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森の中

 鬱蒼とした森の中へ足を踏み入れると、それまでとは違い、空気がひんやりと冷たく変わるのが少年にはわかった。森の中は想像していたよりも遙かに静かで、少年が唾を飲み込むと巨大な音を伴って喉元を駆け下りる。瞬間、烏の声が空に聴こえ、少年はびくりと体を震わせて上空を見上げた。しかし、烏の姿をその目で垣間見ることはできなかった。根のように張った木々の枝が幾重にも重なって網羅し、奇妙な程偶然に空を覆い隠していた。烏の声は尚も耳に響く。まあいい、と少年は思う。どうせ空は曇ってる。俺の空にはいつだって霜のような雲が張り付いているんだ。

 少年からは才能と名のつくものが全て欠如していた。少年は自らの不才をその目で実感するたびに、自己への嫌悪にひどく心痛した。自分で自分を憎むことができるのは人間ぐらいだ、と少年はいつしか考えたことがある。だから俺は、俺のために生きることをやめにしたんだ。俺は何もしちゃくれないし、何も与えてはくれない。俺に腕はあるが指は無く、頭はあるが顔は無い。劣等感を押し付けられる人生はもう終いだ。


 森を進むと、小枝を踏みしめる度にその乾いた音がきぃんと耳に響く。この森はやはりどこかおかしかった。静寂とはまた違った静けさが辺りに漂っている。それは静寂ではなく、沈黙なのかもしれない、と少年は思った。怪物が息を殺して獲物を見据える時のような。それに、空気がやけに湿気を孕んでいる。それはいやらしく、不気味な湿り気であった。森の空気を吸い込む度、湿気が肺に粘りつく。少年にはそれが死臭の余韻のように感じ取れた。死臭を吸った森の木々がそれを吐き出し、今、俺はそれを肺の奥まで潜らせている。少年はそう思うと、今にも吐き出しそうだった。

 森の中に生えたみすぼらしい雑草は、どれも陰鬱な灰がかった色をしていた。斜陽の刻だということは少年にもわかっていたが、森はちともそれを感じさせない。まるで人の手が何かを鷲づかむ時のような恰好の枝がそこら中に張り巡らされている。少年はそれに背筋の寒いものを感じてはいたが、もう退くことはできなかった。脚は強張りながらも先へ先へと進んでいく。少年はなるべく別のことを考えようと努めた。こんな所にいる自分の状況を把握しきったところで、狂人のような目に磨きがかかるだけだ、と少年は思う。それから彼は、ずっと昔に聞いたアフリカの話を思い浮かべた。まだ彼が9つの頃に聞いた話だった。

 金色に輝く大地。そのずっと先にある白い砂浜。砂はあまりに白く照り映えていて目を痛めそうなほどだった。それから高い岬、そびえ立つ褐色の山々。少年は奇怪な森にいながら、遠くに磯波の轟きを聞き、それをわけて漕ぎ寄せる土人の小舟を見た。潮の匂いをかぎ、大陸の微風が送ってくる朝のアフリカの匂いをかいだ。彼はその白昼夢の中でヘミングウェイを読み、島々の白い峰が海上にそそり立っているのを眺めていた。それからやはり、彼の想像する世界にはライオンが登場した。ライオンは薄暮れの砂浜で、子猫のように水と戯れている。ライオンは彼にとって強さの象徴だった。雄雄しく荒々しく、時に残酷なライオンは彼にとって理想に最も近い存在であった。あいつらは決して誇りを失わない。もし生まれ変わることが本当に出来るとするなら、俺はライオンになりたい。少年は物心のついた頃からそればかりを考えていた。少年は自分の描いた描写があまりにも美しかったことに、しばし耽美し、酔いしれた。初めてその話を聞いた時よりも、イメージはずっと洗練されている。


 しばらくしてまた烏の声が聴こえると、彼はその白昼夢からはっと目覚めた。辺りは夕刻とは思えないほど暗い闇に覆われていた。もう随分と森の奥へ来てしまったのだ、と少年は気づく。歩いてここまで来た感覚はあったが、記憶はおぼろげだった。自らの内面ばかりを見続けると、人はしばしば周りの情景を忘れる。烏は上空で大きく旋回し、木の枝に止まっては少年を見下ろし、あたかも人のような声で鳴いていた。烏の黒い羽は闇とほぼ同化をしている。少年が目を凝らすと、なんとかその烏の体も見て取れた。烏の目は丸く、巨大なくちばしの先はつるはしのように尖っていた。烏は頭がいい、と少年は思う。俺を食おうっていうんだ、あいつら。俺がこの森で朽ち果てることを奴らは知ってる。

 少年は烏を睨みつけたが、烏は一切物怖じしなかった。小首を傾げ、それからつるはしを開いて、くあ、と鳴く。薄気味の悪い連中だ。少年はそう思ってもう目をくべるのを止め、また森の奥へと踏み出し始めた。森は奥へ奥へと彼をいざない、少年が進むに連れて闇の密度を増していく。この森は意思を持っているに違いない、と少年は思った。毎年何百人という人間がここを自らの墓場と決め込んでやってくる。森は魔の引力で人を惹きつけるんだ。そうして森は一つ一つ魂を喰らい、年々成長していく。根を伸ばし葉を伸ばし、やがては暗く、陰鬱な影を地面に落として。

 その時、またも人のような鳴き声がして、少年はびくりと肩を震わす。今の鳴き声はまるで本物の人間のようだった、と少年は思う。背中に冷や汗を感じ、辺りをゆっくりと見回してみる。しかし周りにはモスグリーンの暗黒が広がっているだけだった。少年はほっとすると共に、少しだけ心の中で自嘲した。俺は一体何に怯えているというんだ、まったく。ここは生き物の墓場じゃないか。たとえ得体の知れぬものがいたとしたって俺もすぐにそいつらの仲間入りさ。

 だがその時少年の目に、枯れた木の傍でもぞもぞと動くものがちらと見えた。すると少年の目が一瞬の内に狂気じみたものへと変わった。冷や汗ではなく、今度は背にしびれのようなものを感じる。あれはなんだ? 少年はぴくりとも動けなかった。恐怖に支配され、指一本動かすことも困難だった。得体の知れない黒い影は闇の中で相変わらずもぞもぞと動き、その度に少年の背にぞくぞくとしびれが走った。少年はもはや内なる全てを恐怖に駆られ、心から叫びそうになる。しかしすんでのところで歯をぐっと噛み締め、必死の思い出気配を殺した。悟られてはいけない。こちらの存在を悟られては魂を貪り食われてしまう。しかし、その影はしばらくして、どさっと木々の下にくず折れた。それから聴こえたものは今度こそ人の呻き声だった。少年は再びはっとする。あれは人か! あれは人なのか! 少年はようやくして影に向かい第一歩目を踏みしめ、しかし木々の下に目を凝らしたところでもう一度考えた。

 あれは本当に人か? 正真正銘の人間なのか? もし得体の知れぬものだったらどうする。怪物か物の怪か。もしかすると俺を騙そうとしているのかもしれない。手傷か何かを負って動けぬから同情を売って、精をつけるために俺を一思いに平らげようとしているのかもしれない。

 だが少年はそう考えたところで自分に嫌気が差した。俺はどうかしてる。ここまで来て俺はまだ怖じ気づくのか、まったく。物の怪なんかいるはずもないだろう。それに俺は魂を無に帰そうとここに来たんじゃないのか、ええ? だのになぜこんなことで怖じ気づいてる。死のうとここに来て、どうして死ぬことを恐れる。これほど滑稽な話もないじゃないか。

 少年はそこまで考えると、半ば強引に足を踏み込んだ。尚も恐怖は胸中に存在したが、それを無理やり抑え込んだまま木々の下に足早に歩いていき、ついには影の前にすっくと立った。傍で見るとようやく影の正体は晴れた。影の正体はぼろきれを纏った足腰も立たぬ老人の哀れな姿だった。少年は恐怖を振り払うために自ら作り出した興奮で気が落ち着かず、老人を見てもどんな言葉を発していいかわからなかった。老人は尚ももぞもぞと動き、腐葉土に唇をつけてうつ伏せになっている。ようやく少年の興奮も治まりを見せた時、老人は前に立っている謎の人物の気配に気がついた。

 「ああ神よ……」老人の第一声はそれだった。「私は恥の多い人生を送って参りました。信心深くもなく、また慈悲深くもありませんでした。しかし今なら、……今なら『我らの父』を百回も唱えましょう。ですからお願いです。あなた様の御許へどうかこの私めを参らせてください、……どうか、どうか」

 少年は老人の言葉が第一うまく聞き取れなかった。まるで蚊の鳴くような声だ。見るところによるとこの老人はくたばりかけている、しかし今はまだ苦痛の時間なのだろう、と少年には察しがついた。そして老人は自分を神と勘違いし、どうか一思いに殺してくれと頼んでいる。

 あまりに咄嗟のことで思考の飽和状態になった少年は、横たわった老人をごろりと転がし、仰向けに寝かせて頭の下に手を回し、老人の顔についた土を注意深く払ってから、少し持ち上げてゆっくりとわかりやすく話しかけた。

 「おじいさん、俺は神様じゃない。何もできない。だから起きてくれ。自分で起きてくれ」

 だが老人は変わらず呻るだけであった。老人の目は切り傷のように細く、それにどうやら開いていないように見えた。少年は同じ言葉を老人に呼びかけたが、やはり結果は同じだった。老人はもはや衰弱しきっており、盲目と難聴であった。

 「ああ、神よ、……お願いします、……どうか、どうか」

 少年は涙を流しそうになっていた。心臓が温かい脈を打ち、胸が焼けるように熱い。どうして赤の他人の死でこれほど悲しい思いが胸に迫るのか彼にはわからなかった。何かしなくてはいけない。でも、と少年は思う。俺はどうすればいい。このじいさんに俺が一体何をしてやれるというんだ。

 答えは一つだった。彼は老人の頭をそっと地面に置き、それから涙を拭ってなるべく大きな石を探した。石を探して辺りを彷徨う彼の息は荒く短く、そして熱い。石は簡単に見つかった。いかにも硬く、頑丈そうなでこぼことした大きい不細工な石だった。少年は腰を落として、やや地面にめり込んだそれを引っこ抜き、一歩一歩重い足取りで老人の傍へと歩いていった。

 一発で殺してやらなくちゃいけない。それがじいさんのためであり、俺のためでもあるんだ。

 老人は尚も呻いていたが、それは声というよりも喉から漏れる音であった。老人のその、ひゅう、ひゅう、という声を聞きながら、少年はまたぐっと胸に詰まるような思いを感じた。駄目だ、とそこで少年は踏みとどまる。俺がその時を遅らせれば遅らせるほど、じいさんの死は苦痛に満ちていくんだ。

 そして少年は力いっぱいに石を振り上げ、老人の頭めがけて石を落とした。ごっ、という骨と石とがぶつかる低く鈍い音が聴こえ、少年はその反動で膝から地面にくず折れ、後ろへ尻もちをつく。彼は一瞬、自分が何をしてどうなったのかがまるでわからなくなった。眠りと覚醒のひずみに彼は一瞬だけ旅立っていた。そして彼が目を開けた時、老人はすでに息絶えていた。もう老人の体から生は一片も感じ取れなかった。そこには魂の入れ物となる亡骸がただ横たわっているだけであった。

 少年はまた胸の奥から涙が溢れるのを感じる。しかし今度は、涙の意味が断然に違った。老人を殺す前の涙と殺した後の涙では、様相が余りにも異なる。彼はどういうわけか笑いだしそうにまでなっていた。自分ではどうしようも歯止めの効かないおかしさが込み上げてきて、彼は腹を抱え、雑草の上を転げまわった。少年はひぃひぃと森の奥で笑いながら、涙が止めどなく溢れ出るのを感じる。不謹慎だということがわかっていても、どうしても彼にその笑いを止めることは出来なかった。そんな狂気、混乱のさなかに彼は思う。死のうと森へ入って来て、そんな人間が人を殺すなんて。俺は多分いかれちまったんだろう。あるいはいかれたふりをして何もかもをうやむやにしちまおうとしてるんだ。


 そして涙が止み、おかしさも止んだ時、森は元の沈黙を取り戻していた。少年は老人の骸の傍で脚を三角に折り、それを抱えるようにしてしばらく森を眺めていた。もう烏の声も聴こえない。彼は沈黙に身をとっぷりと浸からせ、また自分の内面へと回帰していった。

 死のうと森へ入った人間が、哀れな老人を手に掛けるなんて。俺は本当に正しいことをしたのだろうか。じいさんは本当に死を願っていたのだろうか。ただの一時的な、老人の気狂いだったかもしれない。俺がちゃんとじいさんの言葉を聞き取ってやれなかっただけなのかもしれない。

 けれどもやはり、と少年は思う。森の奥深くに老人が一人でいたということは、その人生が不幸な顛末を迎えていたなによりの証なんだ。

 少年はそう考えるとおもむろに立ち上がり、それから老人のために墓を掘った。森の土にはごろごろと石が混じっていて、それが少年の爪や指をひどく傷つける。だがそれでも少年は一心に地面を掘り続けた。もう自分で自分を憎むのはやめにしよう、と老人のために土を掘り返しながら少年は思う。自分で自分を憎んだところで、何にもなりゃしない。俺はこいつと一生やっていかなきゃいけないんだ。腕はあるが指は無く、頭はあるが顔は無い。けれどもこいつが俺なんだ。俺は俺であることから逃げていた。俺は俺と向き合って、正々堂々やっていかなくちゃいけない。今も、そしてこれからもずっと。強くなるというのは、きっとそういうことなんだ。

 掘り終えると彼は額の汗を拭い、それから老人を担いで掘った穴へそっと入れた。老人の体は驚くほど軽かった。魂を失うと肉体というものはこれほど軽いものなのか。少年は老人の開いた両眼に瞼を伏せ、両手を胸に置き、自らも胸に手を合わせて老人の冥福を祈った。それから手で土を掬い、少しづつ少しづつ老人の体へかけていった。死後の世界はどんなものなのだろう、と少年は考える。じいさんは今、あの世の前の審判に掛けられているのだろうか。少年は作業の手を一旦休め、それからまた胸の前で十字を切った。ああ、神よ。どうか、……どうか彼の魂を休ましめたまえ。

 老人の体がもう土に覆われて見えなくなる頃には、辺りは真っ暗闇と化していた。闇の中で少年の体はその輪郭を失い、辺りに解け込んでいくような気がした。ある意味では完全な黒よりも深い意味を孕んだ闇であった。梟の鳴き声が、ほう、ほう、と辺りにこだまし、少年はまた老人の墓の傍へ座って、脚を三角に折った。空には黄色い月の光が木々の枝から透けている。明日が晴れであるならば、朝一番に森を抜けよう。彼は膝に顔をうずめ、自らと再び融合を図る。少年は森の沈黙の中で、驚くほど自分が安らいでいるの感じた。そうしている内に、段々と彼は重くのしかかるような眠気に襲われる。俺はひどく疲れているらしい、と少年は思う。森の気温は肌寒かったが、少年は疲れで火照った自分の体の温かさを知った。彼は死の充満した森で、自分が生きているということを改めて自覚する。彼は目を閉じ、老人の墓の傍で座ったまま眠ってしまった。まるで温かい泥に全身を包み込まれるかのような深い眠りであった。そして彼はその夜、淡い月光に照らされながらアフリカの海岸でライオンの夢を見続けていた。

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