ばけものとルカ
あなたをむぎゅっとしてくれる誰かがいますか?
あなたはむぎゅっとする誰かがいますか?
ばけものは自分の姿が嫌いでした。ずっと人間のような姿になりたいと思っていました。でも、そんなことは叶わぬ夢だとわかっていました。
それは、桜のつぼみが膨らみ出した頃でした。どこからか声が聞こえてきました。
「人間の子どもを“むぎゅっと”しなさい。そして人間の子どもに“むぎゅっと”されなさい」
温かい声でした。それは春風のようでした。
「そうすれば、人間のような姿になれるだろう」
“むぎゅっと”は、抱きしめること――
ばけものは喜び勇んで町に行きました。そして子どもを見つけると言いました。
「むぎゅっとしたい」
しかし子どもは皆一様にばけものの姿を見ると怯え、泣き叫びます。
「キャー! 怖いよー」
「むぎゅっとしたい」
「お母さん!助けてー」
「むぎゅっとしたい」
「気持ち悪い! あっちいけー」
ばけものは一人の少女に出会いました。少女は、ばけものを見ても何も反応しませんでした。
「むぎゅっとしたい」
「…………」
「むぎゅっとしたい」
「…………」
「ワタシが怖くないのか」
「…………」
「気持ち悪くないのか」
「……別に」
少女はルカと呼ばれていました。ルカは赤ん坊の時に桜の木の下に捨てられていました。ずっと施設で暮らしていました。ずっと独りぼっちでした。ばけものはルカに少しずつ近づきました。そしてむぎゅっとしました。子どもはふわふわと軟らかいものだと思っていたばけものは驚きました。ルカはとても痩せ細っていて骨ばかりで、強く抱きしめると壊れてしまいそうでした。ルカはどこか遠くを見ていました。
次の日もばけものはルカをむぎゅっとしました。ルカは石のように動きませんでした。その次の日も、またその次の日も、ばけものはルカをむぎゅっとしました。けれど、ルカの方からばけものをむぎゅっとすることはありませんでした。それでもばけものは毎日ルカをむぎゅっとし続けました。
月日は流れ、また桜のつぼみが膨らみ出した頃でした。ルカは少女から大人の女性に変わっていました。痩せた体はふっくらと丸みを帯びていました。今日もばけものはルカをむぎゅっとしました。すると、ルカのツンとした胸の膨らみがばけものの胸にズンとあたりました。ばけものは心臓がドクドクと鳴っていることに気付きました。
やがてルカは隣町の青年に恋をしました。ルカはどんどん綺麗になって、輝いていきました。青年もルカに惹かれていきました。町で評判の美男美女でした。そして二人は付き合うようになりました。ルカはいつの間にか、ばけものと会わなくなりました。ルカをむぎゅっとするのは、ばけものではなく青年にかわりました。ばけものはもうルカをむぎゅっとすることが出来なくなりました。
それは、桜のつぼみが膨らみ出した頃でした。ルカは息を切らして走っていました。ばけものを捜していました。ルカは青年と結婚することになりました。そして大事なことを忘れていたことに気付きました。太い桜の幹にばけものはもたれ掛かるように座っていました。ルカは頬をうっすら紅く染めて、立ち止まりました。
「忘れものをしたの」
ルカは小さく呟きました。
「私、大事なことをしてなかった」
「…………」
ばけものは何も答えませんでした。
「私、私……」
ルカは桜の木の幹に駆け寄り、ばけものをむぎゅっとしました。しかしルカはもう、ばけものからむぎゅっとされることはありませんでした。ばけものは冷たくなっていたのです。
「むぎゅっとしてくれないの? もう、むぎゅっとしてくれないの?」
ルカの瞳から涙がポタポタこぼれ落ちました。
「わからなかったの。愛するってことが、愛されるってことが……」
ルカは冷たく小さくなったばけものの体を何度も何度もむぎゅっとしました。
「わかったの。むぎゅっとされたら、むぎゅっと返さなきゃいけなかったこと。愛してくれてありがとう、ありがとう……」
ばけものは結局、人間のような姿になることは出来ませんでした。ただ、桜の木の幹にすっーと吸い込まれていったのです。
* * * *
「ママ!」
一人の少女がルカのもとに駆け寄ってきました。ルカは青年との間に娘を授かりました。“さくら”と名付けました。
「ママ、どこに行くの?」
ルカは何も言わず、さくらの手を繋ぎふわりと笑って歩き出しました。そこには太い幹の桜の木がありました。ルカは両手を広げて太い幹を抱きしめました。
「ママ!何してるの?」
「大好きな人にむぎゅっとしてるのよ」
「じゃあ、さくらもむぎゅっとする」
それは、桜のつぼみが膨らみ出した頃でした。
「さくら、ママが大好き」
さくらはルカにむぎゅっとしました。
「ママもさくらが大好き」
ルカもさくらをむぎゅっとしました。抱きしめられたら抱きしめ返す。ただそれだけ、それだけでいい。それはとても温かいから。 不思議なことに、つぼみだった桜の花はこの場所だけ開き始めました。そしてみるみるうちに、満開になりました。
「ママ、きれいだね」
「そうね……」
桜の花は、ほのかに薄くて、儚げで、それでも強くて優しくて、それはとても温かい。