ありがとう
第七回目の投稿です。
最近は、寝起きが良くなった。暖かくなってきたからだろう。
真冬であれば布団を出るのも一苦労だ。
桜は、久しぶりに気持ちよく起きる事が出来た。
洗面所で顔を洗い、一日が始まる。
幸いな事に今日はお休みで、いそいそと支度する必要が無い。
だから、いつも以上にゆったりと動く事ができる。
昼食も出来あいのものでなく、簡単な料理なども作ったりする。
この一年で、少しだけ料理の腕前が上がったはずだ。
しかし、そんな良いものではない。
やはり、料理は誰かに作ってもらえるから美味しいのだろう。
目の前の物を頬張りながらそう思った。
一口、二口と箸を進めながら、壁に掛っていたカレンダーを見た。
今日は三月九日。
特に予定は書き込まれておらず、いつも通りの予定だ。
食事を終え、食器を流しに置き、水に浸けておいた。
いつも通りソファに腰掛け、食後の休憩を取る事にした。
リモコン片手に、あちらこちらとチャンネルを回しても、時間帯の所為か、主婦向け番組が多く、桜に合ったものは無い。
仕方が無いが、役に立ちそうに無いお役立ち情報を眺めながら、胃の中にある物を消化する事にした。
二十分もすると、大分腹の中が落ち着いてきた。
流しに置かれた食器を洗い、外出の準備を整える。
用意が終わると、戸締りをしっかりとして、病院へと向かった。
自転車に跨り、漕ぎ始める。
空をちらりと見上げると、雲一つなかった。
以前、友人が言っていた気がする。雲一つない空を見ると不意に自殺がしたくなると。
そいつは、オカルトが大好きで、しょっちゅうそんな事を言っていた気がする。
どうせ信憑性の欠片も無い話だろう。
事実、空を見上げてもそんな気は一切起きない。
肝心な事を思いだせないが、どうでもいい事だけは次から次へと湧いて出てくる。
随分と使えない頭を持ったものだ。
いつも通り、余計な事を考えている間に、病院に辿り着いた。
自転車を止め、受付に向かう。
幾度となく繰り返した手続きを終えて、バッジを受け取った。
そして、エレベーターへと歩いて行く。
ボタンを押してしばらくすると、ドアが開いた。
桜以外に、並んでいる人はおらず、中に入ると直ぐにボタンを押した。
エレベーターはあまり好きじゃない。
何とも言えない感覚になる。
まるで四方八方から圧力を受けているようで、どこか落ち着かなくなる。
そして、それ以外にも要因がある。
桜は、エレベーターに乗る夢を見ると、必ずと言っていいほど落下する。
無意識のうちに、苦手意識が刷り込まれているのかもしれない。
大人しく、ボタンの前に立っていると、不意に大きな音と衝撃を感じた。
思わず体が揺さぶられ、壁に手をついた。
心臓が飛び出るかと思うぐらい驚いた。不意打ちもいいとこだ。
少しだけ落ちつくと、ようやく状況が飲み込めた。
どうやらエレベーターが止まったらしい。電気も消えて真っ暗な箱に閉じ込められた形になった。
あまりにもタイミングが良すぎる。
夢なのではないか疑ってみたが、どうも感覚は現実以外にあり得ないと物語っている。
外部との連絡ボタンを押すも反応が無い。
まさか落下する事は無いだろう。今まで散々使われているのだから、この日に限ってそんな事は……。
しかし、狭くて暗い空間にいると、どんどん不安になってくるものだ。
携帯を取り出し、外部との連絡を取ろう、と考えてみたものの、なんだか大袈裟にするのも憚られる。
多分、異常に気付いた誰かが、病院側に伝え、何かしら策を講じているはずだ。
しばらくは待つ事に決めた。
一度自分で決めた事ではあるが、まだかまだかとそわそわしてきた。
もう一度携帯を取り出して、時刻を確認すると、あれから五分も経っていない。
最悪の空間に放り込まれると、ここまで時間が延ばされるとは思ってもみなかった。
たった数分と、この一年間、どちらが長く感じるだろうか。
そんなどうでもいい事を考えるだけの余裕はあるみたいだ。
一刻も早くこの空間からで出たい。
そう強く願っていると、明りが灯り、動き出した。
ようやく外で動きがあったのだろう。本当に助かった。
しかし、目的の階層を前に止まった。
恐らく、動作不良の後は、近い階に止まるように設定されているのだろう。
ドアが開くと同時に、サッカーボールが飛び込んできた。
開かれた隙間とボールの大きさはほとんど差が無く、寸分違わぬタイミングだった。
ほんの数センチでもずれていれば、弾かれていただろう。
ボールが転がって来た先を見ると、車椅子の少年が気まずそうにこちらを見ていた。
桜はボールを拾い上げ、少年に向けて歩き出した。
エレベーターから足を踏み出すと、フロア全体が妙に明るい様な気がした。
暗い場所に閉じ込められていたから、目の錯覚で明るく見えるのだろう。
「はい。しっかり持って無いと危ないよ」
少年は俯きながらボールを受け取った。
桜は思った。どこかで見たような子だなと。
「……ありがと」
今にも消え入りそうな声でお礼を言われた。
「どういたしまして」
直ぐにでも立ち去ろうと思ったのだが考え直した。
これも何かの縁かもしれない。
今日は休みだし、時間はたっぷりとある。
それに、あんな空間に閉じ込められていた解放感からか、誰かと話したい気もする。
少しぐらい遅れてもいいだろう、と話し相手になる事を決めた。
「なんかどこかで会った事あるかな?」
少年は首をかしげながら記憶の引きだしを開けているらしい。
しばらく考えている様子だ。
「無いと思う」
「そっか。気のせいだったか。ごめんね。兄ちゃんの名前は香川って言うんだけど、君は?」
「斉藤」
「下の名前はなんて言うの?」
「馬鹿にするから言わない」
最近流行りである、奇抜な名前なのだろうと察した。星や動物、アニメのキャラクター名など、初見殺しの名前が多いらしい。
そして今や、普通の名前が淘汰されつつあり、いじめの対象にもなっているそうだ。
「わかった。斉藤君だね」
「うん」
「一人で遊んでたの?」
「違う。ボールが落ちただけ」
随分と体が小さいし、見た目以上に幼い気がする。
「そっか、斉藤君。良かったら、兄ちゃんの話し相手になってくれるかな?」
「……いいよ」
「じゃあ、ここは皆の邪魔になっちゃうから、向こうに移動しようか」
そういって、椅子がある方へ向かうよう促した。
椅子に腰を下ろすと、少年が質問をした。
「お兄ちゃん退屈なの?」
少し言葉が違っているが、言いたい事は伝わった。
「うん、退屈なんだ」
「そっか、僕と同じだね」
こんなに小さいのに、外で走り回る事もできず、室内にいれば誰だってそう思うだろう。
可哀相に。
「うんうん。そういえば、そのボール綺麗だね」
「うん、今日誕生日プレゼントでお母さんから貰ったの」
「へー、そうなんだ、おめでとう」
「ありがと」
そう言って初めて笑顔を見せた。
しかしその直後、少しだけ元気が無くなった様に見えた。
「どうしたの?」
「いつか、歩けるようになるかな……」
この子を見ていると、世の中は不平等なんだと思い知らされる。
他の子は元気よく走り回って遊んでいるのに、何故この子が。
世界では恵まれない子が星の数ほどいる事はわかっている。
しかし、いざそれを目の当たりにすると、こんなにも悲しいものなのか。
気休め程度にしかならないが、励ます事しかできない。
「大丈夫だよ。いつか必ずきっと治る」
「本当?」
「うん。こう見えて兄ちゃんも君と同じで、小さい頃車椅子で生活してたんだよ。今じゃもうぴんぴんしてるけどね」
当時の事はほとんど覚えていない。
ただ、どんな様子だったかは、母から聞いている。
桜は、生まれつき足が不自由で、治る見込みもなかった。
それがいつの日か、前触れも無く完治したらしい。
自分でも思う、稀有なケースなんだろう。
それでも希望は捨てて欲しく無かった。
「僕もいつか治るかな?」
「絶対治るんだって気持ちを持ち続ければ、きっと」
少しだけ少年の表情が明るくなったように感じた。
「治ったら、お母さんの手伝いとサッカーがしたいな」
「お母さんの事好きなんだね」
「うん、大好き」
優しい子だ。
桜ももう少し早く、その気持ちが持てれば良かったかもしれない。
ある意味では少年が羨ましく感じた。
桜と少年は話し続けた。
ほとんどは少年の話に相槌を打つだけだったが。
好きなゲームやアニメなど、実に子供らしい話題だった。
晴海ちゃんとは大違いで、それも少しだけ笑えた。
やはり、話せば話すほどこの子の良さが伝わってくる。
桜に、兄弟はいない。
しかし、なんとなく、兄弟というのはこういうものなんだろうな、と感じた。
子供の無邪気さを嫌う人間もいるかもしれない。
桜はそうは思わない。
余計なものが一切付いていない純粋な存在を前にすると、その瞬間だけは自分も純真無垢だった頃に近づけるような気がする。
しかし、それはただの錯覚で、二度と取り戻せる事の無い自分だろう。
でも、それでいいんだと思う。
生き続けていれば、少なからず汚れて行く。
大切なのは、いかにして綺麗に生きていくかではない。
その汚れに気付けた瞬間、どんな生き方を選択するかだろう。
何事も遅すぎる事はない。
時計に目をやると、一時間近く経っている事に気付いた。
そろそろ母の所に行かなくてはならない。
折角打ち解ける事ができたのに残念だ。
ただ、同じ病院なのだから、また少年に会いに来る事もできるだろう。
「じゃあ、兄ちゃん時間だから行かなきゃ」
「もう行っちゃうんだ……」
そう言うと、少年は桜が歩く方向に着いてきた。
エレベーターから少し離れた所で、少年は止まった。
「ねえ」
「何?」
「僕、お父さんいないんだ。いつもお母さんと二人だけ。だから今日はお兄ちゃんができたみたいで楽しかった」
少年は笑顔でそう言った。
その言葉に、桜は身を切られるような想いになった。
似た境遇にいる桜は、その辛さを痛いほど味わってきた。
少年が一番もどかしい立場にいるというのに、この笑顔だ。
少年は歩く事ができない。
そして、父はいない。
母だけが唯一頼れる存在なのだろう。
これは少年に対するなんらかの罰なのであろうか。
そうだとしたら、その罰を受けて然るべき人間は世の中に溢れているのではないか。
いや、そんな事は思ってはいけない。
その考えはただの逃げに過ぎない。
以前も同じ思考に捕われた事があったが、やはりそれはいけない。
結局、生きている人間は、受け入れがたい事でも受け入れるしかない。
未来は誰にでも等しくは訪れない。
それでも、前を向いて生きなければ、未来を掴む事はできないだろう。
桜は、強く想った。治る。絶対に治る。治れ。
それが祈りなのか、願いなのか、自分ではわからなかった。
そして、それが少年に向けられたものなのか、それとも桜自身に向けられているものなのか、それすらもわからなかった。
「……うん。兄ちゃんも弟ができたみたいで楽しかったよ。またお見舞いに来てもいいかな?」
「うん、待ってる」
桜はエレベーターの前に立った。
そしてそこから少し離れた位置に少年はいた。サッカーボールを大切そうに抱えている。
ボタンを押してしばらくすると、「チーン」という音で到着の合図を伝えた。
桜は、エレベーターに乗り込んだ。
そしてボタンを押した。
エレベーターが閉まり始める直前に、桜は少年に手を振った。
少年も、嬉しさと寂しさをないまぜにした表情をして、それに応じる為、片手を上げた。
その瞬間、抑えられていたボールが膝の上からこぼれた。
そのボールは、迷う事なく、ゆっくりとエレベーターへと進んでいる。
あ、と思ったが、もうドアは半分以上閉まりかけていた。
しかし、次の瞬間、思いがけぬ光景を目の当たりにした。
少年は反射的に、落ちたボールを追いかけるべく、立ちあがったのだ。
桜が驚き、目を丸めた時には、ドアが閉まり、エレベーターは動き出した。
動転した頭で考えた。
桜をからかっていただけという可能性もあるのではないか。
いや、違うだろう。すぐにその考えを打ち消した。
あの瞬間、桜以上に少年は驚いていた。
決して悪戯ではない。それはあの表情が如実に物語っていた。
目の前で起きた光景をなんて形容していいのかわからなかった。
エレベーターを降りても、いまだ興奮が冷めない。
病室に入ると、遅れた事を詫びた。
いつも通り、リハビリを始めながら、今起きた出来事を話し始めた。
それを聞いた母の表情は、こころなしか嬉しそうに見えた。
リハビリが中盤に入った所で、なんとなくカレンダーに目をやった。
一日から順に目で追った。
朝見た時は何も気付かなかったが、ふと、ある場所で目が止まった。
その瞬間、全てを悟った。
そして、母との会話を思い出した。
あれは桜が高校生の時だった。
なぜそんな話になったかは覚えていない。
「私、あなたが生まれた時の事よく覚えてるわ。夜の二十二時ぐらいから陣痛が始まって。それから少しして、破水したんだったかな。それで生まれそうになったのが二十三時五十分あたり。本当は痛いし、生みたかったんだけど、我慢して次の日になるまで必死で耐えたのよ。どうせならその日が良いってね」
「なんでそんなわざわざ我慢したのさ」
「その日に生みたかったのよ。当時の私は頭の中がお花畑だったの」
少しだけ、照れくさそうにして、再び口を開いた。
「語呂もいいでしょ。日々感謝を忘れずに生きる様に。そして皆に感謝されるような子になる様に。今考えれば、馬鹿も良いとこだけどね」
その当時は、馬鹿らしい事を言っていると、一笑に付した。
しかし、今考えると、少しだけ分かるような気がする。
桜は、今まで色々な人に助けられてきた。
その人達がいたからこそ、今の桜があるのだろう。
一人でも欠けていたら、この場に立つ事が出来なかったかもしれない。
感謝してもしきれないぐらい、勿体無い人達と出会えた。
今にして思う。
失うどころか、得難いものばかり得ていたのだと。
桜は、心の中で呟いた。
ありがとう。