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スケープゴート 9

 昼を過ぎた6月の空は、灰がかった厚い雲に覆われていた。雲はとっぷりと湿気を孕んでいる上に淀んでいて、遠くの家々に低く垂れ込み、まるで何か不吉な世迷い事を溜め込んでいるみたいだった。放課後、僕はすぐに教室を出て、裏門からひとりで学校を抜けた。正樹は僕のいない教室を見てどう思うだろう? 石田の家に行った、と思うかもしれない。そうなると僕の信用はいよいよ暴落し、下手をすると僕自身、石田と同じく贖罪の山羊と化すかもしれない。まあそれでもいいや、と僕は思った。今さら僕がどんな嘘を並べ立てたところで白々しいだけだし、どうせ何かで悩むのなら自分が正しいと思うことをやって悩んだ方がずっといい。

 空をずっと見上げているとめまいがした。今にも雨が降りそうだった。どうしよう、傘なんて持ってこなかった。

 やれやれだ。僕は地獄の底より深いため息をつき、地べたから立ち上がった。前には人を寄せつけない鬱蒼とした林が広がっている。こんなときにかわいいクラスメイトが傘を僕の前にさっと出して相合傘で二人で帰ってメールアドレスを交換し合ってお互い別れてエアコンのドライ機能を効かせた部屋でぐっすり眠って朝起きたら元の生活が始まっていたらよかったのに、──僕は何の因果か、これからわけのわからないやくざな林を一人で抜けて石田の家に向かわなくてはならない。それも時間を捻じ曲げてしまうような能力を持つ不明瞭で逆説的な林を抜けてだ。

 いかれてる。僕はいったい、どこで何をやろうとしているのだろう? 自分の居場所がわからなくなる。これじゃまるで現実と非現実の境目にいるみたいだ。林の向こう側が非現実、こちら側が現実といった具合に。僕はちょうど互いの円の交わる中心で自分の居場所を見失っている。

 だがある意味ではメタフォリカルなのかもしれない、と僕はふと思った。たぶん僕はこの騒動のキイをある程度握っているのだ。僕の動き方しだいでは石田がもう二度と学校に来れないかもしれないし、石田への疑いを全て払拭できるかもしれない。

 因果は全て石田に結びついている。そして僕だけが石田を知っている。

 僕はいちど屈伸をして、それからあの日と同じように道なき道を歩み始めた。僕は思う。今さらどうこう考えるのはよそう、行動が全てなのだ。

 「行くしかないっしょ」と僕はつぶやく。そう、行くしかないのだ。


 草木は暗い雲のせいか前よりも陰鬱な緑に見えた。いわゆる油照りというやつで、空気は湿っていてべったりと肌にまとわりつき、僕を不快で落ち着かない気持ちにさせた。風邪を引いたときそっくりの寒気がする。背中をなぞる汗はいやに冷たかった。

 踏み分け道がぶつんと途切れていても、僕はどういうわけか迷うことがなかった。石田のおかげ? そうなのかもしれない。僕には林の先にうっすらと石田の後ろ姿が見えるような気がした。それは言いすぎかもしれないけれど、歩いているときにふと前に気配を感じたような気がした。気のせいかもしれないし、そうであって欲しいと思う。石田の生き霊になんか決して何があっても会いたくなんかない。

 道を抜けると、やはりあの住宅街が出現した。それは、目の前に広がったというものではない。その古い住宅街は石田の目みたいに妙に奥行きがないのだ。あるいはアンリ・ルソーの静止画みたいに。けどアンリ・ルソーはこんな住宅街をカンバスに描いてはくれないだろうな、と僕は思った。あまりに色が無さすぎる。

 坂を上り、霜みたいな汗を僕が拭って立ち止まったところに石田の家はあった。あのときと変わらず、長く伸びた竹は憂鬱にこうべを揺らし、扁平な屋根の上でざわざわと音を立てていた。喪失を思わせる家々は、心の琴線に触れ、僕をぞっとさせる。そしてもう一つの不安は石田がどんな顔で僕を迎えるのかということだった。石田はあのとき、僕が廊下で見ていたのを知っていたかもしれない。というよりも、僕は石田が限りなく知っているように思えた。ああ、やっぱり僕は石田に罪悪感を覚えているのだ。謝ろう、と僕は思った。石田に会ったら最初にごめんと謝ろう。

 前回は気づかなかったけれど、玄関の引き戸の脇には、後からつけたような簡素なインターフォンがあった。多分何度も建て替えをしているのだ。今思えば、石田の部屋が不自然な行き止まりにあったのもそのせいかもしれない。

 インターフォンは押しても鳴らなかった。電池が切れているらしい。僕の親指の先で押し黙ったそれは、どこか学校での石田を僕に連想させた。この家は全てが石田の性格を汲んでいるのかもしれない。

 引き戸に指をかけると、鍵のかかっていないことがわかった。僕は少しだけ悩んで引き戸を開けた。車輪がカラカラと乾いた音を立て、玄関が現れる。足元にはサンダルと白いランニングシューズが、部屋の方を向いてきちんと並んでいた。中は薄暗く、この前と同じように人の気配が全く感じられない。空気は不思議なほどしんと静まり返っていた。

 「こんばんわー」と僕は言った。

 がらんとした石田の家に声が響き、唾を飲み込むと、獣が低く力の入った声を出すみたいに、ごくんという巨大な音がした。背後では風がびゅうびゅうと呻りだしていた。それに合わせて竹藪が囁くみたいにざわざわと揺れる。二羽のカラスが沈黙を助長するみたいにカアカアと交互に鳴く。僕はもう一度、こんにちわと同じように呼びかけてみた。しかしやはり、反応はなかった。そして僕は、どういうわけかその場から動くことが出来なかった。足に根が生えたみたいに、右手を引き戸のくぼみに引っ掛けたまま、身じろぎ一つできなかった。背中が薄ら寒い。何もかもが嫌なことの前ぶれみたいだった。突然吹き抜けた風も、竹藪の囁きも、カラスの鳴き声も。

 だがしばらくすると廊下から衣擦れのような音が聴こえた気がした。そしてそれはよく聴くと石田の声だった。

 「いいよ。入って」

 石田はまるで僕が来ることをわかっていたように別段驚きもせず、僕よりも少し高い板敷きの玄関間に立ち、道化みたいな表情のない顔で佇んでいた。むしろ僕の方が驚いたぐらいだった。危うく、わっと声を上げそうになるところだった。知らない間に石田が目の前に立っていたなんて嫌だったし、不思議だった。一体今まで僕の意識はどこに行っていたのだろう?

 石田が振り返って廊下を進み、僕もあわてて靴を脱いで浅黒い板敷きの廊下に上がった。

 「何か、飲む?」と振り返らずに石田は言った。

 「平気」

 そう言い終えた後で、あっ、と僕は思った。謝るタイミングを見失った。

 僕と石田はそれから黙って廊下を歩き、石田はまた部屋の引き戸を一人分だけ開け、小豆色の座布団に座った。あの日と変わった点といえば、石田が制服でなく部屋着でいることと、テレビが点いていないことぐらいだった。やはり電気はついていなくて中は外よりずっと薄暗かった。この部屋は常に竹藪が日光を遮っているのだ、きっと。

 「いつもひとりなの?」と僕は石田に尋ねてみた。

 石田はこちらを見ていなかった。がらんどうの瞳で、がらんどうの、光りの消えた暗黒のブラウン管を見つめている。そこには深い沈黙の気配があり、シュールレアリスティックな何かが漂っていた。その姿はテレビの中の奇怪映画から出てきた幻の主人公みたいだった。古い、デジタルの映らない箱型テレビ。それに畳み張りのこの部屋は、なぜか彼にとてもよく似合っていた。

 「大体ひとり」石田はぽつりと言った。

 風で部屋にあるゆいいつの窓ががたがたと窓が乱暴に震える。急に風が強くなってきた。梅雨の時期は大抵、息の詰まるような大気が下方に停滞しているのに。

 「学校、来ないの?」と僕は思い切って言った。

 石田は瞬きもせずに、ブラウン管を見据えていた。あまりに連続した静寂に一瞬、何かが起こるような気がした。めまいのようなものが僕を襲って、石田が暗黒の画面に吸い込まれていくような気がした。あらゆる現象をぐにゃりと曲げて、僕と石田が暗黒に吸い込まれていくような気がした。だがそれは、いつものように僕の思い過ごしだった。石田はあくまで普通の高校生なのだ。無口でストーキングが趣味の高校生なのだ。石田に何かをこじつけるのはやめなくちゃいけない。石田と僕のニヤリを忘れてはいけない。

 そのとき突然、ふと思いついたように雨が降ってきた。夕立だ。雨の音はすごくはっきりとしていて、ひとつひとつがストローでビニールに穴を開けるみたいにボツボツと響いた。そしてすぐに雨脚は強まった。大粒の雨は殴りつけるように屋根を叩き、窓を叩き、その音はまるでビニールシートの上にバケツ一杯分のビーンズをぶちまけたみたいな音だった。

 やがて部屋が一瞬光り、遠くから雷の音が聴こえると部屋の空気は一段と重苦しくなった。雷鳴の弾みで緊迫感と臨場感が息づき、部屋はどこか湿り気のある沈黙に変わった。僕の心臓はたった今動き出したみたいにサンドバッグを叩くような低く深い音でリズムを刻み、体の中を反響する。部屋には匂いのないお香のような妖しさが漂い、それらはぐううとまるで旅行鞄に無理して詰め込むように僕の心を圧した。

 石田はうつむいて首を振り、ばらばらになった前髪を一本だけ指でつまんで、それを上目づかいに見た。僕の不思議な感覚はそのとき終わる。石田はその髪をしばらく見つめると、座布団をずりずりと僕の方へ方向転換して、伏せていた目を上げた。

 「スケープゴートの話、この前したっけ?」

 石田と向かい合うと、ふとあの時の感覚に遡った。僕は自分が笑ってしまうんじゃないかと思った。だがちっとも微笑む気にはなれなかった。

 「したよ。ヤギの話を聞いた」

 「魔女の話」

 「魔女?」とびっくりして僕は言った。

 「中世ヨーロッパの魔女狩りも母性崇拝を失くすためのスケープゴートだった」

 「ああ……、よくは知らないけど」

 「集団の抱える問題を個人に押しつけて問題解決を先延ばしにすること」抑揚のない、まるで何かを読み上げるように平面な声で石田は言った。「人は不満や不快感を覚えると無意識のうちに問題の原因を他人に置く。心理学だとそういう意味の用語で使われてる」

 「心理学」と僕は小さく呟いた。心理学で僕が何か石田と語れることなどなさそうだった。 「その原因を置かれた人間がスケープゴートってこと?」

 石田は構わず続けた。「ナチスのホロコーストもそう」

 僕は黙っていた。オレンジジュースが欲しい。喉がいやに渇いていた。

 「学校どう」しばらくして石田は言った。

 「普通かな、まあ」と僕は嘘をついた。

 石田はおそらく僕の目を見ていた。確証はない。しかし、石田の瞳を見続けていると、その黒い瞳の中に僅かながら光りがちらちらと見えるような気がした。

 「石田」と僕は決心して言った。「あのとき助けなくてごめん」

 石田の瞳の中に一瞬だけ何かが横切った。月明かりを遮る、夜の雲みたいに。

 「いいよ」と石田は呟いた。

 「ごめん」

 沈黙。

 「……高見さん、きっとすぐに戻ってくるよ」

 「えっ?」

 石田はそのあと何も答えなかった。石田はスイッチの切れた、ちょうどそばにあるテレビのように、がらんどうの瞳を僕に向けていた。そこには敵意も信頼も存在していないように思えた。だがそれは違ったのだ。僕は石田の瞳を見るうちに、自分自身気づかないまま、ゆっくりと石田という人間を理解していった。それは人と人とがただ見つめあうという純粋な行為ではなかった。石田の瞳の中でちらちらと光るものの正体を僕は突き止めたのだ。

 石田の瞳はがらんどうなんかじゃなかった。石田の目は強く、そして生きていた。誰かを理由もなく悲しませたり蔑めたりするような――誰かを自分の自尊心の身代わりにするような人間の目じゃなかった。


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