつか誰にも髪を弄らせてもらえなくなるだろうな」
「……もしかして、小早川さんのこと、だったりします?」
聞くと、肩を竦めた。
「確かにあいつは上手くなったよ、でも客を選んで接客するようなとこがある。傲慢だよな、店には若い女の子だけじゃなくお年を召した方も、小さいお客さんもくるんだ」
確かに、小早川さんは『にこやかに接客するお客さん』と『そうでないお客さん』をゆるく線引きしているようなところがあって、自分たちがここで働くより前からこの店に通っているお客様には正直云って好かれていない。
「お前はへたっぴだけど、マッサージも話も上手だからな」
「でもそれはおばあちゃん子だったからってだけで……」
「それが出来てないからあいつは駄目なんだろ。おばあちゃん子でよかったな、まだ見込みのある下手だ」
「下手下手云わないでくださいよう!」
私がそう返すと、「よし、ちょっとは元気出たか」と私の肩をポンとして、店長が奥のスペースに消えていく。
……励ましてるつもりなんだろうか、あれ。不器用にも程がある。手先は素晴らしく器用なくせに。
でも、不器用なりに励ましてくれてるのはなんだか嬉しくてくすぐったかった。
嵐のように忙しかった数日が過ぎた。そしてある日のクローズのあと、バイトさんがいなくなってから「そろそろ返事聞かせてもらえるか」と店長に声を掛けられ、あれ以来はじめてやってきたオーナーも交えて面談をした。
オーナーまで出てきちゃったことに泣きそうになったけれど、その人はまず最初にがばっと頭を下げて、「今回は元が付くとは云え、身内の人間が迷惑をかけて、本当にすまないことをしました」と謝ってくれた。思いもよらなかったので、大いに慌てる。
「そんな、」
「弁護士を通じて、店や柳井さんに近付くことは今後一切禁止と通達しましたから、もう柳井さんがあの人と鉢合わせたり、嫌な思いをする事はありません。小早川君も、僕が個人でやってるサロンで一から鍛え直します。その上で、ここでの仕事を続けてもらうことは可能ですか?」
「……いいんでしょうか」
「もちろん。ただし、小早川君が『ちゃんと性根を入れ替えて、人並みに使えるようになった』と僕が判断したら、またこの店に戻しますが、それでも?」
それが半年後になるか二年後になるかは分からない。私の心が、それまでにあの人にされたことを忘れられるかも。
「……宜しくお願いします」
とげとげの心で、なんとかそれだけを返すことが出来た。
それからしばらくは、小早川さんの抜けた穴を、急遽入った新人さんと私と店長とバイトさんでなんとか毎日しのいでいた。目が回るほどの忙しさは、麻痺したい心にちょうど良かった。
新しい子が入っては抜けて、それを何度か繰り返していくうちに二年がたった。
半年前に入ったまいちゃんという女の子が気になって仕方ない、とダダモレの店長が微笑ましい。なんて思ってたら、当の本人はここしばらく私に何か云いたげにしては云わずに去る、というのを繰り返してて、そのためらい具合に『ああ、小早川さん戻って来るんだ』って分かった。
「大丈夫ですよー」
そう口にしても、信じてはもらえないけど。
「大丈夫でーす」
あの時の私は、もういないから。
四月一日が過ぎても継続してついていた嘘は、時間を掛けて本当のことになった。あの気持ちは、とっくに過去形だ。
魔法の解けたかぼちゃは、馬車には戻らない。心だってそれと同じ。
戻らない。
久しぶりの小早川さんは、傲慢さも分かりやすい表情もすべて削ぎ落した、大人の男の人になって帰ってきた。
ハサミ捌きやロットの巻き方なんかも当然上達していて、『ああ、オーナーに鍛えてもらっていいなあ』なんてのんきに思ったりもした。
あのことを知っているのは、店長と私と小早川さんだけ。知らんふりは前と同じで、心だけが大きく変わった。
ロットや薬液を手渡す時、手袋越しに互いの手に触れても、目を見て「サンキュ」と微笑まれても、前よりちゃんと同僚として仲良くなっても、驚くくらい心はしいんとしていた。
お客様の誰かが彼にご執心で、私なんかにいちいち探りを入れたり牽制してきたりしても。
皆でお酒を飲んでいて、福原ちゃんあたりから恋愛話になった時に「今はそういうの考えられないから」って彼が云ってても。
そのかわりと云っちゃあなんだけど、今の仕事モードの小早川さんのことは信用してる。信用出来ない人と小さな店の中でなんてやってられないしー。
でも恋はね。しないね。
こころはガッチガチのカタマリで、それが解ける気配は今のところみじんもない。
いつか誰かに解いてもらえたらいいねえ、なんて他人事モード。だって恋なんて別になくったって生きていけるって分かったしー。
……『恭ちゃん』より好きになれる人がいたら、もっと違かったかな。
ぜんぜんモテない訳じゃ、なかったんだけどね。
小早川さんが戻って来てから二年と少しが経って、あちらもこちらも大人になって、それでも誰にも動かなかった心。
意固地なのか麻痺してるのかは分かんない。それで困ってもないから、いいんじゃないかな。たまに、店長は心配して合コン話とか持ってきてくれるけどね。ほら、あの人のツテって美容師ばかりで、また同じようには傷付きたくはないから避けるよねえそこは。
とげとげの最奥。遠い、とおいとおい北の海の分厚い氷の下で、あの日の心は静かに眠ったままでいる。
だからどうしようもない。自分にも。
二号店の話が出た時、当然私は残留だと思ってた。だって、ひどいやり方で切れた元カノ? 元シモ? と敢えてまた組んでお店を回そうだなんて、どうかしてる。
なのに、なんでなのかな。贖罪のつもりなら迷惑だけどな。そう思いながら、どんどん話は進んでしまう。
聞けないまま、オープン前日を迎えた。
明日から二号店がはじまる。その前に、どういうつもりなのかちゃんと聞いておきたいと思った。
「小早川てんちょー」
まだ慣れないその呼び方で縺れそうになる舌。でも平気な顔して、にっこりと笑った。
「あのー、お時間あれば、ちょっとこのあといいですかー?」
翌日の開店準備を終えて、解散したあとに私がそう切り出すと、向こうも「ああ、俺もお前と話しておきたかったから」と返事が来て、真夜中までやっているカフェへと足を運んだ。てか、二人きりって久しぶり過ぎて困る。『ふわふわでバカな私と恭ちゃん』の時代を、思い出しちゃうから。
――思い出したって、別にそれだけだ。云うこと云ってさっさと帰ろう。
「どういうつもりなんですかあ? わざわざ元シモ担当の私を二号店のメンバーにするって、ずいぶんリスキーだと思いますけどー」
オーダーしたコーヒーがやってきた途端、一息でこちらから核心に触れた。すると、小早川さんは苦く笑う。
「リスキーなのは承知の上だ。でも、新天地で新しい顧客を掴むにはお前の技術と話術がどうしても必要だったからな」
「ああ、小早川さん相変わらずおばあちゃんとちびっ子苦手ですもんねえ」
「……だいぶ克服したつもりなんだが、まあそうだな」
プライド高いくせに素直に認めたからちょっと驚いた。
「話術だけじゃなく、柳井はオールマイティにこなす。だから、店長が手放すの最後まで渋ってたよ。まあ、渋ってた理由はそれだけじゃないけどな」
「……はあ」
そりゃそうでしょうよ。
淡々と受け止めていたら突然、小早川さんが私に向かって静かに頭を下げた。
「……なんですか。やめてください」
声が、知らずに尖る。でも、彼の頭は上がらないままだ。
「悪かった。謝っても、謝りきれない。あの時自分がしたことは、弁明のしようもない。お前に顔向け出来ないことしておいて、俺は逃げた」
「別に、もういいです終わったことですし」
私のその言葉で、彼が頭をゆっくりと上げる。そして。
「俺は、まだ終わってない」
「……」
「店長にぶん殴られて、まずオーナーの元奥さんを恨んだ。『あのバカ女』って。それから、お前を詰った。『なんであいつが残って、俺が飛ばされるんだ、こんなの理不尽だ』って。……どうしようもないよ。最低だ」
「……」
「あの頃、とにかくてっとり早くスタイリストになるためには努力だけじゃだめだと思いこんでた。何でも踏み台にして、何でも使ってやろうって。それで、オーナーの元奥さんを利用するつもりで自分から近付いた。この店を辞めて、彼女が新しく出す店でスタイリストにしてもらおうなんて、甘すぎるよな。そのくせ、彼女に云ってた『抱かない理由』は嘘で、あの時付き合ってたお前が、俺には正真正銘の恋人だった。って、二股しておいて何云ってるって自分でも呆れるけど」
そんな理由で、っていうやりきれない思いと、当時ちゃんと好きでいてもらえてたことへの安堵と、思ってたより幼稚でエゴ丸出しな『恭ちゃん』に、頭が混乱してしまう。
大体、この話の向かう先はどこなの。
「オーナーの店で修業させてもらって、今となっては本当にありがたい経験だったって云えるけど、当時は毎日『今日こそ辞めてやる』と思うほどキツかった。けどある時『今、柳井は何倍もつらいだろうな』って気付かされた。それからは、自分が折れてしまいそうになるたび思うようになった。――こうなるまで俺は、自分の勝手な振る舞いで傷つけた人の心の痛みを想像する事も出来なかった」
「もう、いいです」
私がそう切り上げようとしても、小早川さんは話をやめない。
「プライドばっかり肥大してて、自分が思い上がってたって認めるのに随分時間がかかった。辞めて、柳井が知らない場所で生きた方がいいとも思ったけど、オーナーに『それは君が楽になるだけです』って云われて、……またいつか、今度はちゃんと一人前になってから、お前に堂々と会いに行きたかった。俺をここまで成長させてくれたのは、柳井だ」
「……いまさら」
「そうだな、今更だ」
私が、靴の中の砂つぶみたいなざらざらの気持ちのまま呟いても、小早川さんは静かな目をしたまま柔らかく拾ってしまう。
「俺はお前から奪うばかりで、何も与えてやれなかった。そんなバカな男、見限って当然だ。あの時のお前は何一つ悪くない。それだけ伝えたくて」
「……俺を許してくれとか、そう云うことじゃないんですか?」
思わず聞くと、彼はカップを傾けながらふっと笑った。
「許さなくていい。そのかわり、またいつか、俺を男として見てくれ」
「無理です」
即答した。
「あの頃の私は、恋と一緒に終わったんです。今いる私は何もかも違ってるから、あの時と一緒にされたら迷惑です」
「それなら、なおさら見て欲しい。チャンスを、もらえないか」
「そんなの、あげません。悪ふざけならやめてくださいねー」
「ふざけてない」
「……」
「また一緒に仕事出来て、やっぱり柳井を好きになったんだけど、そんなのは理由にならない?」
「信じらんないそんなの」
自分でもぞっとするほど冷たい口調で切り捨てた。なのに。
「……なら、惚れさせるまでだ」
「は?!」
伝票を人差し指と中指で挟んで、彼が優雅に黒く笑う。
「俺がお前を落とすのと、お前が俺に告白するのと、どっちが早いかな」
「両方ないから!」
クソ迷惑だ、クソ上司!
ああ、そうだった、こういう人だった。少々のことでは折れない自信家で、困難は障害にならない、なんて嘯いてた。まさか未だにその気質だなんて。
でもまあ、私がちゃんと戦力として認められてるのは分かったし、彼は過去を反省してるって分かったし、今もまだ私を……
は? そんなのどうでもいい、ありえない。
とげとげしていたいのに、なぜかへたってしまう。しっかりしてよ、こんな言葉でどうにかなっちゃわないでよ私。笑うな小早川むかつく。
「いい店にしような、希実」
「いいお店にはしたいんで馴れ馴れしくしないでください」
困る。釘刺すつもりだったのに、開き直られるなんて。
『許したい』と『許したくない』でぐらぐら揺れる天秤。この先、とげとげがすっかり丸くなっちゃったら、どうなるの?
それを認めるのはまだまだ悔しいから、とりあえず何年かはただの『小早川店長』と『柳井副店長』でいることにする。
それからのことは、それから考える。
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