スケープゴート 3
事件のあと、正樹は僕に謝罪した。
「……あそこまでするつもりはなかったんだけどさ、ホントゴメン、わりぃ、お前に迷惑かけた」
「まあいいっしょ。しょうがねぇって。誰でもそういうことあるし。俺も突き飛ばしてホントゴメン」
と僕は正樹を慰めて自分の過ちについて謝ったのだがしかし、頭の中では全く別のことを考えていた。
果たして石田は放課後、裏門に来るのだろうか。
高見美穂はあの時あの瞬間、階段の手前で石田よりも僕に驚いていた。何言ってんの? と口に出さなくてもそう言いたいことはわかった。
石田、今日一緒に帰ろう。
本当に僕は何言ってんの? って感じだった。それは今でも謎のままだし、自分の起こした行動についてわからないことがあるなんて僕は嫌だった。でもたぶん、僕はあの時あの瞬間、この恐れをすぐにでも解消しなければならないと咄嗟に判断したのだと思う。一度踏み込んだのにその場所から引き返してしまえば、二度とのその奥にまで到達することはできないのだ。永遠に恐怖は残り、僕は心のどこかで常にいつも、石田に怯えていなければならなくなる。その恐怖の度合いは変動するだろうし、ある程度時間が経てば気にもならないサイズにまで収縮するかもしれない。でも決して消え去ることはないのだ、僕が生きている限り。つまりは僕の本能が、生への執着が、僕の口にあの言葉を発せさせたのかもしれなかった。
5時間目が終わって6時間目が終わっても、あの騒動の余韻はまだ学校に残っていた。幸運だったのは、誰も先生に事件のことを告げ口しなかったことだった。石田も正樹も僕も、三人共クラスが違うからなんとも言えないけれど、報復じみたものは何もなされていないようだった。
そして帰りのホームルームが終わり、正樹が教室にやってくる。正樹の顔には緊張の気配があり、僕にはそれが何を意味しているのかもわかった。
正樹は僕の机に手をつき、「で、行くの?」と僕に尋ねる。
「行くよ。行くしかねーでしょ」
「やべーんじゃねーの? 危ないかもよ」
僕は笑っておく。「大丈夫だって。しかもまだ来るかわかんねーし」
正樹はしばらく黙り、「じゃあ気をつけて。なんか言ってたら教えて」と真剣な眼差しで僕に言った。それから片手を挙げて教室を去っていく。その時僕は、謝ってないんだ、と気づいた。正樹は僕に謝ったけれど、石田には謝っていない。つまるところ、石田への猜疑は残されたままだった。正樹の心にも、生徒達の心にも。
火がくすぶり続けている限り、疑惑は消えない。
裏門に石田の姿はなかった。僕は鞄を抱えて門に座り込み、とりあえずこの正体不明の緊張をなんとかしようと思った。正樹があんなことを言うからだ、と僕は思ったが、たぶんそれは違って、僕自身もやはり石田のことを恐れているからだ。しかしそれだけじゃない。好奇心だってある。石田への興味はついえていない。僕はそれに縋るしかないのだ、と僕は思う。恐怖に打ち勝つためには恐怖を一度受け入れるしかない。
石田は裏門に来ることには来るはずだ、と僕は思う。石田が裏門から一人で下校しているのを僕は何度か目にしている。そういう意味では、僕の観察も全く意味のないことではないように思える。しかしずっと石田を見ていて僕が思ったのは、彼にはリアリティーを感じないということだった。僕の言うリアリティーを感じないということの意味はつまり、彼という人間をうまく頭の中で構築することが出来ないということだった。個性を重要視する時代にあまり誉められたことではないけれど、僕は頭の中である程度人を分類しながら生きている。そしてそれに基づいて行動性を先読みし、右往左往している。けれど彼の場合、分類する以前に、行動性の核とも言える重大な部分を掴めなかった。そのせいで、僕はつたを上ることは出来るのだけれども、ある点にまで達すると困惑し、また力なく元の場所までふりだしに戻ってしまう。それを何度も何度も繰り返していた。僕には石田が家族と話しているところや、果てはオナニーしているところなんかが、どうにもうまく想像できなかった。それはひどく2次元的なイメージだった。だから僕は石田にリアリティーをどうしても必要としていたのだ。でもそれはやはり、リアリティーを超越しているわけじゃなくて、むしろ欠如しているんだろう、人として。
その時ふと辺りに誰か人の気配がした気がして見回すと、錆びついた裏門の柵に石田が立っているのが見えた。「あっ」と僕が言って、二秒ほど沈黙が続き、石田は「こっち」と言ってすたすたと小道を歩き始める。僕はすぐに立ち上がって鞄を脇に挟み、石田の後を追った。僕は嘘みたいだと思った。石田がまさか僕を自分の領域に受け入れてくれるなんて。はは、なんかうける、と思った僕はあっさりと消え去った恐怖に安心してケータイを取り出し、正樹にメールを打った。でも思い直してメールを送信するのはやめて、ケータイを元のポケットに滑り込ませた。石田が僕を受け入れてくれたのに、そんなことをするのは道理に反すると思ったからだ。それに、この悦びは僕の中にだけ秘めておきたい。




