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スケープゴート 2

 そんな石田の重たい何かにずどんとやられた僕はもう彼にぞっこんだった。石田の考えていることが知りたくて知りたくてたまらなかった。人はある一定の影響力を超えた人物を目の前にすると、それを恐れたり崇めたりすることは出来るけど、絶対に無視することはできない。となると僕は崇める方? そこまではわからないが、強く惹かれていることは確かだった。

 僕はそんな石田を一ヶ月近く観察してきた。最近では石田が何を考えているのか気になって気になって、夢にまで彼が登場するほどだった。夢の中での彼は傍若無人で、狂人みたいな振る舞いで怯える生徒達に脅しの言葉を吐きかけ、嫌がる高見美穂をレイプしまくっていた。そして僕はそのお付き役。それはもしかすると僕の願いであるかもしれなかった。僕は石田に憧れすら抱いていたかもしれない。僕にとっての石田は未知なる領域だった。僕の知らない世界に住む住人みたいに見えたのだった。踏み出したらもう元には戻れないかもしれないと思わせるほどの彼の違和感は、僕にぎりぎりのスリルを与えてくれていた。ミホチンを無言で観察し続ける石田を無言で観察し続けるうち、僕は自分が興奮していることに気づいてしまったのだ。

 そしてある時、それは訪れた。石田と僕の宿命とも言える接触。



 昼休みになってお弁当を食べて正樹と教室に戻ると、石田はいた。廊下の壁に肩をほんの少し預けて、すっと両腕を下ろし、ほとんど直立不動で階段の手前にいる女子生徒達を見据えている。もちろん石田の目が捕らえているのは高見美穂だった。今はまだ石田の異様な視線に気づいていないらしく、高見美穂を含む女子生徒らは華やかで楽しげだった。僕にはそれが現実ともう一つの世界との境界線みたいに見えた。存在はしているが、普段は見えない世界。僕は石田を通してその世界をほんの少しだけ垣間見ているのだ。

 この頃にはもう石田のエピソードは一人歩きを始め、手のつけられないありさまだった。ミホチンが一人になる隙を窺って帰宅時も後をつけている、といったものに始まり、果ては高見美穂が下着を一枚失くしたという話から飛び火して、石田が盗んだんじゃないかという疑いにまで発展した。だからなめられちゃあお終いなんだって、とこの時僕は思った。ある場合において恐怖とは諸刃の剣なのだ。一度恐れが解消されてしまえば、トランプの城みたいに権威はくずれ、全く反対の立場にまで追いやられる。なめられたら何をされても文句は言えないし、また何かあれば疑いがかかるのだ。

 僕が階段でふと止まったことから正樹が感づき、目を細めて廊下の奥を見つめる。

 「あっ、またやってんのかよ、あいつ。もうマジでいい加減にしろよ」

 正樹が呟いて階段を下り、見られてるよ、と女子達に告げる。バカ、そんなことすんなよ、バカバカバカ、と僕は思ったのだが、正樹を止めるわけにも行かなかった。止めてしまったら、今度陰で非難を浴び、足元を見られるのは僕自身かもしれない。少なくとも疑いはかかる。そして女子に何かを言われた正樹が何を勢いづいたのか知らないが、石田の方に向かってずんずんと歩き出した。その時の正樹の後ろ姿は、確実にトラブルをまとっていた。僕は叫び出したいぐらいだった。正樹の馬鹿野郎。僕は急いで後を追って、階段を駆け下りた。これ以上はまずい、いくら何でもまずい、と脚がまず初めに動いたのだった。そして正樹は石田の前に立ち、その正義に満ち溢れた目で言った。

 「お前さあ、もういい加減にやめろよ。みんな嫌がってんだよ」

 正樹が今にも石田の襟首を掴まんばかりだったので、僕は咄嗟に彼の両腕をがしりと抑えつけ、まあまあまあ、と言いながら話に割って入った。

 「そんなつっかかったってどうしようもないじゃん。石田だって――」

 しかし正樹は興奮していて、僕の両腕を乱暴に振り払ったかと思うと石田に詰め寄り、Yシャツの襟首を掴んで壁にどんと押し付けた。

 「お前何か言えよ。いつも黙ってんじゃねーよ、気味わりぃんだよ」

 その瞬間、空気が一転するのがわかった。体格のいい正樹に胸ぐらを掴まれた石田はマッチ棒みたいに細く見えた。正樹が凄い力で壁に押し付けるから、石田の踵が少し浮いている。ついに冷戦に耐えられなくなる者が現れたのだった。しかし同時に、僕の中の暴力的で荒々しい血が沸騰するのがわかる。それは共鳴だったのかもしれなかった。とりあえず僕はもう自分を抑えてはいられなかった。

 僕は言う。「お前が落ち着けよ、正樹。なに正義の味方ぶってんだよ馬鹿。石田は暴力振ったりしてねーだろうがよ」

 僕の剣幕を無視して正樹はなおも石田を壁に押しつけようとするが、僕はそれを許すわけにはいかない。正樹の腕を石田の襟首から引き剥がし、同時に石田のYシャツからオフホワイトのボタンが飛ぶ。すでに何人かがこの小規模な争いを色んなところから見守っている。見守ってる? いや、違う。こいつらは石田がぼこぼこにのされてしまえばいいと思っているのだ。これまでの僕と同じ、日和見主義のうんこ野郎。僕もやはり願っていたのだ。石田を見るたびに何かを起こしてくれと。きっとだから僕はあんな夢を見たんだろう。一番醜いのは誰よりも野次馬だ。醜く、そして性質が悪い。その証拠にほら、誰も動かない。

 「正樹! マジでやめろって!」と僕は完全に石田から正樹を引き剥がす。

 「だってこいつ……」

 僕の両腕に羽交い絞めにされながら、その一瞬見えた正樹の怒りのかげりを察して、ここぞとばかりに僕は廊下の床に正樹を突き飛ばした。僕は自分でも自分が何をやっているのかよくわからなかった。正樹を硬い力で突き飛ばした瞬間、頭におがくずを散りばめたような混沌に僕は陥っていた。正樹はわけがわからないといった当惑した顔で両手を床につき、僕を見上げる。

 そして注目を浴びることに慣れていない僕は言う。その声は自分が想像していた声のちょうど倍ぐらいの大きさの怒鳴り声だった。

 「だってじゃねーんだよ! てめえ普段はスジがどうとか言ってるくせにこういうことすんなよ!」

 怒声がすうっと廊下の奥に消えていき、途端にぞくっと寒気が走った。廊下は舵を下ろした船のように静まり返っていた。みんなによってたかって殴られるような気がした。まるで肺が死んでしまったみたいにうまく空気を吸い込めなかった。

 でも当然そんなことは起きなかった。辺りはそれこそリモコンで一時停止したみたいにしんとしていた。正樹が顔を伏せ、左手を廊下の床について目の辺りを拭い、僕にはそれが泣いているのだとわかる。別に悲しいわけじゃないんだろうけど、色んなことが一気に起きすぎて泣いちゃってるのだ、きっと。人は心が飽和しきると、混乱の果てに大抵が泣いてしまう。正樹は心配ないので、僕は石田のYシャツのボタンを拾って彼に渡し、一声かけた。

 「気にしないで。別にあいつも本気で怒ってたわけじゃなくてさ、たぶんちょっと勢いづいちゃったところがあったんだよ、ごめんね」

 「……もう見るのやめて」

 「えっ?」と僕は訊き返した。

 「もう見ないで」

 石田はそう言ってボタンを受け取り、それをYシャツのポケットに納めると、黙って僕に背を向けた。

 僕には石田の言っていることが何なのかわからなかった。そんなわけのわからないことを一言いうよりも、もっと別の言葉があるんじゃないの? と僕は思った。しかし、すぐにさっと血の気が引いて、石田の言ったことの意味を理解した。石田は僕が高見美穂を見ている石田を観察し続けていることを知っていたのだ。それからもう一つ、石田と正樹のいざこざの最中も、石田が見ていたのはずっとこの僕だった。僕は途端に恐ろしくなった。恐怖のいざなう収拾のつかない混乱の中に僕は置き去りにされ、石田への好奇心なんて一瞬でどうでもよくなった。僕はとんでもないところに足を踏み入れようとしていたのだ。僕はそのことにようやく気づいた。そして、もう踏み込んでいるのかもしれないということにも。

 だが次に僕の言った言葉は僕の考えていることとは限りなくかけ離れたものだった。

 「石田、今日一緒に帰ろう」僕の声はひどく若い、未成熟な声だった。幼稚で、抑揚がなく、まるで紙に書いた白痴な文脈を読み上げたみたいな響きだった。

 石田は振り向き、僕を見た。その目は少なくとも驚いているようには見えなかった。石田の目は全くのがらんどうだったのだ。そこに感情は介在していなかった。僕がその時石田の目を見てイメージしたのは、骨となった動物の死骸や、建設途中のまま放置されたマンションの鉄筋コンクリートだった。その瞳に見据えられると、僕は自分がからっぽに思えた。今まで密かに積み上げてきた僕の後悔や自責の念が白日の下にさらけだされたような居心地の悪さを感じさせた。物怖じしないその目は他人を全く信用しないという意志の現われであり、同時にひねくれた人間のする目だった。僕は自分が大人になって結婚して嫁さんが子供を産んでも、息子や娘がこんな目で自分を見ることだけはやめて欲しいと思った。

 そしてそんな一瞬の間に詰め込まれた寂寥感に反発するように僕は石田に言った。

 「帰りに裏門で待ってるから」

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