月影(☆)
「ゆるり秋宵」内の「欠けないハート」及び「ハルショカ」内の「月が欠けても」「月が満ちたら」の二人の話です。
「ゆるり秋宵」内の「勇み足レディ」に関連していますが、未読でもお楽しみいただけると思います。
好きになったのはいつからか。なんて、そんな問いの意味のなさ過ぎ具合に笑いたくなる。
気が付いたら。
気が付いたら、好きだった。
『おわった!』
タイトルもなしにそれだけが送られてきた。原稿が一本、無事に上がったんだろう。絵文字も付いていないのに、頬を若干赤く染め鼻息を荒くして勝ち誇ったあいりが目に浮かび、仕事場だというのにうっかり噴いてしまう。
――こちらを見やる幾人かに向けて、今更ながらごほ、と咳の真似ごとをしてごまかしてみた。もとより、恋愛関係の話題を提供する側ではないと皆に知れているので、好きな女から来たメール(五字)でそうなったとは思いもよらないことに違いない。ただ一人、じっとこちらを見ていた後輩の三田村には、気付かれたらしい。ヤレヤレ、といった様子で肩を竦め自席に戻った彼女を見送り、自分も席に着くとその三田村からメッセージが来ていた。
浮かれすぎですよ。リア充滅びろ!
その先輩を先輩とも思わぬ発言には一言『仕事しろ』と送った。
――俺のどこがリア充だっつうの。
小学生の頃には、もう好きだった。
ずっと見てるだけだったけど、それでもあいりのことはたくさん知ってる。
ばあちゃんが大事にしていたアンティークの西洋人形のように、色白で大きな目をした整った顔の女の子。口べたで無愛想で、ケイドロが得意。冷たそうで、マイペースに見えて、けっこう気にしい。
それから、譲のことが好き。
譲への特別な好意のあるなしを直接聞いてはいない。奴には悠里がいたし。
好きなら好きで同じチームになればいいのに、あいりはケイドロをする時いつだって譲の敵側に回り、そしていつだって完全に制圧していた。ほぼ、無表情のまま。
そんな不器用なあいりから目が離せず、いつしか俺も『チーム☆アイリーン』の一員となり、譲とその仲間を倒す一助を担っていた。
さすがにケイドロなんてやるのは小学校までで、でもこんなバカな遊びが出来る関係がずっと続くと思っていたその矢先、譲は親の都合でアメリカへと旅立ってしまった。
その一報をもたらされた時も、あいりはいつもどおりだった。先生からの譲の転校話に、クラスで泣かなかった女子はあいりと悠里だけだ。
きっと、悠里は事前に知っていたからだと思う。それでも、ふだんにこにこしている彼女が寂しそうにしているのを初めて見た。――あいりは。
すうっと吸い込まれてしまいそうな表情は、どこか遠いところにある、森のその奥にひっそりと存在する湖のようで、その静けさにかえって心を揺さぶられた。
あいりは、知っている。自分が、二人の間に入る余地などないことを。
思いを伝えても意味がないどころか、そうすることで友情にひびが入りかねないことを。
はじめっから、諦めている。だから、あんなに静かな目をしているんだ。
そう気付くと、俺の方が悲しくなるほどあいりは綺麗だった。
転校前、学活の時間をフルに使って、最後のケイドロをした。もちろん、チーム☆アイリーンは最後だからといって容赦などしない。
『お前、俺がアメリカから帰ってきたら覚えておけよ!』と半ギレした譲が『負けちゃったねえー。最後まで勝てなかったねえ』とさらににこにこと追い打ちをかけた悠里と共に教室へ戻るのを埃っぽい校庭で見送る。二人がこちらの会話を完全に聞こえないところまで離れたのを見てから、『泣けば』ってそっけなく言った。
でもあいりは『は? なんのこと?』って口の端を曲げたような変な笑い方をして、さっさと自身も教室に戻ってしまう。
そうか、泣けないか。ここじゃ。今の俺じゃ。
なら俺はいつか、あいりが泣きたい時に存分に泣けるようにしてやりたい。
そう決意した。
大人になった俺は、一途にあいりだけを思い続けてたとは言いがたい。フリーでいれば付き合いやらなんやらで合コンに強制参加のこともあったし、俺を好きだと言ってくれた子と付き合ってみたこともあったから。――好きな子がいると断っても、それでもいいからと半ば押し切られるような形で始まる恋人関係は、それなりに良好で、それなりに長続きもしたけど、最後はいつも愛想を尽かされて終った。決していいかげんな気持ちで付き合ったんじゃない。けれどすっかり大事になった存在が『やっぱり勝てなかったか』と苦笑して去っていくのを見るのはもうこりごりだったから、ここ数年は忙しさもあって一人身が続いている。
譲のことを思っていたあいりも、高校へ上がる頃には同校の男と付き合っていた。でも、譲への気持ちが完全に途絶えていないってのも、薄々気づいてはいた。
あいつへの告白を一度も考えなかったわけじゃない。けれど、男として意識されていないことくらい、誰に言われなくたってわかってた。ましてや、譲や悠里(と酒癖の悪い女たち)とも人間関係が絡んでいる俺じゃ、意識しろと言う方が無理だ。それに。
告白するより先に、決意してたこと――あいりが泣きたい時に存分に泣けるようにしてやりたいという思いに、変わりはなかった。
そう思うだけで何をするでもなく、ただ時折会って飲む機会を重ねているうちに、譲がアメリカから帰ってきた。
会わせたくない。
それが、俺がまず思ったこと。
久々に会った譲の横には変わらず悠里がいて、しかも帰国間もないというのに既に付き合っていて、譲ときたら俺なんかにまで牽制をしてくる有様だった。
そんな、ラブラブバカップルを含む懐かしい仲間に会ったその日は、俺の歪んだ願いが天に届いたのか、あいりは取材旅行中で不参加だった。
その次も、またその次も。
自分の黒い願いの実行力の強さに慄いていた頃、あいりから突然うかれたメールがやってきた。
『譲に会ったよ! それも、仕事絡みで! すごい偶然にびっくり!』と、あいつにしては長文なメールに加え、普段あまり使われることのない『!』まで三度も使って。
会わせたくない、なんて思ったから、きっとそのしっぺ返しだ。
何にも書いてなくてもわかる。あいりの気持ちは再会した瞬間、またすぐに譲に戻ってる。
よかったな、とか心にもないことを返信しようと思っていたら、続けてまたあいりからメール。
『ちょっとときめきかけた相手が譲で悔しい、あれは悠里のなのに』
俺の黒い気持ちは、あいりのその一言で簡単に鎮火する。そういえば、女子チームは男子よりもずっとマメに会ってるんだった。なら、譲と悠里が離れ離れになっていた間にもスカイプで親交を深めていたことなども、とうにわかってたか。
少しだけホッとする。突然知ったのでなければ、傷はそれよりかはいくぶんマシなはずだ。――辛くないわけでは、きっとないにしても。
何を言おうとか、どう慰めようとか何にも浮かばないまま、気が付いたら番号を呼び出してた。呼び出し三回で、ちょっと湿った声のあいりが『もしもし?』って返事を寄越してくる。寄り添うような言葉は撥ねつけられてしまうから、いつものように素っ気なく、普通に。
「飲むか?」
『――そだね』
日程と場所を打ち合わせしつつ、難儀な女に思いを馳せた。
泣けよと言えば、不器用に笑う。
ときめいた気持ちも、惜しげなく手放したふりをする。諦められやしないくせに。
そんなお前が俺は、たまらなく好きなんだ。
以来、沈んだメールと沈んだ声をキャッチすれば、いつだって飲みに誘ってた。
酒に飲まれてもけっしてあいりは譲の悪口も悠里の悪口も言わないし、やけっぱちになって俺を一晩の憂さ晴らしの相手にすることもない。
いつだって「楽しかった。また」と他人が見たら限りなく無表情な顔で、ほんの少し笑むのだ。今はそれだけで、いい。
職場でいっこ下の後輩の女子である三田村だけがそんな俺の恋愛にすらなっていない片思い事情を知っている。
こんな自分のどこが面白いのか、三田村はよく俺を食事や飲みに誘い出した。俺も特に断る理由がなかったので、二人でのランチやら他の同僚も交えての飲み会やらを重ねるうちに、話すつもりはなかったそれについて、口を割らされた次第だ。
ただ、一度ひどく酔った時に『先輩、その人に騙されてるんですよ』と言われた時には、『違う』と自分でもわかるくらい硬い声で反論した。
騙されてるんじゃない。
ただ利用されてるんじゃない。
あいりに、いいように使われたいと願ったのは自分だ。
弱ったあいりは、ちょくちょく人を呼び出しては表情をかえぬまますいすいと酒を飲みもりもりとつまみを食い、そして少しだけすっきりした顔になる。
それが他人にどう見えていようが構わないが、あいりを悪く思われるのは嫌だった。本当に狡いのは俺だから。
狡いんだよ。気のいい友人のふりをして、早く譲があいりをこっぴどくふってくれればいいだなんて思ってる。そうすれば、やけになったあいりにとびきり甘く付けこめる、だなんて。
――大事な女へ向けた大事な思いを、誰よりも俺が汚くしている。
付けこめる機会は、時間と共に否応なく訪れた。
ホテルを巻き込んだ点灯イベント。客室の灯りで作り出すハートをバックにプロポーズするだなんて頭の湧きまくったことを考えついたアメリカ帰りのバカと、それにノリノリで乗じたふりをした大馬鹿。悠里だけを好き過ぎて周りに気付かない譲を殴りたくなる。
誰かの幸せは、誰かの不幸せ。そんなの、おかしいだろ。あいりが何をした。あいつは、ただ思ってただけだ。誰にも内緒でこっそりと育み続けた恋の息の根を、誰にも告げずに止めるつもりだ。
汚い自分は付けこめるはず、だった。
でも、あいつの気持ちを思うだけで、一緒になって泣きたくなる。
俺が悪者になれれば、身体から懐柔していっときでも譲のことを忘れられるかもしれないのに。それすら出来ない。
でもとことん付き合う。ずっとそうしてきたやり方しか、俺は知らないから。
待ち合わせ場所にやってきたあいりは、大きな眼鏡をかけていた。いつものカラコンは外したらしいが、目が真っ赤なのが夜目にもわかった。
眉を寄せたくなるのを堪えて、いつもどおりを心掛ける。
「よう」
「よう」
返ってくる声は、いつもよりあからさまに落ちている。それでも、あいりは俺に縋らない。一人で、立ち上がろうとしている。傷つきながらもがいてる。
だったら俺は、その三文芝居に付き合うよ。お前の気の済むまで。
強がってへたっぴに笑え。それで、一人になったら好きなだけ泣けよ。本当は俺の前で泣かせたいけど、そんなのは高望みだから。
今は嘘でも、いつか本当に、笑え。
あいりの恋心は砕けた。だからってそれは無なんかじゃない。そんな俺の綺麗ごとが、伝わったらいい。伝わらなくても、いい。
そう思いながら、ただ側にいた。
時間が経つにつれてあいりは強がりじゃなく笑うようになって(相変わらずへただけど)、――なんと俺はあいりだけの男にさえ、なってしまった。
都合のいい夢を見ているようで、どこか怖い。どろどろに黒かった自分の気持ちをまだ晒せていないのも、明かした時の反応を思うのも怖い。でも。
泣くなら自分の前で存分にというのは、もう、高望みじゃないと思ってもいいだろうか。
果たせていない数々を前にしつつ、あいりを手に入れてしまった俺はもっと欲張りになって、また新しく望んでいる。例えば、泣かせるより、うんと鳴かせてみたい、とか。
そう言ったら逆に泣かれるだろうか。それでも手放してはやれないけれど。
不埒なことに思いを馳せつつ、きりのいいところで仕事を切り上げた。今日締め切りのあるあいつからの『おわった!』メールを会社の近くのビアレストランの窓際の席でぼんやり待っていると、電話がメッセージの着信を告げる。目をやると、そこにあるのはあいりではなく三田村からのメッセージ――『リア充、大爆発しろ!!』
なんじゃそら。思わず眉をしかめると、目の前のガラスがコンと叩かれる。そちらに顔を向ければ、一時面倒を見ていた後輩の海老沢と、メッセージの送り主である三田村がクリスマスのイルミネーションをバックに立っていた。ノックする形に拳を握って歩道に仁王立ちしている三田村は、元はまあまあかわいい顔を惜しげもなくクシャッとしかめ、なおかつメールの文面をゆっくりと、口を大きく開けて言っているようだ。もちろん、ガラスに遮られて聞こえはしないけれど。
そんな三田村に海老沢が時計を指差しつつ何かを耳打ちすると、奴ははっと何かを思い出したような表情になり――そういや『今日海老沢君と飲み会なんですよ』って言ってたな――、こちらに大きく手を振ってさっさと歩き出す。そんな三田村を好きで好きでたまらないと言った顔でため息を吐いた海老沢が、離れ際こちらに会釈をしたので俺も片手を上げてそれに応えた。
お前も随分難儀な女に惚れてるよな。あいつは前しか見ない奴だから、気の利く海老沢はすごく合ってると思うよ俺。
勝手に仲間意識を感じつつ、遠ざかるコートの背中にエールを送る。さて、もう一杯ビールを頼むか、と思ってカウンターに手をやると、待ちくたびれた電話がやっと恋人からのメッセージの着信を告げた。




