【怪談】霧の日はドアを開けないで〜廃村の停留所〜
藤原修司が東峰小中学校の下校便を任されたのは、10月半ばのことだった。
普段の担当運転手が自宅の階段から落ち、足を痛めたらしい。復帰までは2週間ほど。その間だけ、藤原が代わりに第3便を走ることになった。
「宮渡から先は道が細くなる。対向車だけ気をつけてくれ」
朝、営業所で運行主任から渡された経路表には、学校から高森地区までの乗降地点と児童生徒の名前が並んでいた。藤原は地域路線も送迎も経験している。この地区を走るのは初めてだったが、経路をひと通り確認した限り、特別難しそうな便には見えなかった。
使うのは20人ほど乗れる小型バスだった。昼間は地域交通にも使われているため、座席脇には降車ボタンが付いている。学校便でも、子どもたちは自分の降りる場所が近づけば普通にそれを押すという。
16時を少し回ると、校舎から子どもたちが出てきた。
「走るなよー。順番に乗れー」
ランドセルを背負った小学生と、部活動の鞄を持った中学生がばらばらに乗り込んでくる。藤原は経路表と人数を照らし合わせた。
「10人。全員いるな」
「います」
一番前の席に腰を下ろした6年生の佐々木菜月が答えた。
「佐々木さんは高森。小笠原くんは?」
「小柴平。今日も俺が押していい?」
4年生の小笠原悠斗が、座席脇の降車ボタンを指した。
「自分のところが近づいたらな。遊びで押すなよ」
「分かってるって」
悠斗の隣では、2年生の石川結衣が窓側の席を確保し、ランドセルを膝に抱えながら外を覗いていた。
藤原はミラーでもう一度車内を確認した。
「じゃあ出るぞ。走ってる間は立つなよ」
学校を離れて数分もしないうちに、車内は子どもたちの声で騒がしくなった。ゲームの話をする者がいれば、後ろの中学生がうるさいと文句を言い、それを聞いた小学生がまた笑う。藤原は時折ミラーで様子を確かめながら、決められた順番で子どもたちを降ろしていった。
宮渡を過ぎるころには、車内に残っているのは6人になっていた。そこから先は人家が急に減り、舗装された県道の片側には山の斜面が迫り、反対側を川が流れている。道路幅はそれなりにあるが、街灯はほとんどない。
宮渡から数分走ったところで、山側へ細い道が分かれていた。入口には白い標識が立っている。
《この先通り抜けできません》
舗装は続いているものの、道は木々の間へ入り、すぐ先が見えなくなっていた。
「昔の道か」
独り言のつもりだったが、後ろから悠斗が答えた。
「そっち、行かないよ」
「見れば分かる」
車内で笑いが起きた。
その日は、それだけだった。
小柴平で悠斗を降ろし、高森で菜月や結衣たちを降ろす。最後の子どもが「ありがとうございました」と外へ出ると、ついさっきまで騒がしかった車内が嘘のように静かになった。
17時を少し過ぎただけだったが、道路脇の林はすでに黒く沈み始めている。山は暗くなるのが早い。藤原が初日の便について覚えていたのは、その程度だった。
*
代走4日目は、朝から雨だった。
下校時刻には止んでいたものの、空には低い雲が残り、学校から見える山の稜線も霞んでいた。
「今日は霧が出るかもしれないからな。早めに座れよ」
「いつも出るよ」
後ろから誰かが答えた。
学校を出たころにはまだ遠くまで見えていた。ところが宮渡へ近づくにつれ、谷底から白いものが立ち上がり、山の下半分をゆっくり覆い始めた。
16時44分、宮渡で3人を降ろす。ここから小柴平までは、普通に走れば10分ほどだった。
宮渡を離れて間もなく霧が濃くなり、道路が前方から少しずつ白く削られていくように見えた。藤原は速度を落とし、センターラインを確かめながら走った。
そのころから車内も静かになっていた。全員が突然黙ったわけではない。ゲームをしていた5年生が画面を消し、窓に額をつけていた3年生が体を戻した。いつも窓側を取りたがる結衣だけが外を見続けていると、菜月が自分の隣を軽く叩いた。
「結衣ちゃん、こっち」
「なんで?」
「いいから」
結衣は口を尖らせたものの、ランドセルを抱えて菜月の隣へ移った。
「霧、苦手なのか?」
ミラー越しに聞いてみたが、返事はなかった。毎日のようにこの道を通っている子どもたちにとって、山の霧そのものが珍しいはずはない。
初日に見た旧道への分岐が、霧の中から浮かび上がって横へ流れていく。その少し先に細い柱が立っており、近づくにつれて、上部に停留所の表示板が付いているのが分かった。白い板は黒ずみ、文字の縁も薄く汚れている。
《三瀬野》
経路表で見た覚えがなかった。廃止された停留所でも残っているのだろうと思った、そのときだった。
《ピンポーン》
降車チャイムが鳴り、運転席脇の停車表示が点灯した。
藤原はミラーを確認した。6人とも席に座っており、悪戯をした子が笑いを堪えている様子もない。
「誰か押した?」
返事がなかった。
「誰だ?」
停留所が近づき、藤原がブレーキへ足を移す。
「止まらなくていいです」
菜月だった。
「ん?」
「そのまま行ってください」
「でも鳴っただろ」
「誰も押してません」
もう一度車内を確認したが、誰もボタンへ手を伸ばしてはいなかった。
「故障か?」
菜月は何も答えなかった。
前方の《三瀬野》へ目を戻す。周囲には家もなく、乗ろうとしている人間もいない。経路表にない場所なら、そもそも停車する理由もなかった。
藤原はそのまま通過した。ミラーの端で細い柱が遠ざかり、やがて霧に紛れて見えなくなった。
それ以降は何も起こらなかった。
小柴平が近づくと、悠斗がいつものようにボタンを押した。
《ピンポーン》
「今度は俺だからね」
わざわざ前へ声をかけてくる。
「分かってるよ」
所定の場所へ停車し、扉を開ける。悠斗は「ありがとうございました」と降りていった。
さっきと同じチャイムなのに、こちらは何の違和感もない。
高森に着き、菜月と結衣が降りようとしたところで呼び止めた。
「佐々木さん」
「はい?」
「さっきの三瀬野って、知ってるのか」
菜月は扉の前で少し考えた。
「昔あった集落です」
「人は住んでるのか?」
「もういません」
それだけ答え、結衣と一緒に降りていった。
昔の集落の名前が、古い標識か何かに残っていたのだろう。山の中なら、そういうものがあってもおかしくはない。降車ボタンも接触不良だったと考えれば、大抵のことには説明がついた。
霧が出た途端、子どもたちが窓を見なくなったことを除けば。
*
次に霧が出たのは3日後だった。
宮渡を離れた時点で、藤原はすでに《三瀬野》を意識していた。子どもたちも同じだったらしく、旧道への分岐が近づくころには、また車内から会話が消えていた。
16時48分、霧の向こうに細い柱が現れる。
《三瀬野》
前回とほぼ同じ場所だった。
藤原がアクセルから足を離したところで、停留所の脇に何か立っていることに気づいた。
子どもくらいの背丈の人影だった。暗い服を着ているようで、背中の輪郭だけが少し膨らんでいる。何かを背負っているのかもしれないが、霧のせいで顔までは分からなかった。
藤原はさらに速度を落とした。経路外とはいえ、自分が運転しているのは学校の送迎便だ。山中に子どもらしい人間が1人で立っているのを見て、何も確認せず通り過ぎるのはためらわれた。
「止まらないで」
菜月の声がした。前回より強かった。
「人いるだろ」
「いません」
「いるじゃないか。子どもじゃないのか」
「いません」
菜月は窓を見ようともしない。ほかの子どもたちも同じで、高学年は前か床へ目を向け、結衣が窓を見ようとすると、隣の3年生が無言で肩を押さえた。
停留所が近づいてくるが、人影は動かなかった。途中から乗せる児童はいない。《三瀬野》自体が経路表に載っておらず、会社から臨時乗車の連絡もない。
迷った末、藤原はブレーキから足を離した。
停留所の横を通過する。
横顔を確かめようとしたが、霧と窓ガラスの反射が重なり、顔の位置さえよく分からなかった。ただ、通り過ぎる直前、その片腕が上がった。
バスへ乗りたい人間が、運転手へ合図するときのようだった。
バックミラーを見ると、人影は追ってこなかった。停留所のそばに立ったまま、腕だけを上げている。それもやがて霧に隠れた。
しばらくして小柴平が近づいたころ、悠斗が小さく呟いた。
「今日は見えたんだ」
「悠斗」
菜月がすぐに名前を呼ぶと、悠斗はしまったという顔で黙った。
「前にもいるのか?」
藤原が聞いても返事はなかった。
「お前らには、前から見えてたのか」
悠斗が菜月を見る。
菜月は何も言わない。
藤原には、その沈黙で十分だった。
運行を終えて営業所へ戻ると、机の上に経路表を広げた。宮渡の次は小柴平。その間に乗降地点はない。何度見直しても、《三瀬野》という文字はなかった。
*
「三瀬野?」
翌朝、運行主任は机の前で首を傾げた。
「昔の集落ですね」
「やっぱりあったんですか」
「集落は。ちょっと待ってください」
藤原が報告したのは、宮渡と小柴平の間に経路表にない古い停留所らしいものがあることだけだった。子どものような人影まで見たとは言わなかった。霧の中で何を見たのか、自分でもまだ確信が持てなかったからだ。
主任は倉庫から古いファイルを持ってきた。市から引き継いだ、旧村営バス時代の資料らしい。
「昔はこっちへ入ってたんですよ」
地図の上を主任の指が動く。現在の県道から、あの旧道へ曲がっていた。
「峰沢線。三瀬野に人がいたころは、この道を上まで走ってたみたいですね」
「停留所は?」
「三瀬野入口、上三瀬野……最後が三瀬野分校前」
藤原は一覧を追った。
「《三瀬野》って、その名前だけの停留所は?」
「ないですね。三瀬野入口ならあります」
「俺が見たのは、この辺です」
現在の県道上を指すと、主任の指が止まった。
「そこですか?」
「はい」
「三瀬野入口はもっと手前ですよ。旧道へ曲がる前です」
数百メートルずれていた。
「じゃあ、俺が見たのは何なんですか」
「さあ。古い案内板か何かじゃないですか。霧も出てたんですよね」
「同じ場所で2回見てます」
主任は地図を見直したものの、それ以上の答えは出なかった。
「市には確認しておきますよ。変な標識が残ってるなら危ないですから」
会社での話は、それで終わった。
午後、学校前で出発を待っていると、菜月がやってきた。
「佐々木さん。ちょっといいか」
菜月が足を止める。
「三瀬野のこと、教えてくれ」
「何をですか」
「お前ら、何か決めてるだろ。霧が出たとき」
ほかの子どもたちがバスへ乗り込んでいくのを見てから、菜月は少し藤原へ近づいた。
「3つあります」
「何が」
「三瀬野が出たときに、しちゃだめなこと」
菜月は指を折りながら説明した。ボタンを押さないこと。誰かが立っていても運転手に言わないこと。それから、名前を呼ばれても返事をしないこと。
「名前?」
「はい」
「誰が呼ぶんだ」
「分かりません」
「お前は呼ばれたことあるのか」
「ありません」
「じゃあ、なんで返事するなって分かる」
「前の6年生から聞きました。その人も、その前の人から聞いたって」
「いつから?」
「そこまでは知りません」
「返事したら、どうなる」
菜月は少し迷ってから、何年か前に返事をした子がいたらしいと話した。その子は何度も「次で降りる」と言い出し、ほかの子たちが止めているうちに霧がなくなった。その後は普通に戻ったものの、そのときのことをほとんど覚えていなかったという。
学校の怪談にしては妙に具体的だったが、何年も子どもの間で受け継がれてきた話なら、この程度の細部はあとから付くものかもしれない。
菜月が乗り込もうとしたところで、藤原はもう1つだけ聞いた。
「三瀬野で扉を開けたら?」
菜月が振り向く。
「何が起きる」
今度は少し考えてから、首を横に振った。
「分かりません」
「誰も開けたことないのか」
「そこまでは知りません。でも、開けた後の話は聞いたことないです」
藤原はそれ以上聞かなかった。
怪談を信じる必要はない。ただ、霧の日に経路外の場所へ停車しないという判断なら、安全運行の面から見ても間違ってはいなかった。
次に三瀬野が現れても、止まらず通過する。
それだけは決めた。
*
代走10日目は、昼を過ぎてから急に気温が下がった。
学校を出た時点では山肌まで見えていたが、宮渡へ着くころには道路の先が白く消えていた。
16時44分。宮渡で子どもを降ろし、残ったのは6人だった。
「今日はかなり見えにくいからな。勝手に立つなよ」
普段なら誰かが返事くらいするところだが、その日は静かなままだった。
旧道への分岐が近づく。藤原は速度を40km以下まで落とし、路肩とセンターラインの両方に気を配った。
やがて霧の中から《三瀬野》が現れた。今回は人影がなく、降車チャイムも鳴らない。このまま何もなければ通り過ぎればいい。
そう思った直後、道路の左から子どもくらいの大きさの人影が飛び出した。
藤原は反射的にブレーキを踏み込んだ。タイヤが路面を擦り、車体が大きく前へ沈む。後ろから短い悲鳴が上がったが、藤原はハンドルを握ったまま前方から目を離せなかった。
白い霧しか見えない。
「大丈夫か?」
ミラーを確認する。転倒した子はいない。結衣が前の座席を両手で掴んでいた。
「みんな、そのまま座ってろ」
確かに何かが横切った。接触した感触はなかったが、急制動の衝撃に紛れた可能性まで否定はできない。
「行ってください」
菜月だった。
「今、人いたぞ」
「行って」
「無理だ」
「開けないで」
ミラー越しに目が合った。
「扉、開けないでください」
「もし当たってたらどうするんだ」
菜月は答えられなかった。
藤原は無線機を取った。
「第3便、藤原。宮渡先で人影あり。接触の可能性があるので停車して確認します」
『了解。児童は大丈夫ですか』
「全員無事です」
ハザードを点け、サイドブレーキを引く。前扉のスイッチへ手を伸ばしたところで、もう一度呼ばれた。
「運転手さん」
藤原は振り向かなかった。
「本物だったら、置いていけない」
扉を開いた。
空気の抜ける音とともに、戸口の向こうを白い霧が満たす。道路へ降りてバスの前へ回ったが、人はいなかった。車体前面に接触した跡もなく、道路上にも側溝にも人影はない。
「誰かいますか!」
返事はなく、谷底を流れる水の音だけが聞こえていた。
ガードレールの向こうまで確認してから車内へ戻った。外にいたのはわずかな時間だったはずだが、6人とも先ほどと同じ姿勢で座り、戻ってきた藤原を見ていた。
運転席へ座り、扉を閉める。
「開けちゃった」
「だから、何が起きるんだ」
「分かりません」
菜月の答えはそれだけだった。
藤原が前へ向き直った直後、車内スピーカーから機械の女声が流れた。
『次は、上三瀬野』
運転席上の行先表示も《上三瀬野》へ変わっている。
藤原は、どちらにも触れていなかった。
*
急停車してから子どもたちは全員座ったままだった。藤原は表示の切替器に手を伸ばしかけたものの、原因の分からない機器を調べるより、まずこの場所を離れる方が先だと思い直した。
「全員座ってろ」
サイドブレーキを戻し、バスを発進させる。
道路は変わっていなかった。白いセンターラインも、ガードレールも、左下を流れる川も、毎日見ている宮渡と小柴平の間の県道だった。ナビにも現在地が表示され、《小柴平方面 直進》と出ている。
しばらくすると前方から軽トラックが現れた。すれ違いざま、作業着姿の男が運転しているのも見えたが、向こうはこちらを気にする様子もなく、そのまま霧の中へ消えていった。
外の道路は普通に使われている。それなのに、車内表示だけが《上三瀬野》になっていた。
数分後、道路脇に細い柱が現れた。
《上三瀬野》
先日、営業所で見た旧停留所の名前だった。ただし場所が違う。路線図では山側の旧道へ入った先にあるはずで、現在の県道沿いではなかった。
降車チャイムが鳴り、停車表示が点灯した。
『小笠原悠斗さん』
ミラーの中で悠斗が顔を上げた。いつもなら自分の名前を呼ばれれば反射的に返事をする子だったが、少し開きかけた口をそのまま閉じた。菜月も何も言わない。
藤原はブレーキを踏まず、《上三瀬野》の前を通過した。
停留所が霧に隠れてから無線機を取る。
「営業所、第3便。今、車内表示に上三瀬野って出てる。この前の資料にあったよな」
『……ありますね』
「勝手に変わった。俺は操作してない」
『一度、安全な場所に停車できますか』
藤原は前方を見た。どこまで行っても同じような霧と道路が続いている。
「今は走ります」
少し間があった。
『藤原さん、現在地は宮渡の先ですね。今、動いてます?』
「走ってる。小柴平へ向かってる」
『こっちのGPSだと、位置がほとんど変わってません。一度、少し戻った表示にもなってます』
ナビ上の自車位置は、県道を前へ進んでいる。
「通信がおかしいんだろ」
『かもしれません。ただ――』
返事の途中で、次の停留所が見えた。
《古屋敷》
藤原の知らない名前だった。
降車チャイムに続き、『石川結衣さん』と機械の声が流れる。結衣の肩が小さく動いた。
藤原には、先ほどと同じ音声にしか聞こえなかった。ところが結衣は不意に後ろを振り向いた。
「お母さ――」
「結衣ちゃん」
菜月がすぐに遮り、席を移ってその手を握った。
「どうした?」
藤原が聞くと、結衣は泣きそうな顔でミラーを見た。
「お母さんが、着いたよって」
藤原に聞こえたのは、《石川結衣さん》という機械の呼びかけだけだった。
「違うよ。返事しちゃだめ」
「でも、お母さんの声だった」
「違うから」
《古屋敷》を通過しながら、藤原は無線へ尋ねた。
「古屋敷っていう停留所、旧線にあるか」
『古屋敷? 待ってください』
その間もバスは走り続ける。
『ないです。少なくとも、こっちの路線一覧にはありません』
「《三瀬野》って停留所もないんだよな」
『ないですね。三瀬野入口ならありますけど』
旧資料に実際にあった《上三瀬野》と、どの資料にもない《古屋敷》。昔の峰沢線がそのまま現れているわけではないことだけは分かった。
それ以上の理由を考えている余裕はなかった。6人を、本来降ろすべき場所まで連れていく。今はそれだけでよかった。
やがて車内表示が切り替わった。
《三瀬野分校前》
「三瀬野分校前」
無線へ名前だけ告げると、今度は返事が遅れた。
『……藤原さん。それ、旧線の終点です』
*
17時を過ぎていた。本来なら、とっくに小柴平へ着いている時間だったが、藤原の前にはまだ同じような山道と霧が続いていた。
やがて道路脇に《三瀬野分校前》の標識が浮かび上がった。
その辺りだけ路肩が広く、昔バスが折り返していた場所だと言われれば、そう見えなくもない。奥には細い道が延びていたが、木々の間へ入るとすぐに見えなくなっている。先日見た資料では、ここが旧・峰沢線の終点だった。
校舎は見えず、人が待っているわけでもない。使われなくなった折り返し場所のような空間が、霧の中に残っているだけだった。
スピーカーがそこを終点として告げた。
『終点、三瀬野分校前』
降車チャイムが鳴ったが、子どもたちは誰も動かなかった。
『お忘れ物のないよう――』
いつもの案内が途中で途切れた。短い無音のあと、同じ声が続いた。
『藤原修司さん』
藤原はハンドルを握ったまま前を見た。後ろで誰かが息を呑み、少し間を置いてもう一度、同じ名前が流れた。
自動放送が藤原の氏名を知っている理由はなかった。
「運転手さん」
菜月の声が震えていた。
「どうすればいいんですか」
藤原にも分からなかった。これまで菜月たちが守ってきた3つの決まりは、三瀬野を通り過ぎるためのものだった。扉を開けたあとのことについては、誰も知らない。
運転席脇の操作器へ手を伸ばし、自動放送をOFFにして、行先表示を《回送》へ切り替えた。車内前方の文字は正常に《回送》へ変わった。
ところが、数秒後に降車チャイムが鳴り、OFFにしたはずのスピーカーから再び藤原の名前が流れた。《回送》の表示は消えておらず、操作そのものは受け付けているのに、異常だけは止まっていなかった。
前方では《三瀬野分校前》が近づいてくる。
「全員、そのまま座ってろ。ここでは降ろさない。何が聞こえても立つな」
藤原はブレーキを踏まず、停留所の前をそのまま通過した。
何かが飛び出してくることも、追ってくることもなかった。広くなった路肩も、その奥へ延びる細い道も、ほかの景色と同じように後方へ流れていった。
少し遅れて降車チャイムが鳴った。
しばらくしてもう1度鳴り、それを最後に車内は静かになった。
何分走ったのかは分からない。時計を見れば確かめられたが、藤原は前から視線を外す気になれなかった。
白い霧の向こうに、やがて2つの光が浮かんだ。普通の乗用車だった。
すれ違った先には青い道路案内標識があり、《小柴平》と書かれている。ナビにも目的地までの距離が戻り、霧の向こうから小さな商店、自動販売機、向かいの民家が順に現れた。
小柴平だった。
悠斗の降車地点が近づく。
「悠斗くん」
ミラーの中で肩が揺れた。
「……はい」
「ここ、お前の降りるところだな」
悠斗は窓の外を見回してから頷いた。
「はい」
停車地点には、これまでにも何度か見た悠斗の家族が迎えに来ていた。
藤原はゆっくりバスを停めた。すぐには扉を開けず、商店、自動販売機、迎えの女性まで目で確認してから前扉を開く。
悠斗は一瞬だけ立ち止まったものの、外から家族に名前を呼ばれると席を立った。
「ありがとうございました」
「……ああ。気をつけてな」
迎えの女性のところまで走っていく姿を確認してから扉を閉め、藤原はようやく長く息を吐いた。
*
翌朝、車両は整備担当へ回された。
「機械的には問題ないですね」
点検を終えた整備員はそう言った。
操作履歴には、宮渡の先での急制動、その直後に前扉を開閉したこと、終盤で行先表示を《回送》へ変更したことまで残っていた。ところが、《上三瀬野》《古屋敷》《三瀬野分校前》へ表示が切り替わった記録はない。自動放送にも、それらを再生した履歴は残っていなかった。
「勝手に別系統のデータを読み込むことってあります?」
「別系統って?」
「昔の停留所とか」
整備員は首を横に振った。
「この車、そこ走ってた車じゃないですよ。それに、今使ってない停留所のデータなんて入ってません」
降車ボタンの制御系には、一時的に複数回の入力があったことだけが残っていた。しかし点検中に同じ症状は1度も出なかった。
主任は、濃霧時に発生した表示機器か通信系統の異常として市へ報告することにした。整備で原因が出ない以上、それ以外に報告書へ書ける言葉もなかった。
藤原はもう一度、古い峰沢線の資料を開いた。《上三瀬野》と《三瀬野分校前》はある。しかし、《三瀬野》はない。《古屋敷》もない。
「三瀬野って、いつごろ人がいなくなったんです?」
「もう50年くらい前じゃないですかね」
主任は古い路線図を畳みながら答えた。
「ずっと過疎だったんですよね」
「そうです。ただ、最後に残ってた人たちは、わりと一度に出たって聞いたことがあります」
「一度に?」
「何軒残ってたかまでは知りませんけどね。気づいたら、もう誰もいなかったって」
「宮渡とかに移ったんですか」
「いや……近くに残った人はいないんじゃないかな」
「じゃあ、どこへ?」
「そこまでは知りませんよ」
主任はそれで話を切り上げた。
午後、いつもの時間に東峰小中学校へ向かった。
前日のことについて、会社や学校から子どもたちへ口止めがあったわけではない。それでも三瀬野の話をする者はいなかった。
その日は晴れていた。宮渡を過ぎても霧は出ず、旧道の分岐もいつもの場所にあるだけだった。《三瀬野》の標識も現れない。
高森へ着くと、降りる支度をしていた結衣が菜月へ話しかけた。
「3つだったでしょ」
「うん」
「増えたの?」
「増えた」
結衣は小さな指を順番に折った。
「ボタン押さない。人がいても言わない。呼ばれても返事しない」
「うん」
「あと?」
菜月は一度だけ運転席を見た。
「霧の日は、三瀬野で扉を開けちゃだめ」
藤原は何も言わなかった。
その決まりは昨日まではなく、昔から伝わってきたものでもない。昨日、あそこから帰ってきたことで新しく増えたのだ。
*
数日後の16時46分、藤原はいつもの小型バスを走らせていた。
宮渡を抜けた先で県道は川に沿って緩く右へ曲がる。道路脇の木々はかなり葉を落とし、斜面の上では黒い枝が幾重にも重なっていた。夕方になって冷え込んだせいか、川沿いには薄い霧が出始めている。
藤原はカーブに合わせて速度を落とした。
見慣れた道だった。
霧は走るうちに少しずつ濃くなったが、道を間違えた感覚はなかった。対向車のライトが白い中から浮かび上がっては後ろへ消え、ガードレールの向こうからはいつものように川の音が聞こえている。
「今日は濃いな」
藤原は前を見たまま呟いた。
返事はなかったが、特に気にも留めなかった。そのまま何度か緩いカーブを抜け、小柴平へ向かっているつもりで走り続けた。
しばらくして、後ろからほとんど物音がしないことに気づいた。
藤原は何気なくバックミラーを見た。
前から2列目に、知らない男が座っていた。
60歳くらいだろうか。灰色がかった上着を着て、膝の上に使い込んだ革鞄を置き、両手で持ち手を握っている。
その後ろにも女がいた。
さらに奥にも人がいる。
藤原は前へ視線を戻した。道路を確認してからもう一度ミラーを見ると、見間違いではなかった。
車内には10人ほどの乗客が座っていた。男も女もいて、老人だけではなく、中年くらいの者や若そうな者も混じっている。
子どもは1人もいなかった。
藤原はアクセルからわずかに足を戻した。
乗客たちは誰も喋らず、多くは俯いていた。それぞれ何かしらの荷物を持っている。古い革鞄、色の褪せたボストンバッグ、風呂敷包み。紐を掛けた段ボール箱を足元に置いている老人もいた。
服装も少し古く見えた。明らかに時代が違うと断言できるほどではないが、上着の形やくすんだ色合い、見慣れない鞄が重なると、昔の集合写真をそのまま見ているような印象があった。
藤原は前方へ目を戻し、記憶を辿った。
いつ乗せた。
今日は、いつもの便だったはずだ。
学校へ向かい、子どもたちを乗せ、ここまで来た。そう思っていたのに、東峰小中学校の校門へバスを入れた場面が出てこない。菜月に人数を確認した覚えもなければ、悠斗が何か喋った記憶も、結衣が窓側へ座る姿を見た記憶もなかった。
それどころか、今日、子どもを1人でも乗せただろうか。
無線機へ手を伸ばしかけたところで、運転席脇に挟んでいるはずの運行表がないことに気づいた。第3便の経路表も乗車名簿もなく、クリップだけが空のまま残っている。
藤原は車載時計へ目をやった。
16時49分。
その横の日付まで見て、一度前へ視線を戻した。
もう一度確認する。
曜日は日曜日だった。
その意味が頭へ入るまで、少し時間がかかった。
日曜日なら東峰小中学校は休みで、下校便もない。少なくとも第3便を走らせる日ではない。
それなのに藤原は制服を着て、いつもの小型バスを運転している。
今日、何時に営業所へ行ったのか。誰から鍵を受け取ったのか。出庫前の点呼を誰としたのか。考えても、その部分だけがきれいに抜け落ちていた。
背中に冷たい汗が滲んだ。
バスは、それでも霧の中を走り続けている。
前方に細い柱が見えてきた。
《上三瀬野》
藤原は息を詰めた。
《三瀬野》を通った覚えはない。旧道へ曲がった記憶もないし、どこかで扉を開けた記憶もなかった。毎日走っている県道を、そのまま小柴平へ向かっていたはずだった。
それなのに、もう《上三瀬野》にいる。
停留所の前を通過しても降車ボタンは鳴らず、後ろの乗客も動かなかった。窓の外を確認しようとする者すらいない。ここで降りる必要がないことを、最初から知っているようだった。
次に《古屋敷》が現れた。
それも通過する。
藤原はミラーへ目をやった。
革鞄を抱えた男、風呂敷を膝に載せた女、箱を足元へ置いた老人。どの顔にも見覚えはない。
そのとき、主任から聞いた話が頭へ戻ってきた。
三瀬野に最後まで残っていた人たちは、50年ほど前、わりと一度に集落を出たらしい。近くに残った人はいないんじゃないかと主任は言っていたが、どこへ行ったのかまでは知らないという。
藤原はすぐにミラーから目を離した。
後ろにいるのが、その人たちだという根拠は何もなかった。
ただ、50年前まで三瀬野にいた人間たちなのではないかという考えが、一度浮かぶと消えなくなった。
やがて霧の中に《三瀬野分校前》が見えてきた。
先日、営業所から旧・峰沢線の終点だと聞かされた場所だった。前にここへ来たときも、路肩の奥には細い道が見えていた。ただし、バスがそのまま走っていけるような道ではなかった。
今日は違っていた。
停留所の向こうへ、バスが十分に通れる幅の舗装路が続いている。白いセンターラインまで引かれ、霧の奥へまっすぐ延びていた。
藤原はナビを見た。
地図から現在地を示す矢印が消えている。道路名も表示されず、画面には進行方向へ延びる一本の線だけが残っていた。
無線機を取る。
「営業所、第3便。聞こえるか」
返事はない。
「営業所、藤原。応答してくれ」
雑音さえ返ってこなかった。
後ろで衣擦れの音がした。
ミラーを見ると、それまで俯いていた乗客たちが顔を上げていた。
誰も藤原を見てはいない。
全員が、三瀬野分校前の向こうへ続く道を見ていた。
怖がっているようには見えなかった。喜んでいるわけでもない。ただ、この先へ行くことが決まっている人間たちのように、黙って前を見ていた。
三瀬野分校前が近づいてくる。
藤原は速度を落とした。
停まるべきなのかもしれない。しかし、ここで扉を開けてはいけない。そのことだけは覚えている。
前回は終点を通り過ぎた先で、小柴平へ戻ることができた。
今回は、その終点の向こうに道が続いている。
藤原は停車しなかった。
バスは《三瀬野分校前》の標識を通り過ぎ、その先に続く舗装路へ入った。
乗客たちは誰も動かなかった。
誰も降りたいとは言わない。
霧の奥へ道が続いていた。
どこまで続いているのかは見えない。
藤原はハンドルを握り直し、バックミラーを見た。
十数人の乗客は、静かに前を向いていた。
自分たちがどこへ向かっているのか、誰一人として尋ねない。
行き先を知らないのは、藤原だけだった。




