桜の森の満開の下
わたしの家族は、両親と兄・姉・わたし・弟・妹、そして母方の両親と、今時珍しく大家族だ。
昔は祖父達の実家がある所に住んでいた。
だけどダムの建設が行われ、一家は都会へと引っ越した。
わたしがまだ6歳の頃で、もう10年も前の話になる。
住んでいた村は桜の木がたくさん植えられていて、まるで桜の森だった。
何にもなかった田舎だったけれど、自然が遊び友達だった。
特にあの桜の森はわたしのお気に入りだった。
よく1人で遊びに行っては、迷子になっていた。
そのたびに家族は大慌てで探してくれて、よく叱られもした。
だけどわたしは懲りず、何度も桜の森に足を踏み入れた。
桜の森は美しくも幻想的で、でもどこか現実感が無かった。
だから迷子になりやすかった。
祖母が一度、難しい顔をしながら言っていた言葉がある。
「桜の森はねぇ、空間が歪んでいるんだよ。だから人を飲み込む。気をつけないと、アンタも飲み込まれちまうよ」
歳を取った祖母から出る言葉とは思えなかった。
けれど実際、あの桜の森では何人もの人が行方不明になっているらしい。
広い桜の森の中、迷ったら二度と出てこれない―。
だけどわたしは信じていなかった。
何故ならわたしは何度も迷子になっても、必ず出てこれたからだ。
家族は必ずわたしを見付け出してくれた。
そしてわたしは何度も一人で出てこれた。
だからこそ、何度も行ってしまう。
でもその桜の森も、今では影も形もなくなってしまった。
ダムの建設により、山は削られ、桜の木もほとんどない。
わたしは今、10年ぶりにその地に来ていた。
僅かながらも残った桜を見に来た。
「う~ん。田舎だなぁ」
1時間に1本しかないバスを降りると、そこは見渡す限りの山が並んでいた。
民家は全部ダムの底。
わたしはダムに向かって歩き出した。
里帰りしたのには理由がある。
祖母が病気になってしまった。しかもかなり重い病気に。
そんな祖母が病床で言った一言が、わたしをつき動かした。
「桜が…あの桜が見たいねぇ」
何も枝を折って、持って行くワケではない。
何輪かの花を拾うか、あるいは落ちている花の付いた枝を持って帰るとか、そういう方法で祖母に桜を見せたい。
行き方を祖父に聞いて、わたしは一人、ここに戻って来た。
ダムがあった場所に、桜の森はあった。
ダムは大きく、迫力があった。
持ってきたデジカメで写真を撮る。
兄から見たいからという理由で、デジカメを預けられた。
「桜、どこかに残っていると良いけど…」
弟や妹は幼過ぎて、記憶に残っていないと言っていた。
両親や姉も、久し振りに故郷が見たいと呟いていた。
景色をデジカメで撮りながら歩いていく。
やがて山の中に入る。
桜の木は転々とあるが、記憶の中の桜の森とは違う。
「やっぱりもうないのかなぁ…」
山を下り、ウロウロと周囲を歩く。
ふと、一本の大きな桜の木を見つけた。
何気なく行ってみると、その木の後ろにはまた、桜の木が連なってあった。
「この奥、かな?」
更に奥へ進んでみる。
しばらく歩くと、周囲の景色が変わったことに気付いた。
見渡す限り、桜の木がある。
まるで囲まれている気分になる。
「わあっ! やっぱり残っていたんだ!」
記憶の中の桜の森と、景色が一致する。
満開の桜の森の下、わたしは思わず目がくらんだ。
澄み切った青い空、白い雲。
ピンク色の桜が、わたしの視界を覆い隠す。
「っと、いけない。写真を撮らなきゃ」
わたしは正気に戻り、デジカメを構えた。
やがて、青空が茜色に染まり始めた頃、わたしは写真を撮るのを止めた。
「バス時間、大丈夫かな?」
ケータイで時間を確認すると、大分時間が経っていた。
写真を撮る途中、落ちている桜を拾ったりしていたから、夢中になってしまっていた。
けれど行けども行けども、周囲の景色が変わらない。
桜の木が、わたしを囲んでいる。
あんなに感動したのに、今では恐怖を感じてしまう。
「ヤダな…。昔は怖くなんてなかったのに…」
思わず早足になる。
こんな所で今、迷子になったら、本当に大変なことになる。
わたしは自分の勘を頼りに、歩く。
だけど…景色は変わらなかった。
これはさすがにマズイ。
祖母の言葉で言うのなら、この桜の森にわたしは呑まれかけている。
焦りから、足が速くなる。心臓も早く動いてしまう。
一本の大きな木を通った時だった。
ドンッ!
「きゃあ!」
「うわっ」
人に、ぶつかってしまった。
「ごっごめんなさい! 慌てたもので…」
「ううん。オレの方こそ、ちょっとぼ~っとしてたから」
顔を上げると、わたしとそう歳が変わらない青年が目の前にいた。
人がいたことに、心底ほっとした。
「あっあのね、ちょっと聞きたいんだけど…」
「うん?」
「バス亭に行きたいの。道、分かるかな?」
「分かるよ。教えてあげる。一緒に行こうか?」
「ありがとう!」
これで一安心。
わたしは彼と一緒に歩き出した。
途中、いろいろな話をした。
彼も昔ここにいて、懐かしくなって来たらしい。
「春休みを利用して来たんだ。まさかオレの他にも誰かいるとは思わなかったけど」
「わたしも。でも安心した。何せ迷子になってたから」
「迷子ねぇ。気をつけないとダメだよ。この桜の森は、人を呑みこむって言われているんだから」
「あっ、それお祖母ちゃんにも言われた。確かにちょっと、今となると怖いわね」
風も冷たくなってきた。
桜の舞い散る花びらが、視界を何度も埋め尽くす。
「でも…不思議と帰れるという自信は揺るがないのよね。あなたがいてくれるからかな?」
「…どうだろう? オレはちょっと自信ないよ。無事にキミを送り届けることができるかどうか」
そうは言うけど、彼の足は迷うことなく進んでいる。
「ここには詳しいんじゃないの?」
「詳しいよ。ずっとここにいるからね」
「じゃあわたしとも会ったこと、あるのかな? 10年前まで、ここに住んでいたから」
「う~ん…」
彼はじっとわたしの顔を見つめた。
「…ちょっと見たことがある気がするなぁ。もしかしたら会っていたかもね」
「だと良いわね。わたし、来年も来るつもりだから、良かったら一緒に見て回らない?」
「キミは…ここにはずっといられないのかな?」
「えっ…」
思いがけない言葉に、思わず足が止まる。
彼は真っ直ぐに、真剣な眼差しでわたしを見ていた。
「ずっと…はムリよ。わたしは今の生活を捨てられない。わたしを呼ぶ人達がいる限り、わたしは今のわたしを捨てるつもりはないわ」
きっぱりと言った言葉に、自分で驚いた。
わたし、何故こんな言葉を…?
でも…この言葉を言ったことがある?
ずっと昔、この桜の森で…。
「…そっか。じゃあ仕方ないね」
彼が歩き出したので、わたしも慌てて付いていった。
その後、特に会話は無く、桜の森を抜け、あの大きな桜の木にたどり着いた。
「ここまで来たら、大丈夫?」
「あっ、うん。ありがとう」
「ここを真っ直ぐ下れば、バス停に一直線だから」
「そう…なんだ」
来た時はいろいろな場所をウロウロしていたから、バス停から離れた場所だと思っていた。
「ねぇ…。来年も会ってくれる?」
わたしは桜の木の下で、彼の眼を真っ直ぐ見つめた。
「…キミが望むなら。オレはずっとここにいるから」
彼は切なそうにわたしの目を見つめ返し、そっと頬に触れた。
…その手の感触には、どこか覚えがあった。
「あっ、枝が欲しいんだったよね」
彼の手はわたしから離れ、桜の枝に伸びた。
スッと撫でただけなのに、枝は彼の手の中にあった。
「何で…?」
「はい」
彼に枝を渡され、わたしは呆然としたまま受け取った。
「それじゃあ」
彼は元来た道に戻っていく。
その時、急に強い風がふいた!
「きゃっ…!」
風が運んできた花びらで、彼の姿が見えなくなる!
けれど風には勝てず、わたしは思いっきり目をつぶった。
…しばらくして目を開けた時、彼の姿は消えていた。
その後、わたしは無事に家に着いた。
持って帰った桜を、家族はとても喜んでくれた。
それどころか難病を患っていた祖母が、完治して、元気になった。
きっと懐かしい故郷を思い出したからだろう―と家族は笑っていたけれど…。
デジカメで撮った写真のことを思い出し、わたしは目を閉じた。
兄に預けたデジカメには、ダムしか映っていなかった。
あの桜は一枚たりとも、撮れていなかったのだ。
全てが黒く塗り潰されていた。
まるであの桜の森は、存在しなかったのだと言うように。
そして昔、あそこに住んでいた人達と連絡が取れた。
その人達が言っていた。
あの村は一本の桜の木を残し、すでに桜の森は無いのだと言う。
すべてが、ダムの底へ沈んでしまったのだと…。
でもわたしの手元には、あの桜のしおりがある。
キレイな花びらを選び取り、祖母がしおりを作ってくれたのだ。
そして祖母に聞いてみた。
彼のことを…。
祖母は知らないと言っていた。
小さな村だったから、そんな子がいれば分かるはずだと言って…。
兄弟達にも聞いてみたけれど、みんな首を横に振った。
やがて桜が散り始める頃、わたしは昔のことを思い出していた。
そう、10年前のあの村にいた時のことを。
桜の森で、出会った一人の少年のことを…。
わたしが何故、あそこまで桜の森に惹かれたのか、ずっと不思議だった。
そこには理由があったのだ。
会いたい人がいる―という理由が。
当時、桜の森でわたしは迷子になっていた。
そこで同じ歳ぐらいの少年と出会った。その少年こそが、彼だったのだ。
彼とは日が暮れるまで遊んだ。
桜が散っても、ずっと夏も秋も冬も。
けれど彼はわたしが帰る時間になると、いつもこう聞いてきた。
「ずっとここにいられないの?」
でもわたしは首を横に振った。
「ずっとはいられないよ。だって家族のみんながわたしのこと、呼ぶんだもん。呼ばれたら、わたしはそこへ帰らなきゃいけないの」
…そう。あの時の言葉を、わたしはずっと繰り返して彼に言い聞かせていた。
彼は名残惜しそうに、それでも見送ってくれた。
だからわたしは家族の元へ、帰れたのだ。
彼にそう言えば、わたしは必ず家に帰れた。
…わたしは本能的に分かっていたのだ。
もし一度でも、彼の前で
「帰りたくないなぁ」
などと呟けば、二度と家族の元へは帰れないことを…。
そうして行方不明の人達が出続けていることを。
でも彼は待っていると言った。
きっといつか、わたしがその一言を言うのを、今までずっと待っていたのだろう。
たった一本の桜の木に、その力と気を移しても尚、わたしを待っていた彼。
いや、正確にはあそこへ来た人達と共に、待っているのだろう。
わたしを。
手のひらに桜のしおりを持った。
―来年、このしおりを持って、わたしは再びあの村へ行こう。
桜の森の満開の下、きっと彼がわたしを待っている。
彼の力が1番強くなる春の時期に、彼に会いに行こう。
それでもあの言葉は決して言わない。
わたしには、わたしを思う人がいてくれるから…。
彼の切ない願いは、きっとわたしだけに向けられたものじゃない。
そうじゃなければ、何人も行方不明者は出ない。
だからこそ、わたしは行くのだ。
彼のことを思い、彼のことを拒絶できる人として。
彼の力はそう遠くまでは及ばない。
だからこそ、わたしは引っ越してから彼のことを忘れていたのだ。
だけど今、彼の力の欠片である桜が手元にある。
これならば覚えていられるだろう。
今でも人を呑み込もうと待ち構えている、彼を―。