どこにも行かないドア
会社員×大学生
寂しくないようにね、たくさんたくさん飾りつけをしたよ。
ドアにはリースを、お部屋にはツリーに電飾を光らせて、毎日友達を呼んでパーティーをして。
全然大丈夫。君なしでもへいき。
起きたら携帯を握りしめてることがたまにある。誰かに電話かメールをしようとして寝落ちパターンかな。
起きたら高確率で頭が痛いのにも慣れた。度数の低い缶チューハイも、本数がいくと酔うねえ……と他人事みたいに感心しながらコーヒー用のお湯を沸かす。
月兎印のホーローのポット。去年の誕生日に君に買ってもらった。折角ついてたうさちゃんシール、取っておこうと思っていたそれを君がご丁寧に剥がして捨ててくれちゃって、私が怒ったのがついこの間のことみたい。
あの時はどうやって治めたんだっけ?
直火のポットの細い口から勢いよく湯気が出て、蓋がカタカタ云うまで考えてたけど思い出せなかった。
こうやって、だんだんぼけていくんだよ、君の輪郭とか、声とか。
返事を期待しないメールを、今日も送る。
龍ちゃん、おはよう。
ホットカルピスで舌、火傷したよ。
お仕事頑張ってね、お休み。
一日、二つ三つ、こんな短いメール。
送っても送んなくても龍ちゃんからのお返事メールはまず来ない。
でも、送った方がやれることはやった感があるから送る。
転勤でいなくなる龍ちゃんに、何か一つ、餞別にちょうだいって云ったらふつう逆だろうがと苦笑された。
『いいよ、何でも好きなもんやるよ』
『じゃあどこでもドア』
『そりゃ無理だ』
『じゃあ龍ちゃんが一番お気に入りのクッション』
『そんなんでいいのか?なんなら、同じの買うか?』
そう云ってくれたけど、私が欲しいのは同じ形のクッションじゃない。龍ちゃんが自分の部屋で使い込んだ、煙草の匂いが沁み付いてるのがよかったんだから。
『龍ちゃんも餞別に何か欲しい?』
社会人の龍ちゃんには負けるけど、私だってそれなりの物を買うくらいの貯金はある。ロレックスとか云われたら泣きながらの分割払いになっちゃうけども。
私の懐事情をよくご存じの龍ちゃんは、ロレックスとは云わなかった。
何かを云いかけてやめて、『美智佳のお気に入りのコーヒー豆でももらうか』って、冷蔵庫に入れてあったコナコーヒーを勝手に出して勝手に自分のバッグにしまった。
『あああ、買ったばっかりなのにっ!』
高いんだよ、コナコーヒーはっ! 粉コーヒーじゃないんだからねっ!
私が訴えると、『だから餞別にもらうんだろうが』ってしれっと言い放った。
『もー!』
私がプイと横を向くと、それで許すいつものパターンだって龍ちゃんは分かってて、『悪いな』とちっとも悪くなさそうに云う。――転勤が決まる前までは、その後に必ず『美智佳の好きなとこ、どこでも連れてってやるから機嫌直せー』ってご機嫌取りしてた。でも、決まった途端に云われなくなって、そのことに泣きそうになった。
だって、どこでもって云われたら『転勤先に連れてって』って云っちゃう。でも私はまだ大学生で、龍ちゃんは私に『ついて来い』とは云わない。私が困るって知ってるから。
お互いがお互いの手を分かってるから、何も云えない。付き合いが長いのもこういう時に困るね。
ずっと龍ちゃんはただの近所のお兄ちゃんで、私はずっと近所のちびっこだった。
お兄ちゃんが龍ちゃんと仲が好かったから、うちに帰るとよく顔を合わせた。私が高校に上がるくらいからだんだん関係が変化して、バイトするとか、免許取るとか、一人暮らしするとか云うと家族より心配したのは龍ちゃんだった。
バイト先のカフェにやってきて、女子だらけのそこで居心地悪そうにカフェラテを啜って帰ることを大体月に二回位してた。
まだこの時龍ちゃんは大学生だったから、窓際の席で一人レポートをまとめてたり、エントリーシートを書いてたりしてたのを覚えてる。
大学生になって教習所に通うようになると、『免許取ったらまず俺を横に乗せてしばらく練習してから一人で乗れ』って云われたから、免許取って半年くらい、平日の夜とか土曜日の昼間とかにドライブに付き合わせた。この時の龍ちゃんは勤め始めたばかりだったので遠慮するつもりだったけど、『俺の知らないところで美智佳が事故ってたらと思うと胃に穴が開く』って失礼な事云うから憂いなく存分に付き合わせた。
最初のうちは三〇分くらい家の周りをぐるっとしてくるだけで、龍ちゃんはただ乗ってるだけだったくせに車庫に戻る頃になるとやたらとぐったりしてて『心労でハゲる……』とか呟いてた。半年たってようやく一人乗りの許可をもらった。
一人暮らしをするって宣言したら、セキュリティの厳しいマンションに住むことが一人暮らしの条件だとお父さんからじゃなく何故か龍ちゃんに云い渡されて、さらに物件選びに同行されて、引越しの時も同行された。
あらかた片付いた頃、『料理なんか作れんのか』って云うから『作れますー』ってムッとしながら返したら『ほんとかよ』って鼻で嗤われた。むかっ腹が立って、高校の時の調理部とカフェのバイトで鍛えた腕を引っ越した先のキッチンで存分に振るった。
にんじんピラフとスパニッシュオムレツとお野菜のスープをドヤ顔して出したら、――すごく嬉しそうに食べてくれた。
『次来た時、煮物食いたい』って、何故か勝手に次が決定してたけど、『もー! しょうがないなあ』って私も普通に受け入れてた。
ちょくちょくやってきて私の作ったご飯を食べて、世間話のついでに予定を聞き出されて、暇な日にお出かけするようになって。
出かけた先で自然に手を繋いで、車の中で磁石が引き寄せられるみたいにキスをした。
気が付いたら、そんな風に龍ちゃんの掌の上でころんころん転がされてたのに。
――私はまだ、その掌の上にいるよね?
こうも放っておかれると、さすがに自信なくなる。
スカイプとか携帯のテレビ電話とか、最初っから期待してなかった。
龍ちゃんはこっちにいる時だって、うちに来る時以外はいつも忙しそうで、メールの返事もろくすっぽ返ってこなかった。そんな人なのに、慣れない転勤先での忙しさプラス自炊もしなくちゃで、恋人との時間が優先的に取れる訳がない。
おいそれと会いに行ったり、帰ってきてもらえる距離でもなかった。日本なのに近場の海外行くより時間がかかるそこ。
『必ず会いに来るから』とかも、云われなかった。出来ない約束を龍ちゃんはしない人だから。
ほんとに何もなかった。――『さよなら』も。
渡してある合い鍵も返されないままだ。
だから、大丈夫だって思った。
月に一度、バイト先のカフェで自分の分と龍ちゃんの分のコナコーヒーを買った。ちょっぴりすっぱいハワイのそのコーヒーを、龍ちゃんは随分お気に入りだったから。それと、龍ちゃんの好きな駄菓子を詰めて宅配便で送ってた。
届いてから、お礼のメールが来たり、来なかったり。もう送らないでと云われない限り送ろうと勝手に決めてそうしてる。
牽制してるのかも、現地妻ならぬ現地彼女がもしいるならその人に。
龍ちゃんがいなくなって半年経った。街も、バイト先のカフェもクリスマスムード満載だ。私たちのネームプレートにもちびっちゃいリースがくっついている。
「最近、来ないんですね彼氏さん」
バイト先で、一緒に働いてる野口君に云われた。
「――うん、ちょっと遠くに転勤になっちゃって」
普通に、笑って云えただろうか。
野口君は「すみません」て一言謝った。私はいいえ、って返した。謝ってもらう事でもないし。
そしたら、その日から野口君がやけに話しかけてくるようになった。て云うか、デートに誘われるようになった。
「何考えてるの? 彼氏いるんだよ、私」
「いないじゃないですか」
きっぱり断ろうと思って入ったファミレスであっさり云われた。
「そばにいないんでしょ? そんなの、いないのと同じですよ」
――いちばん、云われたくないことを云われた。
テーブルに置いてある唐辛子のびんを手にした。不思議そうに見る野口君に「それ以上云ったら、目ん中に七味、入れるから」って笑いながら云ったら「怖い怖い」って笑って返された。
「僕は諦めませんよ、だって、ライバルは近くにいないんですから」
そう云って立ち去る後ろ姿に飛び蹴りしてやろうかと思ったけど、そんな労力を大事じゃない野口君に使うのが癪だったから、しないで帰った。帰って、龍ちゃんのクッションをぎゅうぎゅうして匂いをクンクン嗅いでやった。
龍ちゃん、私、龍ちゃんの匂いも忘れてきちゃったよ。
だってクッションに染みついてた煙草の匂い、大分薄れてきてるんだよ。
この部屋のドアがどこでもドアならいいのに。ううん、ちがう。『龍ちゃんのいるとこにならどこでも行けるドア』ならいいのに。
行かないの。どこにも。
気が付いたらずっとそばに龍ちゃんがいて、いるのが当たり前で、だから好きになるのも当たり前だった。
私はキスも何もかも龍ちゃんしか知らないし、龍ちゃんのしか知りたくない。
寂しいけど、今感じてるこの寂しさだって龍ちゃんがくれてるんだ。だから、存分に受け止めてやる。誰が他の男の人でなんか紛らわすもんか。
寂しくて寂しくて寂しいったら。講義受けてたってバイトしてたって楽しく飲んでたって、いつも心に寂しい気持ちが居座ってるんだから。
龍ちゃんのばーか。私のことじわじわきっちり囲い込んだくせに、私が遠距離辛くなったらいつでも逃げられるようにってわざと今弛めてるでしょ。
それで二人がダメになっても「仕方ない」の一言で諦めようとか思っちゃうんでしょ、ほんとは思えない癖に、年上の余裕とか何とかでやせ我慢して。
餞別に何が欲しい? って聞いた時『美智佳』って云おうとしてたの分かってんだからね。
どうしてあの時、いつもみたいにわざと挑発しなかったの?
『美智佳には遠距離恋愛は向いてないからなー』って云われたら私むきになって『そんなことない!』って前向きに頑張る発言してた筈だ。――それを頑張れなくなった時に私が罪悪感感じないように挑発しないとかさあ。
龍ちゃんはどんだけ私の事を好きなのよ。どんだけ先読みして動くのよ。
なのに何でそんな遠くに転勤のある会社にお勤めなのよ……と、さすがにこれは、子供っぽいワガママだな。
――子供じゃなかったら。大人だったら、ついて行けたかな。それでもやっぱり来るなって云われてたかもな。好きな職業についてたら余計に頑なに『来るな』パターンだったなきっと。
私の好きな龍ちゃんは、そう云う人だから。
朝と夜、きっと龍ちゃんもこれを飲んでると思って、例のホーローのポットでお湯を沸かしてコナコーヒーを淹れて飲む。
今はそれで繋がっている、と勝手に思ってる。今日の味は、ちょっといつもより苦い。
メールをする。
見てもらえているか分からないメール。自己満足かもしれないメール。
せめてウザくならないように、一文だけで、本心は隠して。
野口君がいい加減しつこいから店長に報告してがっつり叱ってもらったらしばらくは止んだ。一週間が過ぎたら、『謹慎期間終わり』みたいにまたしれっとやって来るから、また店長に報告した。
「次、やったら私ここ辞めるから」
お店の事務室でそう云ったら、野口君は悔しそうに俯いた。
「迷惑を掛けたいわけじゃないんで一旦引きますけど、僕はまだ諦めてません」
「私もだよ」
私もまだ、諦めないんだ。龍ちゃんのこと。
だから、仕方ないね。頑張るしかないよ。
カフェは二九日から三が日が休業日だ。そこを利用して会いに行こうと思う、龍ちゃんのところへ。
それで関係が変わるなり終るなりするならすればいい。どうなったってどうせ私は龍ちゃんの事が好きなんだから。
会いに行くのが怖いような気持ちがある。でもやっぱり会えるのは嬉しい。
寂しいと思うたびにクリスマスグッズを増やして、大学の友達や、バイト先の友達――もちろん野口君じゃない――や、地元の友達に日替わりで来てもらって、ご近所さんの迷惑にならないように楽しく過ごした。皆事情を知っているので、龍ちゃんとの事にノータッチなのが返って可笑しかった。
さすがに二四・二五日はパーティーしなかった。私が寂しいからって彼氏持ちな人たちをそこまでつき合わせられない。大学はもう冬休みだからカフェのバイトを昼夜で入れて、野口君に付いて来られないように、店長に見張ってもらってる間に上がった。
二六日にはまた地元の友達が来てくれた。未だクリスマス仕様の私の部屋を見て笑われた。いいじゃん好きなんだよクリスマス。
ケンタッキーを食べて、お酒を飲んで、笑った。
終電近くになって、友達がいっぺんに「じゃあ」っていなくなる。
「バーイバーイ」
甘い缶チューハイで出来上がった私は皆を玄関でお見送りをして、きちんと鍵を掛けて部屋に戻る。
一人でも大丈夫。玄関ではセンサー式のダンシングサンタがぎょいんぎょいんと腰を動かしながら歌を歌っているし、廊下では壁に掛けたセンサー式のオバケリースが口をパクパクして眼を光らせて「ヒーッヒッヒ!」って不気味に笑うし、好きな音楽もかけてるし。ちっとも静かじゃないんだ。
でももういい加減、片付けないとだよなー。
クリスマスの後って、何で寂しさを紛らわしたらいいんだろう。干支的には馬グッズ?廊下の壁に馬の首のオブジェのおもちゃでも飾ろうか。ってか年賀状書かなくちゃ。会いに行く仕度も、ぼちぼちしなくちゃ。チケットってまだ取れるんだろうか。
色々考えながらベッドでうとうとしてた。
聞こえる筈のない音が聞こえた。
どこにも行かないはずのドアの鍵ががち、って開いた音。
重たい鉄のそのドアがぎいって開いて、そっと閉ざされた音。かちって鍵が締まる音。
革靴を脱いで放る音。
玄関に置いてあるセンサー式のダンシングサンタがぎょいんぎょいんと腰を動かしながら歌を歌っている音。
それに驚いて「うおっ」って小さく上げる声。
のしのしのしって歩く足音。
廊下の壁に掛けたセンサー式のオバケリースが口をパクパクして眼を光らせて「ヒーッヒッヒ!」って不気味に笑う音。
それにまた「うおっ」って驚く声。
廊下と、この部屋の間のドアを開く音。
嘘でしょ、――うそでしょ?
そんな訳ない、私は夢を見てるんだよ、もしくは酔っ払って幻覚を。
「美智佳、ただいま」って、カートを引いた龍ちゃんが息を切らして云う。
「嘘でしょ」
「ただいま。――『おかえり』は?」
「悪霊退散―悪魔よ去れ―」
「おーい美智佳さーん」
目の前でひらひらと掌を振られる。
くん、とにおいを嗅がれて、「酔っ払ってんのか」と呟かれた。
「酔っ払ってるよ。だからこれは幻覚とか幻聴とかなんだきっと」
「違うっつうの」
「うちはいりませんからー」
「違法な訪問販売扱いかよ! ――おい、美智佳」
ベッドでドアの方に横向きに寝たままギュッと目を瞑って耳を塞いでいたら、その手を取られた。
目の前には半年ぶりの、龍ちゃん。
龍ちゃんの掌には私の手。
スーツは長時間の移動のせいか、少しくったりした印象。でも相変わらず本人はしゃっきりしてる。少し痩せた。
龍ちゃんはベッドに肘を付いてしゃがんだままで、顔を斜めに傾けて覗き込むみたいにして笑う。
龍ちゃんが動いてる。龍ちゃんが目の前にいる。龍ちゃんが……。
びっくりしすぎて目を見開いたまま固まってしまった。
「お帰りって云ってくんないの? 俺、チョー頑張ってもぎ取ったんですけど、東京出張。で、そのまま正月休み」
「ほんとに……?」
「ほんとだよ、なんでか分かるか?」
「……私に会いたいから?」
なーんてね! って笑おうとしたら「そうだよ」ってあっさり肯定されちゃった。
「俺の傍に美智佳がいないとかほんとありえないよな、酒に酔って何度夜中に電話しようと思ったことか」
「すればいいじゃん、何でしてくれないの!」
だってよー、と龍ちゃんはベッドに上がって胡坐をかいて私を引き寄せた。
「おまえすげー酔っ払うと掛けてくんじゃん、俺のとこに電話。あれは聞く方もなかなか辛いもんがある」
「嘘!」
「ほんとだよ、履歴見りゃわかるよ」
その言葉に携帯の履歴を遡ってみれば、たしかにアホ程酔っ払った晩に掛けている。
「おまえがさあ、普段ちっともわがまま云わない癖にさ、酔っ払って夜中に電話を掛けてくるわけよ。『龍ちゃん、会いたい……』ってしくしく泣かれてみろ? 真面目にどこでもドアが売ってたら買うわと思った、俺」
「え、ご、ごめん!」
ちゃんとセーブ出来てると思ってたのに。
「いんだよ、メールも電話もしないのに平気でいられる方がやだよ。たまにそうやって本音聞けて、よかった」
私を胡坐の中に抱き込んだ龍ちゃんが、あっちこっちペタペタ触る。キスをする。匂いをクンクン嗅ぐ。
「あー、美智佳だ……美智佳」
ホッとしたように目を閉じて、おでこをおでこに付けてきた。それだけで、もう水位が上昇しちゃうよ。
「会っても泣くかあ?」
「だ、って、りゅうちゃん、がぁ」
しゃくり上げるようにしてたらティッシュで涙と鼻を拭かれた。
「落ち着け。泣きすぎて吐くなよ」
そんな小学校の時のこと持ち出すとかやめて欲しい。
「来る、なら、来るって、れんらく、してよ」
「ごめん。飛行機飛ぶか飛ばないかギリギリになるまで分かんなくって」
龍ちゃんは居心地が悪そうに云う。結局在来線も高速バスも飛行機も、降りてからの高速バスも在来線も何もかも乗り継ぎがギリギリで、どこでアウトになってもおかしくなかった状況だった、そうだ。
出来ない約束はしないの法則、ここでも発動か。
こんな、終電間際じゃ平日でもきっと電車、混んでた。長時間の移動で疲れてるのに、会社近くのホテルに泊まれば明日体が楽なのに。
私のとこに、帰って来てくれた。
嬉しくて、やっと素直に云えた。
「おかえり、龍ちゃん!」
タックルしたらバランス崩した龍ちゃんが後ろの壁にごんて頭ぶつけて「痛ぇよー」って笑った。
着替えて歯磨きした龍ちゃんが私の隣にもぐり込んでくる。それをじっと見つめるけど、あったかいのと安心したのとまだ酔っているのとで、眠気に負けてしまいそうだ。
「もう寝ろよ」
「ヤダ、寝たくない」
「んな事云って、半分寝てんじゃねーかこの野郎」
「ヤダ、そこのバッグの中のフリスク取って。絶対朝まで起きてる」
「相変わらず負けず嫌いの頑固だな」
「……だって、寝て起きて龍ちゃんいなかったら、ヤダ……」
これが夢オチだったらいくらなんでもちょっと耐えられない。
「いるから。おまえのいっちばん近くにいて、『重いよぉ』とか『暑いよぉ』って云われても離さないから」
「……ん、なら寝る」
「おう、寝ろ寝ろ。俺も眠い」
髪をくるくる捩じって遊ばれる。それされるの好きだよ。
「……龍ちゃん」
「……あんだよ、寝るんだろ」
「だいすき、あいしてる」
「……おう、俺もだ」
こんなに嬉しい気持ちで寝るの何か月ぶりだろう。
重くて暑くて目が覚めた。そんな目覚めって、幸せなようなそうでないような。
「……重いよぉ」
「そうか」
「暑いよぉ」
「そうか」
「龍ちゃんのいじわる、どけ」
「意地悪じゃねーよー、約束守ってんだろうがこっちはよー」
昨日の寝る前のやり取りを忘れてはいないけど、そんな事云ったって重くて暑いんだよ龍ちゃんにくっつかれてるのは。
夢オチじゃないならむしろ離して欲しい。そう云っても、「俺の血中美智佳濃度がまだ低い……」とか何とか云って二度寝されて、拘束が解かれたのはそれから三〇分後だった。
コーヒーを、二人分淹れた。お湯が沸いたホーローのポットの取っ手を、鍋つかみを使わずに素手で持つとこだった。――浮かれてるなあ。
二人でその少し酸っぱいコナコーヒーを飲んだ。
「うまいな」
龍ちゃんが思わず、と云った風情で漏らす。
「ほんと好きだねー」って笑ったら、「美智佳の淹れたコーヒーは、なんですけど」と返り討ちにあった。
「会社は?もう出た方がいいんじゃないの?」って時計の方を振り返って赤い顔をごまかした。
「半になったら出るよ。――美智佳」
「なーに」
「来年にはこっちに帰る」
思わず、まだお湯が入っているポットを落とすところだった。
元々ね、長くないって分かってたんだって。長くて二年、短ければ一年。終われば本社に戻るって云うのも行く時に決まってたって。でもそれを私に伝えてから延長になるといけないからと、例の法則に則って沈黙を貫き通していた龍ちゃん。最短コースで帰って来るために、色々無理して頑張ってくれているらしい。
出来ない約束を龍ちゃんはしない人だから「来年帰る」が確約だって分かる。でもさー。
「そうやって、突然ご馳走をぶっこまれるよりは、ちょいちょい小腹を満たしてくれる方がありがたいなあ」
聞いたからこそ云える不満を漏らす。
「ごもっとも。美智佳の気持ちは、今日帰ったら存分に聞く。とりあえず、会社行って来るわ」
「行ってらっしゃい」
帰ったらね、云いたいこともやりたいこともいっぱいだよ。
まずはご飯、唐揚げとグラタンとカレーと、取り合わせめちゃくちゃな龍ちゃんの好物ばかりの『龍ちゃんスペシャル』でしょ、食べ終わったら龍ちゃんを正座させてメール状況の改善の要求でしょ、それ終わったら龍ちゃんにだっこしてもらって、はだかんぼになる前に私がいいって云うまでいっぱいキスしてもらう『美智佳スペシャル』でしょ、それから龍ちゃんはいやがるけど泡風呂でしょ、それからそれから。
夜が待ち遠しい。ふわふわした気持ちのままバイトに行って、帰って。
もう寂しくないからクリスマスグッズを一気に片付けて、夜ご飯の支度をした。
――やっぱり龍ちゃんの掌でころんころんされてるよなあ私。
夜、どこにも行かないドアが開いて、龍ちゃんが帰って来た。
「ねーねー龍ちゃん、ホーローのポットのシール龍ちゃんが剥がして捨てちゃった時ってどうやって仲直りしたんだっけ?」
「おまえ覚えてねえのかよー、ずっと『美智佳スペシャル』より先をお預けされて、俺が泣きついたんだろ」
「ううん、記憶にないなあ」
「俺は覚えてる。キツかった、あの一か月。たかだか付いてたシール剥がして捨てただけで一か月……」
「『たかだか』、『シール剥がして捨てただけで』?」
「嘘ですすいません美智佳さんごめんなさい」
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21/08/15 誤字訂正しました。