第8話:聖女の誤算(後編)
画面の中のコメント欄は、もはや制御不能な暴動と化していた。
『食べろ! 食べろ!』
『聖女様も食べて仲直りしろ!』
『まさか自分だけ安全圏で美味しいもの食べて、マリアンヌ様にはゴミを食わせようとしたわけじゃないよな?』
『友情の証を見せてくれ!』
『拒否するなら毒と認めたとみなす』
国民の声は、残酷なまでに純粋だ。
彼らは信じ込んでいる。「マッド・スライムの核」は絶品であり、これを拒否する理由は「性格が悪いから」か「やましいことがあるから」しかない、と。
「ど、どうしましょう殿下……このままでは、私の支持率が……!」
リリィは縋るようにヘリオス王太子の袖を掴んだ。
しかし、この顔だけの王太子は、いつだって斜め上の方向に期待を裏切る男だった。
彼は深く頷くと、まるで名案を思いついたかのようにポンと手を叩いたのだ。
「リリィ、これはチャンスじゃないか?」
「……え?」
「国民の言う通りだ。君も同じものを食べて見せればいい! そうすれば、『毒を送った』なんていう卑劣な疑いは晴れるし、マリアンヌとも味覚を共有することで和解のアピールができる!」
ヘリオスは爽やかな笑顔で、リリィの肩を抱いた。
「それに、マリアンヌがあれほど美味そうに食べたんだ。君もきっと気に入るはずだよ。王宮のシェフに命じて、倉庫から『予備』を持ってこさせよう」
「は……?」
リリィの顔から血の気が引いた。
予備。
そう、間違えて転送したという体裁を作るため、倉庫にはまだ回収前の「マッド・スライムの死骸」が山積みになっている。
「待って、お待ちになって殿下! あれは調理法が特殊で……!」
「大丈夫だ。マリアンヌは生でかぶりついていたぞ? 君にできないはずがないだろう、聖女なのだから」
悪気はない。
この男には、微塵も悪気がないのだ。
それが、リリィにとって最大の絶望だった。
数分後。
王宮の特別視聴室に、銀のワゴンが運び込まれた。
うやうやしく開けられた蓋の中には、あの忌まわしい黒い塊が鎮座している。
「うっ……」
蓋が開いた瞬間、優雅な香水が漂う室内に、強烈な腐臭が広がった。
ドブと吐瀉物を混ぜたような、生理的嫌悪を催す臭い。
侍女たちが思わず鼻を押さえ、ヘリオス王太子ですら「おっと、随分と……個性的な香りだな」と顔をしかめる。
『あ、来た!』
『王宮からの緊急中継だ!』
『聖女様の実食タイムきたああああ!』
『逃げんなよw』
配信画面が二分割され、右側にマリアンヌ、左側にリリィの姿が映し出される。
ダンジョンの底のマリアンヌは、口元の泥を拭いながら、妖艶に微笑んでこちらを見ていた。
その目は語っている。
『さあ、召し上がれ? 私の可愛いリリィ』
「リリィ、さあ」
ヘリオスが期待に満ちた目で促す。
カメラの赤いランプが光る。
全国民が、固唾を飲んで見守っている。
ここで「食べない」という選択肢はない。
拒否すれば、「毒物を元婚約者に送りつけ、自殺に追い込もうとした殺人未遂犯」として、聖女の地位も、王太子の婚約者の座も、全て失うことになる。
(食べるしかない……食べるしかないのよ……っ!)
リリィは震える両手を伸ばした。
目の前の黒い塊は、ネットリと光り、まるで彼女を嘲笑うかのように脈打った。
近づくだけで、胃液が逆流しそうになる。
「う、うぅ……」
手が震えて、うまく掴めない。
涙目でカメラを見るが、視聴者はそれを「感動で震えている」か「勿体ぶっている」としか受け取らない。
『早く食え』
『マリアンヌ様はもっと豪快だったぞ』
『感謝して食えよ』
逃げ場は、どこにもなかった。
リリィは意を決して、その冷たくてヌルヌルした塊を掴み上げた。
指先に伝わる不快な感触に、全身の鳥肌が立つ。
(大丈夫……飲み込むだけ。噛まずに飲み込めば……!)
彼女は自分に言い聞かせ、ゆっくりと口を開いた。
(第8話 完/第9話へ続く)
【次回予告】
一口食べた瞬間の、あの表情。傑作でした。
人間、本当にマズいものを食べた時、あんな顔をするんですね。
無理しなくていいんですよ。吐いちゃえばいいのに。
でも吐いたら終わり。飲み込んでも地獄。
さあ、聖女の仮面が剥がれ落ちる瞬間を、特等席でご覧あれ。
次回、『放送事故! 聖女、白目を剥く』。
――あら、エチケット袋のご用意は?




