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スケープゴート 10

 石田はその日、とうとう僕が帰るまであの言葉にどんな意味が含まれていたのかを明かすことはなかった。石田の家を出ると雨はぱったりと止んでいた。雲が流れを取り戻し、止まることなく動いていた。葉から雨水の雫が滴り落ちている。空気が雨の降る前に比べるといくぶんひんやりとしていた。


 高見美穂はその二日後になって学校に戻ってきた。

 やはりあれは石田の予言だったのか、と僕は思った。でもそこに確証というほどのものは存在しなかった。石田はすぐに戻ってくると言ったのだ。石田の言うすぐがどれほどまでに限定されていたのか僕には知る由もない。言えることは二つ。

 石田が高見美穂をさらったんじゃないこと。そして石田が高見美穂の失踪に関する事実を何かしら得ていたこと。

 しかし後者にそれほど確証はないかもしれない。石田がただ漠然とした予覚のようなものを僕に伝えたに過ぎなかったのかもしれない。

 高見美穂は平然としていた。自分の行動が石田の疑惑を強めたことなんて微塵も予想していなかったし、同時に何も知らなかっただろう顔で登校してきた。ホームルームの始まる前の廊下で、グループの女友達に心配の声をかけられながら、高見美穂は馬鹿みたいに笑った。

 「はあ? 何それ、違う違う、そんなわけないじゃん――っていうかあんな奴に声かけられたらまず叫ぶし。殴ったら勝てるっしょ、もやしだもんあいつ。実はね、ほら、あのあたしとプリ一緒に写ってた人いるじゃん? ハタチの人。あの人んち泊まってたの。お母さんとめちゃくちゃケンカしてさあ、行くとこなかったからしょうがなくて。ごめんね、もう玄関飛び出しちゃったからさあ、ケータイも財布も忘れて――みんなも心配してるかなあって思ったんだけど。ほんとごめーん」

 ミホチングループの女子達は(酒井裕子も含めて)、非難よりも先に笑った。

 「勘弁してよ美穂―。あたし石ころにカマかけちゃったじゃーん」

 「そうそ。裕子あのときすんげーかっこよかったし」

 「あんときのあいつキモかったよねー。なんか何も言わないくせにこっち向いててさあ。見んなっつーの。うう寒っ」

 寒っ、の動きでぶひゃぶひゃ笑う。つまんねーよ馬鹿。

 幻滅より怒りがまさった。別に彼氏がいるのに他の男の家に泊まりこむのがどうこうということじゃない。それは僕に全く関係ないし、完全に高見美穂の問題だ。けれど僕が許せないのは周りのへらへらした連中だった。過ぎたことならなんでも笑いのネタにしていいと思ってる。いや違う、笑うことで罪の意識から逃れようとしているのだ。自分の中で無かったことに出来れば彼女らは十分なのだ。まやかしの免罪符に縋りついているだけだ。

 だがそうはさせない、と僕は思った。胸がねじ曲がるような思いだった。これはここであっさり終わっていい問題じゃないのだ。そしてここで僕が行かなければ、僕自身一生後悔することになるだろうと思った。

 僕は席を立ち上がり、連中のいる廊下にまで真っ直ぐ歩いた。心臓がぎゅううっと縮まり、僕に退けと命じている。

 嫌だね。絶対に嫌だ。

 「謝れよ」と僕は言った。ボリュームを絞ったみたいに彼女らの話し声が止み、訝しげにこちらを振り返る。

 「えっ、何……」

 僕は言う。「石田に謝れ。酒井てめーだよ」

 沈黙が僕らの間に降りた。教室も校内も騒がしいのに、廊下の僕らがいる場所だけが静かになった。喧騒の中で沈黙はありありと浮き彫りになる。もう心臓の音しか聞こえなかった。でも引き下がる気はない。

 最初に事態を把握したのは酒井裕子だった。瞳が困惑から敵意に変わったのを僕は見逃さなかった。

 「ってかなんであんたに言われなくちゃなんないの? 関係ないでしょ」

 「関係ないわけねーだろ。友達なんだよ阿呆」

 「は? こっちは知らねーよそんなこと。出てくんなっつーの」

 酒井裕子の腕が伸びて僕の胸をどん、と硬く押し飛ばした。僕は思わず意識が飛びそうになった。頭の中が白んで、意識の尾が手からするすると抜けていくのがわかる。

 僕はぐっとこらえ、拳を強く握った。「触んじゃねーよブス。とっとと石田に謝りに行けよ。カマかけたんなら謝んのがスジだろうが」

 「だからおめぇには関係ねえっつーの。しゃしゃってんじゃねーよガキ」

 何も言葉が出てこなかった。どうしてここまで言えるんだろう、と僕は思った。正しいのはこの僕だ。僕だ僕だ僕だ。自分に否があろうがなかろうが、彼女には関係ない。利己主義のサイコパスはいつだって世界が自分のために回ってると思い込んでいる。場しのぎの口論に勝つことが全てだと思ってる。

 憎い。

 殺してやりたい、と思う。酒井裕子の首を絞め、骨の折れる音を聞きたいと思う。酒井裕子の苦悶の表情や、叫びにもならない声をゆっくりと味わいながら殺してやりたいと思う。その願望は強く胸を打ちつけ、手を震えさせる。僕の胸の内を黒く重たい血が沼のようにどろりと渦巻いている。

 「殺すぞ」

 「は? 何? 聞こえねーよ馬鹿」

 「ぶっ殺す」

 「殺す? はい出た」と酒井裕子は怒鳴った。「ちょっとみんな聞いてー、こいつあたしのこと殺そうとしてんだけどー!」

 酒井の声で廊下にいた何人かの生徒がこの騒ぎに気づき、酒井裕子は鼻を鳴らして「早く殺してよ、ほら」と僕に言った。高見美穂はどっちつかずの不安そうな顔をしていた。それは僕の顔が本気だからなのだろう。僕はこのクソ女を殺したくて殺したくて殺したくて──殺す。暴力と制裁は違う。

 「ちょっと待ってちょっと待って、何やってんだよ。落ち着けって」

 隣のクラスから出てきたのは正樹だった。

 「出てくんなよ正樹。今あたしが殺されるの待ってるんだから」

 「ちょっと待てって。今こいつ興奮してんだよ。だからちょっと待って。放っといて、悪いけど」

 「興奮なんかしてねえよ。正樹どけよ」と僕は言った。

 正樹は余裕のない顔で僕を見た。複雑に絡み合った顔をしていた。まるで病の姉が死の床についてるみたいな青白い顔だった。

 「お前もいいから」と正樹は言う。「ちょっとこっち」

 正樹はそう言って僕の腕をがしりと掴み、酒井裕子のいる廊下から3メートルほど引き離した。抵抗しても正樹の力には到底かなわない。

 「正樹」と僕は言った。「マジで俺殴るから。あいつだけは石田に土下座するまで許せねえから」

 「もう少しだから」と秘密を打ち明けるよう正樹は囁いた。

 「早く殺してよー」と上靴の底で廊下の床をたたきながら酒井裕子が挑発する。本気じゃないことはすぐにわかった。あるいは酒井裕子も、最近の自分の評判がよろしくないことを知っていたのかもしれない。ここで自分の権威を有効に披露することが得策だと思ったのかもしれなかった。なんてくだらない権威だろう。余裕のない人間がこれで全て出揃ったわけだ。

 僕は酒井裕子を無視して正樹に言った。「もう少しって何がもう少しなんだよ」

 「石田が来る」

 「は?」

 「登校してきてる。今」

 「えっ……石田? 嘘っしょ?」

 「マジだよ。こんなときに嘘つけねーって」と正樹は苦しげに笑った。「だからあとは二人で直接話してもらえばいいじゃん。酒井と石田でさ」

 「あっ」

 石田。

 階段の手すり越しに石田の真っ黒で長い髪が見えた。石田だ、間違いない。ぽかあんと口を開けていたんだろう僕に気づいて正樹も振り向く。そして酒井裕子も振り向く。真打ち登場とばかり、空気が固く強張った。石田はいつもどおり、少しうつむいて窓際を沿うように足音も立てず歩いていた。

 誰も何を言えばいいのかわからなかった。電話ボックスで隔離されてしまったみたいに、僕らのいる場所だけが息の詰まる沈黙に支配された。

そして石田は僕と酒井裕子らの間でふいに歩を止めた。次の瞬間起こった出来事は誰にだって予想がつかなかった。

 石田は酒井裕子の髪を掴んで振り回し、酒井は周囲の耳をつんざくような悲鳴をあげた。校舎が割れた鏡のようにバラバラになってしまうんじゃないかと思った。正樹が怒声ともとれる大きさの声で「おい!」と叫び、僕は咄嗟に正樹の胴回りに後ろからタックルをかました。

 「何やってんだよ! 離せって!」

 僕は何も言わなかったし、言えなかった。ただ必死だった。石田は怒りをもって、今酒井裕子に制裁を加えているのだ。それを止める権利は誰にもない。

 だが僕が正樹ひとりを抑え込んだところでどうにかなるレベルの問題じゃなかった。男子がわらわらと集まってきて石田は酒井裕子から引き剥がされ、壁に叩きつけられた。喧騒の中では酒井裕子のむせび泣く嗚咽と、男子が石田に向かって怒鳴りつける声が際立って耳に響いた。石田はまた襟首を掴まれ、床から数センチ浮かび上がっている。僕は正樹の胴回りから腕をほどき、止めに入った。でも今度僕の体を羽交い絞めにしたのは正樹だった。誰かが石田の頬を手の平でぺしぺしと叩く。その瞬間に生まれた石田の怒りや憎しみを僕は生涯忘れることが出来ないだろう。石田の目はそのとき生きていた。石田は抑えつけられながらもがくようにしてその相手を思い切り殴りつけ、誰かが叫び、誰かが怒鳴った。石田は倒され、腕を床に押さえつけられ、誰かがその混乱に乗じて石田のわき腹を蹴った。僕は自分でさえもが理解できない声で何かを怒鳴っていた。何と言っていたのかもよく覚えていない。


 すぐに何人かの先生がかけつけ、また怒鳴った。酒井裕子は窓際で高見美穂らにもたれかかるようにして両手で顔を覆っていた。大人がやってくると、喧騒は糸が切れたみたいに急にしんとなった。正樹は僕から腕を離し、僕は呆然と佇んだ。僕の平静や理性は白い混沌の中に置き去りにされてしまっていた。男子生徒たちが引き剥がされると、石田は何もなかったように立ち上がり、少しうつむいた。石田と酒井裕子が大人に連れられて行くあいだ、僕は立ち尽くしていることしかできなかった。


 その騒動のあと、石田が教室に戻ってくることはなかった。酒井裕子もだ。教師たちは本人たちも含め、色んな生徒から事情を訊きだし、石田があらぬ疑いをかけられていたこと、そのことが関連して石田が学校を休んでいたこと、などを考慮して、石田に停学処分を下した。

 それは確かに以前、僕が石田に対して望んでいたことなのかもしれなかった。でも騒動のあと、僕の心に残ったのはぽっかりと穴の空いたような深い悲しみだった。果たして僕らは勝つことができたのだろうか。じゃあそもそも、勝ち負けとはいったい何なんだろう? 僕にはわからなかった。誰かが傷つき、傷つけられたようしか思えなかった。

 石田はただ何にも負けなかったのだろう、と僕は思った。スケープゴートという呪いに対して、学校という巨大な暴力に対して。

 でも、僕はもうどうでもよかった。問題はあまりに大きすぎて、僕の手の平には抱え込めない気がした。僕はそのとき、この出来事を悲しみとしてでしかとらえることができなかった。早く家に帰って、何も考えずこんこんと眠りたかった。


 二週間が経ち、石田が再び戻ってきてからも、僕が彼と何かを話すことはなかった。石田は相変わらず一日中黙ったままで、僕と意図的に目を合わせることもしなかった。そしてぱったりと、石田が高見美穂を影から見つめることもなくなった。周りの目線を気にもしない様子の彼は、以前と同じように授業を受け、二三日もするとまたクラスの影に馴染んでいった。因縁もなし、報復もなし。全てはあたかも自然の流れのように、丸く元の平和な学校に収まっていった。

 そして僕は時々、アポなしで石田の家に行った。裏門をくぐり、鬱蒼とした林を抜け、死そのもののような住宅街を歩いた。石田は僕を受け入れ、僕はひんやりとした廊下を歩いた。石田が僕を受け入れてくれることはなぜだかわかっていた。あのニヤリのせいかもしれないし、僕らに起こったカオスじみた騒動のせいだったかもしれない。石田は僕にオレンジジュースを勧め、僕はそれにときどき口をつけ、ぼそぼそと話をして夕暮れには帰った。竹藪は不安を囁くように揺れていた。

 けれどあの日、あの言葉の意味だけはとうとうわからなかった。

 ──スケープゴート。

 初めて石田の家に行ったとき、薄暗い部屋にこだました謎の予言。高見美穂失踪の真相。

 石田はこうなることを全て予測していて、あのことばを僕に向けたのだろうか。彼はそれからもそのことに触れなかったし、僕が何か訊けることでもなかった。そしてそれは、これからもずっと永遠に謎のままでい続けるのだろうと思った。僕は帰り道ではよたよたと木の根に腰を下ろし、葉の隙間から見える青白い月を眺めながらこの事件について一通り思い起こしてみた。そしてそれらが僕に何を与え、何を変えることができたのか考えてみた。林の中はもう夜のように暗くなり始めていた。

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