第5話:奇跡の演技力(前編)
「あむっ」
可愛らしい擬音すら聞こえそうなほど軽やかに、私はその漆黒の塊にかぶりついた。
瞬間。
口の中に広がったのは、暴力的なまでの「死」の味だった。
(――っ!?)
舌がピリピリと痺れる。強烈な腐敗酸と、ドブ川の底に溜まったヘドロを濃縮したような苦味。
さらに最悪なのが食感だ。
表面はヌルヌルとしているのに、中身はジャリジャリとした砂や未消化の骨片が混じっており、噛むたびに歯の根が浮くような不快な音が頭蓋骨に響く。
『オェッ』
胃袋が痙攣し、食道が逆流しようと暴れ出す。
脳の防衛本能が、赤色灯を回してサイレンを鳴らしている。
『吐き出せ! これは食べ物じゃない! 毒だ! 異物だ!』
生理的な涙が、ジワリと目尻に浮かぶ。
普通なら、ここで盛大に嘔吐して終わりだ。
だが――私は、社畜だ。
(……甘いわね。専務の吐瀉物処理をした時の臭いに比べれば、マシよ!)
私は暴れる食道を、意志の力だけでねじ伏せた。
浮かんだ生理的な涙すら、演出(小道具)として利用する。
私の表情筋は、脳からの「苦痛」信号を完全にシャットアウトし、別の回路に繋ぎ変えられていた。
それは『歓喜』の回路。
私は、口いっぱいに汚物を頬張ったまま、ゆっくりと瞼を閉じた。
そして、眉根をわずかに寄せ、頬を上気させる。
「ん……っ!」
漏れた声は、苦悶の唸り声ではない。
まるで、高級なチョコレートの濃厚な甘さに陶酔し、思わず声が出てしまったかのような、艶めかしい吐息。
咀嚼。
ジャリ、グチャ、という不快な音を立てないよう、奥歯で慎重に、かつリズミカルに噛み砕く。
その動きは、まるで熟成肉の繊維を舌で転がして楽しんでいるかのようだ。
『……え?』
『なんか……エロくないか?』
『オエッてならないの?』
『待って、顔がマジだぞ』
滝のように流れていたコメントの速度が、少しずつ落ち始める。
視聴者たちは戸惑っていた。
彼らの予想図には、「泣き叫んで吐くマリアンヌ」しか描かれていなかったからだ。
しかし、画面の中の私はどうだ?
泥を食べているはずなのに、まるで長年探し求めていた「ソウルフード」に出会ったかのような、至福の表情を浮かべている。
(まだよ。飲み込むまでが演技)
口の中は地獄だ。舌の感覚はもうない。
けれど、私はさらに演技のギアを上げる。
閉じていた目を開き、トロンとした視線をカメラに向けた。
そして、汚れた指先についた黒い粘液を、舌先でペロリと舐め取ったのだ。
「……信じられませんわ」
私はうっとりと呟く。
「濃厚なカカオのような苦味の奥から……なんて芳醇な、大地の甘みが溢れてくるのでしょう。これが、マッド・スライムの真の味……?」
嘘八百だ。
あるのは下水の味だけだ。
だが、私の表情、声のトーン、そして指を舐める仕草。
その全てが、この物体を「絶品」だと定義していた。
『うそだろ?』
『いや、演技だろ……でも』
『あんな美味そうに泥食える人間なんているか?』
『もしかして、俺たちが知らなかっただけで、実は本当に美味いのか?』
常識が揺らぎ始める。
人間は、視覚情報に弱い。
「マズい」と顔をしかめていればマズそうに見えるし、「美味い」と心から笑っていれば、石ころだって御馳走に見えるのだ。
私は口内の砂利ごとの塊を、喉の奥へと送り込んだ。
喉が焼けるように熱い。
だが、その痛みすらも「喉越し」としての快楽に変換して、私は喉を鳴らした。
ゴクリ。
その音すらも、シズル感たっぷりにマイクが拾った。
(第5話 完/第6話へ続く)
【次回予告】
ジャリジャリと音を立てる泥。でも、私の脳内ではとろけるガナッシュ。
吐き気? いいえ、これは感動の震えです。
観客たちがざわめき始めました。「あれ、本当に泥か?」と。
目は口ほどに物を言う。私の演技で、貴方たちの味覚すらハッキングして差し上げます。
次回、『錯覚? 幻覚? 飯テロ配信の始まり』。
――さあ、狂気の幕開けです。




