スケープゴート 5
石田は小豆色の座布団の上であぐらを掻き、テレビからきっかり1メートル離れた場所に腰を下ろしていた。僕が部屋の引き戸で佇んでいると、石田はどこにでも座れとばかりに顎をほんの少し傾けた。でもやっぱり、それは僕の勘違いかもしれなかった。石田の動きは、その全てがどこか締まりなく、頼りない。いちいち訊くのも野暮だと思ったので、僕はそのまま引き戸の傍に腰かけた。
それから長い沈黙が訪れた。薄暗い部屋で唯一光ったテレビからは、ニュースの終わりを告げる癒しの音楽と新宿のビル街を遠ざかる映像が流れていた。暗い部屋でテレビを点けていると、CMが変わるたび、まるで古い映写機か何かのように、そのおぼろげな光りのトーンに合わせて反対の壁と部屋の中心が一瞬パッと明るくなる。そしてそのつどそのつど、石田の顔が彫刻のように浮かび上がる。それはまるでデ・キリコの絵みたいに僕の不安を駆り立てた。なんか嫌だよやめてよ石田、と僕は思った。石田は光りに不似合いだったし、本人も嫌っているみたいに見えた。怪訝ではないにしろ、影は彼の持つ虚無感をどこか誇張させているように見えた。
ニュースに続いてバラエティー番組が始まり、じゃあもう7時かよ、と僕は思う。そしてそんなはずはない、と同時に思う。どう考えたって僕は一時間以上の時を失っている。あっちの世界とこっちの世界では時間の流れ方すら違うのだろうか? しかしそんなものは僕が便宜的に、あっちこっちと呼んでいるだけであって本当にそんなわけがない。ただの学校を中心としたあっち側とこっち側だ。あれ? あれ? としばらく頭の中で時間勘定を繰り返したが、僕は結局どうでもよくなった。僕と石田の時間は自然発火現象よろしく、ロウソクの上で突然に一時間分燃え上がってしまったのだ。それに一生分の一時間ぐらい誤魔化されてもまあ僕はよかった。あっちの世界とこっちの世界では時間の流れ方が本当に違うのかもしれないのだ。
僕が部屋に入ってからも石田はずっと何も話そうとはせず、僕だってもちろん何か話そうとはしなかった。石田がどう思っているかははっきり言って全然わからなかったけれど、僕は僕でこの沈黙を十分に楽しんでいた。僕はとうとう石田家の石田の間に辿りつくことができたのだ。そこにはある種の達成感があり、同時にこれから始まるであろう何かにも僕は期待を寄せていた。得体の知れない石田という人物にもちろんまだ恐れはあるけれど、僕がこうして石田の部屋で石田と同じ空気を吸っていることは、少なからず彼が僕に心を許した証のようなものだった。僕はひた隠しにはしていたものの、石田が次にどんな言葉を発するのか楽しみで楽しみで仕方なかった。あるいは酔狂な心理学者なら僕のこの心境を察してくれていたかもしれない。ここで部屋の隅に置かれた勉強机から石田の秘密日記がぽろりと飛び出してきたりなんかしたら、僕はもうこの気持ちを抑えられそうになかった。
そして石田はようやく、手つかずのまま放っておかれた沈黙を破った。
「何か、飲む?」
瞬間、部屋全体の空気がぎゅっと縮まったような気がした。石田は僕の方に少しだけ顔を向け、しかしほとんどこちらに注意を向けてはいないように見えた。前髪はやはり伸びすぎていて、俯くとほとんど顔が隠れてしまう。その長い前髪は明らかに不自然さを醸しだしていて、髪で顔を隠すのっぺらぼうみたいだった。
「何でもいいよ」と僕は言う。
「待ってて。持ってくる」
石田はどこか疲れた歯切れの悪い声で言うと、おもむろに立ち上がって僕の後ろを回り、引き戸を開けて廊下の奥へと消えていく。にしにし、という床の軋む音が聞こえ、畳みに手をついて引き戸の先に首を伸ばすと、夕陽の赤がその強みを増していた。
石田のいない部屋で僕は大きく息をつき、改めて部屋を見回した。天井には淡いまだら模様の染みがそこかしこに出来ていて、この家の過ぎた長い年月を思わせる。とりわけ目につくものもないので、僕は座ったまま大きく伸びをした。石田の部屋で一人になると、僕は妙に落ち着いた。じいちゃんの家にそっくりだから? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。一つ言えることは、僕にとっての石田の空間はそれほど居心地が悪くないということだった。
さて、と僕は考え、冷静になった頭で、もう一度状況を整理してみようと思った。僕はこうして石田の部屋で胡坐を掻き、石田が飲みものを持ってくるのを待っている。それは親睦の証と考えていいのだろうか。おそらくそう考えていいんだろう。それから他人を部屋で一人にするという点についても、僕にそれなりの人格的信頼は置いている、と。今日いちにちないし数時間の間で? あのひねくれた目をしていた石田がこの僕に? たぶんそれはそうなんだろう。石田はこの僕をけっこうな場所まで受け入れてくれている。でもそれは僕が正樹から石田の身を守ったこととはおそらくほとんど関係していなくて、僕が石田に対して持った興味によるものだと思う。好意的とまでは言えないにしろ、僕は恐れとはまた違った特別な意識を石田に対して抱いていたのだから。
けれど石田の僕に対する見解が完全に合っているかと言えばそれはまた別の話で、現に僕は部屋を物色したくてうずうずしている。手を伸ばした先には、ありとあらゆる石田の秘密が眠っているに違いないのだ。調べたいことが山ほどある。石田という人格を築いている部分のタネを一つでも明かすことが出来たら、僕はそれで十分オーケイ、この探検に一区切りがつく。しかし石田が部屋に僕を一人にするということは、ある点で僕を試しているのかもしれなかった。そうなるといよいよ、立ち上がることも困難になってくる。石田なら音もなく部屋に戻ってきそうだし、部屋を入ってきたときに僕が立ち上がっていたらどう思うだろう? 必然的に疑いは生まれる。今は何よりも信頼を勝ち取ることが先決なのだ。そうして徐々に彼の心に忍び込んで、僕はもっと石田のことを知りたいと思う。石田を通して別の世界に踏み込んでみたいと思う。
石田は漆塗りのお盆に洋風のカップを二つ載せて、やはり静かに帰ってきた。僕の座る目の前にそれを置き、また座布団の上にあぐらを掻く。ただし、今度は僕の方を向いていた。さり気なかったが、ぴいんと第六感に来るものがあった。石田のYシャツの襟は開けていて、第一ボタンの箇所では白い解れた糸が踊っている。あの第一ボタンが全てをもたらしてくれたのだ、と僕は思った。何がどう転ぶかなんてホントわからない。石田と僕は対になって向き合い、部屋は確実に何かの予感を孕み始めていた。
「ありがと」と僕は言い、カップの取っ手をつまんで口元に持っていった。中に入っていたのはオレンジジュースだった。
「いいよ、別に」と石田は小さな声で言う。それは誰かに返答したというよりも、口の中で呟いたという方が正しかった。
石田は耳をぴくりと動かしたかと思うと顔を上げ、それから首を30度ぐらいねじって庭の方から聴こえるカラスの泣き声に耳を澄ました。あるいは、カラスの声を聞き分けていたのかもしれない。それからまた向き直り、俯いて黙りこくった。カップには手をつけず、足元で両手の指を組み合わせて親指をぐるぐると回している。また部屋に沈黙が降りてくる。まるで初雪みたいに音もなくゆっくりと。それは石田が部屋に居ないときの沈黙とは別の代物だった。石田が部屋にいると、やけに空気が乾いているような気がした。
「それよりさ……」随分時間を置いて、石田がぽつりと言う。
「うん」と僕は言う。それよりなんだよ? と僕はいい加減じれったくなってくる。
石田はカップのオレンジジュースを一口飲む。その緩慢な動作に、僕は焦らされているような心持ちになる。早く言ってくれよもう、と僕はいたって冷静な顔を保ちながら、頭の中で訴える。そして石田は言う。しかしその言葉は、僕の想像していたものとは全く別のものだった。
「この前の期末テスト、どうだった?」
「えっ」と思わず声を出してしまったのは、今日初めての僕の失言だった。「期末?」
「俺、最下位に近かったから」と石田は言う。
それから慎重に顔を上げ、僕と水平に目線を合わせる。僕は石田に見られ、石田は僕に見られる。
その瞬間、僕は不思議なことに、ありありと部屋の情景を客観視することが出来た。それだけじゃない。僕は石田に見られる自分の心境はもちろん、僕に見られている石田の心境も手にとるようにわかった。あるいはそんなことは気のせいだったのかもしれない。でも絶対的な普遍の法則に則るみたいに、僕ら互いにニヤリと笑った。抗いがたい強烈なおかしさだった。人と人とが分かり合えた瞬間みたいなものがそこにはあって、そうか人は分かり合えたとき、ほくそ笑むんだ、と僕はそのときわかった。
石田も僕も顔を背けてそのニヤリとした笑みを隠し、最後はオレンジュースを飲んで誤魔化した。正確には誤魔化せてなんかいない。僕と石田はもう分かり合ってしまったのだ。だからその誤魔化しも、十六歳的な照れ隠しに他ならなかった。
沈黙のあと、「そうか」と僕は言う。「最下位に近いのはやばいな」
「何番だった?」と石田が言う。
「92番」
「じゃあ俺より全然上だ」
再び、僕らはニヤリと笑う。ニヤリの巨大な陰謀にこの空間だけが支配されてしまったみたいだった。




