さよならトランペット
高校生×高校生
手の中の石焼き芋が熱くてずっとお手玉してた。
そしたらそれ見て野原君が笑う。
「何で笑うの」
「だって、鳥谷ちっとも食べてないから」
そう云う野原君は、もうお芋さんを半分くらい食べ進んでる。
おっきな手。グローブみたい。グローブの上にグローブ填めるのを想像したらおかしくなった。
今度は野原君がきょとんとした。
「何で笑うの」
「野原君の手がね、グローブみたいにおっきいなあって」
「比べる?」
「え」
ぼけっとしてたら左手を取られて、野原君の掌と合わされた。
「わ、ほんとおっきい」
「鳥谷の手が小さいんだよ」
「それはそうだけど、でもやっぱおっきいって」
「よくこれで、トランペット吹けるよな」としみじみ云われてしまった。
「それもよく云われるけど余計なお世話だー」
「怒っててもかわいいって小っちゃいからかな、鳥谷」
「ますます余計なお世話だー!」
私が喚けば喚くほど、野原君は楽しそうに笑う。
「てかさ、食いなよ芋。食いたかったんだろ」
そう云って、合わせた時と反対に、すっと自分の手を引いた。
「云われなくても食べるもん」
一人にされた手の寂しさは、またお芋さんをころころする事でごまかした。そうしてたらお芋さんの熱が、ようやく少し冷めた。くるくる回しながら薄い皮を剥いていたら呆れられた。
「皮ごと食えよ、栄養あんだぜ?」
「やだよー、皮の感触好きじゃないんだもん」
「鳥谷ってミカンの筋も念入りに取るタイプだろ」
「うん、ほお」
ほふほふしながらようやく一口食べた。私の口から白い息が、齧ったお芋さんから湯気がもうもうと出る。ほくほくのあまあまの当たりなお芋さんだった。
地元デパートの裏通りに、冬だけ来るおじちゃんのリアカーの石焼き芋。すっごくいい匂いがして、私と一緒に歩いてた野原君がその匂いに足を止めた。
「あれってうまいの? 俺、食べたことないんだけど」
「ほんとに? おいしいよー超おいしいよー。あの味知らないとか市民として恥ずかしいよ」
ちょっとフカシた気もするけどまあ、いいさ。
「鳥谷、今食べたい?」
「食べたいねえ」
「わかった」
筋肉がついた一八八センチの体の割に軽いフットワークで、野原君は自分の分と私の分のお芋さんをあっという間に買ってきてくれた。
「ほい」
「ありがと、ちょっと待っててね今払うから」
「いいって、ちびっ子はおっきいお兄さんに大人しく奢られとけ」
「なにそれーっ!」
ちびっ子扱いに憤慨しても、野原君はどこ吹く風だ。
「じゃあ、夏の応援のお礼」
「――今?」
「そ。今」
「へんなのー」
デパートの自転車置き場の傍のベンチで笑って、並んで食べた。
「暑かったねえ今年の夏も」
「ああ、応援席屋根ないし、吹奏楽部は演奏もあるから余計大変だったよな」
んーん、と私はお芋さんが口に入っているので喋れないまま、横に顔を振った。飲み下して、ようやくしゃべる。
「楽しかったよ、とっても」
「でも吹奏楽部の大事な大会もそのあとすぐだったんだろ?」
「ん、まあね。でもそれはそれ」
「応援、してもらったのに甲子園連れてけなくてごめんな」
「いいんだよー、行ってたらそれこそタイヘンだったよ、頑張ってた野原君たちには悪いけど」
「それもそうか」
「そうだよ」
ようやく私も食べ終わった。手が汚れたので、なるべく指がリュックに触らないようにしてウェットティッシュを探り当てて取り出した。
「使う?」と野原君にも声を掛ける。
「使う使う」
はい、と引き抜いた一枚を渡す。さんきゅ、とおっきな手が受け取る。もう一枚出して、自分の分に使った。
丁寧に汚れを拭き取る野原君。私は反対に、ざっと拭いておしまい。それをバッチリ見られていたらしい。
「もっと奇麗に拭いたらどうだ」
「はい?」
「ほら」
また勝手に手を取られて、くちゃっと丸めておいたウェットティッシュの汚れてないとこで、丹念に拭いてくれた。
「おしまい」
そしてやっぱり繋がれることなく離された。ついでにウェットティッシュと私のお芋さんの皮を入れてた、お芋さんを包んでいた新聞紙をまとめてゴミ箱に捨ててくれた。
「……ありがと」
デパートの裏通りは、午後になるともう日が差さない。クリスマスフェアと云う垂れ幕の下がる薄暗い壁の上を見上げて、野原君が云った。
「今日、屋上の観覧車乗れるかな」
「風もないし乗れるんじゃん? ……乗りたいの?」
お芋さんとは逆に、私が聞いた。
「乗りたい」
「わかった。いこ」
「ん」
もう引退したのにまだ使っている、黒と白の、野球部のロゴ入りのエナメルバッグを肩から下げて野原君が立ち上がる。
デパートに入って、建物中央にあるエレベーターの方へ歩こうとする野原君のコートの背中をつんとつまんで止めた。
「こっちのエレベーターだと屋上まで直通なの」
入ってすぐのところにあるエレベーターを指差す。
「よく知ってんなあ」
「地元民ですから」
「俺地元民だけど知らないよ、小学校ん時から野球漬けで、高校上がっても練習ばっかでバイトもしてないし遊んだこともあんまりないし」
「じゃあ今日初体験だね」
「優しくしてね」
ふざけたその人の頭を叩きたかったけど届かないのでばか、と肩を叩いた。
「……ちっちぇーなー」
目の前でくるくると回転する観覧車に、野原君が一言ぼそっと云った。
「一周二分だって」と私が教えると、「マジか」と目を見開いて驚く。試合じゃちっとも動じないくせにね。
「マジだよ、どうする?」
「や、乗るけどさ」
「じゃあ野原君、何色がいい?」
観覧車は一つ一つカゴの色が違っていて、小っちゃい時は赤じゃないと乗らなかったことを思い出して聞いてみた。
「赤がいい」
「男の子なのに」
――小っちゃい時の私とお揃いだ。
「いいじゃん、乗ろうぜ」
そう云って、赤のが一番下にきたタイミングで三たび私の手を引いた。
係員の人にチケットを渡して乗り込む。小さなカゴの小さな入口から中に入るのに、野原君はちょっと大変そうだった。無事乗り込んでからも窮屈そうにしているから「なんかサーカスの熊が小っちゃい自転車乗る芸思い出した」って云ったら「鳥谷にはお部屋サイズだな」って返り討ちを喰らった。
「あ、ほらみて、あそこ、うちの高校」
「どこ」
指さして教えるけど見えないらしく、向かい側から、頬を寄せるように野原君が来て、ほわっと熱が伝わる。
「……あ、見つけた。あそこにいたんだな、俺達」
過去形なのにはあえて触れなかった。
「そうだよ。ほら、もうすぐ頂上」
「こんなちゃっちい観覧車でも有効かな」
「何が?」
「てっぺんでキスするとそのカップルは結ばれるって奴」
そんな事をこっちを見もしないで云うくせに、離されずにずっと繋がれていた手がさらにぎゅっと握られた。
「……かもね」
何とか返したけど、まだすぐ傍にいた野原君は笑っただけだった。
頂上を過ぎてから、「だとしてももうチャンス逃したな」と何でもないように云ってこっちに寄せていた上半身を戻すから、私も「あーあ、残念」って笑った。
地上に帰って来ると、扉を開けてくれた係員さんが「お帰りなさい」と私たちを出迎えてくれた。
頭を少し下げていこうとしたら、「あの」と呼び止められる。
二人して振り向くと、係員の男性は思った通り野原君をすこし上気した顔で見上げている。
「野原選手ですよね、市立高校の」
「そうです」
受け答えする野原君は慣れたもので、体格のせいもあってか堂々として見える。
「俺、ずっと見てました! ……県予選の決勝、残念でしたけど、力投すごかったです」
「ありがとうございます」
「プロ行っても頑張ってください……彼女さんですか?」
急に私に話を振らないでよ。びっくりしてどんぐり眼になっちゃったじゃない。
何も云えなかった私に代わって、野原君が「今日、無理云って付き合ってもらってるんです」と答えてくれた。係員さんは繋いだ手と野原君と私の間で激しく視線を動かしていたけど、「そうですか。じゃあ」ってつっこまないでいてくれた。
「ごめん、びっくりしたよな」
申し訳なさそうに野原君は云う。
「うん、知ってたけど野原君て有名人なんだねえ」
「普通の高校生なのにな」
「普通の高校生って云うのには語弊があると思うけど」
普通の高校生は、部活もするしバイトもするし、修学旅行も行くけど、野原君はそうじゃなかった。
ただ黙々と朝早くから夜まで野球をして、修学旅行は秋の大会と日程が被って行けなくて、引退してからも国体とか国際大会とかに出て忙しそうにしてた。
繋いだままの手を引いて、観覧車の反対側まで歩いた。フェンス越しに街が見える。
「晴れてるとね、ここからスカイツリー見えるよ。野原君はもう上った?」
「いや? 遠征するバスの中から見た位」
「そっか」
「なあ、鳥谷んちってどのへん?」
「うち? うちはねえ、ほらあのマンションの五階」
「学校遠くない?」
「バスならすぐだよ」
野原君ちは? って聞いたら学校から歩いて五分だって。羨ましい。
「まあ通うのも実質明日までだけどな」
「明日、学校行くの?」
今日が終業式だったのに、と不思議に思っていたら向こうから教えてくれた。
「うん、先生とか後輩とかに挨拶に来て、それでテストの時以外はもう卒業式まで来ない」
「……そう」
「明日そのあと後援会の人たちとかOBの人とかに挨拶行くから、行けなくてごめん、吹奏楽部の発表会」
「いいんだよ」
毎年、夏の応援のお礼と、野球部の面々は一二月二五日に行う吹奏楽部の発表会に駆け付けてくれている。去年まで、野原君も来てくれてた。市民会館の座席、きつきつじゃない? って聞いたら遠征で乗るバスもこんなもんだよと云ってたね。
「明日の発表会、鳥谷は聴きに行くのか?」
「用事が出来たけど、多分午後なら行けると思う」
午前中の用事、さっき出来た、と胸の中で呟いた。
「明日、晴れるかな」
「天気予報じゃ晴れのち曇りらしいけど」
「晴れるといいな」
「そうだな」
そのまま、もう何も云えなくなって二人して黙り込んでしまった。
今日、終業式の後、友達とどっか行こうか? って話してた。
受験生だからパーティーはしない。自分はもう推薦を決めたけど、まだこれからの子だっているから。
「モス行きたい、モス」
マックよりお高いから普段使いにはしないけど好きなので友達のクラスに迎えに行った時に提案してみたら、「俺も行きたい」と急に後ろから飛び込んできた声があった。
「野原君」
有名人の登場に、皆ちょっとびっくりしている。私は三年間同じクラスだったから馴染んでるけど理数クラスの友達は初めてかも。
「駄目か?」
「駄目じゃないよ、ね?」
友達二人に聞くと、うんうんと首を縦に振ったけど、そのうちの一人があることに気が付いてそれを口にした。
「鳥谷ちゃん、二人で行っておいでよ」
「へ?」
「うちらこの後冬期講習あるからバタバタだし、二人の方がゆっくり過ごせるよ。野原君それでもいい?」
「ああ、じゃあ悪いけど鳥谷借りてくな」
「どうぞどうぞ」
そう云って、あっさり連れ出されることになった。
「へ?」
よく分かってない私の背を友達が押す。そして、教室の入り口で待っている野原君に聞こえないように「ファイト」って笑った。
そう云われても、伝えないよ、何も。
でも思いもよらず一緒にクリスマスイブを過ごせることになって、嬉しかった。
二人で駅前のモスに行って食べた。野原君はバーガー類を二つにホットドッグまで食べるからびっくりした。
逆に私のセット、普通にモスバーガーとポテトとドリンク、を見て「小っちゃい子は食べる量も少ないな」なんて云った。
「デッカイ族は失礼ですね」
「小っちゃい族がなんか云ってっけど、声までちっちゃくて聞こえないな」
「そんな失礼な人には、ポテトあげません」
「いやー、小っちゃい子最高」
「小っちゃいいらない!」
プイと横を向いたらほっぺたをつつかれた。
「怒んなよ」
「怒ってない」
「怒ってんじゃん」
何でそんなに楽しそうかな。
「……ポテト、食べる?」
「ん、サンキュ」
渡してから、食べ終わったバーガーの袋に残っているソースを示す。
「これつけると美味しいよ、野原君も自分のバーガーのソースに付けてみ?」
「へえ?」
ポテトにたっぷりソースをつけて、ぱくりと一口でいった。直後、んん? て目が丸くなってる。
「……うまいなこれ」
「だよね!」
自分が褒められてんじゃないのに妙に嬉しい。
食べ終わって、商店街をぶらぶらして、ゲームセンターの外に置いてあるUFOキャッチャーの前で「お」と野原君が足を止めた。
「やるの?」と聞けば「やる」と云うけど。
「……やったこと、あるの?」
「ないけど」
予想通り、野原君はちっとも取れなかった。
それをからかったら、「投げるのは得意だけど、落とすのは苦手なんだよ」と云い訳をした。フォークボール得意なくせに。
焼き芋の匂いに誘われて、裏通りに来て、焼き芋を食べてそして。
やだな。夕方になっちゃう。帰りたくない。
『もう帰ろうか』って云われるのが嫌で、自分から話しかけた。
「寒いんでしょ、入る球団、こっちより北だもんねえ」
「ん、いっぱいあったかい肌着とか買った」
「残念―。地元の球団だったらちょくちょく観に行けるのに」
「まあ観に来てもらってもしばらくは二軍だろうけど」
ちょっと言葉を切って、野原君が続ける。
「残念だな、鳥谷、いつも応援してくれてたのに」
「ほんとだよ、私の許可なく遠くに行くとかひどいよね」
「ごめん」
「せっかくさ、公休の時のノート写させてあげたりしたのに」
「うん、ありがとな、すっげー助かってたいつも」
「大会の応援歌だって、ちゃんと野原君が好きなの選んだんだよ」
「うん、そうだな」
手を、離したくない。
もうこの人の目は遠くを見てて、今日のこれは『今まで育ってきたけどよく知らなかった街を離れる前に焼き付ける為のお出かけ』で、私はそのお伴にちょうどよくって、思い出のカプセルに入れられる側だって知ってる。
グローブみたいなおっきな手。野球しか知らない左手。意外と奇麗な字を書く右手。
離したくないその手が、離される前にするりと自分から離れた。離された上に置いて行かれるなんて冗談じゃない。
「いつかさ、一流選手になってインタビュー受けたら、『恩人は鳥谷さんです』って云うんだよ?」
「云わねーよ」
野原君の声が少し震えてる気がするのは気のせいだ。だって、鬼神みたいなこの人は、ピンチにランナーを背負ってても弱気になんかならなかったから。
「鳥谷は、俺の大事な……」
何かを飲み込んで、野原君はにかっと笑った。
「大事な、友好関係を築いた小っちゃい族のお姫様だよ」
「だから小っちゃいはいらないんだってば!」
キーキー喚いて、ぽかぽか野原君のお腹とか腕とかを、ぶった。
「小っちゃい族は力も小っちゃいな」
「これからプロ入りする人に怪我さしちゃいけないからというこの心遣いをデッカイ族には理解できないんだね、カワイソー」
何かを云ってしまったら、棒倒しの棒が倒れちゃうみたいな気がしたから、だから何も云わない。
そのままずっとそこにいたかったけど、デパートの屋上から見える空はあっという間に暗くなって、あちこちライトアップしているのが奇麗に見えた。
それを二人で見ていたら、「鳥谷、帰ろう」と静かに野原君が云う。
「……ん」
離した手がまた引き寄せられて、繋がった。
賑やかな通りを歩いた。たくさんの人で混んでいたから、それを理由にしてゆっくりゆっくり歩いた。
時折、「あれってドラフトの」「マジで?」って声が聞こえたり、写真を撮る人もいたけど、やっぱり野原君は堂々としてた。
繋いだ手も離されなかった。
駅についてバス乗り場で並んでいる間、乗らない野原君も一緒に待っててくれた。
「別にいいのに」
「や、つき合わしちゃったからこれ位はね」
「そっか、ありがと、デッカイ族の人」
「どういたしましてちびっ子ちゃん」
そんな風に云い合ってる間にバスが来て、どちらともなく手を離した。
左側の窓際に乗り込んで、ガラス越しにバイバイって手を振ったり、イーって顔したり。
両手でサムズアップしたら、ふっと懐かしいような優しい顔をして、左手で返してくれた。
バスが出ても、見えなくなるまでずっとそこに野原君はいた。
駅から大きくカーブした通りが国道と交差する信号は赤だった。バスはブルルンと唸って、静かに止まる。
夕方のバスはまだ会社員の人のラッシュの時間じゃなかったから、薄暗い車内に乗っている人数はまばらで、しんとしていた。
もう、いいかな。
泣いても、いいかなあ。
いいですよと、小っちゃい族のお姫様の許可が出る前に、もうぱたぱたっと膝の上のリュックに染みが出来た。
明日は泣かないから、今日だけ。今だけ。
あれだね、置いてかれる方も寂しいけど、置いてくのもつらいんだね。思わぬ疑似体験だよ。別に知りたくはなかったけどね。
一年の時からずっと応援してたよ。
最初は試合に出られなくて応援席で顔を合わせてた野原君が、めきめきと頭角を現してエースになるのに時間はかからなかった。
勝った試合に足を運んでいる時は、応援席に姿を見つけられて必ず『どーだ!』って顔された。
両方の親指でサムズアップすれば、にかっと笑って片手で返してくれた。
負けた試合の時はへそ曲がりな子供みたいな顔をして、当然サムズアップもなかった。
最後の試合の後は、そのへそ曲がりの顔さえなくて、どこかさっぱりとした顔つきで、帽子を取り、応援席に深く頭を下げていた。
マウンドにいる時の鬼神みたいな野原君も、学校の自販機の前で『一〇円足んねー!』って困ってる時の野原君も、私どっちも好きだよ。
ずっと同じクラスだったし、吹部と野球部は接触も多かったから気まずくなりたくなくて云えなかった。
プロになるって分かってからは、いなくなる人の後ろ髪を引っ張るようなことはしたくなくて、やっぱり云えなかった。
――初恋は実らないってほんとだね。
ぼんやりとした視界の中に光る、誰かが押した『おります』ボタンの紫ピンクの色が、とっても奇麗だった。
翌日はすっきりとした冬晴れだった。雲一つなくて、寒いけど気持ちいい。昨日の悲しい気持ちはまだ心にいるけど、どこかクリアになってる。
制服に着替えて、九時過ぎに「おかーさーん、学校いって来るー、お昼に帰るー」と洗濯を干していた母に声を掛けて家を出た。
昨日泣きながら乗ったバスに乗り込む。――もう、大丈夫。小っちゃい族は強いんです。
職員室に行って、部活棟の屋上のカギを借りた。
「お、鳥谷どうした、もう冬休みだぞ」と、担任の先生があたかも私がうっかりさんみたいに云うからムキになって返した。
「わかってますー!コレ吹きたくて来ました。部活棟の屋上、いいですか?」
「おう、今日は補習の奴が登校してるけど、そっちならいいだろ」
私が屋上で練習するのは今日にはじまったことじゃないので、トランペットの入ったケースを見せてそう云えば、いつものようにスムーズにカギを借りることが出来た。
部活を引退してから封印していたけど、推薦が決まってからこうしてたまにマイペットを連れてきては許可の出た場所で練習させてもらっている。
一回ローファーに履き替えて、野球部のグラウンドの方に歩いてゆく。その向かい側にぽつんと立っている小さな三階建ての建物は、部室や生徒会室のある部活棟だ。歩きながら、赤ちゃんがするみたいに、閉じた口から息を吐いてブルブルと唇を震わせる。毎日はやってないから引退する前みたいには出来ない。まあ、しょうがない。口周りの筋肉を動かしながら中に入って、スリッパを履いて、階段を上がる。鍵を開けて屋上に出た。
風がなく、日当たりがいいので助かる。これで寒かったらただでさえ鈍ってるのに演奏しにくい。
マウスピースだけで音を出した。
好きな音。苦手な音。校歌。
ペットで音を出す。
肩慣らしは気楽に。
ロングトーン。リップスラー。
覚えの悪い体は、やっぱりうまいこと動かない気がするけど気は心。
ああ、やっぱり好きだなあ。
思ったように演奏が出来たことはなかなかなくて、コンクールもいい結果は残せなかったけど。
夏の応援で演奏した曲をいくつかやって、最後に今年の夏の野原君の応援歌を吹いた。昨日存分に泣いたから、今日は湿っぽい音にならなくてよかった。
云えなかった言葉を全部音に乗せるつもりで吹く。
好きだよも、元気でねも、応援してるも頑張ってねも、二年と少し分の気持ちの全部、空にとけてしまえ。
吹き終わってから少し時間が経ったタイミングでわあっと歓声が上がって、野原君が部活棟から仲間と一緒に出て行くのが見えた。
聞いてくれたかな、デッカイ族へ小っちゃい族からのはなむけだよ。
お誕生日もバレンタインにも何にもあげなかった私から、最初で最後のクリスマスプレゼント、熨斗つけて差し上げるよ。
――もみくちゃにされて校門の方に歩いていくその背中を見つめていたら、左手がすっと上がって、サムズアップしているのが見えたから、私も負けじと両手でサムズアップした。
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