大変よくできました
教師×教師
まる、まる、……んん、おしい、計算式はあってんのに答えがばつ。まる、まる。
ぺらんと用紙を裏返す。楽しげに乱暴な字を解読して、なんでそんな突飛な答えになっちゃったかなあ? って思いながら、また採点をする。まる、ばつ、ばつ、ばつ、まる。うん、ここ、よくがんばったね!
採点用の赤ペンの色は、ちょっと蛍光っぽいピンク。この色、好き。
書道の採点用の朱墨の色も小さい時から好きだったから、晴れて教師になり、副担任を経て三年生の受け持ちになり書道の時間が始まると、私のテンションは密かに上がった。
……まる、まる、まる、まる、まる。ばつ、まる、まる、ばつ、ばつっと。
なかなか終わらんな。
日々の小テストに宿題に授業で使うプリントにドリルに漢字練習帳と、まる付けの仕事はすっごく多い。その割に、返された解答を見ると云う習慣はなかなか子供たちに根付かない。出来れば、宿題プリントはおうちで見てもらって親御さんにまる付けをして欲しいなと思うのだけど、お仕事をなさっている方が多い昨今、負担を増やすことは学校からは云えない。
今まる付けした子は七〇点。ケアレスミスの多い子だ。今回の通知表にも落ち着いて考えましょうの欄に○のスタンプを押したっけ。
――まる、まる、まる、まる、まる。ひっくり返して。「まる、まる、まる、まる、まるっ! すっばらしい!」
表も裏も全部正解の子には、一〇〇点と記入した周りにもれなく花丸を付けることにしている。これが意外な事に子供たちへのウケがいい。
まだ、三年生ってギリギリ小っちゃい子チームだからなのかな。
花丸のついた解答を見て見てと友達に自慢する子に、それを羨ましそうに見る子。
今一〇〇点と花丸を書いた子も、「おれ、ひゃくてーん!」と、「おれ」の「お」にアクセントを持ってくる、小さい子独特の云い方で喜びそうだな。それを想像するとかわいらしくてたまらない。
結局、算数の小テストで一〇〇点は、この子一人だけだった。ちょっと皆、冬休みの算数プリント頑張ってよー。
「ふー、きゅうけーい……」
まる付けしたばかりの解答に頬を乗せて休む。
窓の外を見れば、防災無線から流れる『夕焼けチャイム』――外で遊ぶ子供たちに帰宅を促す目的で放送される――の鳴った一時間後、五時過ぎの外はもうこの季節は真っ暗だ。子供たちも、夏は七時八時まで外で遊ぶ猛者がいるが、さすがに冬は籠るのが早い。
この時期のこの時間、暖房のついていない教室は寒いので、私は家からひざ掛けを持ち込んでいる。
何処もそうだと思うけれど、市の財政はいつも逼迫していて、学校に回される予算も余裕などありはしない。職員室なら暖房が入っていて暖かいのに、そこに行かないのは私の勝手だから、放課後の一人の教室で暖房は使わない。
週明けの月曜日は天皇誕生日で、その翌日が終業式。これが二学期最後のまる付けだ。……つっても、今日は算数の他にも漢字の小テストをしたから、少し休んだらとっととやらなくちゃ。
ふと教室の後ろの黒板に目をやると、今日の学活の名残がそのまま残っている。わっかの飾りに、上手なイラストに、折り紙で作ったさまざまなオーナメント。
子供たちのリクエストと『お楽しみ係』の企画により、今日はクリスマス会をした。
各グループが出し物をして、歌を歌って、手作り品のプレゼント交換をして。私も、フェルトで作った小さなリースを出品した。子供たちの作る大きな輪に入れてもらって、『赤鼻のトナカイ』を歌いながらプレゼントを回して、司会が「ストップ!」って云ったところで自分の手元に来たものがプレゼントになった。
私には、普段やんちゃな男の子がお母さんと作ったと云う、折り紙製の指輪――ちゃんと石っぽい部分もある――がやってきた。しかも、レアな銀紙で作ってもらったそれ。感激して、ありがとう、って指に填めて伝えたら、その男の子は真っ赤になってしまった。
それを、なんとなくまた指に填めてみる。……うん、かわいい。
職場で出来た恋人とは、先月駄目になってしまったけれど、私にはかわいい子供たちが三〇人もいる。それって幸せな事だ。
うるさくて、生意気で、毎日頭に来ることばかりでも、思考がやわらかい子供たちの日々の成長は、まるで早回しの映像を見ているよう。
うちのクラスの子供たち皆が、一番に欲しいプレゼントを、サンタさんからもらえるといいね。……三年生にもなると信じている子はだいぶ減ったけど。
――それが、私のサンタさんへのお願い?
心の中で、問う声が響く。
そうね。そう願ってる。
私も、それに答える。
一人ブレインストーミングは私の癖だ。しょっちゅう、こんな風に問いかけて応えたり、ディスカッションしたり、している。
――でもそれは、教師としての私のお願いでしょ。私個人のお願いは?
その内なる声に、むっとした。
やな奴。って自分か。
知ってるくせに。願いなんか、ただ一つだよ。でももう終わったじゃん。無理。壊れたものは元には戻らないんだから。
ここまで云わせておいて、それでも問う側の私は追及の手を緩めない。
――それで? そのお願いってなあに?はっきり云ってごらん。
悪いことした子供に云うように、私は私に語りかける。
だから!
まだあの人の事が好きなの。大好きなの。
ごめんて云いたいし、やり直したいって思ってる。
でも、職員室で目も合わせてもらえなくて、どうしようもないじゃない。
……それでも、諦められないんだよ……。
――よく出来ました。花丸!
耳の奥で、ペンでまるを描く時のキュキュッと云う音が響いた。
「……あ……」
寒くて目が覚めた。やば、寝ちゃったんだ。慌てて時間を確認すれば、それでも寝ていたのは一〇分程度だったらしい。まだ六時にもなっていなかった。
起きた拍子にひざ掛けが床に落ちたので拾おうと、座ったまま手を伸ばす。と。
それを見つけて、ひざ掛けは床に落ちたままにして、思わず自分の左手の薬指を目の前に翳した。
嵌めていたのはおもちゃの指輪だった筈。それが、何故か今、ダイヤモンドの嵌ったプラチナリングになっている。しかもこれは、まだ二人が壊れていなかったとき、雑誌を見て指差して、これいいなって私が呟いた奴だ。
仰々しくなくって、仕事中でも着けていられそうだなんてその時は思った。
あなたはふうんて云うだけで、ブライダル特集の組まれたそのファッション誌をつまらなそうにぺらぺらと捲って見てるから、私とそうなるつもりはないのかって、ガッカリしたのを覚えている。なのに。
「なんで……」
翳した指の向こう、ずらりと並ぶ机の列の一番前の机の上に、あなたが腰掛けていた。
ジャージの教師が多い中、チノパンと白いシャツとコットンベスト、冬はそれプラス、カーディガンを好んで着て、受け持ちの六年生女子からはおしゃれだと評判がいい、彼。
膝と膝の間に、組んだ指を入れる猫背の姿。
教務主任の先生に、しょっちゅう怒られている、長い前髪。
その下で不安げに揺らめく黒い瞳が、同僚としてじゃなく『私』に向けられるのを、ひと月ぶりに見た。
「ずっと、考えてた。俺と君は何で別れたのか。別れる原因は何だったのか」
――私の大好きな声が、同僚としてじゃなく『私』に掛けられるのを、ひと月ぶりに聞いた。彼は自分の指に目線を落としたまま静かに話を続ける。
「俺達、忙しさにかまけてちっとも互いの気持ちを聞いていなかった。こう思ってる筈って決めつけて、勝手にガッカリして」
まさに、その通りだった。
「君はまだ若いし担任を持ったばかりだから、結婚なんて考えていないんだと思ってた。俺だけだって」
「違うよ」
思わず出た声は、驚くくらい弱弱しくて、子供たちを叱りつけるいつもの私じゃないみたいだ。
「そりゃ、子供を作るのはちょっとまだ考えられないけど、年とか関係ないよ。あなたとはすぐにでも結婚したいと思ってたし、……今更かもしれないけど、今でもそれは変わらないよ」
「……じゃあなんで、そう云ってくれなかったの?」
「だって」
むくれた顔になっているのは分かってる。
「だって、何?」
低学年の受け持ちもしたことがある彼は、小っちゃい子に話を聞くみたいに、椅子に座ったまま俯く私の前にしゃがみ込んで、目線を合わせる。――床に落ちたままのひざ掛けを拾って、そっと掛けてくれた。そして。
「云って」
両の手の指先だけを、下から掬うように包まれた。
「……ブライダル特集の雑誌見て、興味なさそうにしてたじゃない」
「ああ、あれ」
彼もその時の事を覚えているらしい。
「指輪とかドレスとか、色々詳しく載ってたろ? 諸費用でいくらかかるとか。それ見て、君といつになるか分かんないけど結婚する時まで頑張ってお金溜めないとなー、でも給料安いしなー、って考えてたら生返事になった。君が見てたのも特集目当てじゃなく、ただ普段使いにいい指輪を見ていたんだと思って。……ごめん」
「……そっか」
あれから、好きだよって云われても、大事にされてても、でも私とは一生モノのお付き合いじゃないんだよねって思ったらとげとげした気持ちで態度が悪くなった。
すぐにつっかかって、あとからごめんねって云おうと思っても、意地と忙しさからなかなか云えなくて。
挽回の機会もないまま悪い雰囲気になることが重なって、――売り言葉に買い言葉みたいに、別れた。
「ごめんなさい」
恥ずかしい。私のせいじゃん。
「俺も、ごめん。きちんと話して、君がどう思ってるのか聞くべきだった。……このまま、もう少し話を聞いてくれる?」
私が頷くと、あなたは一度息を溜めて、それから話し出した。――それは緊張している時の癖だって、知ってる。
「君の事を諦めようと思ったけど、出来なかった。だから、どうしたらもう一度俺とやり直してもらえるか、考えた。それで先々週、君と仲のいい先生に市内の研修会で会った後、頼みこんで君の気持ちを聞かせてもらった」
告げられた名前は、今年の春他校に転任になった同期の先生。彼女にはずっと彼のことを相談していた。
「君をあんなに泣かせるなんて! って、めちゃくちゃ怒られた。俺と結婚したいって云ってたのに別れたってどういうこと! って。それ聞いちゃったら後悔のカタマリで、謝りたいのに君の顔が見られなくて、逃げてた。俺は別れてひと月たっても気持ちは変わらなかったけど、君は若いからひと月で心変わりしてるかもしれないっていうのも怖くて。でも」
頬を滑る手が、あったかい。あなたの方が体温が高いから。
「この時期のイベントに勇気をもらって、ダメモトでプロポーズしに来た。すごく緊張して来たら、君、ここで寝てるから、力が抜けちゃったよ」
健やかに寝ていた私を思い出してか、あなたが笑う。
「勝手に指に嵌めてごめんね。……やっぱり似合ってる」
ペンだこのある手が、頭を撫でる。そうしながら柔らかく私を見るのは、ふた月ぶりくらい?
それだけで嬉しくて涙が出てしまう。
あなたは涙を掬ってくれた後、再び撫でだした手を止めてくすりと笑った。
「ほっぺに、花丸がついてる」
「へっ」
「ここだよ」
云うが早く、手を伸ばすより先に頭を抱き込まれ、頬にキスを落とされた。
「せんせっ、ここ、職場っ」
「名前で呼んで」
「呼ばない! 最初に決めたでしょ、職場に恋愛は持ち込まないって!」
まだ校内に残ってる他の先生に気付かれないように小声でそう云ってるのに、とおも年上のこの人はやめるどころか椅子にすわったままの私をもう片方の手で抱き締めにかかった。
「じゃあ、俺んち来てくれる?」
囁かれる耳元が、くすぐったくて熱い。
「行くから、離して、」
「じゃあ、その指輪もそのままずっとしておいてくれる?」
「する、します、だから、」
離してって言葉は云う前に畳み込まれた。
「じゃあ、俺と結婚するね?」
逃げるのはもうやめて、床に膝を着いたままのあなたをちゃんと見た。
「――はい。します」
その目から、ようやく不安げな色が失せた。
あなたはさっと立ち上がり、私から離れて膝に付いた埃を払う。
「採点の続きはうちにきてからにしよう。一〇分後に駐車場で待ってる」
それだけ告げて、扉の方に歩きかけて、一旦戻ってくると私の頭を撫でた。それで満足したらしく、さっさと教室を出て行く。
続きはうちでって、ちゃんと時間をとっといてくれるんでしょうね。行ったらいきなり恋人タイムとか困るんだからね。
――黙っているとろくなことはないと身に沁みて分かったから、これは車の中ではっきり云っておかなくっちゃ。まだ採点の終わっていない小テストを掻き集めてながらそう誓う。
それから。
今日、彼に勇気をくれた北欧に住んでいる白いお髭のおじいさんに、日本の片隅からありったけの感謝の気持ちを伝えた。
「そう云えば、私がしてた折り紙の指輪、どうしたの?」
「うん、俺が持ってる」
「返してくれるかな? 今日クラスのクリスマス会で、プレゼント交換でもらった奴なの」
「……」
「おーい、聞いてますかあ」
「……聞いてるけど、あれ見たときすっごい対抗意識燃やして思わず指輪を填めちゃったんだよな」
「うんうん、それで?」
「俺以外から贈られた指輪は、おもちゃでもして欲しくない――って云ったら、引く?」
「引かない。でも、返して? ちゃんと大事に仕舞っておきたいから」
「分かった。――あーもう俺ほんと余裕なさ過ぎ」
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