スケープゴート 6
初めてまともに言葉を交わした石田は、その風貌や噂に似つかわしくないほど人間臭かった。そう、彼にリアリティーはどうやら存在したのだった。いやいや違う、僕が彼にリアリティーを附着させることに成功したのだ。それはつまり、僕が石田の心の内を覗くことに成功した証だった。しかし、僕はもう石田を取り巻く謎なんか半分どうでもよくなってしまっていた。石田に自分の願望を投影していたことに奇妙な喪失感を感じてはいたにせよ、やっぱり悦びの方が断然大きかった。全てを客観視できたあの瞬間、僕達は誰がなんと言おうと分かり合ってしまったのだ。それはある意味では互いのこれまでの人生を全て把握するよりもずっと難しいことなんじゃないか、と僕は思う。結果、僕の中の恐怖はそのほとんどが消滅し、僕も石田も(これが友達と呼べるのかどうかまではわからないけど)互いに好感を持つことが出来たらしかった。僕はこれでまあよしだった。謎の人物と感覚的に分かり合えたことでもう何もかも満足だった。
けれど高見美穂のことを話題に出すのは避けていた。それは僕らの足元にある落とし穴のような暗黙下で巨大な存在感を放っていたけれど、今の雰囲気には似つかわしくなかったし、必要とされていなかった。それは地雷だった。それを踏んでしまえば、後はもうどう転ぶかもわからない。あるいは石田の機嫌を損ねるかもしれないし、培った信用を失うかもしれない。とりあえずプラスになることは何もなさそうだった。
それから、僕と石田のぼそぼそとした会話は弾むことすらなかったにせよ、それなりに円滑だった。勉強のことや、食べ物のことや、夜8時台のテレビ番組について。どうやらその頃、僕は僅かながらに拍子抜けしていたらしかった。今日はもうこれ以上なにも起こらないだろうし、そんな可能性への予測は恐れと共に知らず知らずの内に消滅してしまっていた。そんな暫定的な仮説を僕は自分の中で無意識の内に絶対的に信頼していたらしく、石田が突然わけのわからないことを言い出したときにはそれなりに困惑したし、後々考えてみてもそれはやっぱり謎だった。
「スケープゴートって知ってる?」
オレンジジュースを飲み終えて、またぼんやりと足の指を眺めながら石田は言った。僕にはその突然の質問の意味がまるきりわからなかったけれども、石田が僕に何かを伝えようとしていることはかろうじてわかった。石田は何か重大なことを僕に告げようとしているのだ。
「身代わりってことじゃないの?」と僕は言う。なるべく関心がない風を装って。
「そう。そうだけど、でも違う」
「じゃあ何のこと」
石田が顔を上げ、しかし僕の方は見ずに、何か思い出したように後ろを振り返る。部屋に置かれた家具が息づき、じっと押し黙って石田の一挙手一同に注目しているみたいだった。石田の動作には、何とも言いがたい、不自然さの、歪みの片鱗みたいなものがあった。要を得ないやりとりに僕は当惑した。
「スケープゴート」と後ろを振り向いたまま石田は呟く。
「うん」と僕は言う。
石田がこちらに振り返り、またも視線を落として今度は自分の足のいびつな爪先を見つめる。それが話の続きを頭の中でまとめあげているのか、それとも話すことをためらっているのか、僕にはどちらともわからなかった。
「贖罪ってわかる?」としばらくして彼は言った。
「しょくざい? 贖罪って何?」
石田が僕の方をちらりと一瞥し、また俯ける。僕はその時、石田の瞳に冬の海岸のような寂しさが一瞬だけ浮かんだような気がした。
「古代ユダヤの話なんだけど」と石田は言う。僕は幾分顔を近づけた。石田の声はぼそぼそとしていてすごく聞き取りづらい。「人の罪を代わりにヤギに背負わせて荒野に放す儀式がある」
「それが贖罪? つーかスケープゴート?」
しばらくして石田は言った。「そう」
石田がゆっくりと顔を上げ、僕は首を引く。僕は何がなんだかよくわからなかった。
石田は確実に何かを僕に伝えたがっていた。今までの会話だって十分不思議な感じがしたのだけれども、少なくとも突然古代ユダヤの話が出てきたりはしなかった。それに石田が顔を上げた瞬間、石田の目にまたあのがらんどうがぽっかりと浮かび上がった気がした。
でも次の瞬間、ふとそれは消えていた。
「イケニエ」
「えっ? 何?」
「生け贄ってわかる?」と石田は言った。
「わかるよ。生け贄ね」
「他人の罪を背負わされて身代わりになる者」
「わかる」
さっきまでの静けさが、急に耳の痛くなるような沈黙に変わった。僕は少し緊張し始めていた。
「それなんだけど」と彼は続けた。「現実にもありえると思う?」
「……現実って今? この時代に?」
「そう」と石田は答えた。
僕はその時、石田の息が微かに震えているのを見逃さなかった。閉じた顎が一度だけ細かく振動したのを見逃さなかった。石田はこちらに真っ直ぐ顔を向けているのに、目線を僕から少し逸らしている。僕にはわかった。石田は何かに怯えている。
「あるよ」とよく考えてから僕は言った。
石田がその答えを望んでいることが僕にはわかった。石田は味方を欲しがっている。
「俺もそう思う」
石田はそう言うと、花柄のカップをお盆に載せて立ち上がり、さっきと同様静かに部屋を出て行った。
部屋の障子の先に仄かな暗がりが透けていた。僕は石田がオレンジジュースをもう一杯持ってくるにしろ持ってこないにしろ、彼が戻ってきたら、もう帰ると伝えようと思った。




