こどもの日が過ぎたらすぐに母の日が来る
早月 明香はベッドに横たわったまま目を見開いた。天井が白い。
総合病院の病棟内の一室である。数日前に救急搬送されて、そのまま入院することとなったのだ。
ゴールデンウィーク直前の仕事からの帰り道、呼吸困難になった。意識は保ったままだったが、苦しくて苦しくて死ぬかと思った。近くにいた見知らぬ他人が救急車を呼んでくれた。どんな人だったのか、明香は軽くパニックに陥っていたので記憶から飛んでしまっているが、その親切な人にはただただ感謝しかない。救急車で酸素カニューレをつけてもらったら楽になって、もう少し生きていられそうだと安堵した。
運びこまれたのは近隣の地域医療の中核を担うという総合病院。診療科数は10を越え、病床数は1000を越えるという大きな病院だ。入院の手続きはシステマティックに進んだ。
「意識ははっきりしていますね。お話しできますか? 声出すのがつらいけど話せる、と。ではお名前と生年月日を教えてください。はい、では今50歳ですね。血液型は? 血液検査をかけているところですが一応ね。それからご住所、電話番号、ご勤務先と緊急連絡先を……」
看護師も事務職員も手馴れている。動揺していたのは明香だけ。
レントゲン検査、超音波検査から、CTスキャン、MRIといった一連の精密検査を受けて、出てきた結果を受けての入院続行だった。
午後の日差しは直接射しこんではこないが、反射光が室内を柔らかく照らしている。二人部屋に明香ひとり。静かなものである。
明香には娘がいる。晏奈という。
昨年、遠方の大学に進学した。母一人子一人だったので、いまはお互いに一人暮らしだ。さみしい気持ちはあるが、手が離れた開放感も同時にある。家にいた頃の娘は毎日家事の一部を担ってくれて、明香も料理に掃除に洗濯に、お買い物の仕方、家計簿のつけ方など、分かる限り時間が許す限りていねいに教えた。
だから娘が独立して生活していることへの不安は薄い。無いとまではいえない。多少の心配はする。親だから。
だが、娘一人を後に残して死ぬのはまだ嫌だった。孫の顔を見てから、それが無理でもせめて娘を託せる結婚相手を見定めてから。それなら娘が一人残されずにすむ。娘が家族を作ってからなら安心して死んでいける。たぶん。おそらく。まあ、その時が来てみないと断言はできない。
明香は晏奈に「父親はいないものと思うように」と言ってきた。
夫は夫婦二人で生きていく分には問題ない男だった。だが娘が生まれてからは違う。一年経っても二年経っても親になれない人だった。妻が幼子ばかりを構っていることに拗ねて、離婚を切りだしてしまうくらいに。明香は娘を育てるだけで手いっぱい。夫を父親に育てることまでは手が回らなかった。夫は娘の親権・監護権を主張しなかった。面会交流さえ求めなかった。夫の親も孫に執着しなかった。次の嫁に産ませればいいとでも考えたのかもしれないし、息子にはいつまでも子供のままでいてほしいと願っていたのかもしれない。明香には分からない。
娘を産んだ病院もこんな天井だった……かな……? と、明香は首を捻った。鼻から延びるカニューレが顔の横で動く。なにしろ20年前のことで記憶が曖昧になっている。
いや、もしかしたら呼吸困難になって酸素不足に陥ったことで脳機能が衰えているのかもしれない。機能低下が一時的ならいいが、不可逆的変化だったらどうしよう? 機能低下どころか機能停止してしまったら? と思考がループを始めてしまう。天井が白い。
病室のドアが控えめにノックされた。明香が視線を向けると、ドアが開いた。娘の晏奈が顔を出す。「お母さん、起きてたんだね」
「……晏奈、来てたんだね」
「病院の人から連絡もらって、ちょうど大学も休みに入ったから」晏奈が病室の隅にあった丸椅子をベッド脇に運んで、腰を下す。高校生の頃に愛用していた簡素なシャツとパンツ姿に、荷物は帆布のショルダーバッグひとつ。一度自宅に寄ってから来たのかもしれないと明香は思う。
「さっきお母さんの担当医師に話を聞いてきた」
「そう。……母さんね、まだ死ねない」
「……?」晏奈が怪訝そうに眉を寄せる。
「母さんはね、晏奈が結婚して新しい家族を作るまでは死なない」
「ああ、そう。じゃあ私は晩婚で高齢出産するから長生きしてね」
「晏奈の結婚相手に挨拶するくらいまでは、長生きしたい」
「私に相手ができるかどうかは分からないけど、お母さんは長生きできるでしょ」
「でもでもだって」
「だって、軽い肺炎でしょ。黄砂が原因のアレルギー症状だろうから季節の外出時には気をつけてくださいって先生が言ってたよ」
「外出時に不織布マスクはしてたけど、あの日はちょっと黄砂が濃くて、でも連休前のお仕事の日だったから出ておきたくて、鼻水が出たりくしゃみが出たりしてはいたけど、まさか肺炎になるなんて思わなくて……軽いのにあれだけ苦しむなんて、肺炎って怖い」と、息を切らさないようゆっくりと話しながら、晏奈は軽く頭を振る。身体から延びる管には障りがない程度に。
「……お母さんも私も病気とは無縁だったからね。ちょっとした病気でも狼狽してしまうよね」
「いま点滴投与している抗生剤が効いたら酸素投与も終わらせられるんだって。とりあえず一週間様子をみましょうってお医者さん言ってた」
「うん、さっき聞いた。それ分かっていてなんで死ぬとか考えちゃうわけ? お母さんがペシミスティックになってるの初めて見た」
「オプティミスティックに生きてるからね」
「じゃあ前向きになろう。もうすぐ『母の日』だね」と娘が言う。
「その前に『こどもの日』が来るね」と母が応える。
「端午の節句は男の子向けじゃないの」
「晏奈は若いのに何言ってるの。今は性別気にしない。上巳も端午もこどもの日なの」
「……まあ、そうね、そういうことにしておく。こどもの日が過ぎたらすぐに母の日が来るね。7日8日の講義も先生が出張だったり別の日に振替だったりしてお休みだから、日曜10日までこっちにいられる。母の日に何か欲しいものあったら買って来るよ」
「うまくいけば5日に退院できるはず。そうしたら、おうちでおいしいものを食べよう」
その後、見慣れた天井の下でゆっくりと眠るのだ。




