ロンドンの夜明け
往々にして覚醒の後、昨晩見た夢を思い出すことは稀だったが、この時ばかりは別だった。夢の中では19世紀のロンドンを思わせる霧が立ち込めていて、いつからそこにいたのかわからない、それどころか素性も知れない妖しげなシルクハットを被った男が自分に声をかけた。
「ムシュー」フランス語だった。「ちょっとお手を拝借しまして、私の足首を握ってくれませんかな」
俺はどうやら夢を見ているのだな、とここでわかった。そんな男が今の時代にいるわけもなく、やはり現在のロンドンにこれほど霧は立ち込めていない。男はハットを鷲づかみ少し持ち上げ、私にそれほど気のない挨拶をした。男の頼みはとても自然なもので、あたかも当然のような響きが感じ取れた。まるで私が世間知らずなことをして、それを暗にたしなめるような響きだ。あるいは、と夢の中の私は思う。こいつは嫌な金持ちか何かか?
「いいでしょう」夢の中の私は憮然としてそれに答えた。
羽織っていたコートを後ろへ撫でつけ(夢の中の私は普段の身なりとほぼ同等の物だった)、私はしゃがみ込んで言われたとおり男の足首を右手でぐっと握ってやった。うん、と男は低く唸り、私は「いかがか?」と具合を尋ねた。
「もう少し」と男は言う。
私はさらにぐっと力を込め、爪を立てて男のふくらはぎに食い込ませた。男はそれにも微動だにせず、表情も一つとして変えなかった。
きっとまだ夜は明けないだろう、と夢の中の私はそのとき思った。冷たい風が霧の中を縫うように踊り、男の剥き出しの脛や私の手首を冷たく撫でつけた。男が何を言おうと、毅然としておればいいのだ。俺の推測どおり、俺自身が知らぬ間に何かをやらかしたとして、それがなんだ? こうして胸を張っていれば、世間からすると男のように傲慢さを臭わせるよりかは幾分見栄えもよく、紳士的なのではないか?
「もう結構」
男は邪険にそう言うと、手に持っていた杖をトン、とレンガの地面に突き立てた。私はまた憮然として脚から右手を離して立ち上がり、ふくらはぎに残った食い込んだ爪の真っ赤な痕に少しだけ目をやって、それから何も言わずに立ち去ろうとした。男の言動に腹を立てていた私はこのまま立ち去り、男の心に少しでも後味の悪いものを残してやろうと目論んでいた。
「もし」しかし男は言った。「何か礼がしたい」
私は、あるいはこのままだんまりを決め込んでそのまま霧の中に消えてしまおうかとも考えたが、底の方に僅かばかり残った良心がそれを引き止め、そしていうなれば男が実はそれほど悪い人間ではないのかもしれないという期待を持ち、瞬間の葛藤を乗り越えて男に振り返った。だが男の表情から何かを読み取ることは不可能に思えた。ああ、やはり、と夢の中の私は思う。この男は機械のように冷徹な男なのだ。そう証明された所で私は、男が良き人間だとはもはや信じられず、かといって一度振り返っておいてまただんまり立ち去るというのも妙なので、仕方なく私は「何か用があるのか」と男に言った。
「私の家に案内をする」
男は私の返答を待つこともせず振り返り、かつかつと革靴を鳴らして霧の中へと進んだ。私が「もし」と呼んでも返事はせず、私は売春婦達のようにレンガへ唾を吐き、好奇心など一片として無かったのにも関わらず、男の背を追った。
俺はどうしちまったんだ、まったく。私の夢は半分が私の物であり、もう半分は運命に委ねられているように、この時の私には思えた。あるいは夢でなく現実のものなのだろうかと訝ったが、やはりそれはない。広場を歩いているというのに移民のケバブ屋も閉まっているし、酒場は眠り呆けている。立ち並ぶアパートの明かりは一つとして灯っていなかった。
男の歩く速さは私のそれとあまり変わりはなかった。男がどうやら歳を取っているらしいぞ、と私はここにきて気づく。男のハットから覗く白い髪や、先ほど言った男の声が何度も頭の中を巡る内、私にはそれがわかった。
それにしても、と夢の中の私は思う。一体どこに向かっているのだろう? 噴水広場を越えた辺りから1000フィートも歩いただろうか、私の心は突然不安に駆られだした。なおも男ののっそりとした、しかし品格を漂わせた足取りは変わらない。ぴんと背筋を張り、杖を奴隷か何かのようにして男は悠々と歩いている。「どこに行かれる」と私は言うが、我ながらに弱々しい声で、男の風格に気おされているのが簡単に解り、それは霧の中へと吸い込まれていった。男はまるで、後ろに私の存在など感じていないようにすら見えた。何か嫌な予感がする。トラブルの臭いがついには男の背中から漂い始めたのを感じ、私はこのままではまずいとようやく悟った。しかし今さら、何も事を終えずに男と別れることは無理だ、と私の中の経験が告げた。
なればこそ、なればこそと夢の中の私は思い、決心する。10フィートほど離れていた男との距離を縮め、私は男の背を殴りつけた。さらに男に効果的な痛みを与えるためによろけた体へ肘を打ち、レンガへ男が堕ちる様を見て最後に蹴りを見舞った。もう男の顔は見えなかった。まるで初めからそうなることが決まっていたかのように男は地面に突っ伏し、無様な敗北をそのままに、ハットが男の頭からずり落ちて白髪が覗く。夢の中の私は息を切らすことがなかった。適度な興奮を感じ、それに酔いしれ、尚且つ勝利の栄光を勝ち取ったかのように微笑を浮かべていた。男が動かないのをいいことにして、私はレンガに落ちたシルクのハットを拾い、自らの頭に被った。もう男が立ち上がることはあるまい、とその時の私には何故か判っており、まるで決定付けられたことであるようにすら思われた。
それから見たものはロンドンの夜明けであった。地平線の彼方から、まるで巨大な手の平が風景を摘んで引き剥がしていくかのように光の帯が昇ってくる。暫くそれを眺め続けていたが私は思い立ち、男の杖も奪うことにした。男のそれは艶のある黒檀仕上げの杖であった。私は突っ伏したままの男に向かいハットを鷲づかみに少し持ち上げ「それでは、ムシュー」と挨拶をし、それから杖でレンガを鳴らして霧の中へと歩み出した。




