第16話 世界が途切れた場所で
1. 理の剥離
すべては正常だった。
あまりにも滑らかで、あまりにも美しい跳躍。
店の灯りが遠のき、次元の膜を一枚抜ける。
その先に、翠松町へと続く入口が見えた。
白い。
けれど、温度のある白。
遠くで、波の音のようなものが聞こえる。
『第一跳躍、成功。第二跳躍へ移行します』
ビットの声が、遠くから届いた。
だが、その瞬間だった。
スカラー領域との接続が始まった途端、世界の手触りが変わった。
まるで、今まで意味を持っていたすべての方向が、急に剥ぎ取られたようだった。
上へ進む。
前へ進む。
過去へ戻る。
未来へ抜ける。
そうした一切の「向き」が、意味を失う。
サチの耳元で、零壱が鋭く舌打ちした。
「駄目だ」
彼の声が、初めて焦りを帯びた。
「情報層が反転している」
デジットが即座にそのバグの本質を理解した。
スカラーの持つ「ベクトルの無効化」という、あらゆる存在の定義を奪う最悪の理。
「全員、意識を固定しろ!」
デジットの叫びが、白い空間を裂いた。
世界が砕けた。
光でも闇でもないものが、全身を貫いた。
すべてがバラバラに散散していく。
カーネル宇宙の法則が、皮膚を無理やり剥ぎ取るようにして、彼らの存在から剥離していった。
零は、自らの内にあった異能が、急激にインクが薄まるように減衰していくのを感じていた。
身体の奥底から絶対的な力が抜けていく、システム側からの強制的なデバフ。
この地獄のなかで、22歳の亜依だけが、かろうじて平然と立っていた。
彼女の特性は「特異点的観測」。
世界のルールが崩壊しようとも、彼女自身が独立した観測点であるため、辛うじてその存在の座標を維持していたのだ。
しかし、その完全なカオスの中で。
一人だけ。
サチだけが。
何の異能の防壁も持たない、ただの、あまりにも脆い人間の魂だけが、引き裂かれた航路の隙間から、暗黒の彼方へと弾き飛ばされていった。
サチは零の手を掴もうとした。
亜依の声が聞こえた気がした。
レイイチの青い光が、自分を包もうと伸びた。
デジットが何かを叫んでいる。
けれど、すべてが遠い。
方向がない。
距離がない。
誰が近くにいるのかすら分からない。
そして、最後にサチの指先から、誰かの温度が消えた。
2. 絶対白域
気付くと、世界は白かった。
上もなければ、下もない。
光とも言えず、かといって闇でもない。
ただ、果てのない白。
無限。
そして、完全な静寂。
己の呼吸音すら、吐き出した瞬間に世界の無機質さに吸い込まれて消えていくような、ぞっとするほど静まり返った世界だった。
零次元の狭間。
サチは、自分が立っているのか、それとも虚空に浮いているのかすら分からなかった。
五感が、すべての情報処理機能を失っている。
「零?」
返事はない。
「亜依ちゃん?」
誰も、いない。
「デジット」
ただの沈黙。
「レイイチ」
何も、返ってはこない。
33年間、父親を探して暗闇を歩き続けてきた。
ずっと一人だと思っていた。
でも、違ったのだ。
独りきりで歩んでいると思っていたあの暗闇のなかでも、
みんながいた。
零がいて、亜依がいて、デジットがいて、零壱がいた。
彼らの存在という名の命綱が、いつだって自分の心をこの世界に繋ぎ止めてくれていた。
けれど、今は本当に誰もいない。
凍りつくような絶望が、サチの思考のすべてを塗り潰そうとした、その時だった。
どこか遠くから、ひどく間の抜けた声が響いた。
「へぇ」
サチが振り返る。
白い虚空のなかに、誰かがいた。
「人間だ」
白銀の髪。
汚れのない裸足。
少年とも、あるいは少女ともつかない、あまりにも曖昧な存在。
世界の終焉を司るような絶対の領域にいながら、まるで近所の公園のベンチで暇を潰している子供のように、あまりにも異質で、あまりにも気易い佇まいだった。
「珍しいなぁ」
サチは思わず身構え、全身の神経を警戒に尖らせた。
「あなたは……?」
その少年は、不思議そうに首を傾げた。
そのガラス細工のような瞳には、大宇宙の戦争も、カーネルの厳格な規律も、何一つ映ってはいない。
「うん? 僕は……」
言いかけて、自分の名前を定義することすら面倒になったように、ふいと言葉を止めた。
そして、キョロキョロと悪戯っぽくサチを観察し、逆に尋ねてくる。
「それより君は?」
サチは、あまりの温度差に、脳の処理がほんの一瞬だけ戸惑った。
しかし、自分の胸の奥にある「33年分の熱量」を確かめるように、真っ直ぐに答える。
「私は秋月サチ。――父を探してるの」
その言葉を聞いた少年の瞳が、初めて明確なベクトルを持って動いた。
世界のすべてに退屈しきっていたその瞳の奥に、小さな、けれど奇妙な火が灯る。
「父を?」
「うん」
サチは頷く。
「33年間、会えてないの」
沈黙。
白い世界の時間が、一瞬だけ止まったかのような錯覚。
少年が、ゆっくりと上体を起こした。
虚空のシーツを滑るようにして、サチの正面へとその顔を近づけてくる。
「へぇ。――それ、面白そう」
サチの表情が、一瞬にして険しくなった。
自分の人生のすべて、血を吐くような思いで擦り切らせてきた33年間の軌跡を「面白い」の一言で片付けられたことに、激しい怒りが湧き上がる。
「面白い話じゃない!」
けれど、少年は笑った。
楽しそうに。
本当に楽しそうに、無邪気な子供そのものの笑顔で。
「うん。だから面白いんだよ」
サチは、その圧倒的な価値観の断絶に、言葉を失った。
少年は淡々と、けれど弾むような声で言葉を続ける。
「33年経ってるのに。みんな無理だって言うのに。まだ探してる。まだ諦めてない」
少年は心底愛おしそうに笑う。
世界のシステムが定めた「不可能性」という絶対の数式を、ただの人間の執念だけで笑い飛ばそうとするそのエゴを、彼は狂おしいほど楽しそうに見つめていた。
「好きだなぁ、そういうの」
そして、少年は、ふらりと頼りなげな、けれど底知れない手を差し出してきた。
「じゃあ、契約する?」
サチが目を見開く。
「契約……?」
「うん」
少年は、今日のおやつに何を食べるかを決めるかのような軽い調子で言った。
「僕と契約すると、ここから抜け出せるよ」
サチの脳裏に、デジットたちの冷徹な言葉がよぎる。
大いなる存在との契約。
そこには必ず、魂や寿命といった相応の、あるいは苛烈な対価が必要なはずだ。
「代償は……何?」
少年は、きょとんとしてみせた。
「代償?」
少しだけ、そいつは考える素振りをした。
サチの寿命、あるいは大切な記憶、あるいは魂のデータ――そんなありきたりな人間のリソースを思い浮かべ、そして、そんなゴミみたいなものには全く興味がないという風に、くすくすと笑った。
「僕に、君たちの再会を見せてよ。――それだけ」
サチは、呆然とした。
寿命でもない。
記憶でもない。
魂でもない。
ただ、人間が紡ぐ愚直な物語の「続き」が読みたい。
その無機質な理の世界にポツリと生まれた、気まぐれな好奇心、ただそれだけ。
少年は、悪戯っぽく微笑む。
「だって気になるじゃない。33年探した結末。見届けたい」
サチは、長く沈黙した。
少年の瞳の奥にある、規律など存在しない、けれど嘘偽りのない純粋な「渇き」を見つめる。
ここで足手まといのまま消えるわけにはいかない。
父の元へ、みんなの待つ前線へ行くんだという強い意志が、彼女の背中を強烈に押し出した。
そして、ゆっくりと手を伸ばす。
少年の、温かいのか冷たいのかすら判別のつかないその手を、ぎゅっと握りしめた。
その瞬間、白い世界が激しく、狂ったように震えた。
どこか遠く、スカラー領域の深淵で、鉄の秩序が、あるいは世界のシステムそのものがゆっくりと目を開いたような、恐ろしい地響きが魂の底を揺らす。
けれど、少年はそんな大層な異変など一瞥もくれず、嬉しそうに笑っていた。
まるで、最高のおもちゃを、最高の物語を見つけた子供のように。
「契約成立」
白い世界が、ガラスのようにパリンと音を立てて砕け散る。
そして、サチの身体は、再び激しい因果の濁流の中へと、仲間たちのいる世界へと真っ逆さまに落ちていった。
3. 異相同体
翠松町へと続く航路。
崩壊しかけた転移空間のなかで。
光の濁流が渦を巻く。
その中心から、一度は完全に弾かれたはずのサチの姿が、何かに引きずられるようにして戻ってくる。
「サチ!」
零が叫んだ。
異能の減衰に指先まで痺れながら、それでも零は手を伸ばし続けていた。
亜依も振り返る。
サチは、無事だった。
息を荒く乱しながらも、その魂の衣服に傷ひとつない。
だが、デジットの灰色の瞳の奥だけが、色を失っていく。
彼女は駆け寄ろうとする零を片腕で制し、サチをじっと見据えたまま動かない。
「……おい」
低い声だった。
サチは立ち上がろうとして、胸の奥に何かが残っている感覚に気づいた。
もう一つの視線。
後ろの席に、誰かが座っているような。
「サチ、大丈夫!?」
零が肩を支える。
「大丈夫……だと思う」
サチは答えた。
デジットは、動かない。
その表情は、怒りとも、恐怖とも区別がつかなかった。
デジットが、一歩近づく。
「貴様……何と契約した?」
サチの輪郭に、もうひとつ、輪郭が重なっている。
あるはずのないものが、そこにある。
サチは答えられなかった。
ただ胸の奥で、あの少年が、楽しそうに笑った気がした。




