差す光
トレーナー×実業団ランナー
今年のインターハイの三〇〇〇mでケニアからの留学生に次いで二位を記録した子が、高校卒業後うちの実業団に入ってくることになった。
そのニュースをテレビで見て、彼女と同じ中・長距離選手である私の心は冷静に判断を下した。――三月いっぱいで私、クビか。このご時勢、余力のあるチームなんてない。一人入るなら一人出ないと、つじつまが合わない。まだ誰からも何も告げられていないと云うのに、私の心はすでにそうと決まったような気持ちになっていた。
ちょうど潮時だよ。タイムも伸び悩んでいたし。大会で目立った活躍も出来ていないし。中学一年からずっと、走って走って走り続けて、もう足も腰も悲鳴を上げている。いいトレーナーがいるから頑張れたけど。
もう、無理だ。
なら、自分から、ちゃんと云おう。
――クビになる前に云いたいのは、私のくだらないプライドだって分かってる。
「やめる」
優秀なトレーナー兼恋人の亨ちゃんに告げたら、ただ一言「そうか」と返してくれた。
私が一度云ったことは決して撤回しないこと、長年付き合っている恋人とは云え人の意見を聞いて自分の意見を翻したりもしないこと、――怪我から復帰はしたものの、タイムは伸び悩み以前のような勝負勘が一向に戻ってこないこと、自分の置かれている立場を充分に理解して、ヤケになってとっさに云ったのではないこと――。そのすべてを飲み込んだ上で、静かに受け止めてくれた。そのことに、深く感謝した。
チームの和を乱したり、逆にチームの運営の妨げにならないよう、チームメイトや監督に告げる時期は亨ちゃんと二人で慎重に見極めようと云う話になった。でも多分、高校を卒業してからもう一〇年もここでお世話になっているから、監督もコーチも食堂のおばちゃんまでも私の気持ちなんてお見通しだろうと思う。その人達に、碌に恩返しも出来ないままチームを去ることだけが、辛い。
十二月、ひときわ明るい声がグラウンドに弾けた。
来年度新しく入ることになった、鳥居薫子ちゃんだ。雅な名前を裏切らず、肩甲骨まであるストレートの黒髪にお人形のような顔立ち、にもかかわらず、明るく元気な女の子。ポンポン弾むポップコーンみたいな口調も、ひたむきに走る姿も、何もかもかわいくって仕方がない。みんなもそうなのだろう。冬休みを利用して、大学生も交えた合同練習にやって来たこの子はすぐにチームに馴染んで、もう皆の愛すべき末っ子だ。それは私にとってもそうで、本来なら自分を椅子取りゲームからはじく憎むべき存在なのかもしれないけれど、不思議とそんな気持ちにはならず、一人っ子だけど妹っていたらこんな感じかなあ、なんてストレッチを一緒にやりながら思ったりもした。
伸びやかな体に似つかわしい伸びやかな走法。プレッシャーってあんまり感じないんです、とケロリと云ってのけるように、ここに来てまたタイムが上がる。
彼女はいつも走っている。朝も、練習のあとも。あまり走ると疲労骨折するからやめろと監督に叱られ、すいませーんと、ちっともそう思ってないだろって皆が心で突っ込むようなぞんざいな謝り方をしているのを見て、懐かしく思う。
自分も、そうだった。
苦しいのに、走るのが大好きだった。重たい身体が、徐々に温まり回転数が上がったところでいきなりギアが切り替わり、足が勝手に走り出す。わくわくする気持ちと、土の匂い。頭の中では好きな音楽を鳴らしているのに、常に風を切る音がぼうぼうと聞こえる。
ドキドキしながら、足の速い子ではなく、走る人間という生き方を選んで一歩を踏み出した、春。
夏合宿の、朝四時に見た大きな太陽。
秋になると、管理人のおじちゃんが掃いても掃いても近隣の学校の欅から飛んでくる大きな葉っぱを、わざと踏んで歩いた、寮への帰り道。
脇道の霜や、水たまりに張った氷を踏んでグラウンドに向かう冬の遅い朝。
大会で活躍した友人を祝いつつ、心の中では次こそ自分が、とじりじり炎を燃やしていた祝賀会。
すっかり遠く思っていたそれが、薫子ちゃんを見て鮮やかに生き返った。
いつから、見失っていたんだろう、こんなたいせつなもの。
これがなかったら、走っていても苦しいだけで仕方がないじゃないか。事実、このところは苦しくて苦しくて仕方がなかった。実業団にいてサポートを受け、お給料を戴いているのだからタイムを気にするのは当然だけど、だからと云って楽しい気持ちまで失くす必要なんて、一体どこにあったのだろう。
神様がいるならば祈りたい。
せっかく、走る身体にしてくださったのに、不貞腐れてばかりいてすみません。今の私じゃ、走る資格なんてないかもしれません。
でもどうか、ラストランだけは。
大きな大会がなくても、記録会やら地方のイベントやら小学校での啓蒙活動など、実業団に所属しているアスリートは案外忙しい。もちろん、練習しつつ仕事だってきちんとする。おかげでパソコンの使い方や社会人としての常識など、トラックの中だけにいては身に付かないことを会社に教えてもらった。有難いことだ。
この先自分が何を出来るか、引退したあとマトモに就職できるのか、なんてちっとも分からずに、ただ不安ばかりが雨雲のようにたちこめる。でも走っていたことに対して後悔することだけは、決してない。
走らない人生を選んだとしても、走ることは自分にとって一生宝物なんだろうと思う。
合同練習が終わり、大学や高校から来ていたビジター参加の子たちも、それぞれの所属へと帰って行く日の朝。
「円佳さーん!」
薫子ちゃんが、タックルするみたいに抱きついてきた。よろめく私を少し離れたところから見ていた亨ちゃんが心配してたので笑ってみせた。大丈夫、腰にはきてない。
「メール、します」
「うん」
「がんばります」
「うん」
「来年、憧れの円佳さんと同じチームで一緒に走れるの、楽しみにしてます」
「――」
うん、とは云えなかった。初めて聞いたぞなんだその憧れとか。
春にここ来て私がいなかったら、がっかりするかな。そう思ったら何も云えなくて、ぽん、ぽんと背中を叩いた。
お客さんがいなくなると、トラックにいつものメンバーがそろっていてもなんだか静かで寂しいような気持ちになる。この日は監督も、「薫子がいないと、静かだな」と苦笑していた。
静かな気持ちで、レース前のように集中した。
今日。今日で、終わりにしよう。
実際には、監督とコーチに伝えて、それから会社にも伝えてもすぐに引退とはならず、先輩たちと同じようにきりのいいところまでもう少しは居られると思う。でも、自分の中では今日が区切りの日だと決めた。
入念にストレッチをして、流す。練習を一つ一つ丁寧にこなす。故障していた時期以外に練習を休んだことなど一度もないせいか、今日でやめると決めているのに自分のコンディションはとてもいいみたいだ。練習とはいえタイムもまあまあな線を叩き出した。
自分のこの日のピークを、夕方の練習後に合わせて調整したことは、亨ちゃん以外には内緒だ。
「もう少し残ります」
合同練習のお疲れ飲み会をしないかと声を掛けられたけど、さらっと断った。
それをなんで、とかチームメイトは突っ込まずに、「ん、じゃあもし来れたらおいで」と軽く云ってくれたのがありがたい。
ラストランは一番好きな五〇〇〇m。亨ちゃんに見てもらうことにした。わがままに付き合ってもらっていいかと聞いたら、「声掛けてもらわなかったらこっちからお願いしてた」と云ってくれた。
グラウンドを、トラックに沿って歩く。感謝の気持ちを、照明や用具入れに告げて回る。心の中には色んな気持ちがある。どうしてあんな怪我をしてしまったのか、とか、ぱっとしない選手人生だったな、とか。
でもそれよりも今はただ静かに、その時を待っている。
スタートラインに着く。トラックの中にいる亨ちゃんに目をやると、軽く頷かれた。
カウントを取って、亨ちゃんはストップウォッチを、私は腕時計に目と手をやり、そして走り出す。
ぎしぎし痛むかと思っていた腰は、故障なんかしたっけ、と思うくらい不思議と今日は痛まないでくれた。
懐かしく思っていた感覚が、蘇る。勝手に前へ走り出す足が久しぶりに軽い。嬉しくて、夢中になって右足と左足を走らせる。腕を振る。呼吸を足に合わせる。
息が苦しくなって、それから走るための呼吸に切り替わる。息づかいは苦しく聞こえるけどそうでもない。
何だこれ―。楽しい。楽しいよ。楽しいの!
亨ちゃんに云って聞かせたい。でも今は正しいフォームで、前だけを向いて走る。
こんなの初めてかもしれない、走るためのすべてのパーツがピタリと嵌っているのが分かる。後半失速してしまうことになる無茶なオーバーペースじゃなくて、いい感じのハイペースだって分かる。
こんな走りが、まだ出来たんだ。心が折れてもまだ私の走りは続いているんだ。
そうだ、練習量と質なら誰にだって負けたりしない。それだけは誇れる。練習でしか積めないものを、私はたくさん積んできたんだから。今まで霞んで見えていなかったそれが、ようやく見えた。
優れた筋力やバネを持って生まれた人は、確かに存在する。喉から手が出る程、悪魔に魂売ってでも手に入れたかったそれ。
でも、努力でしか身に付かないものだって、ちゃんとここにあった。
マラソン大会でゴールした時みたいに、テープを切る気持ちでゴールラインを通過した。そのまま、クーリングダウンのためにゆっくりとジョギングしながらトラックをさらにもう二周。
時計なんか見なくったって分かる。上がる息のまま亨ちゃんのところへ戻れば、いつも静かで冷静な人なのに珍しく興奮した態で「円佳、新記録!」と告げた。
「やった!」
二人でハイタッチをして、そのまま手を絡め会う。ぐっと屈んだ亨ちゃんが、私のおでこにキスをくれる。それから身長一五三センチの私を包むように、一八〇センチの亨ちゃんがかぶさってきた。汗臭くなるよって云ったら、別に平気と即座に返される。
息が落ち着き、汗が引いても、そのままでいた。走っている間に、劇的に変わってしまった気持ちを打ち明ける。
「亨ちゃん」
「ん?」
「すっごい楽しかった」
「うん、円佳にこにこしながら走ってたな」
「私ね、」
「うん」
「――辞めたく、ない」
辞めない、じゃなく辞めたくない、なのは、いくら私がそう望んだところで、チームに残留できるかどうかは上層部が決めることだからだ。でも。
「まだ、走りたいよ……!」
「知ってる」
云いながらだーだー泣いた。亨ちゃんも、少しだけ泣いた。
「俺、お前の走ってる姿が好きだ」
「――うん」
「チームにもし居られなくなっても、走れよ。俺に出来ることなら何でもフォローするから」
「うん、……ありがとう」
それと、ごめん。本当は、このタイミングでプロポーズされてた筈だ。
競技を辞めたら、温泉とか旅行とか行こう。今まで後回しにしていた恋人との時間をたくさんとろう。そう話してた。ここに贈りたいから指輪のサイズ教えてって、左手の薬指を撫でられながら亨ちゃんに告げられて、赤い顔して頷いたのは一週間前のこと。
それを、延ばすんだ。
わがままでごめんなさい。走っている私を好きと云ってくれて、ありがとう。
いつか本当に競技を辞めたら、今度は私が亨ちゃんを奥さんとして支えるから。
固く誓いながら、グラウンドの真ん中でいつまでも抱き締めあった。
――だったら、かっこよかったんだけど。
実際のところは、夜八時以降の練習は禁止されているので、タイマーで切れて照明が設定どおり灯りを落としたところで慌ててロッカーに戻り、それからストレッチとマッサージを施してもらい、シャワーを浴びて、チームメイトの飲み会に参加した次第だ。
皆が翌日に持ち越さない程度に酔いどれているのを見て、「これからもよろしく!」って宣言したら、どの顔もほっとした表情で「りょーかーい!」って笑ってくれた。
多分、もしチームに残れたとしても、せいぜいあと一、二年だろう。そして、今日奇跡的にやる気が戻ったけれど、私の選手生命もやっぱりあと一、二年だと思う。選手としての人生だけじゃなく、一〇年後二〇年後を考えると、亨ちゃんと結婚して、赤ちゃんを産むっていう未来も、同じくらい大事だから。もしかしたら産んでから、また走るかもしれない。それが企業ランナーでだったら素直に嬉しいし、そうでなくても走れるのなら、やっぱり嬉しいんじゃないかと思う。
大した選手じゃないのに、いつまでも現役にしがみついてみっともないと云われても構わない。そんな雑音なんてどうだっていい。
一番大事なことは、今ちゃんとこの手の中にある。
――私は、走る自分を取り戻したの。
17/07/28 一部訂正しました。




