十六夜の空、始まりの風…5
俺は今一度少女をまじまじと見つめる。
見た目は間違いなく普通の女の子だ。だが、その女の子が屋根を突き破って降ってきたことを忘れてはならない。
「十六夜っていうのは、君のことかい?」
あくまで紳士に。大人の対応だ。
「なまえ……?」
少女が首を傾げる。
「そう。君の名前かい?」
少女が再び月を見上げた。
十六夜といったら、中秋の名月、十五夜の翌日の夜のことだ。これで今日が九月だったら訳の分からないことになっていただろうが、生憎今日は五月である。
あるとすれば、名前だろう。四月一日なんて名字があるくらいだし、十六夜があったっておかしくないはずだ。
「……うん。いざよい、名前」
よし、通じた。
とりあえず名前は分かった。この少女……十六夜が屋根を突き破ってきたのは少し、いや、かなり気になるところだ。
だが、所詮相手は女の子である。軍に連絡すれば住民表でも漁って身元を取ってくれるだろう。
万事解決だ。
そう考え、俺はポケットからツールを取り出した。
ツールというのは、平たく言えば携帯のことである。あまりにも機能と質が向上しすぎて、“ケータイ電話”などという名では呼べなくなっただけだ。
「えーと、軍の番号は……と」
ちなみに軍の番号は今のところ全国民が原則としてツールに登録しておかなければならない。
まあ、こういうご時世だ。
竜の襲撃の時代を生き残った人々で構成された人民、政府、軍。
……世界は十分に乱れ切っている。もっとも、ならず者も多く存在するが。
「軍……」
「え?」
見れば、少女が俺のシャツの裾を握っている。
良く見ればなかなか可愛いな、この子。
流れるような黒髪。多少潤んでいるサファイアのような色をした瞳。
よく見れば、服だと思っていたのはただの真っ黒なぼろきれだ。
「……ッ」
視線が彷徨う。
「だめ……軍は」
なんだって?
「危険……。怖いから……」
怖い? 軍がか?
何で軍を怖がる必要があるんだ? 即席の連合軍が今まで生き続けているだけみたいなものだが、確かに臭い噂も数多い。だが、一応は今の俺達人類の平和を守る正式な組織だ。そこは尊重すべき点だろう。
そこまで怖いか?
「だめ、狙われるから」
誰にだよ。
「……軍に」
なんだ? そういう事情か? なら仕方ないな。
基本的に俺はお節介な性格だしな。自他ともに認める欠点だ。
「じゃあ、今日は泊めてやるよ」
「泊まる?」
しかし言語的コミュニケーションがなかなか上手くいかないな。俺は年頃の女子についての知識がほとんどないが、そういうものなのか。
「ああ。屋根は……まあ、あれだが。寝室は無事だし」
俺は壁にあるドアを開け、寝室の明かりをつけた。
「……」
少女はまるで初めてベッドを見たかのように、おそるおそる近づいて行く。
「そこで寝るといいよ。俺はこっちで寝るから」
「……ふかふか」
少女がベッドに腰掛けてぎしぎししている。布団世代か? この子の家は。ならベッドが珍しくても仕方ないか。
「じゃあ、また明日ね」
「……うん、太陽が昇るまで」
変な言い方をする子だ。まあ、気にしないけれど。
しかし、軍が苦手なのなら、どこに言えばいいんだ?
警察なんてとっくに廃れてるし。今やそういう系のことは全部軍がやってるしな。
だから黒い噂が絶えないんだろうけど。
憎まれ役ってやつか。
俺は壁際にあったがゆえに無傷のソファーに腰掛ける。
……全く。屋根を突き破って落ちてくるとか、型破りにもほどがある。
あれ? じゃあ修理代どこに請求すればいいんだ? あの子……十六夜にか?
……見た目中学生くらいだし、法は適用されないな。
では事故ってことにして軍に援助金を貰うか。あんたのとこの部品が落ちてきたんだとか言って。
そう明日のことを考えながら、俺は意識を闇に沈めていった。
……だが、今思えば、その段階で十六夜を門前払いにしておかなかったことが、この物語の始まった一番の原因だったのかもしれない……。