カウントダウン・ベイビー(後)
『今更?』って驚きつつ、苦笑しつつ、でも嫌な顔はせずに、マスターは『津田』って教えてくれた。一つマスターの、もとい、津田さんのことを知れて、幸せ。
下の名前は?って聞いたら、『まず俺の苗字を呼び慣れてみなよ』って躱された。
そしたら。
「……つ、ださん、テキーラサンライズ下さい」
「はい、ちょっと待ってね」
な、何だろうこの恥ずかしさは。
以前、まじまじと無遠慮に見ていた津田さんのことが、見ていられない。
それでも俯いた目線に飛び込んでくる、テキーラサンライズをそっとこちらに勧めてくれる指だとか、常連さんとバカ話して皆でどっと笑っていても、指向性のマイクみたくそれだけ耳が拾ってしまう、津田さんの声だとか、何故かホッとする煙草の匂いだとか。――そんなのが、直視しなくても無駄だよって笑ってる気がする。だって。
文句を云いたいような気持ちになって、テキーラサンライズを飲みながらちらりと津田さんを見やれば、いつだって笑った目がこっちを見ているんだもん。――それでまんまと幸せになっちゃうのが悔しい。手の中でいいようにされてるみたいで、なぁんか、気に入らない。グラスの中を睨んでいたら、隣で麻友ちゃんが面白そうな顔をしている。
「はは、恋する乙女だ」
「茶化すのやめてよ……」
なによー! って怒りたいけど、反論出来ない。ふうん、と笑う麻友ちゃんは綺麗なネイルに細い煙草を挟んで、同い年とは思えないような色香を漂わせている。――何で、麻友ちゃんじゃなくてあたしなんだろう。分かんないよ、津田さんの判断基準。今聞いてもきっと、内緒にされるって知ってる。でも、いつか教えてくれるかな。
週に一、二回津田さんのお店にお邪魔して、ようやく挙動不審にならずにさらりと呼べるようになったのが一カ月前。
『随分かかったね』と苦笑しつつ、でも嬉しそうに津田さんは煙草を吸う。その唇に触れてみたい、だなんて。
無精髭を弄りながらほんの少し開いてる口に自分からキスするって妄想する位、だいぶ心が引き寄せられてる。
「……そろそろ、下の名前も教えてください」
一二月に入ってすぐに、ツリーが早々と飾られる店内。今日は、頼まれて開店前にお邪魔して、その飾りつけを手伝っているところ。
「どうしようかな」
津田さんが笑いながら、オーナメントを手渡してくれる。手渡される時に触れる手が、幸せ。
「意地悪だなあ」
「君が悪い。昨日、カウンターで知らない男と仲良くするから」
あ、ちょっと怒ってる? 違うのになあ。
「津田さん、それ誤解」
「それにしては楽しそうだったけどね」
あれ、しかも何か拗ねてるの? おしまい、と最後に一つオーナメントを手渡されて、ふいと向こうに行ってしまった背中に、声を掛けた。
「昨日の彼、同じ大学の子なんだけどね、麻友ちゃんに告白したいんだって」
ぴた、とブーツの足が止まった。
「それで、二人で作戦会議してたの、昨日は麻友ちゃんバイトでいないって分かってたから。――津田さん?」
受け取ったオーナメントを飾って、まだ固まっていた背中に近づいて触れてみた。びく、と動く背中は思いのほか筋肉質だ。
「――洋介」
突然告げられて、「へ?」って間抜けな声出しちゃった。
マスターは向こう向いたまま、繰り返してくれた。
「洋介。俺の、名前」
ゴミ出してくる、と云ってすたすたと歩き出し、裏口の扉が開いて閉まる。
「洋介さんかあ」
口の中でようすけさん、ようすけさんと何度も練習して、舌が慣れたタイミングで戻ってきたその人に、「お帰りなさい、洋介さん」と声を掛けたら、今まで見た中で一番甘い笑顔を返されて、赤面する羽目になった。
下の名前を教えてもらって、そう呼んで、洋介さんににっこり笑い返されてもようやく赤面しなくなったのが半月前。
クリスマスが近いせいか、街のどこもかしこも浮かれている。
麻友ちゃんを好きな大学の子は、何とか麻友ちゃんとのデートにこぎつけた様だ。麻友ちゃんが苦々しい顔で煙草を吸いながら、「なんかいちいち初々しくって、調子狂う」とか云ってるけど、ほんとは嬉しいの知ってるんだから。
それをからかうと麻友ちゃんはむきになって恋をぶん投げてしまう可能性があったので、あたしも常連さんもマスターも、適当に相槌を打つ程度にしていた。その甲斐あってか、とうとうお付き合いするようになったらしい。よかったね、二人とも。
そんな訳で、麻友ちゃんと二人して入り浸っていたこのお店のカウンターに今いるのは、あたしだけ、
――では、ない。
麻友ちゃんみたいに苦々しい顔で、ぎりぎりとストローを噛み締めた。マルガリータについてきたストローはほんとは齧ったりするものじゃないって知ってるけど。
スツールを二つ空けて座っているショートヘアの目がでっかい女の子は、麻友ちゃんと入れかわりにここへ通いに来るようになった真奈美さん。洋介さんに『一目ぼれしました!』って猛烈にアタックしている。週明けはいつも足を運ばない洋介さんのお店に二四日の火曜日に行ったのは、彼女が「イブ、行きますからねー!」って事前に宣言してて、気が気じゃなかったからだ。でも、来たからって何がある訳でもなく、常連さんたちと話して、ピザを食べて、カクテルを飲んだ。――いつもと、おんなじ。
「ねえねえ洋ちゃん、次サイドカーね」
「真奈美さん、さっきロングアイランドアイスティー飲んだでしょ、今日はだいぶ飲んでるし、もうおしまい」
「えー、洋ちゃんのケチー!」
「酔い潰れたらタクシーに放り込むからね、そのつもりで」
二人の会話を聞いて、あたしだってまだそんな風には呼べてないのにと、じりじり心が焦げる。ああ、やだな。付き合ってもいない、告白もしてないのに恋人気取りかあたし。そう自分を諌めつつ、自分には下の名前を教えるのにあんなに焦らしたくせに真奈美さんにはあっさり教えるとか酷いと思ってしまった。
きっとこんなのはよくあることだ。洋介さんのお店はバーだし、バーには酔った人たちがいるんだし、洋介さんはかっこいいし。
――ただ、その人には、あたしに出してくれたみたいにジャスミンティーを振る舞わなかった。そのことが、特別扱いされたみたいでちょっとだけ嬉しかった。
「嫌われたくないから今日は帰りますー」って、今日も素直な真奈美さん。
「気を付けて」って、カウンターから出てきた洋介さん。黒いシャツを肘まで捲り上げてた腕を組んで、やっぱり過剰にセクシーだ。けしからんお人。
その時、真奈美さんの目がきらんて光ったから、あたしは直感的に彼女が何をするか分かってしまった。
真奈美さんが大きく一歩洋介さんに近づいて距離を詰める。洋介さんは後ろがカウンターで、それ以上下がれない。後ろ手を付いて、上体を逸らしてもシャツの襟をつかんで、迫る真奈美さん。
背伸びをして、キスを。
する前に、あたしが真奈美さんの細い腰を後ろから抱いて、引っぺがしてしまった。こんな時なのに真奈美さんたらいい匂いとか思っちゃう。
びっくりしている真奈美さんと、洋介さんと常連の皆さん。
「――あ」
自分のしでかしたことが、恥ずかしい。
「ご、ごめんなさい!」
「あ、ちょっと、若菜ちゃん!」
マスターの声を聞きながら、お店を飛び出した。
何しちゃってんの。
人の恋路を邪魔する人は馬に蹴られるんだよ、恥ずかしい。
はあはあと、吐く息と頬だけがやけに熱い。夜の街を走るけど、この当たりは坂道だらけで、下ればいいのに何故かあたしは駆け上ってしまって、坂道の途中の公園のベンチに座り込む羽目になった。いくら上り坂+ヒールのあるブーツだからって、体力ないにも程がある。
じわじわと寒さが身に染みる。気が動転したまま飛び出したあたしは、コートも身に付けず、お財布も鍵もICカードも携帯も、全部入ったバッグを置いて来てしまった。間抜けだなあ。やだもうお店行けないと思うのに、結局そこに行かないとだ。
洋介さんのお店はキャッシュオンデリバリーで、注文ごとにお会計するから、飲み逃げにならなくて済んでそれだけが救いだった。
寒いから、ベンチの上で体育座りの足をきゅっと縮めた。ジーンズでよかった、今日。――真奈美さんは、今日もお洒落だったなあ。
あたしが一生着ないような、ふわふわ付きの白い上着に、ラウンドネックの薄ピンクの半袖ニットに、足が奇麗に見える丈のミニスカート。
ピンクのチーク、シンプルだけど目を引くイヤリング。
かわいいのに気取らない性格。素直で、明るくて、太陽みたい。
それに引き換え、あたしなんか。
洋介さんに封印された言葉が、涙と共に蘇った。
駄目だ、あんな魅力的な真奈美さんとあたしがいたら、男の人は一〇人が一〇人真奈美さんの方に行くだろう。
洋介さんはあれから何も云ってくれない。思わせぶりな言葉も思わせぶりな接触もぴたりとやんで、あれは夢だったのかなとか思う。
苦しい。
恋って、こんななの。甘くてふわふわしてるのが恋じゃないの。
これが恋なら、今までのは何だったんだ。
考えてたら、頭が痛くなった。寒いせいもあるかもね。ぶるぶると胴震いが止まらない。
でも、どこにも行けない。
俯いて小っちゃくなっていたら、ばさりと音がして、馴染みのある匂いと重さが降ってきた。――あたしのコート。
「探したよ」
コート越しのその人の息が上がっている。そんなのは初めて聞いた。
「若菜」
ちゃん、がなくなった。やばい、嬉しい、幸せ。
「お店帰るよ、あったかいもので体を温めないと風邪ひく」
頭に被せられたコートを、ベンチの前に立つその人が丁寧に着せ掛けてくれる。
あたしのじゃないマフラーをぐるぐるにされた――煙草の匂いは、洋介さんの。嵌められたぶかぶかの手袋も、きっと。でも、
「真奈美さん、は、」
声がみっともない位震えてる。
「帰した。礼儀を知らない人は出入り禁止にするよって云って」
手袋の先が余っている手を探られて、ぎゅっとされた。
「嫌な思いさせて、ごめん」
ぶんぶんと首を横に振る。
「ごめんなさい、出過ぎた真似して」
「いいよ、嬉しかった」
――え?
「君の気持ちがちゃんと育つのをじっくり待つつもりだったんだけどね、どうにも堪え性がなくて、つい俺の方に走り出すように仕向けたからそっちにしてみたら不本意だったかなぁと、後からちょっと弱気になってた」
笑いながら、撫でられる頭が幸せ。
「君が俺をちゃんと見てくれるようになって、ようやく名前を知りたがって、名字から名前を呼ぶのに慣れるようになって、俺がどれだけ嬉しかったと思う?」
涙にそっとハンカチを当てて、そして。
「今なら云える筈だよ、若菜」
あれよあれよとスキーのジャンプ台に昇らされて、スタート台について、背中を押されたみたいな気持ち。
でもあたし、奇麗に飛べるんじゃないかと思う。ドキドキしてるけど、ちっとも嫌な感じじゃない。
なかなか教えてもらえなかったその名前に、ありったけの気持ちを込めて呼んだ。
「洋介さん」
「――何、若菜」
「洋介さんが、好きです。だからぎゅってしてください」
「いいよ」
言葉と同時に包まれた。――幸せ過ぎ。
妄想では何度も交わしたキス。無精髭を弄りながらほんの少し開いてる口に、自分から本当にキスした。
髭の感触は硬くて痛い。
唇を舐めたら、お返しみたいに舌が攻めてきた。少し苦い、煙草の味。初めてだな、煙草吸う人とのキス。吸ったり、舐めたり、絡めたり。初めてなのに容赦なく長いそれは、あたしが「寒すぎて、そろそろ限界」と訴えるまで、続いた。
ようやく若菜が俺のところに落ちて来たと、恋人になった洋介さんが笑ったのは、一週間前。
「スノボは店の定休絡めて平日なら連れて行ってあげる。でも、土日でお出かけは無理だなあ」って洋介さんが云う。いつかあたしが云った、『恋人としたいことリスト』に載っていることの一つ。
「分かってるよ、そんなの」
今日も彼のお店は常連さんと常連さんじゃないお客さんでいっぱい。麻友ちゃんも彼氏を連れてきて、皆に向かってつっけんどんに『あたしの男』って紹介してた。
『振られちゃったから、今度から純粋に飲みに来ます!』と宣言した通り、真奈美さんは常連さん達と飲んでる。
真奈美さんには、洋介さんとお付き合いするようになってから『ごめんね、ほんとはマスターの下の名前どうしても教えてもらえなくって、常連さんから聞いて勝手に呼んでたの』って謝られた。だからあたしも『あの時邪魔しちゃってごめんなさい』って謝って、二人して互いに一杯ずつカクテルを奢りあって、それでおしまいにした。やっぱり真奈美さんは気持ちがよくて優しい。
二か月前はただの憧れ対象だった恋人が、「若菜、ちょっと」って声を潜めて裏口を指差す。
「何……さむっ」
腕を引かれて、外に出た。隣のビルとの間の狭いとこ。
お店の中から一〇、九、八、とカウントする声が聞こえてくる。
「するんだろ、これも」
笑いながら、年越しカウントダウンにしては濃厚なキスをくれたのは、たった今。――年の終わりとはじまりは、とびっきり、幸せになった。
続きはこちら→ https://ncode.syosetu.com/n7313bz/19/
真奈美さんはこちら→ https://ncode.syosetu.com/n4804ce/16/




