白日夢 1
どういうわけか、俺は朝日が嫌いだ。こんなことは子供の時分には無かったはず、だと思われる、けれどもやはり確証はなく、まあどうでもいいや。立ち上がってカーテンを閉めきり、さて何をしてやろうかと手持ち無沙汰でいると、山積みになっている本から暫くを以て探していたフランツ・カフカの「城」を見つける。世間では積読本なんて呼ばれているらしいが昔は俺もそうだった。本を買うはいいが、10ページも捲ってちょっとビールでも飲みたいな、と思うと本を閉じ、その積読本と云われる永久凍土の中に本を眠らせる。ツンドクボン。情けないことに俺は文学小説とやらが苦手だった。CDもそう、評判を小耳に挟んで買うはいいが、何がいいのかさっぱりわからない。んでもって世間の阿呆共はこんなものを聴いてきゃっきゃ、きゃっきゃと喜んでいるのかと心の内で蔑み、得意になって鼻を鳴らし、自分が世代の波に乗り遅れているらしきことを全力で否定する。歳を取ると嫌ってほどそのことがわかっちまうから恐い。しかしCDの良さは今でさえわからないものの、本だけはちと読んでみようかと思っている今日此の頃。ベッドに転がり一つページを捲り、また一つページを捲る。駄目、さっぱり。俺は本を閉じ、やっぱり冷蔵庫からビールを一本取り出す。俺は何にも変わっちゃいないらしいぜ、畜生。自分の何もかもが嫌になる。こんなことだから仕事も無くなるんだ。
そんな時にかかってきた電話は今から紹興酒でも一杯ひっかけないか、という誘いだった。こんな時間に。白日夢で。でも白日夢だ。いい名前じゃねぇかよ、と思う。こんな俺達に白日夢。
目標はある。しかし、道は存在しない。俺はカフカの「城」を手に携えて煙草をふかし、迷路みたいな下町通りを歩きながら、妄想に耽った。そうだ、あいつらに自慢してやろう。あいつらは馬鹿だからまず本なんて読まん。いいところが漫画、それも助平なやつ。どうせならいい酒が呑みたいもんだ。
古臭かった通りにもいつからだか近代的な造りの建物が並んで、透明なガラス張りの美容室、青い光のコンビニエンスストア、じゃんじゃらじゃんじゃら音を漏らすパチンコ屋。そして黒ずんだ看板を引っ提げるコロッケ屋、……なんて敗北感だろうか。こいつらも俺と一緒。近代的な造りの何がいいのかわからない、といった風な顔をしておいて、実際は嫉妬を募らせている。哀れ哀れ。哀れなり、俺とコロッケ屋。
これだけはどうしようもない迷路のような下町を縫うように歩き、原色の看板。白日夢。昼間だっていうのに、その看板には薄気味悪い、真夜中の森や暗渠を連想させる真緑。俺は胸に苦味とそっくりな嫌悪を感じ、強烈に行きたくなくなった。嫌だ、もう行きたくない。カーテンを閉め切って、阿呆な連中と昔話にくだを巻いて敗北の酒を呑むなんざ御免だ。朝日が嫌いなんて駄目な人間の思う所だ。俺は来た道を引き返し、途中に見た公園の中で塗装の禿げたベンチに座った。そうさ、ここで陽を燦燦と浴びながら手に持った本でも読めばいい。向こうにいるよりかは幾分ましじゃないか。
「おいさん」
ふとその時声が聴こえ、振り返ると幼い男の子がゆらゆら揺れる動物を模した遊具の上で俺を眺めていた。どうやら自分を呼んでいるに違いなく、俺は急に声をかけられたもんだからびっくりしてベンチから腰を浮かせ、「どうした坊主」と開きかけた本をまた閉じてしまった。
「おいさんの本ちょっと読ましてくれない?」
「本?」と俺は、相手が子供であることも忘れて思わず顔を歪めた。そうだよ子供のいうことじゃないか、とすぐさま自分に言い聞かせ、俺はにかっと笑ってベンチから立ち上がり、坊主のところまで寄って行って、身を屈めてやった。
「これはまだがきんちょの読む本じゃねぇんだよ。大人になってからな」
そう言って坊主の頭を撫でてやろうとした時だった。坊主の目つきがきっ、と鋭くなったかと思うと、俺目掛けて腕を伸ばした。
「いいから貸せよ」
俺は見事にぱしっと簡単に、手に持っていたフランツ・カフカの「城」を奪い取られてしまった。しかしそんなことはどうでもよく、俺は子供の所業に唖然としてしまった。なんてガキだ。人の物を断りもなく奪い取るなんて。これが世間で云う、あの「教育がなってない」というやつなのだろうか。でもそんなものは俺とは縁遠いものだとばかり思っていたし、テレビの中だけの世界、あるいは誰かの作り話だと思っていた。俺はもう突然のことに頭が混乱しちまって、怒るどころか口を開きかけるが何も言えないし、子供を殴ろうかと考えてそれも面倒事になったらと思うと気が引けるし、つまり俺はとことん舐められているらしかった。年功序列なんて駄目な人間には当てはまらないのか。そういや金持ちや有名人の子供も好き勝手に人を罵るような。となるとこいつは金持ちの息子か? いやいや、そうでなくても俺みたいに何かに敗北してはいないんだろう、きっと。むかつく。
諦めと怒りを同時に感じた俺は、唇をきゅっと締め、まるで自分の物を取られたようにして背中の方に本を持った手を回す坊主へ、何かひとこと言ってやろうと試みた。だが尚も混乱の余韻は脳膜を巡るし、子供は俺を睨んでいるし、で上手い言葉が見当たらなかった。
そうこうしている内に、若い女の呼び声が俺の耳に届いた。
「たかし」
警戒するような声だった。すると子供はふわっと安心したような笑みを浮かべ、女の方にとたとたと俺の本を手に持ったまま走り出した。女は両手を開いて子供を抱きかかえ、赤ん坊に喋りかけるように甘えた声で語りかけると、ゆさゆさと腕に抱えた子供を揺すった。
それから俺に向けられた目。まるで人攫いでも見るような目つきであった。胸がかあっと熱くなり、しかし怒りよりも恥ずかしさが勝る。それは俺の本で子供が奪ったのだ、と正直に言いたいが、子供は巧妙にそれを母親の視点からは忍ばせているし、俺は元来の気の弱さと上がり性が相まって、少し俯いたまま屈辱に耐えるような恰好で遊具に手をついているだけであった。
それと云うのも、女は無茶苦茶に美人であった。俺とは縁遠いどころか、死ぬまで一言も言葉を交わすようなことがないような美人であった。俺は生まれながらに女や子供に敗北をしているのだ、と悔しくも本能的に悟ってしまったのである。
女は俺を尻目に軽蔑の念を滲ませ、子供の耳元で何か言い、それから背を向けて尻を揺らしてせかせかと歩いていってしまった。そしてまだそんなものがあったのかと思うほどに、ごっそりと俺の中の自尊心やらなんやら、自愛の心が根こそぎ奪われ、俺は死にたくなった。このままこの寂れた公園の片隅で死んでしまいたくなった。これは何かの悪い夢か? 妄想か? 霜のように不気味な汗を背中にじんわりと掻くあの白日夢か? 俺の人生はいつから敗北を決定付けられたのだ? 糞だ。世の中は糞だ。どいつもこいつもが俺に唾を吐きかけようとしやがる。
目標はある。しかし、道は存在しない。俺は帰りに本屋へ寄り、フランツ・カフカの「城」を買って家に帰った。だがやはり、俺は読書をぞんざいにしてビールを飲んだ。俺は俺の城に籠もることになれちまったんだろう。敗北者、負け犬。世間が糞なわけじゃない。ただ単に俺が糞なのだ。俺は自分の陳腐でしかし頑強な城に籠もり、何事に擱いても自分の都合のいいように白い物を黒だと言い、沿わない野郎は阿呆だと頭ごなしに決め付けている。本当の阿呆は俺。救いようの無い阿呆。それでもこの城は癖になる。唯一俺を持て囃してくれる虚無の城だ。
俺はビールを飲みながら白日夢のことを考えていた。あの女が夢に出てきてくれるといい。孤独な城の中で俺の体のあちこちを温かい舌でなぞってくれる。俺は女の中で何度も射精を繰り返す。俺は下劣な男だ。けれどもそれだっていいじゃないか。大小様々ではあるにせよ、人は誰しもが心に隔離された城を持ち、その中で孤独な白日夢を見ているわけだ。もちろんそれが虚しく終わることを知っていて。




