とんでも学校クライシス 2
授業が終わった途端に歩み寄ってくる、実は最近ウザかったりする同じクラスの明海ちゃんに「ちょっとごめんね」と言って教室を飛び出し、私は、どこだどこだ〜? と玉木さんの姿を探す。あ、いた。あの暗いオーラを纏った後ろ姿。玉木さ〜んと呼ぶのは周囲の目もあって気が引けるので、私は早足で廊下の角に消える彼女の姿を追った。廊下を曲がると、早歩きで追ったにも関わらず、彼女は次の曲がり角まですでに歩いていた。廊下に並んだ幾つもの窓から陽の光が差し込んでいて、休み時間で皆それとなく和やかなのに、彼女だけは別の世界の人間みたいに黙ってひたすらに歩いている。なんと驚いたことに、彼女の歩く早さは尋常でなく早かったのだ。それとも私の気配を感じたのだろうか?
そんなことがぐるぐると頭の中を回っている間も、私は彼女を追い続けていた。気づくと小走りになっている私。職員室を通り過ぎ、階段を上がり、1年生の廊下を歩く。いい加減歩きすぎている。ここで私は思う。
一体彼女はどこに向かって歩いているのだろう?
玉木さんの考えていることなんて私はおろか教室中の誰もがわからない、と思うのは私だけではないはずだ。クラスに玉木さんの友達は誰一人としていないし、誰かと話しているのも見たことがない。あれ? でも休み時間は教室で何をやってるのだろう? 注意を向けてないからわからない。と前の席の私が思っているくらい存在感のない人だ。でも別に害のあるような人ではないので、皆はそれとなく彼女の存在をスルーしている。しかし私は見てしまった。彼女が自分のノートに殺すという文字を羅列させる姿を。ここまで来ると、もういっそのことその謎を解いてやろうと思い始める。始めはただちょっかいを出して笑いのネタを提供してもらおうと思っていた私も、今では彼女の不思議に歪んでいるであろう心の内を覗き見たくなっている。
彼女が最後に曲がったのは1年生と2年生の教室を繋ぐ間にある、ちょっと荒んだ雰囲気を持つ小ぢんまりした通路で、その通路の先は行き止まりになっている。私はほっとした。まず私に追われているということに気づいていないこと、それから通路の先にあるのは図書室だってこと。玉木さんの行動にだってちゃんと根拠はあるのだ。夢遊病の患者みたいに枕を脇に挟んで鼻ちょうちんを作りながら夜道をあてどもなく彷徨ったりはしない。
彼女が図書室に入ると、学校の廊下はいつもの活気を取り戻したみたいに見える。もはや彼女を追う私ですら、彼女の独特の空間に入り込んでいたらしく、彼女が視界から消え去ると、いきなり夢から覚めたような気持ちになった。いかんいかん、これからよ、と私は思う。だってこれからもっと彼女の空間に踏み込むんだから。
玉木さんによってきちんと閉められたのであろう図書室の入り口で立ち止まり、私は肩で一つ大きな深呼吸をする。ドアの『図書室は静かに利用してください』という張り紙を一瞥して戸を引き、私はなんでもない顔を作ってすたすたと図書室の中を進む。少し緊張している私は周りの景色を上手く捉えることが出来ないでいるけど、少なくとも視界の中に玉木さんの姿は無かった。図書室の窓は全て深緑色のシックなカーテンで閉めきられていて、蛍光灯の明かりが私に一番近い位置にいる長椅子に座った暗そうな男子の髪に反射している。どことなく玉木さんと同じような雰囲気をもつ彼は、調べ物でもしているみたいに片手で厚い本を開き、小さな用紙にメモを取っている。図書室の中のまばらな人間は、誰も私に目を配らなかった。こんなにかわいい子が入ってきたのにウインクの一つもないなんて! なんてバカなことは思わず、私はひとまずほっとする。音が立たないよう気をつけて入ってきたのだ、順調順調。しかもウインクって。古っ。
もちろん図書室の入り口に立ってきょろきょろしているわけにもいかないので、私はスカートを翻して暗そうな男子のいる手前から本棚の列に移動し始める。背の高い本棚は図書室の右と左で3列ずつ分けられていて、私がいるのは左側の入り口から一番近い、作者順でア〜ケ行までが並ぶ本棚。芥川龍之介、江戸川乱歩、川端康成、……それから誰かに適当に返されたらしきヘミング・ウェイの「老人と海」。本を読んだらちゃんと元の場所に戻しましょう。えーと、えーと、なんて白々しい演技をしながら本を探すふりをして、私は図書室の至るところに目を配る。まだ彼女の姿は見当たらない。もしかしてあれは私の幻覚だったのか? なんて思うが、それは正にそれこそがいつもの冗談を言う私が勝手に作り出した妄想なので却下する。入ったのは間違いないのだ。もしかしたら私の気配に実は気づいていて、図書室に入ってから密かに抜け出したんだろうか。カーテンの閉めきった窓から身を乗り出して? こんなもの静かでおとなしい人間達を前に? 玉木さんがそんな行動に出るとはあまりにも考えにくい。
おいおい、じゃあもしかして彼女はルパンの子孫だったのか?
私の中の阿呆な私がそう考えたときだった。調べ物をしていたさっきの暗そうな男子に、一人の女の子が話しかけていた。スカートから白いおみ足を覗かせ、その子は男子に向かって楽しげに笑う。私は仰天した。というかそれすら通り越して、ぽかんと口を開けたまま二人の様子を窺うでもなくただぼんやりと眺めていた。玉木あかねは暗そうな男子に向かって話しかけ、時おり心地良さそうな笑みを浮かべている。
手に半分掴みかけていた本がするりと指の間を抜け落ちていった瞬間、私はハッと我にかえった。しかし慌てて落ちた本をキャッチしようとするも、小指の先がちょびっと当たっただけで、むしろそのせいで床に落ちる勢いが増して、本はバン! と大きな物音を静かな図書室の中に響かせた。ふざけんな分厚い本。重力ってこえ〜。なんだよ、ダイバーのための海水魚図鑑って。まず高校生はダイビングになんて全然行かないし。しかも4500円って高! そんな意味もない状況判断が私の意識も追いつかない内に頭の中を駆け巡って、もっと重要な図書室に置かれた私についての状況判断を遅らせるばかりか、もうどうでもいいや的な思考にすら落ち着かせる。ああ、本を読んだらちゃんと元の場所に戻しましょう……。
私は平静を装って、屈んで本を手に取り、埃を払った。でも全然そんな行為は嘘っぱちで、心臓はバクバク、息は震えるわ肩は震えるわで、背筋には寒気すら走っていた。耳に焼けた針を刺されたみたいな沈黙の中で、同時に私の心臓の鼓動が、まるで体の内側から誰かにドスドス殴られているように響く。首が機械みたいに不自然に働いて、私の胴体にちゃんと落ち着かない。落ち着け、あたしの色んなとこ! しかし私が死ぬ程気になるのは二人の反応だった。そーっと薄気味悪く目の玉を移動させ、気づかれていませんように、と心の中で何度も願いながら二人の様子を窺う。
彼女の、玉木さんの目は確実に私を捉えていた。瞬間、私は絶望し、そして恐れた。彼女は今度こそ私に敵意を丸出しにしていた。黒い前髪の隙間から覗く彼女の冷たい瞳。10秒前までのあの明るい玉木さんはどこにいってしまったんだろう、と私は思う。私はその場の雰囲気をごまかすみたいに咳払いを一つして、図鑑を本棚に戻し、玉木あかねのいる長椅子の前に歩いていった。どういうわけか足がすいすいとまるで彼女に引き寄せられるみたいに進んでいく。私の本能は察知していた。ここで自分から話しかけなきゃダメなのよ、と。ここで沈黙を打破しなければ私は負けたことになるし、これからも負い目を引きずっていくことになる。なぜかはわからないが、それには確信めいたものがあったのだ。
私が歩み寄る間も玉木さんは顔色一つ変えずに私を見ていて、やっぱり冷めた目つきで睨んでいた。それは彼女と私を結ぶ一本道で、逃げ場はどこにもなかった。私がすたすたと歩み寄る音を聞いて、玉木さんの傍に座る暗そうな男子が本から目を離して、何事かと顔を上げる。私の足音が止まり、長椅子の前に立って私は玉木さんと睨みあいないし、見つめ合う。え? なんなの、この人? みたいな目で男子は私を見る。でも彼ですら私と玉木さんとの間にある尋常でない雰囲気だけは飲み込んでいるみたいだった。あたしだってこんなのわけわかんない。たかが後ろの席のくらーい女の子が自分のノートに自分の書きたいことを書いていただけだ。それの何が問題なんだろう。愛してる、って書くのとまあ大して変わりはないんじゃないか? 精神衛生がどうとか、バカみたい。なのにあたしは自分の面子やちっぽけなプライドのためだけにここまで追ってきて。ああ、やっぱりそうだ、悪いのは完全にあたし。
「ごめん、謝りたくてさ。ノートを覗いたこと」
切なげに微笑むことの出来た自分にちょっとだけ救われた気がした。普段は阿呆なことばっかり言ってるくせにプライドの高い私みたいな女にこんな顔はなかなか出来ないと思う。本当に悪いと思ったからきっと出来たわけで。私はそれだけ言うと振り返って図書室の出口を目指し、彼女の返答は求めなかった。というより、あまりにもいい顔が出来たんで私的にはもう満足だった。罪悪感っていうのはいかに他人を納得させられるのかじゃなく、時に自分を納得させた時点で薄れ始めるものだと思う。これ以上はいいのだ、もう。もしあれだけの顔をしても彼女が私を許さないようなら、今度は私がムカッときてしまう。それはどうあっても抑えられないものだし、そう感じてしまった時点で私は自己嫌悪を感じるし、私を許せなかった彼女にも幻滅してしまうであろう。そしてそんな理不尽なことってあまり世間では認められない。だからこの時点で図書室を去るのが一番のタイミングなんだ。
つまりそうしてあたしは一番心のリスクが少ない方法を選びましたとさ、ちゃんちゃん。




