第4話:汚泥の晩餐(後編)
「……っ、ふぅ」
両手に乗せたその黒い塊は、私の体温を感じ取ったのか、ぬちゃりと音を立てて手のひらに吸い付いてきた。
鼻を突くのは、腐った魚とアンモニアを混ぜ合わせたような激臭。
至近距離で嗅げば、涙が自然と滲んでくるレベルだ。
胃の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
生理的な拒絶反応。私の体は正直に「これを口に入れたら死ぬぞ」と警報を鳴らしている。
『うわぁ……持ったよ』
『手、腐るんじゃね?』
『もう見てられない』
『早く捨てろ! 聖女様も許してくれるって!』
『いや、これは罰ゲームだ。食わなきゃ許されねぇよな?』
コメント欄は、心配する声と、残酷な好奇心が半々。
画面の端で、リリィが勝ち誇ったように口元を歪めているのが見えた。
彼女は確信しているのだ。私が泣いて謝るか、あるいは食べた瞬間に嘔吐して醜態を晒すかを。
(……甘いわね、リリィ)
私は目を閉じ、深く息を吸い込むのを避けて、浅い呼吸を繰り返した。
脳裏に蘇るのは、前世の記憶。
あれは入社5年目。海外の重要顧客をもてなす宴席でのことだ。
先方の社長が「我が国の伝統的な珍味だ」と言って取り出したのは、原色の芋虫が漬け込まれた度数60度の密造酒だった。
『これを飲み干せば、我々は兄弟だ! 契約書にサインしよう!』
あの時、同行していた男性社員たちは顔面蒼白でトイレに駆け込んだ。
けれど、私はどうした?
――私は、誰よりも早くグラスを手に取り、一気飲みしたのだ。
喉が焼け落ちるような激痛と、口の中に残る異物感。それを「素晴らしい芳香ですね」と微笑みながら飲み下した。
その結果、会社は数億の利益を得て、私は社長賞(金一封5千円)をもらった。
それに比べれば。
このマッド・スライムは、ただの泥だ。
アルコール度数もないし、芋虫の食感もしない。ただ臭くてドロドロしているだけ。
(いける。私には、あの地獄を生き抜いた実績がある)
カッ、と目を見開く。
スイッチを入れる音が、脳内で聞こえた気がした。
私は、自身の固有スキルを発動させる。
【常時発動スキル:鋼の営業スマイル(ビジネス・フェイス)】
効果は単純。
感情と表情筋の接続を断ち切り、いかなる精神状態であっても「理想的な笑顔」を張り付かせる、悲しき社畜の防衛本能。
「……ふふ」
私は震える指先を強引に止め、ボロボロになったドレスの襟を正した。
泥にまみれた顔を拭う余裕はない。けれど、背筋だけは王妃のようにピンと伸ばす。
カメラ(魔法の鏡)を見据える。
そこには、私の死に様を期待する何万という国民と、私を陥れた元婚約者たちがいる。
(見てなさい。貴方たちが期待している「悲劇のヒロイン」なんて、演じてあげないわ)
私は、両手いっぱいの汚物を、まるで宝石箱か何かのように掲げた。
そして、カメラのレンズ越しに、とろけるような甘い微笑みを向ける。
「リリィ様、そしてヘリオス殿下。……このような『貴重なもの』をいただき、感謝の言葉もございませんわ」
声色は、鈴が鳴るように澄んでいる。
嘔吐感は、喉の筋肉で物理的に締め上げた。
「マッド・スライムの核……。ええ、存じております。調理法さえ間違えなければ、王侯貴族でも味わえないほどの『滋養強壮の珍味』になるとか」
嘘だ。そんな話は聞いたこともない。今この場で作ったハッタリだ。
けれど、堂々と言い切れば、無知な大衆は信じる。
『え? そうなの?』
『珍味なのか?』
『いや聞いたことないぞ』
『でもあのマリアンヌ様が言うんだから……』
『確かに、毒と薬は紙一重って言うしな』
コメント欄に動揺が走る。
空気は作った。あとは、私が「実証」するだけ。
私はスライムの塊を、顔の高さまで持ち上げた。
ドロリ、と黒い雫が唇に落ちる。
鉄錆と下水の味が舌を刺激するが、私の口角はミリも下がらない。
「それでは、謹んで……いただきます」
私は、その漆黒の絶望へ、ゆっくりと口を開いた。
(第4話 完/第5話へ続く)
【次回予告】
ジャリジャリと音を立てる泥。でも、私の脳内ではとろけるガナッシュ。
吐き気? いいえ、これは感動の震えです。
観客たちがざわめき始めました。「あれ、本当に泥か?」と。
目は口ほどに物を言う。私の演技で、貴方たちの味覚すらハッキングして差し上げます。
次回、『錯覚? 幻覚? 飯テロ配信の始まり』。
――さあ、召し上がれ。




