スケープゴート 4
石田と僕は5メートルぐらいの感覚を置き、学校の裏手にある薄暗い林の中の踏み分け道を歩いていた。ただし踏み分け道は迷路みたいに曖昧で、それでいていきなりぶつんと途切れていたりして、僕はなんだか落ち着かなくなった。そこはとても大勢が通る道だとは言い難かった。正確には道でさえないのかもしれない。膝元まで伸びた雑草は、半ズボンで歩いたらスネのどこかしらがまず間違いなく切れただろうと思う。林全体からは夏独特の強い草木の匂いがして、僕はこの匂いが嫌いだった。石田はもしかすると、僕をこの林で葬り去って土に還そうとでも企んでいるのだろうか? そう考えるとなおさら肌寒くなった。そんな結末でもおかしくないと思ってしまった。恐ろしいことに、石田にはそういう雰囲気があるのだ。
僕は不安になって尋ねた。
「石田、これどこに向かってんの?」
「家」
家。たぶんそう聞こえたような気がした。
とりあえず石田が何か言葉を発してくれたことに僕はほっとした。それで十分だった。少なくとも僕の前を歩いている高校生は、僕と同じ人間なのだ。おそらく。
石田は黙って歩き続け、僕もその後を黙ってついていった。石田の歩みに躊躇と見られるものはほとんどなくて、僕はついていくのがやっとだった。石田の独善的な歩みは、僕をどこか突き放しているぐらいに思えた。でもそれはきっと違うんだろう。僕が試されているか、あるいは石田なりの照れなのか。草を踏み分けるがさがさという音以外には別段音という音はなく、せいぜいが学校から響いてくるチャイムの音ぐらいだった。20分も歩くとやがて林の先に光りが見えてくる。何年ぶりかに見た光りと言ったら大げさだけど、随分久しぶりに見る光りみたいに見えた。林を抜けると僕は草木の匂いから解放され、空気を胸に閉じ込める。道の先には住宅街があり、それは見たこともない土地だった。一軒一軒の家にかなりの年季が入っていて、僕は林を抜けたことであっちの世界と離れ、こっちの世界に来てしまったのだとふと思った。石田のいる世界。僕は一旦立ち止まってズボンについた葉っぱを払ってから、見る見る遠ざかる石田に声をかけた。
「ちょっと待って。今行くから」
石田は初めて僕に振り返った。歩きながら横を向いただけだったが、その仄暗い瞳は確かに僕を捉えていた。古びた住宅街は死んだように物静かで、夕陽に染まり始めた家々は死体安置所みたいな不気味さがある。しかもそれらは厭世的な石田の雰囲気と絶妙にマッチしていて、まるで石田のために描かれた風景みたいだった。
葉っぱを払って「オッケー」と言い、僕は走って石田との5メートルを再び獲得する。どこか遠くの家から聞こえるピアノの音がポロンポロンと響いていて、それは「僕と石田と住宅街」というタイトルの戯曲に虚無感を引き立たせていた。短い坂を越えて、住宅街を歩くとやがて石田の足は、一軒のひときわ古い平屋に向いた。石田があまりにも何も言わないので、圧倒された僕は思わずつぶやいた。
「石田んち?」
石田は微かに頷いた気がした。でもそれは僕の勘違いかもしれなかった。
家の庭は恐ろしく広く、ほぼ裏の山と繋がっていると言っていいぐらいだった。長い竹が覆い茂り、こうべを垂れるようにして屋根瓦の少し上をざわざわと神経質に揺れている。
石田は一切の迷いなく玄関の引き戸を引いて、中に上がりこんだ。僕はもう諦めていたし、同時に覚悟していた。石田はいちいち細かいことを説明するような人間じゃないのだ。僕はそれでも底に僅かばかり残った恐れから開け放たれた引き戸の前で数秒立ち尽くしたが、唇をぺろりと舐めて中に進んだ。行くしかないっしょ、って感じだった。もういちいち戸惑ってる場合じゃないのだ、こんなところまで来て。
僕は靴を脱いで玄関に揃え、狭い廊下の先で消えそうになる石田の背中を早足で追った。黒くすすけた木の廊下は夏でもひんやりと冷たく、靴下越しからでもその冷気が伝わった。途中に通り抜けた居間には家具が揃っており、家具はどれもこげ茶色だった。低い木目のテーブルには灰皿と煎餅の四角い銀色缶が載っていて、しかし煙草の吸殻はないし、煎餅の食べかすも無かった。どれも整頓されすぎていて生活感がない。庭にある小さな池に水は張っておらず、緑色の苔がびっしりと生えていた。家全体に漂う空き家のような静けさに、僕は少しだけぞっとする。家のどこからも人の気配はしなかった。僕は石田のリアリティーの無さに、少しだけ納得することが出来た。
石田を追って廊下の先を曲がると突然に引き戸があって、僕は「おわっ」と小さく呟いて上体を仰け反らせてしまう。まるで何かの設計ミスのように、その扉は突然にあった。そしてその引き戸はすでに半分開いていた。扉はベニヤ板を二枚重ねた程度の薄さで、半分といっても人が一人やっと通れるほどの隙間だった。中はよく見えなかったが、光りが漏れていて、ごそごそと人のいる物音はした。
「入るよ」と僕は言う。自分の声は自信がなく、弱々しかった。家全体があまりにも不気味に静まり返っているせいで、僕はまるで誰かがこっそり聞き耳を立てているような猜疑心に見舞われた。廊下の方に首を突き出すと、艶のない廊下が伸びていて、やはり無音だった。この家には音を吸い込む何かがあるのかもしれない、と僕は思う。耳を澄ますと部屋の中から石田の息づかいが聴こえてきそうだった。
「入って」
引き戸の前でずっと僕が佇んでいると、しばらくして石田の声が聞こえた。催促するような声では無かったけれど、僕は言われた通り引き戸の取ってに指をかけた。中からテレビを点けるぷっつん、という音が聴こえ、僕は引き戸を少し引いて、部屋に入る。中に入った途端、何ともいえない匂いがした。それはいい匂いでもなく、別段悪い匂いでもなかった。ただその匂いは、石田が漂わせている違和感とどこか似ていて、その違和感を濃縮したみたいな匂いだった。
部屋は六畳程で、思ったとおり殺風景だった。壁のような背の高く浅黒い箪笥が釘で打ちつけられてあるかのようにどっしりと小窓の傍に構えていて、しかしそのモノリスみたいな箪笥以外の家具はほとんど存在感を発揮していなかった。家具はどれも部屋の四隅に寄っていて、部屋の中央だけが隕石でも落ちたみたいにぽっかりと空いている。16歳という自分の年齢を考慮してポスターぐらいあってもいいんじゃないの? と僕は思うけど、それは逆に石田らしくないように思えた。それにそこまで僕が干渉できる/するべきこっちゃない。




