篠塚君、幸せそうなの
元彼×元彼女
別れた男が幸せそうにしてるとむかつくのは何故だ。
私がつい先だって付き合っていた相手と別れたからか。私の心が狭いからか。両方かそうか。
コイツと切れたのはもう、二年も前になるんだけどな。いつまでたっても心安らかにならないな。いつもいつも会うたびににこにこと幸せそうにしやがって。それより私が幸せになーれってんだコンチクショウ。
神はおらぬのか神は。誕生日祝ってやるから願い事叶えて下さい。
「七瀬さん、それ聞こえちゃってるんで」
二年も前に別れた男であるところの篠塚学がテーブルの向こうからムッとした様子も見せずに云って、ビールを飲む。
「聞くなよ無粋な奴だな。もしくは聞こえてても聞こえないふりをするのが大人の流儀だろうが」
私も目の前でナチュラルに悪態をついていたことについて『ごっめーん、悪魔に取り憑かれてた☆』なんてごまかしは一切せずにむしろ開き直る。別れたおのこに愛想は無用である。
「また、別れたんだ」
どうぞ、と唐揚げにレモンを絞ってかけてこっちに勧めながら『また』ってさらっと云ったぞコイツ。私がもし歌丸師匠ならコイツの座布団全部持ってっちゃってと山田君に無慈悲なコマンドを下しているところだ。私が私でよかったな、命拾いをしたぞ、篠塚学。唐揚げ美味しい。
もぐもぐと唐揚げを頬張っているので話せないでいると、私がぐうの音も出ないでいると勘違いをしたのか、篠塚学はさらに話し続ける。
「七瀬さんは男の趣味が悪いんだから、自分で選んじゃダメなんだって」
「なら見繕って、よさそうなのをよこせ」
「それ、人にお願いする態度?」
くそ、足元見やがったな。チッ。
「……篠塚君、お願い」
仕方がないので瞬きしないでじっと篠塚学の目を見て、ちゃんと女子らしくお願いした。二〇秒で解除した。
「どぅわー、目ぇ乾くー!」
しぱしぱと思う存分瞬きしていると、篠塚学がため息を吐いた。
「……七瀬さんてほんっと、男に夢見せてくれないよね」
「は? 別れた男に与える夢なんかありません」
口直しにビールだビール。
中ジョッキを二つ頼んで、やってきたのを両方自分の前に並べて一つを飲み干す。げっぷがうまく出なくて鼻につんと来て、涙ぐんでしまった。
「どうしたの」
篠塚学は心配そうに私の顔を覗き込む。近い近い、離れろ。
掌で篠塚学の顔をぐいと遠ざけた。これでよし。
「今のはうまくげっぷが抜けなくて鼻に来ただけだから心配は無用である」
「……ほんっと、」
「その続きも無用である」
二杯目のビールはうまいことげっぷ出来た。なのにその音を聞いて、篠塚学は複雑そうな顔をした。
別れた相手に夢なんか見てどうするんだ今更。
こうして会うだけで充分じゃないか。
夢なんか見るもんじゃない。
「で? ちゃんとお願いしたんだからちゃんと私にぴったりなお相手をよろしくね、元恋人のよしみで」
「……わかった」
ため息をまた一つ吐いてホッケを食べるその綺麗な箸使いに思わず見惚れてしまった。篠塚学に気付かれる前に目を逸らした。
篠塚学にはずっと好きな女がいる。
私が奴と別れて、彼氏を次々に登板させては降板させたり降板されたりしている間も、奴はいつも一人の女を好きでいて、いつも幸せそうにしている。
『七瀬さんも、そんなに焦らないでじっくり誰かを好きになりなよ』なんて余計なお世話だ自分が幸せだからって。それに彼氏じゃなく好きな人ならいるんですー。
云っとくけど私は篠塚学が思う程男性と深くお付き合いしていない。下手をすると全く接触なしでお別れすることだってある。――ってか、篠塚学以降の男たちは、最大に接触があっても唇止まりだった。この人だ、って思う人がいれば全部委ねる覚悟はあるのに、誰もそうじゃなかっただけだのだが。
――詭弁だな。我ながらうんざりだ。
好きな男を新しい男で帳消しにしたいけど、いつも負けるのは新しい男だ。
相手に、失礼でえげつないことしてる。でもこうでもしないと一生私はこのままだ。
別れたのにこうして定期的に連れ出されてご馳走されて近況聞かれて、幸せそうな篠塚学に対抗するには形だけでも幸せの体裁を繕っておきたい。
だって、付き合っている時からずっと幸せそうに誰かを思っていて、それに耐えきれなくなって別れてからもずっとずっとその誰かを好きでいる、そんな篠塚学を好きだなんて不毛すぎる。
だから隠してた。木を隠すのは森の中、気を隠すのは恋の中。
『紹介するよ』ってメールを篠塚学からもらった。
私の呟きを聞いていたせいか、セッティングされた日は一二月二四日。いいのかよ、自分の女と会わなくて、とメールしようとしたけどそうだねじゃあ別の日にって云われるのも癪でそのままにした。
会えるのは、嬉しい。でもまだ好きな男から他の男を紹介すると云われて胸が痛む。
――現状を打破するにはいいきっかけだろう。私の二〇代を不毛な片思いで終わらせるなんて嫌だ。
篠塚学は人品骨柄卑しからぬ紳士である――酔った勢いでちょっとくらい手ェ出せと思うくらい――から、その友人であれば同じように、とはいかなくてもそこそこジェントルマンであると当たりをつけた。
そこで今度こそ本当にきちんと恋をして、諦めると決めた。
だって、篠塚学は幸せそうなんだから。付け入る隙なんぞ、これっぽっちもないのだから。
篠塚学と二人で会う時には、ひそかに入れていたおしゃれの気合いを、まだ見ぬミスターXの為にフルスロットルにして臨んだ。
胸元にレースをあしらった生成りのスタンドカラーのブラウスは、甘い印象だけどシンプルなデザイン。その上に深緑のニットカーディガンを羽織って、グレンチェックのミニスカートをはいた。じゃらじゃらにならない程度にネックレスとピアスと指輪をして、いつもより少し高いヒールを履いて、指定された店へ行く。
「……わぁお」
小さなフレンチレストラン。ここで会話したら、他のお客さんにもカウンターの向こうのシェフにも丸聞こえだね! どうした篠塚学!
あんまりお店チョイス外す人じゃないんだけどなあと訝しみつつ、重たい木のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうからシェフとギャルソンがにこりと挨拶をした。それに軽く頭を下げてぐるりと見回せば、小さなお店だから死角らしい死角はなく、ほぼ満席の中にすぐに篠塚学の姿を見つけて、その奥の席へと歩いた。
「こんばんは、篠塚君」
「こんばんは、よそ行きの七瀬さん」
「あらぁ、何のことかしら?」
てめぇ余計なこと云って人の恋路の邪魔すんじゃねえぞと優雅に微笑んだ。
「それより、お連れの方は?」
篠塚学のいる席は、二人掛けのテーブルだ。
と云うか、店内には二人掛けのテーブルと、後はカウンターだけだ。今日の会合の人数は合計三名だと云うのに何故こっちに座っておる、篠塚学。
「いないよ」
「はい?」
にこにこしたまま聞く。
「いないよ」
「はい?」
にこにこしたまま、聞く声が低くなる。
「あんなの嘘だよ――とりあえず座ったら?」
「――はあああああああ!?」
「七瀬さん、しー」
かわゆい子仮面を思いっきり脱ぎ捨てていつもの居酒屋にいるみたいにリアクションして、篠塚学に窘められた。いかんいかん。
ごめんなさいと周囲に頭を下げて、私の粗相を見てもにこやかな接客をしてくれるギャルソンに上着を預けた。
「まずは飲んで食べようよ、七瀬さん。何飲む?」
その何でもなさそうないつもの様子にじわじわとむかっ腹が立ち、メニューで顔を隠しながら「ボルドー、フルボディかミディアム、ボジョレーじゃないの、ボトルで」と弾丸のように素早く告げた。
「分かった。――すいません」
ギャルソンとワインの相談をしている篠塚学。そこに、カウンターからシェフも参戦してきた。話の流れでチーズも頼む。カマンベールとヤギ乳とモッツァレラ。
ワインの試飲は篠塚学に任せた。
一口飲んで、「ん、おいしいです」とにっこり笑った。ほんとボルドー好きだよね。
料理はコースにしないで、適当に食べたいものをあれこれ頼んだ。一仕事終えて、ようやく追求タイムだ。
「で? どういうこと?」
「いい加減、俺の恋心も報われていいんじゃないかと思ってね」
ふうとため息を吐く篠塚学。
頬杖をついている指は白くてほっそりしている。――あの指で、体中を触られている時は本当に幸せだった。
いかんいかん。
私は今日、新たな恋を求めてここに来たのだ。決して、篠塚学とフレンチを堪能し、ワインで酩酊し、篠塚学への恋心を再確認するために来たのではない。
「報われるってどういうこと? ダイスキな彼女とらっぶらぶなんでしょ?」
お相手がいないのならもう外面モードでなくてよろしい。
ミニタイトだけど足を組んだ。どうせこの男は私のパンツが見えようと見えまいと興味ないのだから。
と思いきや。
「こら」
篠塚学は思いきり顰め面をして、私の膝上からスカートの生地部分に、手早く自分のマフラーを広げて掛けた。
おや? 興味ないんではなかったのかね?
思わずきょとんとしていたら眉間をツンと突かれた。
「見えたらどうすんの」
「どうもしないけど」
「ギリ見えなかったからよかったけどね、俺としては他の男にその脚線美を晒さないで欲しいね」
チェック済みかよ、本命の女がいるのにしょーもねえな、篠塚学。
そういや付き合ってた時分も随分足にはご執心だったっけな。脚フェチ心は健在って訳か。
「別に篠塚君に見せてるわけじゃないのよ? 私は新たなる出会いを求めて」
「だからもういい加減気が付けって話だろ?」
珍しく――本当に珍しく、篠塚学が声を荒げた。と云っても悪目立ちするほどじゃない。
でも思わずびくっとして口を噤んだら、篠塚学もしまったと云う顔をして同じく口を噤んだから、我々の間には何人もの天使が通った。すなわち、沈黙した。
「おまたせいたしました」
ギャルソンが沈黙を切り開くようにグラスを置き、静かにワインを注ぐ。
「失礼します」
我々は再び沈黙する。
沈黙を破ったのは、篠塚学だった。
ワインを飲んで、「うまいな」と呟き、そしてもう一口飲んでから私を見た。
「ごめん、おっきな声出して」
「いや、かまわぬよ」
びっくりはしたけど。こんなの何年ぶり?――私が別れるって云った時ぶりだ。
私もワインに口を付けた。うん、うまい。するする入る系だな、やばいな。
チーズも来たけど、手を伸ばさずにしばしワインを愉しんだ。
すなわち、すきっ腹にワインで早々に酔った。
「あの時」
おっと。云うつもりじゃなかったんだけど云っちまったものはしょうがない。話しかけておいて『なんでもない』なんて云って思わせぶりに気を引く女子にはなりたくない。
「……なんで、別れるって云ったら怒った?」
それは私の別れてからの疑問だった。だって、好いたおなごがおるのだろう? だったら、好いたおなごでない私から別れの言葉を告げられたら渡りに船ではござらんか。
なのに篠塚学は抵抗した。『別れたくない』とまで云った。そんなに脚が好きかと悲しくなった。
『一緒にいるのは、もう苦しい』と本音を伝えたら、ようやく『……分かった』と云ってくれた。
『ただし』――強い眼差しで。まるで、私のことを好きみたいに。
『俺と、会うことを拒否しないで』
首を横に振ることは許されなかったから、こくんと縦に一回だけ頷いた。
篠塚学は、ふうともう一度ため息を吐く。ワインを見つめて、そして。
「好きな女から急に別れるって云われたら普通怒るだろ」
「―――――――――――――――――」
「……七瀬さん?」
「お前は、」
「ん?」
「お前は、ずっと好きな女がいたろう?」
「だからそれ、あなただって」
くっとワインを飲み干す。その首筋にキスするのが好きだった。
「嘘だ」
見つめていられなくて目を逸らす。逸らした先にあるのはあの綺麗な手。私のことを天国に連れてっちゃうみたいに気持ちよくしてくれた手。いかんいかん、他に目を逸らさねば。
――テーブルの下から覗く、ウイングチップの革靴。ずっと履いてるね。付き合っている頃からの奴だ。篠塚学は靴の手入れが好きだったから。私の靴もよく磨いてピカピカにしてくれた。
いかんいかん。
私の靴。私のスカート。深緑のニットのカーディガン。――みんな、篠塚学好みの色合いとかたちだと気付く。
いかんいかん。
反対側に目をやる。篠塚学のネクタイ。あれは、私が贈った奴。付き合い始めて最初のお誕生日プレゼント。
カフスボタン。丸襟のクレリックシャツ。――非常に、私好みのセレクトだ。
襟足。何度も舐めた。
耳たぶ。何度も甘噛みした。
髪の毛。何度もぐっしゃぐしゃにして怒られて、報復措置は決まってキスの嵐で――
だめだ、どこ見ても好きの記憶がフレッシュに蘇る。なんて恐ろしい男なんだ、篠塚学。
困り果ててテーブルの上を見る。
空けた筈のグラスには、いつの間にかワインが注がれている。もちろん篠塚学の仕業だ。
この人のワインの注ぎ方はセクシーでいつもドキドキしたもんだ。見逃したことがちょっと惜しい位。
「――俺からも聞きたいんだけど」
「何?」
ワインで酩酊しているせいか、素直に返事してしまった。ここは『ノーコメント』っていう筈のところじゃないか。
「何で俺のこと好きなくせに別れたの? 何で、まだ全然好きなくせに他のと付き合おうとするの?」
「だって」
黙れ口。沈黙は金と云う言葉を知らんのか。そう叱り付けてみても酒で緩んだ口は好きな男の前で無力だ。カツ丼を出された犯人が自供するのと同じに。
「学には、好きな人がいつもいたから。いつも幸せそうにしてたから、辛くなって、逃げた。別れてからは学のこと忘れさせてくれる人をいつも探してた」
でも篠塚学ほど私を正しく扱える人もいなかったし、篠塚学より気持ちいいキスをくれる人もいなかった次第だ。
「だからさー」
篠塚学はワイングラスを煽る。そんな飲み方する人じゃないのに。
チーズにも手を出して、私が食べたいと思っていたヤギ乳を二つとも食べてしまった。おのれ……。
「何で信じてくれないの? 俺は付き合う前も付き合ってる間も別れてからも七瀬のことしか好きじゃないのに」
「だって、」
――久しぶりに呼び捨てにされてうっかり動揺してワインを零しそうになってた。
「……学にそんな好きでいてもらえる何かなんて、私にはないよ」
「それを決めるのは七瀬じゃない、俺だよ。……好きの根拠は山ほどあるけど今は教えない」
別れても名前で呼ばれるのが嬉しくて、でもさん付けだと苗字みたいな呼び方で、何でそう呼ぶのって聞きたいけどそれでああごめんねってやめられたらいやで云えなかった。
「名前呼び捨てされただけでそんなんなっちゃう位俺のことが好きなのに、ほんっと素直じゃないよね七瀬は」
また呼んだ。嘘じゃないよね、空耳じゃないよね。
「おしゃべりなくせに言葉がいつも足りないし。『“他に好きな人がいる俺と”一緒にいるのは、もう苦しい』って云ってくれてたらそうじゃないって云って、俺たち別れなくて済んだのにさ」
まあ今云っても仕方ないし俺も気持ちを伝える努力を怠っていたけどねと笑う顔は少し苦い表情だ。
「最初はね、苦しいって云われたから引いたよ? 七瀬が本当に好きな相手が出来たら約束してても会えなくなることだって覚悟した。でもさ、会おうって云えば絶対来るし、いつも嬉しそうだし、でも俺を見ると切なそうな顔するし、男とは長続きしないし、ああ七瀬は俺のことがまだ好きなんだなってすぐ分かったよ」
「自信過剰のカンチガイ野郎め」
悔しくて反撃しても「いや?」といなされてしまう。
「俺もそう思おうとしたんだけど、七瀬いつも俺好みの服着て来るんだよね。俺好みの服着て、今日もだけど俺の贈った指輪とか右手だけど着けてきてさ、それで新しい男とかちゃんちゃら可笑しいよね」
……どうしよう。
自分でも自覚してなかったのに服までばればれ。てか、もうつっぱねる根拠がないのに何でまだごねるかな私。とっとと謝っとけ。
「――お待たせいたしました、レンズ豆と豚の煮込みです」
ギャルソンがおっかない篠塚学と私の間に静かにそれを置く。篠塚学はこんな話をしているのに当たり前みたいに取り皿に分けてよこす。
「……指輪に、罪はないから。付き合ってた人の前でも着けてたし」
そう云ってみたものの、自分でもわかる。なんてよわっちい反撃。案の定簡単に叩き潰された。
「七瀬は、本当に好きな男に会うのに『昔の男』に贈られたアクセサリーなんかつけない」
断言されて、これ以上反撃出来ない。ワインにのばした手は篠塚学の綺麗な指に捕まる。
「二年だよ。もういい加減、俺も焦れた。ほんとはね、七瀬が『やっぱり学が好き』って云って来るのを待ってたけど、もう無理。限界」
ぎゅっと握られた手が熱い。
「早く戻ってこい――七瀬」
睨みつける筈の目は泣く寸前。
つっぱねる筈の手はいつのまにやら恋人繋ぎなんかしちゃってる。
とっとと離しやがれレンズ豆と豚の煮込みが私を待ってるんだからと云う筈の口は、一言「うん」とだけ言葉を紡いだ。
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13/12/21 脱字修正しました。