始まり
目を覚まして、時計に目をやった。
起きるには少し早かった。
しかし、眠いながらも、一度起きてしまうとなかなか寝付けない。
諦めて、支度をする事に決めた。
眠気眼を擦りながら、洗面所に向かった。
一度、顔全体を水で洗い、その後洗顔で丁寧に洗う。
そしてそのまま、泡は流さずに髭を剃る。
横着ではあるが、手っ取り早いだろう。
と言っても髭剃りは二、三日に一度程度だ。
タオルを首にかけ、居間に戻る。
着替えて朝食の準備にかかる。
フライパンに油を敷き、溶いた卵を流し込む。
円形に広がった卵を箸で丁寧に巻く。そして出来たスペースに残った溶き卵を再び流し込む。
出来上がった卵焼きは、半分は朝食にする。
残りは、おにぎりと一緒にランチボックスに入れる。
我ながら、随分と手慣れたなと思う。
出勤用の鞄にランチボックスを入れ、もうひとつ大切なものを入れる。
これで大体の準備は終えた。
しかし、今日はまだ時間に余裕がある。
パソコンを起動する事にした。
桜は、新聞を取っていない。金を払ってまで見る価値があるのか疑問だからだ。
インターネットでニュースを見れば事足りるのではないか、そんな思いがある。
各サイトでなし崩しにニュースを確認していると、時間も丁度良い頃合いになった。
そろそろ出勤する事にした。
家を出て、駐輪場に向かう。
今日の予定は、仕事が終わってから病院に行く。
そして、丁度、リハビリが終わった頃に、鈴村さんも仕事を終えるらしく、丁度いいので一緒に帰る約束をしてある。
そのせいか、緊張して、いつもより早起きしてしまったのかもしれない。
自分は小心者だなと再確認した。
桜は自分自身を鼻で笑い、自転車を漕ぎだした。
仕事を終えた桜は、ロッカーから鞄を取りだし、前掛けを適当に放った。
挨拶を早々に済ませ、足早に病院に向かう。
自転車を漕ぎながら、今日の仕事ぶりを振り返る。
今日は全く仕事に手が付かなかった。ミスこそなかったが、そわそわして落ちつかなかった。
まるで新入社員として入った日のようだった。
同僚には気付かれる事無く作業をしたが、社長の目はごまかせ無かったかもしれない。
帰り際に、意味深な笑顔を浮かべていたのが、気になった。
しかし、いくらなんでも、原因まではわからないだろう。
そんな事を考えていると、もう病院に着いた。
家と病院の間に職場があるため、職場から向かう際は、結構近い。
病室に足を踏み入れると、鞄を置いてリハビリを始める。
今日はなんとなく、音楽を掛けてみる。小型オーディオにipodを繋げる。
桜の好きな曲を掛ける。
「雲の遥か」
とても綺麗なメロディーだ。
素朴な歌詞で、今にも挫けそうな人が、故郷に想いを馳せるという内容だ。
桜の場合、故郷と呼べる場所は無いが、心の拠り所という意味ではひどく心に響く。
こうやって、良い曲を探し、時々聴かせる。
そういう時は、不思議と母の表情は少し豊かになったように見える。
今日の選曲は応援歌だけにしておいた。
母だけでなく、自分を奮い立たせる為にも。
随分と遠い昔に感じた。母が倒れたあの日の事が。
今日で丸一年になるんだな、としみじみとした気持ちになった。
これから先、一年なんて短いと思うぐらい長い間目覚めない事もあるかもしれない。
そう思うと、気が遠くなるかもしれない。
しかし、この一年間、色々な人に支えられながらやってこれた。
ちょっとやそっと長引いたって、今更どうという事は無いはずだ。
背伸びしないで、できるだけの事をするだけだろう。
それに、失う以上に得たものがある。そしてこれから沢山得る事ができるはずだろう。
どこにも悲観する要素は無い。
目覚めるその日まで、しっかりと居場所を作っておくだけだ。
母が今まで桜にそうしてくれたように。
今日のリハビリは、あっという間に時間が立った気がした。
多分、回転の遅い頭では、処理するのが大変な程ごちゃごちゃと考えていたからだろう。
携帯を手に取り、時刻を確認すると、もう少しで約束の時間だった。
帰り支度をして、病室を出る時、最後に母の顔を見て言った。
「今日だけは神に祈るよ」
病院の外で待った。
しばらくすると、小走りで鈴村さんが近付いてくる。
「お待たせしました」
「いえいえ、お疲れ様です」
そう言って、歩き始めた。
「毎日大変ですね」
「何がですか?」
「お母さんのお見舞いです」
「うーん、結構慣れるもんですよ」
「あまり無理しないでくださいね」
「そうですね、体を壊したら面倒見れなくなっちゃいますもんね」
そう言って、軽く笑った。
彼女もそれにつられて微笑んだ。
彼女とは、途中の駅で別れる予定だった。
しかし、もう少しだけ時間が欲しいので、公園に行く事に誘った。
鈴村さんは、そこまで遅くならなければ、と言って付き合ってくれた、
場所は晴海ちゃんと三人で行った噴水広場だ。
石畳を二人で歩いて行く。
時間は二十時を過ぎている為か、行き交う人は少ない。
それでも、外灯が多く並び、一定の明るさは維持されている。
桜は、外灯の真下にあるベンチに腰掛ける事にした。
「すいません、わざわざ付き合ってもらって」
「いえ、そんなに遅くならなければ大丈夫ですから」
二人でベンチに腰掛けるというのは、なんだか新鮮な気がした。
ゆったりとした空気の中、なんでもない話で笑い合う。
この時間が永く続けばいいと思った。
お互い笑いつかれたのか、少しだけ沈黙が続いた。
その沈黙を破ったのは桜だった。
彼女の目をしっかりと見つめ、口を開く。
「実は、渡したい物があるんです」
「え……、なんですか?」
そう言うと、桜は鞄を漁り、紙袋を取りだした。
そして、その中身を鈴村さんに手渡した。
「開けてみてください」
「いいんですか……?」
鈴村さんは、リボンを解き、丁寧に包装紙をといた。
その中身を見た鈴村さんは、驚いた。
ただでさえ、ぱっちりとしている目が、更に見開かれた。
「え、あ、これ……、嘘……」
「今日は僕にとって特別な日で、母が倒れて丁度一年です。恥ずかしい話ですが、一年前の僕は、どうしようも無い奴でした。それでも今、こうやってここにいれるのは出会いに恵まれていたからだと思います。母のリハビリは、叔母が手伝ってくれてます。会社の社長も良い人で僕の事を気にかけてくれます。叔父にも助けられました」
そこまで言った所で、次に続く言葉が少し躊躇われた。
彼女は、催促するでもなく、真っ直ぐとこちらを見つめている。
深呼吸を一度した。
その期待に応えて、喉まで出かかった言葉を今一度。
「大切な人はもう一人いるんです。その人は、いつもにこにこしていて、太陽の様な人でした。僕は、その人を自然と目で追う様になりました。気付かない内に活力を貰っていたんだと思います。その人に会えるのが楽しみになりました。だからこそ、毎日頑張れたんだと思います」
一度喋りだすと止まらない。
この一年間の様々な想いが、堰を切ったように溢れだしている。
彼女の目を見据えて言った。
「それが、あなたです」
彼女は、瞳に涙を留めている。
そして、告白に応えるように、ほんの少しだけ微笑んだ。
それが今、彼女のできる精一杯の笑顔に違いない。
それ以上微笑めば、涙がこぼれてしまうから。
彼女を抱きしめた。
優しく、春の風がそっと体を包み込むように。
どれほどの時間抱いていたかわからない。
抱擁を終え、互いの顔を見つめ合った。
彼女の瞳に留まっていた涙は、零れ落ちていた。
今は、その涙の跡すら愛おしく思える。
彼女の手を取った。
その手の内には、しっかりとオルゴールが収められている。
そして、一緒にそれを持ちあげた。
桜は、ゆっくりとゼンマイを回した。
一つ捻る毎に、想いを乗せる。
そして、慈しむようにそっと手を離した。
その瞬間、二人だけの世界に綺麗な音色が響き渡った。