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私と田崎と自転車と。

会社員×会社員

 会社の自転車置き場で愛車の『アイシャ号』を止めていたら、空いていた駐車スペースにバック一回で駐車をキメた田崎(たさき)が降りてきた。デッカイ体で、カッワイイ水色の軽自動車と云う取り合わせが面白くて、見るたびに私は笑ってしまう。

 それに気付いて田崎がこちらにやって来る。いつもの顰め面で。

「あんだよ、人のこと毎日笑うんじゃねえよ」

「だって、すごい面白くて毎日新鮮に笑えるんだよ」

西川(にしかわ)ってほんと失礼な」

「田崎が無礼を働くからでしょう? ――おはようございます」 

 社屋のエントランスで上司を見つけてにこやかにあいさつすると、田崎も同じように挨拶をした後、「この外ヅラ魔人が」と低い声で呟いた。

「あら、褒め言葉ありがとーん」

 ひらひらと手を振って横並びをやめて先へと急いだ。――この男は私以外の人には優しく丁寧に接するので、社内では好感度が高いらしい。外ヅラ魔人はそっちだろって話。

「褒めてねえ! オイコラ待て西川! 話は終わってねえぞ」

 振りきれないか。ちっ。

 仕方なく、三秒だけ待ってやる。この男は意外に足が遅い。長いおみ足のくせに残念野郎だ。それにしても今日は特に歩みが遅かった。優雅か。

「田崎、前世は人を待たせる身分の人間だったの?」

「――足が痛いとかは思わないのか」

 云われてみれば、びっこを引いているようにも見えるが、元々いつもこの男は少し傾いで歩いているので気にしていなかった。

「思わなかった」

「――ほんと俺のこと興味ないよな、西川」

「そうだなあ」

 自分の所属する部署のドアをノックして開く。

「オイコラ待てって! 話は終わってねえ! お前、冬は自転車乗るなってあれほど云ってんのにまた!」

 まだなんかギャーギャー喚いていたけどドアを閉めた。部署の人々の生温い視線が居心地悪い。

「――おはようございます」

 おはよう、と口々に挨拶された。

 いっこ先輩の桐嶋(きりしま)さんが笑いを隠せないと云った様子で私に話しかけてきた。

「今日も朝からラブラブコント?」

「ちがぁう! 私とあれの間にラブなんかないんですって!」

「西川さんの側には無くても、田崎君の方にはあったりして」

「ないないない、ありえない」

 コートを壁に作り付けのコート掛けに掛けて、私物を机の一番下の引き出しに入れて、乱暴に引出しを閉めた。

「あいつは私のこと嫌いだから、何もかも気に入らないんですよ」

 そうかなあ? と桐嶋さんが首を傾げる。そうだよ。


 新人研修で同じグループだったものの、配属先は別だった。今年の春に田崎がここに移動になったから、出来れば仲良くできたらなって思ってた。

 うちから会社は歩くと二〇分で、自転車なら一〇分、バスは本数が少ないので論外。車は免許ないし。そんな訳で、お手入れしたばかりのぴかぴかのアイシャ号でやってきて、自転車置き場でひらりと降り立つと、丁度出社してきた田崎が何故か固まっていた。

「おはよう、田崎」

 返事はない。元々口数が多い方ではないから気にしなかった。

「いよいよ今日からだねー、緊張しちゃう? しないか新人でもないし」

 また返事がなかった。

「田崎は、バスで来たの?」

 無言。――って、おい。いい加減、怒ってもいい? 私。そう思って拳を握りしめていたら、地を這うような声を聞いた。

「――んで」

「はい?」

 相棒の右京さんみたいに嫌味っぽく聞いてやった。

「何で、そのかっこでスポーツタイプの自転車なんか乗ってくんだよ!」

「そのかっこって。スーツ着るでしょうが普通、社会人は」

「俺が云ってるのはそんなことじゃない! タイトスカートで乗るなよ! 降りるとき足上げたら見えるかもしれないだろ!」

「別に、こことアパートの駐輪場でしか下りないから大丈夫だって」

「どうせ帰りにスーパーだのコンビニだの寄るんだろ?」

「……あ」

 そう云われて初めて気が付いた。

「もっと考えろ!」

 云い捨てて、少し体を傾がせたまま先に歩いていく、見覚えのあるその後ろ姿に、思いっきりイ――ッ! てしてやった。


 それからも勿論晴れている日は自転車――かわいいアイシャ号――でやってきた。夏も冬も。

 あいつの話を聞いてそうかじゃあ毎日パンツスーツにしようとかない。ローテーションでそれを着ることも当然あるけど。

 いつだったか、たまたまパンツスーツだった時にたまたま私が自転車を降りるタイミングで田崎も車で出社してきたので、わざと足を跳ね上げて降りてドヤ顔してやった。

 田崎はそれには触れずに、ちょっとだけ早足で、と云っても普通の人の普通に歩く速度で、私の方に歩いてきた。少しだけ傾いだ身体と揺れる髪。

「お前なあ!」

「田崎、挨拶位ちゃんとしようよ、はい、おーはーよー」

「……おはよう、それより何だ今朝の運転」

「はい?」

「バス通りでバスの真横をすげースピードで行きやがって! 危ないだろ!」

「はあ」

 あーめんどくさいおかーちゃん降臨モードだよー誰かタスケテ。

「うるさいなーもー」

 心の声はそのまま出ていたらしい。

「うるさいってお前」

「気を付けるーじゃーねー」

「待てって!」


 顔を合わせれば文句ばっかりで、苛々する。

 苛々する。



「君らは、もっと仲良くなる方がいいね」

 忘年会の席で、桐嶋さんからいきなりそう云われた。

 君らって誰と私? なんてきょとんとしたりしやしませんよ。

「桐嶋さん、無理っす絶対無理」

「お前なあ! こっちの台詞だそりゃ」

「まーまーまー二人とも落ち着いて」

 長ーく並べられたテーブルの、対角線上にいた――要は一番遠くにいた私と田崎は、程よく酒がまわって程よく場が砕けた頃合いで、桐嶋さんに指でちょいちょいっと呼ばれて、彼女の向かい側でこうして並んで隣に座らされている。

 桐嶋さんの意地悪―。これじゃお酒、おいしく戴けないじゃん。

 そう内心で毒づきながら、また梅酒のソーダ割りをちびり。田崎は自分の前にビールのピッチャーをどんと置き、それをくいくいと注いでごいごいと飲んでいく。なのに顔色一つ変えないとかムカつく。

「君らが、なぁんでそんなに喧嘩ばっかしてるか、まあわかってるけどさ周りは」

 桐嶋さんがネギまを食べつつ云うと、何故か初めて田崎が動揺した。

 でもね、と桐嶋さんが続ける。

「職場だから、出来ればもうちょっと友好的になって欲しい訳ね」

 無理っす。――無理っす。

 嫌われてるって分かってるのにそんなの頑張れません。

 そう云ってしまうのを、梅酒のソーダ割りでごまかすようにピッチを上げて飲めば、「お前ペース早すぎ、もうちょっと落とせ」と田崎がお冷を頼んで私の前に置く。

「やなこった、酒くらい好きなペースで飲ませろってんだ、てやんでえ」

「お前なあ!」

「あーはいはい、田崎君落ち着いて。西川さんも意地にならない」

 ほら、と綺麗なネイルの指で示されれば、桐嶋さんラブな私はお冷を飲むしかほかに道はない。

 ……ん、おいし。

 冷たいお水を飲んで、ちょっとだけ気持ちが冷静になる。

「でも桐嶋さん、友好的って急に云われても困りますよお」と愚痴ってみた。

 なんせ、とっかかりがまるでない。

 ――新人研修の時は、私だってみんなと同じようにおしゃべり出来てた。

 綺麗な字を書く田崎の簡潔なメモはいいな、と思ったし、お酒を飲んで盛り上がっても下品にならなくて、いつも姿勢が良くて、清潔感があって。

 本当は、うちの支社に田崎が来るの楽しみにしてた。同期会でも男チームで固まって飲んでるから、ちっとも話す機会なんかなかった。これでもうちょっと仲良くなれたらうれしいって思ってた。

 それなのに初日にアレだ。私の方は初っ端でもう防火シャッターがガンと降りたみたいに頑なになったことは否めない。

 そんなことをつらつら思い出しながら、ぐびぐびお冷を飲んでいたら、「おい、ちっとも食ってないぞ、野菜も肉も食え」と田崎がまた世話を焼く。

「お母ちゃんかよ」

「何でもいいけど、食わないで飲んだら回るぞ」

「かーちゃんありがとー」

 お前なあ! とか、○○しろ! とかエクスクラメーション付きお小言じゃなかったから、まあまあ素直に聞いた。

「田崎、あれとってあのサラダ、ツナ多めで」

「田崎、ポテト皿ごとちょうだい、そっちの人たちもう食べないし」

「田崎、おぼろ豆腐食べたい」

 田崎は「はいよ」「ほら」と私の命令みたいなお願いを素直に聞く。だから、一しきりとってもらった後、梅酒のソーダ割りのコップの中で、小さくつぶやいた。

「……たさきありがと」

 それを聞いたか聞かないか、田崎はふわっと笑った。

 うん、と桐嶋さんは満足げだ。

「やっぱり、仲いいじゃないの」

「誤解です」

 私がばっさりやるとたちまち田崎の眉間には深い皺が刻まれた。桐嶋さんはあちゃーと天井を仰いだ。

「せっかくいい感じだったのに、こら、西川―!」

「はぁい!」

 桐嶋さんは本気で怒っていないけど怒ったポーズの時だけ、私のことを呼び捨てにしてくれる。それが嬉しくって、思わず甘いお返事になってしまった。あー隣行って桐嶋さんのファンキーでグラマラスなお胸にすりすりしたーい。

「お前ほんと桐嶋さんのこと好きな」

 呆れたように田崎がビールを煽って、またピッチャーから注ぐ。

「そうだよ―(みどり)さん好き―!」

「私も西川さんのこと好きだよ」

「私たち両想い!」

 きゃーって云って、曲げた肘でグーを握って思いきり縦に振っていたら、やっぱり呆れた目で隣から見る男。

「まあ、それでも私としては君らも仲良くなって欲しい訳。そこで提案」

 桐嶋さんは振り返って生中をお店の人に頼んで、こっちに向き直った。

「新人研修でもやったかと思いますが、ここでお互いのいいところを見つけて一分間褒め合ってみましょう。悪口と嫌味は駄目。真面目にね。はいじゃあ西川さんからどうぞ」

 綺麗なあの掌が私の方に向けられれば、やらざるを得ない。しょうがないなー。

 それでも、ちゃんと口からそれは出てきた。

「……字、綺麗。書類が見易い。納期を守る、無理しないでダメなときはすぐ回りにヘルプを出せる、その代わりにフォローもちゃんとする、周りとのコミュニケーションを取るのが上手、どんな小さい仕事でもお願いしたことをやってもらったらきちんとお礼を云える」

 周りの評価も取り混ぜてるものの、ちゃんと自分の所感だ。所属は違っても割に仕事での横のやり取りは多い。ムカつくけど仕事面では文句なしだ。それでもまだ三〇秒だった。――仕方なしに、心にしまってあるなけなしの本音もお蔵出しにした。

「……真っ黒い目が綺麗。薄い唇がセクシー。スーツの着こなしがいい。低い声がツボ」

 私がそれを云い出したら、何故か猛烈にそっぽを向いてビールを煽って注ぐを繰り返す田崎。あんた人にはピッチがとか云っといて何それ。ちゃんと褒めてんだから聞いとけ。酔っ払ってるからチョイスがちとおかしいのは許して欲しいのだけど。

「姿勢がいい。後輩の面倒見がいい。車の運転はきっとうまい」

 やっばいもう褒めどころがないと思ったところでちょうど終わった。ふー、ギリギリ。

 桐嶋さんは笑いながら、目に浮かんだ涙をおしぼりでちょいちょいと拭いている。

「うん、いいんじゃないの、よかったね田崎君報われたね」

 そう投げかけられて、田崎は何故か赤い顔を憮然とさせながら「……はあ」とだけ返した。

 何だよやっぱ嬉しくないんじゃん。ムカついたので反撃した。

「と、そんな風に思っていた時期が私にもありました」

「過去形かよ!」

「まーまーまー田崎君、落ち着いて、今度は君の番だからね、はいスタート」

 田崎はテーブルの上の揚げ物たちを睨みつけながら、ぼそぼそと云う。

「……仕事が早い。いつも笑顔で引き受けてもらえて気持ちがいい。愛嬌のある字でひとこと気の利くメモを添えるところはきめ細かい。誰にでも笑顔で接するので職場でのムードメーカー的存在」

 ぎゃあ、やめてええ!

 田崎の表情と低い声からは想像もつかない、褒め言葉の数々。これ、恥ずかしいです碧さん!

 そう思ってもまだその攻撃は止まない。

「……髪をきちんとまとめられているのが清潔感があっていい。口開かなきゃ普通に美人。指がほっそりしていて白くて綺麗。足、めちゃめちゃ綺麗なので晒されると目の毒」

 うわあああ田崎が、田崎が壊れたあああ!

 何だそれ、聞いたことないぞそんなの、だってひどいこんなのまるで、

「自転車を嬉しそうに運転するのがかわいい、ちゃんと手入れされてて大事に乗ってるのが分かる、」

 ……まるで、

「歩行者に優しい、年寄りと小学生と妊婦さんと赤ちゃん連れに親切」

 私のことが。

「だけどもうちょっと車に気を付けて運転しろ!」

 一分マダ―!? と褒め言葉の嵐で窒息しそうになっていた私に投げ込まれたそれはまるで救命浮き輪だ。慌てて縋る。

「だって車の人って自転車に不親切!」

「だからって張り合っても自転車が負けるに決まってんだろう! あと、冬は暗くなるのが早いんだから自転車で来るな!」

 ――いつものやり取りが、何故か嬉しかった。


 桐嶋さんはうんうんと頷いて、「いいね」と仰った。その声色がとっても満足の時のものって知ってて、私は嬉しくてにこにこしちゃう。

「――褒めたんだぞ?」ってふてくされてビールを煽るのが隣にいるけど、スルーしてよ。こっちはいっぱいいっぱいなんだから。


 だって、嫌われてると思ってた。私のやることなすことケチ付けるから。

 なのに、ちゃんと見ていてくれてただなんて、こんなのどうしたらいいのさ。

 車が急に止まれないみたいに、人の心だって急に方向転換は出来ないんだからね。とりあえず、云うだけ云っとくけど。

「ありがと、田崎」

 無視かよと思う程の時が流れてから、「――ん、俺も、ありがと」と低い声で返ってきた。



 そんなことがあったからって、やっぱり急には変われない。生活習慣だって変えられない。だって自転車やめてバスにしたら朝三〇分早く出ないとなんだよ! 冗談じゃない!

 休み明け、足の露出は黒の分厚いタイツ履いて来たからこれで田崎も満足であろうと思っていたら、やっぱり顔を合わせた駐輪場で渋い顔で「タイツだって足出してんだろうが、体冷やすな」とやっぱりお母ちゃん目線なご指摘を受けた。

「はいはいー」

「お前なあ!」

「聞いてるよー」

 何でだろう、前ほどやじゃないんだ、我ながら単純だけど。

 明日はシャカパン履いてきて、会社でスカートに履き替えようと決意した。云っとくけど田崎に云われたからだけでそうするんじゃなくって、寒波の影響で寒いからだ。

 明日はクリスマス当日、だけどみんな普通にお仕事。飲み会するとかデートするとか云う人もいるにはいるけど。


 忘年会の場で聞きだした田崎の今日明日の動向は「なんもねえよ、……意地悪い顔で笑うんじゃねえ」とのことだった。「お前だって暇なくせに」と反撃も忘れない。

「別にぃ? もしかしたら連休中にラブラブな人と会うかもしれないじゃないさ」

 いないし、そんな素敵イベントもない癖にそう嘯く。

 それを聞いて、何故か桐嶋さんが酒を噴いた。赤い顔してダスターでテーブルを拭いて。

 田崎は複雑そうな顔をして黙って、またビールを飲んでたっけ。


 もう年末に向かって取引先も投げてくる仕事量をセーブしてくれているので、――年明けが怖いけど――、うちの部署はそんなに残業しないで帰れた。よかったね、デートと飲み会の人たち。その人たちを横目に、私も帰る支度をした。Pコートにマフラーに帽子に手袋、そしてブーツ。明日はそれプラス、シャカパン。

「お先に失礼します」と残っている桐嶋さんやそのほかの人たちに声を掛けて出る。廊下で田崎と行き会った。

「お疲れ」と田崎が云い、「お疲れ」と私も返す。

 あの忘年会以来、ちょっとだけ互いの態度が軟化した、と思う。

 田崎は腕時計をちらりと見た。

「そっちはもう上がりか」

「うん。ちゃんとライトつけて安全運転で帰る」

 云われる前にとそう云うと、「当たり前だ」と苦笑されて、手が頭の上に降りてきた。言い訳するみたいに、「……帽子、ずれてたから直した」なんて云って。

「……ありがと、じゃ」

 もう一度お疲れ、と云い合って去っていくその後ろ姿。ほんの少し傾いで歩く。

「田崎、メリークリスマス」と声を掛ければ、右手がひらひらと返事をした。

 そんな、それだけのやり取りが嬉しくて、ポカポカした気持ちで自転車を漕いだ。いつもより、ゆっくり、丁寧に。


 それは、比較的見通しの悪いきついカーブで起きた。

 カーブの奥の道から、右折車がこっちを見ないで結構なスピードで出てきた。

 前にも何度かそんな事があり、危ないなと思っていたので減速はしていたけど、間に合わなかった。

 がしゃーんとかききーとか、色んな音がして、かわいいアイシャ号の前輪が引っ掛けられて、私は地面に投げ倒された。


 帰宅途中のことだから労災降りるかも、で、応急処置の後、実家だけじゃなく会社にも連絡をしてもらった。

 念のためレントゲンとCTを取ると云うことで、一人薄暗い病院の廊下の椅子に座る。――腕、痛い。

 幸い、大けがにはならなかった。減速してたし、地面に倒されたけど後続の車の人がちゃんと見ていて止まってくれたので、轢かれずに済んだ。こっちを見ないで車を発進させたおじいちゃんも逃げないで、ちゃんと警察と救急車を呼んでくれた。

 でも、アイシャ号が。

 綺麗な、とっても綺麗なキウイグリーンのかわいいアイシャ号は、スポーツタイプとは云え量産品で、多分本格的なものではないから部品だとかきっと手に入らない。もう、五年乗ってるし。

 ――廃車かなあ。

 それを思うと涙が出た。ぐす、と泣いていたら、

「――、にしかわっ!」

 息を切らした田崎が、いつもより大きくびっこを引きながら夜間救急の入口からこちらを目掛けて駆けてくる。私は思わず、「だめだよ、走ったら! 膝崩れる!」と叫んでしまう。

 それでも田崎はスピードを緩めず、――と云っても普通の人のジョギング程度のスピードで――幸い膝崩れは起こさずに、やってきた。

 私のすぐ横にどっかりと座りこんで、荒い息を吐いて、浮かぶ汗もそのままに、あの低い声で聞いてくる。

「……大丈夫なのか」

 うん、と頬の擦り傷の上に大げさなガーゼを当てられた顔で頷く。

「擦り傷と、地面に投げ出された時の打撲くらい。今、一応検査待ち」

「そうか」

 それを聞いて、はあと大きく息を吐いて、田崎は私をやんわりと包み込んだ。

「気が気じゃなかった、お前が事故ったって聞いて」

「ごめん、心配掛けた」

「いつか事故るんじゃないかって冷や冷やしてた。お前俺の云うこと聞かないし」

「うん、ごめん」

「――俺みたいに大けがじゃなくて、本当によかった……」

「ごめん」

 返事はない。

「田崎、泣かないで」

 田崎は、痛くない方の私の肩におでこをつけて、声を出さずに泣いた。

 少しだけそうした後に顔を上げて、赤い目と震える声で静かに云う。

「手術とかリハビリとか、辛いんだぞ」

「うん」

「だから、骨は折るなよ」

「折らないよ」

「冬場はもう会社に自転車乗ってくんなよ」

「でもバスだとなあ」

「――俺が、毎朝迎えに行っちゃ駄目か」

「え?」

「迎えに行く」

 もう決まったことのように云って、擦り傷の上に貼られたガーゼに覆われていない指先を、きゅっと握られた。


 田崎の車に同乗してきた桐嶋さんが見たのは、満足そうに甲斐甲斐しくお世話をする田崎と、お世話をされて顔を赤くする私と、繋がれた指先、だった。

 心配してくれてた顔は瞬時ににやーって笑って、「よかったね、田崎君」と何故か田崎にそう云った。云われた田崎もはい、とか云ってた。

 幸い、骨に異常はなくて、会社も大事を取って一日休んでから、出社することになった。



「そういや、さ」

 田崎が云いにくそうに運転席で前を向いて云う。

 早速アパートまで迎えに来てもらった初日。小さい軽自動車に乗る田崎はやっぱりかわいい。

「お前、何で知ってんの膝崩れとか」

「ああ」

 私は用意されていたひざ掛けを弄りながら、内心のドキドキを隠して、うまいことしれっと云えるといいなと思いつつ口にした。

「田崎が箱根駅伝に出てたのも、事故で粉砕骨折して選手生命絶たれたのも知ってるから」

 信号待ちで田崎は固まって、「――ええええええええ!?」と今まで見た中で一番の驚きを見せた。ん、満足満足。

「だって、お前、今までそんなの一言も」

「云えないでしょー? 実はファンだったのにその人がそんな理由で競技辞めちゃって、同じ会社に入ったなんて」

 追いかけた訳じゃなく入社はたまたまだけど、その不幸を喜ぶみたいで、口には出せなかった。田崎も敢えて周りに云ってなかったし。

「――そっか」

 頭の上を、ポンポンと掌が躍る。ハンドブレーキを解除して、車が再び動き出す。

「アイシャ号の色も、あんたんとこの大学のユニフォームの上半分の色だったんだよ」

かわいいアイシャ号はやっぱりもう乗れなくなっちゃって、でも捨てられなくて、実家の庭の隅に置かれている。

「そっか」

「なのにすっごい嫌われててさー、ショックだった―」

 茶化して云えば、「ごめん、好きの裏返しであんなんなってた」って、素直に云われた。

「ん、いいよ」

 車は会社の駐車スペースに入り、今日もバック一回で駐車が決まる。

「やっぱ、運転上手いよね」と云えば、「いつかお前を乗せてドライブしたいって思ってたから。運転下手だとかっこ付かないだろ?」と返された。


 多分、私は怪我が治って新しい自転車を買ってもこれから冬の間、通勤の足で自転車には乗らないだろうな。それで毎日田崎に送り迎えしてもらうんだ。


 こっちからも気になることを聞いてみた。

「足、今でも痛いの?」

「いや、傷自体はもう痛まないんだけど、雨の降る前の日とか寒い日はしくしく痛い」

「年寄りか」

 突っ込んで憮然とされた後、ぼそっと「よかったよ、治ってたなら」と思いきり顔を背けて云ったら、首がもげる勢いで頭をぐっしゃぐしゃに撫でられた。


続きはこちら→ https://ncode.syosetu.com/n7313bz/4/


13/12/27 一部修正しました。

14/10/13 一部修正しました。

15/09/25 誤字訂正しました。

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