後ろじゃなく隣に
会社員×会社員
※『ボナペティ』『篠塚君、幸せそうなの』に関連していますが、未読でもお楽しみ戴けるかと思います。
織枝さんは眠りながら飛び続ける渡り鳥のような人だから、俺のところにいる時くらいは羽を休めて欲しいなあって思っているんですよ。
シェフのナオさんは、そう云って照れたように笑う。
フレンチのシェフのくせに太らない体質なのを、常連さんによく『俺たちばかり太らせて自分はいいよなー!』とからかわれている。
織枝さん、と口にするたびにうっすらとほほ笑んで、まるで恋する乙女のように恋をしているナオさん。お客さんが私や連れを含む常連さんだけになると、聞かれた時に限り恋人のことを話し出す。
プリンを一つ残しているのは、今夜やって来るだろう彼女の為。
濃厚な味のそのラスいち(正確にはラスに?)を連れとのじゃんけんで勝ち、無事にオーダーした私は、ナオさんがプリンの周りに盛り付ける果物を切る手をじっと見つめている。
「今日、織枝さんいらっしゃるんですか?」
ラストオーダーも過ぎて、他にお客さんがいないそこで聞けば、「お店に間に合うかは分からないけど、うちには来る予定ですね」と嬉しそうに答えてくれた。
ここで何度も、見たことも言葉を交わしたこともある彼女。
ナオさんより年下で、だけど私よりは年上の人。いつも奇麗に装っていて、働く大人の女かくありけりと云った風情だ。華やかで、でも。
「織枝さんて、ぱっと見パワフルに見えますよね」
ほんとは、大人しそうなナオさんを振り回しているように思っていたと云いたいところだけどさすがにそれは失礼だろうと胸の内に留めた。
「それがね、そうでもないんですよね意外と。……かわいい女の子です、誤解されがちだけど、あの人は」
たくさんたくさん切った果物を、プリンの周りに並べる手。
コンロに火をともし、砂糖の入った小鍋をかき混ぜて。
「なんか、照れますね、本人がいないところでこんなこと云って」
後で怒られてしまうかもとナオさんが笑う。
そこにギャルソンの大矢君からの鋭いツッコミが入った。
「ナオさん織枝さんに夢中なのはわかったからカラメル焦がしすぎないでくださいよ?」
「大矢君のおかげでいい塩梅で止められました」
Merci.とナオさんが云えば大矢君もしれっと De rien.と応える。いいコンビだ。
「プリンお待たせしました」
カウンター越しに腕が伸びて、ナオさんがプリンのお皿を私の前に静かに置いた。
「さっきの、何」
連れのヨッシーが、お店を出て駅へと向かう通りで云った。私は半歩後ろを振り返る。
「何、さっきのって。もしかして、プリン一口じゃなく二口欲しかった?」
ちゃんと果物もあげたのにと思っていたら、「そうじゃなく」と否定の言葉が飛んできた。
「織枝さんのことあんな風に云うだなんて、ナオさんに嫌な感じに取られたらどうするの」
「……別に、織枝さんがどんな人かちゃんと知ってるし、ナオさんも分かってくれてるよ」
かつて彼女にいい印象を持っていなかったことは確かだ。でも今はもう違う。
「ただ、のろけを聞きたかっただけだよ」
笑った私を見て、自分が傷ついたみたいな顔するヨッシー。バカだね、もう私は痛くなんかないのに。
「ごめん」
「何がぁ?」
そらっとぼけて見せたら、ヨッシーは「……何でもない」と少し笑った。
「まったく、男連中は皆、織枝さんのことが好きだねえ」
やっかみ交じりで云えば、「そう云うんじゃ、ない」と静かに否定された。
うん、知ってる。知ってて、それでも聞きたいことってあるじゃない?
だから聞いたの。ヨッシーは私の心がまだナオさんに片思いしたままだと思っていて、欲しい言葉をなかなかくれないから。
「……クリスマスって、雪、降るかな」
降ればいい。ナオさんのお店に行って、電車が止まるくらい降って。タクシーもなかなかつかまらなくって、ヨッシーが困って、そしたら私「うちに来れば? 一晩くらい泊めてあげるよ」ってかわいくなく誘ってあげられるのに。
「まあ、こっちは降らないだろうね」
雪国で生まれ育ったヨッシーは、簡単に夢を否定する。
「だよね」
うん、分かってる。
駅前のロータリーで別れて、私はバスに乗って、ヨッシーは電車に乗ってそれぞれ帰路に着いた。
たまたま、夏の初めに織枝さんとお店の近くで行き会ったことがある。まだナオさんのことが好きだった頃。
その人は、その日も隙なく、太刀打ちできない大人スタイルだった。
私はあんな真っ赤なピンヒールは履けないし、ウエストと胸を強調するワンピースの上にノーカラージャケットを肩にだけ羽織るスタイルなんて小じゃれた真似は出来ないし、一目でそれと知れるモノグラムバッグを無造作に持つなんてもってのほかだ。
織枝さんは、いつもお店で見せる、ニュースキャスターみたいな完璧な振る舞いではなく、下を向いてうろうろしたり、バッグの中を探ったりしている。道端で、少し困った風情で。
その人の前を通らないとナオさんのお店には行けない。わざわざ通りの向こうまで渡ってまで回避するのも大人気ない気がして、仕方なくその人の方へと歩み寄った。
「こんばんは、織枝さん」
「……こんばんは、みゆさん」
笑顔で笑いかけてくれたけど、ちょっと元気がなさそう?
「どうしたんです? お店、入らないんですか?」
夜の七時に閉める店が多く、そのせいで暗ったい商店街の中で、一〇時まで営業しているナオさんのお店からは用もないのに近づきたくなるような、ほの温かい光――夏でもそう感じる――が通りまで零れている。
そちらを見やってから視線を織枝さんに戻すと、はっきりと困った顔になった。
「……ないんです」
「何がですか?」
「ストール、が……」
彼女がお店でストールを肩に掛けたり、膝に広げたり、首に巻いたりしているのをよく見た。パステルではないけどショッキングでもない、目を引くのに優しげなピンクのそれ。
しょぼんとして、今にも泣いてしまいそうな彼女は小さな女の子みたいだった。そんなつもりもなかったのにその頼りない風情に、つい世話を焼いてしまう。
「今日は、使ってたんですか? それ」
「いいえ、気が付いたらなくって。バッグに入れていたと思ってたんだけど」
そして何かを思い出すように一点を見つめて、それから睫毛を伏せて長くため息を吐いた。そんな仕草さえセクシーだって殿方を魅了しちゃうんだろうなと思った。
「……駄目ね、こうしていても見つからないし、正直にナオさんに謝らないと」
その一言で、物には不自由していなさそうな彼女が懸命に探していた理由が分かった。そう云えばいつもストールを使う時の彼女は、少し嬉しそうだったな。
目はまだ数多の感情を浮かべていたけれど、口角を上げればいつものように上手に彼女の感情を覆い隠した。
「ごめんなさいね、みゆさんを足止めしちゃった。行きましょうか」
「え、もういいんですか???」
私の方が躊躇していたら、「いいのよ」とゆったりとした足運びでヒールを鳴らす。
重たい木のドアを難なく開けて、「どうぞ」と私を先に通してくれた。
「いらっしゃいませ……珍しい取り合わせですね」
ギャルソンの大矢君が口笛でも吹かんと云った表情で笑いかけてきた。
ちらほら見える客の顔は見知ったものばかり。早くもオンリー常連タイムだ。大丈夫かこの店。
「どうも」とだけ口にして、私はさっさといつもの席に着く。
織枝さんも、ゆっくりと奥の席に着いた。
「どうしたの」
ナオさんが、織枝さんに声を掛けているのが聞こえてしまう。すぐに恋人の異変に気付くんだね。シェフだから鼻が利くのかな。
「ごめんなさい、私、――戴いたストールを失くしてしまったみたいで」
「ああ、これのこと?」
ナオさんが口を閉じていない小さな紙袋を、とんと織枝さんの前に置いた。覗き込んで、目をまん丸くする織枝さんと、種明かししたマジシャンみたいに笑うナオさん。
「今朝、部屋にあったから」
「……よかったぁ……」
織枝さんが、口に両手をあてて、そのままゆっくりと椅子の背へ体を投げ出した。
「失くしたかと思って、落ち込んでたの?」
うんうん、と織枝さんが口に出さずに頷いてお返事している。
「別に、落ち込むことはないでしょう」
ナオさんはそうしたらまたプレゼント出来る、と何でもないように云う。きっと、恋人の心の負担を失くしたくてそう云ったんだろうけどさ。
「ナオさん、そう云う事じゃないんだよ」
私は黒板のメニューを見ながらヴィシソワーズ頼もっと、と心に決めつつ、余計なおせっかいで口出しした。
「どういうことですか、みゆさん?」
二〇代前半な私にも壮年の常連さんにも同じように接してくれるくせに、オンナゴコロには疎いのかもね。
「織枝さんはね、『ナオさんからもらった大事なストール』だから、すっごく落ち込んでたの。分かってないなあ」
そう暴露してしまうと、大人のカップルの二人は互いを見つめ合い、それから赤い顔をして俯いた。それを見て大矢君が呆れたように「シェフー、甘すぎまーす、糖分控えめで!」とカウンターに寄り掛かって云った。
お付き合いするようになっても、ナオさんも織枝さんも浮かれてぼけーっとするとかなかった。恋人が来店すれば嬉しそうに挨拶はするけれど、ナオさんの味もサービスも決してブレたりすることはなかった。織枝さんも『オーナーシェフの恋人』っていう印籠を翳してお店で女性客を牽制するような真似はせず、織枝さんを彼女だと知らない女性客がナオさんに好意を寄せる発言をしていても、いつもフラットだった。
カウンターの奥の席で、静かに飲んで、静かに食べて。時折、ナオさんと密やかに会話を交わして。
私やほかの常連さんとは挨拶は交わすけど、ずかずかとその中に立ち入るようなことはせず、むしろ私たちが『もっとこっちに来てくれないかな』と思う程に、さりげなく距離を置いて。
頭で分かってはいた。嫌な人じゃないって。
一方的に張っていた分厚い氷の壁が二人を見ていく中でだんだん薄くなっていって、ストールの時のそれで、織枝さんはちゃんとナオさんの隣が似合う人だってはっきりと分かって、ようやく諦めが付いた。ナオさんは織枝さんしか見ていないから、二人がお付き合いするようになった瞬間私の恋は強制終了だったわけだけど、ずっと納得がいかなくて。
なんで、鼻持ちならないその女の人なの?
私の方がずっと前からナオさんのお店に通っていたのに。
認めない、あんな人。きっとこの恋はナオさんが悲しい気持ちになって終わるに違いない。
春頃は、そんな風に思ってしまっていた。
意地の悪いことを考える自分が嫌だったけど、でもそうでも思わなくっちゃやってられなかった。
それでも私が暴走しないで済んだのは、いつも隣にヨッシーがいてくれたからだ。
元々は大学の結構本気なテニスサークル仲間。学部は全然違うのにウマがあって、二人で飲みに行ったり食べに行ったり。社会人になってからも付き合いを続けてお店を開拓しているうちにナオさんのお店に辿り着いた。
そして私は、大人なナオさんにあっという間に一目ぼれした。
でも、私はお店で好意を示すことはしなかったし、かと云ってお店以外で会えることもなく、静かに密かに――ヨッシーにはすぐにバレてたけど――片思いをしていた。
そしたら、ふらりとお店に立ち寄った織枝さんに、ナオさんを掻っ攫われた次第だ。
悲しくて悔しくて、もうお店になんか行くもんかって思ってた。なのに、ヨッシーが私を引きずってそこへ向かう。
「急に行かなくなったら、ナオさん悲しむぞ、お前のことかわいがってたのに」
「だって、行きたくないんだもん」
「今ここでぱったりいかなくなったら、原因なんか一つじゃん。ナオさんも織枝さんも皆も気まずい思いするんだぞ、そんなんで皆にお前の気持ちバレてもいいのかよ」
そう云われてしまうと、失恋した上に皆に憐れまれるだなんてサイアクコースだって分かって、渋々と店に足を運ぶことになった。
ナオさんなんか、調理中に色ボケして、食材焦がしたらいい。織枝さんが困った行動でお店の雰囲気めちゃめちゃにすればいい。
そんな風に考えて、恥ずかしくなった。――こんなんだから、好きになってもらえなかったんだよ。
ぽつりとエンジニアブーツのつま先に涙が一粒、二粒。それをきっかけに通り雨みたいにがーっと泣いた。
でもそれだけ。私のこと好きでもない人の為に流す涙なんて勿体無いし、これからナオさんの作るおいしいご飯を戴くのに、泣いて鼻が詰まってたら味が分かんなくなる。
いっぱいいっぱい云い訳をして自分を鼓舞して、気持ちを立て直した。
ファンデーションのケースの内蓋についているミラーを見て、目の充血が取れた頃合いで「お待たせ! 行こうか!」と、私を待っていたヨッシーにひと声かけて先に歩く。
「はいはい」と、ヨッシーも仕方ないなあってな感じで調子を合わせてくれた。
その日の夜も、ちゃんといつものおいしいナオさんのご飯だった。
ナオさんは調理中に色ボケなんかしないし、織枝さんも恋が成就したからって連日押しかけてくるような人じゃかった。
ギャルソンの大矢君の過去のバカな恋愛話で盛り上がって、むしろいつもより楽しく食べることが出来た。
ヨッシーが私に何か云ったのはその時だけで、後は何も云わなかった。ただ傍にいてくれた。
春、夏、秋と、二人でそれまで以上に色んなお店に行った。でもやっぱり一番多く訪れたのはナオさんのお店だ。
織枝さんと二人でいるところを見るのは辛かったけど、ヨッシーがやっぱり何も云わずにいてくれたから、見苦しい事をしないで済んだ。見守ってくれている人がいるっていうのは大した抑止力だ。
季節が三つ過ぎて、冬が来た。
さすがにもう胸は痛まないけど、ヨッシーはまだ隣にいてくれる。
ねえ。
私が、もういいよ、大丈夫だよって云ったら離れていっちゃう?
それとも、私が、もう大丈夫だよって云ったら、もっと近付いてくれるの?
どっちなんだろう。分かんない。
分かんないから、大丈夫だよって云わずに、そばにいてもらってる。ズルイね。
そんなんで、イブも一緒にいてもらった。もちろんナオさんのお店で。
ネットの口コミとかレストランガイドで見つけて来るのか、その日は常連さん以外のお客さんでそこはいっぱいだった。私とヨッシーはギリギリ潜り込めたけど、予約しないで後からやってきた常連さんたちは予約席も含めると珍しく満席なのを見て『お』ってうれしそうにして、『また来るわ』って帰って行った。――気持ちのいい人たち。
いつもより少しだけ忙しそうだけど、ナオさんはもちろん大矢君もちっともそんなそぶりを見せずに、ゆったりとした雰囲気でいつものようにカウンターで寛がせてくれた。
自分たちのカウンター席の真後ろで、いっこだけ空いていた奥の予約席にも男性客が来て、その少し後に連れの女性が来た。
恋人なのか友達なのか、関係性が読みにくい。
「どっちだろうね」とヨッシーに内緒話したら、「下世話だなあ」って内緒話で返された。――うわ、息が耳にかかるとか、やばい。
ねえこのワイン、ボトルで頼まない? って弱いくせに提案したのは動揺を隠すためだ。
「五パー以上のアルコール飲んだら腰抜けちゃうくせに何云ってんの」って呆れないでよ。
「たまには、飲んでみたいんです」
悔し紛れに云ってみれば、「そう云うのは帰る心配がいらないとこでね」と苦笑された。
「……それって、例えばどこ?」
ヨッシーんち、とか、私のアパート、とかならじゃあ行こう飲もうってそれを理由に出来る。なのにヨッシーは「ん? 実家とかなら安心じゃん?」なんて笑う。
躱さないでよ、泣きたくなる。
どこか緊迫感のある二人が何となく気になって、料理に夢中になっている合間にも意識がちょいちょい背後にいってた。切れ切れに聞こえる会話。彼女への思いを隠さない彼と、つっけんどんな中にも彼への思いを隠し切れていない彼女。――いいなあ。
「ラブラブだ」
呟いたら、また痛そうな顔する人が隣にいるし。
「もう、ヨッシーったら心配性! 人の心配ばっかりしてるとハゲるよ!」
私が背中を叩きながら云えば、ヨッシーは「心配させてんのは誰だと思ってんだよ」って愚痴る。
「私だね?」おどけて云えば、それでもヨッシーは「……や、俺が勝手に心配してるだけだよ」と話を畳んでしまう。
私のせいでいいのに。何でもかんでもそっちが終わらすの、もうやめてよ。
そうこうしているうちに、件のテーブルは何やら進展があったみたいだ。彼が「早く戻ってこい」って云ったのが聞こえた。
彼女のお返事は小さくて聞こえなかったけど、それが「はい」だったと、トイレに行きがてら、ちらりと覗いた男性の満足そうな顔と、彼女の赤い顔が雄弁に物語っていた。
それから彼女は猛烈にレンズ豆と豚の煮込みを食べ始めて、彼も食べて、デザートまで平らげると彼に手を引かれて店を出て行った。
「……すごいの見ちゃったね」
多分、他のテーブルやカウンターの人たちは、会話までは気付いていない。手を繋いで出て行ったのは見ただろうけど。
「いいねえ、ああ云うの」
お酒も飲んでいないと云うのにあの二人に酔ったみたいだ。
「恋は、やっぱり素敵だ」
ヨッシー、これは撒き餌です。私は今、あなたのことを釣り上げたくて仕方ない。
「お前ならいつでも出来るだろ、その気になれば」
「――その気になっても相手がその気じゃなければしょうがないんだよ」
ああ、やだ。悲しくなる。食い付いてよ。
その目は、私の方ばっかり見てるくせに。
会う約束だって、私の事をいつも最優先にするくせに。
もう優しくされるだけはお腹いっぱい。タクシーに乗るなら、家に送ってもらうんじゃなくどこかに連れて行って欲しい。見守られるより、ハグもキスもされたい。
〆のコーヒーまで美味しく戴いて、いよいよ閉店時間も近い。今日も割り勘でお会計をしてあとは帰るだけ。
「これからお二人だけのパーティーですか」
恋仲じゃないって分かってる大矢君からの、冗談交じりのその言葉。上手にウインクまでされた。
ヨッシーが否定する前に私がさらっと受け答えた。
「そうですよ。ナオさんと織枝さんに負けないくらいラブラブな夜を過ごすんです。だってクリスマスイブだから」
それが聞こえたのか、ナオさんがえ? って顔をして、その後赤い顔になって、それからふわって笑って「どうぞ、良い夜を」って送り出してくれた。やっぱり、大人で素敵なナオさん。もうラブじゃないけど、やっぱり憧れの男性だなあ。
大矢君にお店の外まで見送られて、「ご馳走様でした」って手を振って歩き出す通り。
いつもみたいに私が半歩前で、ヨッシーは後ろを歩く。だから、背中はいつも暖かいような気がしていた。ヨッシーがそうして見ていてくれたから、変にいじいじしないでここまでまっすぐ歩いて来られたんだけどね。
さて、撒き餌第二弾、手を少しだけ大きく振って、ヨッシーの手の甲に軽く当てた。振った手が戻って来る前に捕まった。――餌だけ食べられて逃げられるのは何としても阻止しなくちゃ。
「さっきの、何」
そのフレーズ好きだねぇと呆れる。
「言葉の通りだよ。『ラブラブな夜を過ごすんです』」
掴まれた手をこちらからもきゅっと握った。――食い付いて。
「誰が」
「私とヨッシー」
振り向いて笑って見せた。食い付け。
「だって、お前は、」
「私、人の物を指咥えていつまでも見てなんかないよ、とっくに。――ねえ、ヨッシー」
声が震える。やっぱり、確かめるのはちょっと怖い気持ちになる。繋いだ手を離して、背を向けたまま聞いてみた。
「気のせいだったらごめんなんだけど、ヨッシーはさ、私のこと好きだったりするんじゃないの?」
「……そうだよ」
よっしゃ、認めた。――それなら逃がすもんか。
「私がもう、ナオさんを思う気持ちはないって聞いたら、どう思う?」
えいっと勇気を出して、振り返ってみた。コートのポケットに両手をつっこんで、ちょっと前かがみになって。
ヨッシーは、今まで見たことのない目をしていた。戦闘モード? そんな風にまっすぐ見られるのも初めてだ。
「奪いに行く」
……なんだ、ちゃんと狩る機会を伺っていたってこと? 遅いよー! と文句を云いたくなる。
まあそれもヨッシーらしいか。スポーツマンシップに則って、傷を狙い撃ちするような真似はしないでくれた。
「奪う必要はないよ」
笑顔でそう云えば、傷付いたような顔をして。バカだね。
「とっくに、私はヨッシーのものだよ」
寄せられていた眉間の皺はいなくなって、ぽかんと口も目も大きく開いてる。乾くよ。
一歩一歩、トラップを避けるみたいにそっと、近づいてくるヨッシー。
私の目の前で立ち止まる。
「俺は、おまえの隣にいていいの?」
「うん」
それだけじゃ、ただの許可だ。だから、懇願した。
「ヨッシーに、……芳郎君にいて欲しい、後ろじゃなく隣に、ずっと」
「……みゆがそう望むなら、俺もそうしたい」
初めて名前で呼び合った。顔を傾けてヨッシーが近づく。
「ずっと、こうしたかった」
駅の手前の暗い通り。唇が触れる直前でちょっと止まって、それからキスが来た。
優しいキス。顎を掬う手と、髪の毛を撫でる手。私のことを、上等な品物みたいに丁寧に扱うヨッシー。
ヨッシーとの身長差は二〇センチ、そろそろ真上を向いてキスを続けるのは首が辛いわと思っていたらそっと離れた。こういうタイミングがいいのって、すごくいい。
手を取られて再び歩き出す先には、いつもの駅のロータリー。バスはまだあるけど乗りたくないよ、さあどうすんのヨッシー?
真横を見上げてみたら、手は離されないまま改札に向かった。自動改札機の横で立ち止まって、「……帰る心配がいらないとこで、ワイン飲もうか」って、ヨッシーから初めてのお誘いが来た。それって撒き餌? 美味しく戴いてまんまと食い付くよ。
「例えばどこ?」
分かり切ったことでも、聞きたいことってあるじゃない?
返って来るのが欲しい言葉じゃなかったら泣いてやる、と妙な覚悟を決めて聞いてみた。
ヨッシーはきゅっと私の手を掴んで、そして、「俺んち」って一言、一番欲しかった言葉をちゃんとくれた。
「うん、行きたい」
だから私も、きっとヨッシーが欲しいだろう一言をちゃんと返した。
電車がやって来るのを手を繋いで立ったままで待った。
見上げると、男の顔したヨッシーが笑ってる。どうしよう、すごい好きかもしれない。
春に失恋して、夏に吹っ切れて、秋にヨッシーのことが気になって、冬にまた恋をした。
季節四つ分もかかって、ようやくここに来たよ。あとは急行に乗って私たち、どこまで行こうか?
ヨッシーと二人ならどこに行くのも怖くないし、今なら何でもやれそうな気がするけど、とりあえず今日はヨッシーのおうちにお邪魔して、明日の仕事に差し支えない程度にワインを戴くとしよう。
それからのことはそれから考えるとして、今は早くこの人ともっと仲良くなりたい。
闇夜を切り裂くようなヘッドライトをともして、私とヨッシーの乗る急行電車がやってきた。
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14/05/13 一部修正しました。




