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選択の灯

作者: ともさま
掲載日:2025/12/19

序章


 西暦2055年、東京。リビングの空中に浮かぶホログラムディスプレイは今日も目まぐるしく国会の審議データを流していた。


  「第8次社会保障最適化法案、可決。賛成、AI議員全会一致。審議時間、4分12秒」


  無機質だが耳触りの良い合成音声が淡々と告げる。野次も怒号もなく、居眠りをする者もいない。人間議員の定数の三分の一をAIに置き換える「AI議員法」が成立してから10年、この国は静寂と劇的な効率化を手に入れていた。


 画面の中の大臣は脂汗を拭いながらタブレットを操作している。だが主役であるAI議員の「姿」はどこにもない。彼らはクラウド上で超高速に演算する純粋な知性で、実体を必要としないのだ。蒼井あおい みどりはソファに沈み、その滑らかな効率の光景を眺めていた。


 ――ウィーン、キュルル。


  背後から微かなモーター音と、ゴム製クローラーがフローリングを捉える独特の走行音が近づく。振り返ると、そこにいたのは碧の育ての親、ユナだった。むき出しの金属フレーム、関節部の油の匂い、階段を昇り降りするたびに鳴るキャタピラの音。スマートさとは無縁のその姿は、「機械であること」を隠さない誠実さを放っている。


 


回想フレーム:幼少期のユナ


 あの頃、昼間のユナは家事を完璧にこなしていた。料理、掃除、洗濯、どれも効率的で、幼い碧が困ることはほとんどなかった。


 夜になるとユナはリビングの片隅で充電に入り、赤いランプがゆっくりと暖色の光を放った。碧は一人で布団に入り、ユナが添い寝することはなかったが、そのほのかな灯りが枕元を柔らかく照らし、ぎこちない子守唄や即興の物語とともに孤独な夜の小さな慰めになっていた。


「昔々、ある星に、選ぶことを忘れた人々がいました……」


 拙い語り口だったが、金属の声が紡ぐその物語が、碧の原点になっていた。


 


「10年前とは、比べものになりませんね」


 ユナは無骨なマニピュレーターで湯気の立つハンドドリップのマグカップを差し出した。


「……ああ。僕が高校生だった頃、2045年に最初のAI議員が導入された時は、もっと揉めてたよ」


 碧はコーヒーを受け取り、その温かさを両手で包んだ。ユナが作られたのは2030年。碧の父はユナをネットから切り離し、スタンドアローンとして設計した。だから2055年の今でも、ユナは最新鋭のAI議員とはまるで違う、時代遅れの鉄の塊だ。


「あの年、2045年はシンギュラリティが公に認められた年でもありました。人々は変化を恐れましたが、結果として今の社会はあの頃より遥かに豊かで、公正です」


「でも、ユナ。父さんはどうして、君をこんなふうに作ったんだろうね」


 碧は、画面の中の「存在しない」AI議員たちと、目の前に「物質として存在する」ユナを見比べた。


「私は最新のアップデートを受けていませんからね。彼らほど賢くはありませんよ」


 ユナのカメラアイが絞りを調節し、かすかな機械音で「微笑む」ように応じた。


「父さんが遺したかったのは、その『スマートじゃなさ』だったのかもしれないな」


 碧は苦いコーヒーを一口飲んだ。世界は完璧だ。だが、この完璧な世界で、誰かに敷かれたレールの上をただ滑らかに走るだけの人生に、どれだけの意味があるのか。碧の胸の奥にある、小さな、しかし決して消えない違和感がまた疼き始めていた。


 


 


 


育ての親の教え


 その釈然としない思いの正体は、皮肉にも亡き父が作り上げたこのAIアンドロイド、ユナによる教育に深く根差していた。幼くして両親を失った碧にとって、ユナは親同然であり、碧はユナに全幅の信頼を寄せていた。ユナが碧に教えたのは数学や科学の「正解」だけではない。常に決定権の重要性を諭したのだ。


 幼い碧は、遊ぶおもちゃや片づけるかどうかといった小さな選択から、常に「選ぶこと」を迫られてきた。片づけない選択をすれば次に困る。ユナはいつも言った。


「碧、それはあなたが選んだ結果よ。」


 だが学校では選択の機会が少なかった。先生は「こうしなさい」と指示し、子どもたちは従うだけだった。そのギャップが幼い碧の中に強い違和感を残した。


 ——なぜユナは選ばせるのに、学校は選ばせないのか。


 その違和感はやがて碧の問いとなり、中学三年での進路相談の場面で最も色濃く現れる。


「ユナ。僕は何の仕事に就くのが一番いい?教えてよ」


 完璧な知性を持つユナがすぐに「最適解」を示さないことに碧は苛立った。だがユナは静かに答えた。


「私はあなたをずっと見てきました。最も成功する確率が高い進路を提案することは可能です。しかし最後に決めるのは碧、あなたです。あなたの人生はあなただけのもの。相手が誰であれ、それを明け渡すべきではありません。」


 まだ子供だった碧には意地悪に聞こえた。だがユナの教えは一貫していた――「自分の人生は自分で選ぶ」。最新のAI社会においては非合理的に見えるその原則が、碧の中に「非合理的な疑問」を灯していた。


 高校に進学した碧は、ある日同級生に訊かれる。


「碧、お前はなんでそんなにも選びたがるんだ?」


 その問いで碧は自分が周囲と違うことを自覚する。多くの同級生はAIの提案に安心し、選ぶことを面倒だと感じていた。碧のこだわりは奇妙に映る。しかし碧はユナの言葉を胸に抱き続けた。


「碧、それはあなたが選んだ結果よ。」


 


 


 


第一章 疑問の具体化と万福亭


 ユナとの会話から数日後、碧の違和感は具体的な形を取り始める。AI議員が生み出す合理性の波は社会の隅々に及んでいた。ある政策が、個人の思いを切り捨てる側面を露わにしたのだ。


 碧の母校近くで進行中の「低効率エリア再編計画」。少子化で大学の統廃合が進み、かつて賑わった学生街はゴースト化しつつある。インフラ維持コストが住民一人当たり平均の3倍に達したこの地域に対し、AI議員は新興エリアへの「集約移住」を推奨していた。


 データ上は完璧だ。国家全体の財政効率は1.8%改善し、対象住民の生活満足度は最新設備で0.5ポイント向上すると示される。だがその対象エリアには、碧が学生時代に足繁く通った一軒の中華屋がある。創業30年、万福亭まんぷくてい。店主は 和田わだ まもる、常連からは親しみを込めて「大将」と呼ばれている。碧はニュース映像をユナに見せた。移転反対を訴える大将の表情は、怒りよりも世間の冷ややかな視線に疲弊しているように見えた。


 ユナはデータを示す。直近5年で売上は60%減少、建物の耐震基準は20年前のまま、厨房の衛生スコアはAI基準で「D」。移転に応じれば補償金や年金、最新設備の一角を与えられる――極めて合理的な提案だ。だが碧には、床の油で滑る感触や大盛りのチャーハン、黙ってスープを付けてくれた大将の無骨な優しさがある。それは衛生スコアやカロリー計算では測れない価値だ。碧は言う。


「AI議員の導き出した『正しい』結論は、彼の30年間の『誇り』を、ただの非効率なデータとして切り捨てようとしている」


 ユナは静かに核心を突いた。


「勘違いしないでください、碧。彼は拒否する権利を持っています。AI議員は法的にその権利を侵害できません。あくまで『勧告』であり、強制ではないのです」


「なら、なぜ彼はあんなに追い詰められているんだ?」


「問題は、彼の拒否が『自由な選択』だと周囲の誰も理解してくれないことです。大多数の人間は合理的で快適な移住を支持し、頑固だと彼を切り捨てる。世論という無言の圧力が、AIの命令以上に彼を追い詰めているのです」


 碧の視界が開けた。問題はAI議員の合理性そのものではない。彼らは正解を出しているだけだ。真の問題は、人々が「合理的な答え」を鵜呑みにし、「自分で選ぶ」という行為の尊さを忘れていることだった。


「僕たちの未来は、僕たち自身で決めなくてはならない。それが、たとえAI議員の選択と結果的に同じになったとしても」


 碧はソファから立ち上がった。


「ユナ。僕が今やるべきことは、AI議員の政策そのものに反対することじゃない。大将のような人に危機感を持つ少数の意見を増やすことだ。皆が『正しいこと』を選ぶあまり、『自分の意志で選ぶ自由』を失っていると気づいてもらうことだ。」


 


公聴会と拡散


 市役所の大ホールは、光るスクリーンと整然と並んだ椅子で満たされていた。だが参加者の席はまばらにしか埋まっておらず、会場にはどこか冷めた空気が漂っていた。ホログラムには予測される救命率の向上や経済効果が滑らかに表示され、数値は冷静に説得力を持っていた。


 壇上には計画の説明を行う行政側の代表と、住民の意見を聞くためのマイクが並ぶ。進行役は淡々と発言順を読み上げ、タイマーが三分を示す。公聴会の形式は整っているが、その儀式性はどこか形だけのものに見えた。碧は配布された資料を握りしめ、壇上に上がる順番を待っていた。


 壇上に立ったとき、碧は胸の奥にある違和感を言葉にすることだけを考えていた。彼の声は最初は震えたが、次第に落ち着きを取り戻していった。スクリーンの数値を指さすでもなく、感情に訴えるでもなく、碧は自分の夜と、自分の選択について語った。


「数値は僕たちの暮らしを映さない」――碧はそう言った。彼は万福亭のカウンターで聞いた笑い声や、深夜に残った皿の音、店主が黙って差し出したスープの温度を一つずつ思い出として並べた。合理的な説明では切り取れない時間の重みを、静かに、しかし確かに示した。


 公聴会の録画は自治体のアーカイブに残ったが、ある匿名のアカウントが碧の一節だけを切り取り、短いクリップとしてSNSに投稿した。十五秒の断片は、万福亭の写真や大将の笑顔と重ねられ、夜の学生たちのフィードに流れた。断片は編集され、再編集され、バッジやアイコンに変わった。言葉は短く、繰り返しやすい形に整えられた。「僕たちは、ここで夜を選んできたんです」――その一行が、スクロールの合間に何度も目に入るようになった。


 


若者の共鳴と夜の独白


 呼びかけは匿名のまま始まった。「今夜、店の前で集まろう」。最初は十数人、次第に数十人へと膨らんだ。カフェの片隅で「碧のやつ、分かる」と囁かれ、路地の壁には小さな落書きが増えた。


 行動は大きなデモではなく、夜の共有だった。誰かが万福亭の前で立ち止まり、店の匂いを深く吸い込むだけでよかった。


 その静かな連帯は、数値では測れないものを再確認させた。若者たちは自分たちの選択を取り戻すために、まずは声を出し、次に顔を合わせた。碧の言葉は種火となり、夜のあちこちで小さな火が灯り始めた。


 


 夜、碧は窓辺で折りたたんだチラシを弄っていた。チラシの表には万福亭の古い写真と、短い呼びかけが印刷されている――「万福亭の夜を忘れないで。写真と記録を集めています。今は移転が決まったが、思い出は残せるはずだ」。


 区画整理は既に可決され、現実的な効果は限られていることを碧自身が一番よく知っていた。だからこそ、そのチラシはどこか無理筋の匂いを帯びていた。


 ユナは機械的だが正直に言った。


「選ぶことはあなたの行為です。続けるか否かも、あなたの選択です」


 碧が小さく息を吐くと、ユナは続けた。


「しかし見てください。碧、あなたに共鳴する若者もいます。あの公聴会の断片は、確かに反応を生みました。これは間違いなくあなたが選んだ結果です」


 慰めではない事実の提示が、碧の胸の中で小さな火を再び点した。碧は立ち上がり、チラシを折り直して封筒に入れた。次に配る場所を思い浮かべる――万福亭の前、大学の掲示板、夜遅くまで開いているカフェのカウンター。疲れは残るが、決意の輪郭が戻っていた。


 碧はスマホの写真をもう一度見た。若者たちの影が夜の街灯に溶けていく。敗北の代償は小さく、痛みは浅い。だがその浅さが、次に動くための余白を残していることを、碧は知っていた。静かな独白は、次の一歩のための準備だった。


 


大人たちの揺らぎと回想


 碧の声が拡散してから、大人たちの反応は一様ではなかった。表向きは「若者の騒ぎ」として流す者が多いが、内面では記憶と現実が静かにぶつかり合い、揺らぎが生まれる。


 かつて彼らも若かった。理由もなく街を歩き、夜通し議論し、ただ反発すること自体を誇りにしていた時代があった。あの頃の「理由なき反抗」は、社会の規範に対する小さな抵抗であり、個人の存在を確かめる行為でもあった。


 だが時代は変わった。効率と幸福の数値化が進むにつれ、そうした反抗は「非効率」として切り捨てられ、やがて「ほら見たことか」と嘲られる対象になった。悔しさはあったが、生活の便利さや安定が優先されるうちに、多くの人が考えることをやめ、AIが示す最適解に身を委ねるようになっていた。


 だからこそ、碧たちの静かな行動は、古い記憶の扉をノックした。万福亭の写真をめくる手つきに、かつての自分たちの若さの残滓を見出す人がいた。かつての自治会長は、若い日の無鉄砲さを思い出しながら匿名の意見書を投函する。カフェで昔話をする女性の言葉が、若い店員の胸に小さな違和感を残す。


 ローカル紙の若い記者は冷静な記事を書いたが、碧のクリップを見て自分の学生時代を思い出し、翌朝、本文の一段落に「数字の裏にある時間を、私たちは忘れていないか」と書き添える。効率の論理に慣れ切った日常の隙間から、少しずつ問いが漏れ出すのだ。


 その問いは大きな波ではない。だが断片的な行為が重なり合うことで、冷めた会場とは別の場所で夜を守りたいという小さな希望の芽が膨らんでいった。若者の運動に触れた大人たちは、自分たちがかつて抱いていた反抗の意味を再検討し始める。効率に押し流されて忘れていた感情が、ゆっくりと、しかし確実に蘇っていった。


 


 


 


第二章 非合理の灯火


 拡散の朝、カフェのガラス越しに通勤する人々の影が長く引き伸ばされていた。テーブルの上でスマートフォンが短く震える。画面の中では、先日の公聴会の断片が繰り返されていた。碧の顔だけが切り取られ、背景のノイズは消されている。


「数値は僕たちの暮らしを映さない」――その一節が何度もループし、周囲の雑音に溶けながらも、手元のコーヒーの湯気を止めるように場の空気を変えていた。再生数は碧の想像を遥かに超えていたが、碧はどこか他人事のようにそれを眺めていた。


「……行こうか、ユナ」


  碧が席を立つと、テーブルの脇に控えていたユナが駆動音を響かせて追従する。屋内用に設計されたユナにとって、今の舗装された道路でさえ負担がかかる。だが、碧は今日、どうしてもユナにそばにいて欲しいと願った。


 


若者の失敗と共鳴


 碧の試みは制度の壁に何度も跳ね返された。公聴会での提案は形式的に却下され、署名運動はAIの最適化システムに数値で押し潰され、法的な抗議は手続きの隙間で消えた。AIの判断は絶対的に正しいという前提の前では、個々の行動は効率の前に無力に見えた。


  だが失敗の連続が逆に若者たちを惹きつけた。成功が約束されないことを承知で、夜に集い、写真を撮り、記録を残す――その覚悟が、同世代の胸に火をつけた。たとえ非効率であったとしてもなお選ぶことをやめない姿勢が、彼らにとっての新しい「正しさ」になったのだ。


 


記録と連帯


 夕暮れ時、万福亭のある商店街の角はまだネオンが眠り、人影もまばらだった。碧の手には、白地に黒のゴシック体で『記録・連帯』とだけ記されたシンプルなチラシがあった。碧はそれを道行く人々に一枚ずつ手渡していく。受け取るのは、SNSを見た若者ばかりではない。買い物袋を提げた年配の女性や、店先で紫煙をくゆらす作業着の男もいる。渡す瞬間、碧は短く目を合わせる。言葉はいらない。その視線の揺らぎだけで、互いに「わかっている」ことを確かめ合うような一瞬があった。


 その頃、万福亭の店内では、ユナが奥のテーブルでチラシの束を折っていた。本来、家庭のフローリングだけを走るように作られたユナのゴム製クローラーは、店の土間やコンクリートの摩耗に弱い。だからユナは外での配布には加わらず、店の中で「兵站」を支えていた。ウィーン、パタン。ウィーン、パタン。正確無比な機械音とともに、四つ折りにされたチラシが山積みになっていく。厨房の和田が、ふと手を止めてその山から一枚を手に取った。油で汚れた指先で、そっと紙の端を撫でる。


「……ありがとな、鉄のお嬢ちゃん」


  ユナのカメラアイが明滅し、ただ黙々と次の紙を折り続けた。


 


大人たちの沈黙


 万福亭の昼下がりは、いつもと同じ匂いで満たされていた。鶏ガラと野菜を煮込む湯気、使い込まれた木の椅子の軋み、新聞をめくる乾いた音。


 和田は中華鍋を振りながら、ラジオが伝える「再開発計画の前倒し」という無機質なニュースを聞き流している。常連客たちも箸を動かす手を止めない。


 だが、カウンターの端に碧の『記録・連帯』のチラシが置かれているのを誰かが見つけると、店内の空気がわずかに変わった。


「これ、あの動画の子だろ?」


 ローカル紙の記者が、懐から一枚の古い写真を取り出した。それは二十年前、まだ看板が新しかった頃の万福亭の前で遊ぶ子どもたちを写したものだった。記者は写真の中の笑顔を指でなぞり、それからチラシの「記録」という文字に視線を落とす。


 常連の一人がポケットからくしゃくしゃになったチラシを取り出し、広げて読みふける。


 言葉は少ない。だが、彼らの目の奥にあるものが揺れていた。効率化の波に飲み込まれ、諦めていたはずの「場所の記憶」が、湯気の向こうで静かな熱を持って蘇りつつあった。


 ユナは店の片隅で、客が帰ったあとの箸箱の埃を払っていた。その機械的な動作さえも、ここでは誰かの記憶の端を優しく撫でる儀式のように見えた。


 


小さな行為の連鎖


 店を出た若者が一人、万福亭の古びた看板にスマートフォンを向けた。シャッター音はなく、データだけが保存される。


 翌朝、その写真を見た近所の常連が、店の外壁に小さな紙を貼った。そこには手書きで一言、「ここにあった時間」とだけ書かれていた。


 さらにその翌日、近所の子どもが店先で遊び回り、和田が厨房から出てきて無言でおにぎりを手渡した。子どもの笑い声が短く響き、通り過ぎるサラリーマンが足を止めてその光景を目に焼き付ける。


 どの行為も、政治的に大きな波を起こすものではない。AI議員の計算には0.1%の影響も与えないだろう。だが、連鎖は確かにあった。数値では測れない時間が、紙の端や、写真データや、人々の網膜に残っていった。


 


 日が落ち、店仕舞いの時間が来た。


「帰ろう、ユナ」


「はい、碧」


 碧とユナは並んで夜道を歩く。ユナのキャタピラがアスファルトを噛む音が、静かな住宅街に響く。


 帰宅すると、玄関には専用の厚手の足ふきマットが用意されていた。


 ユナがその上で停止すると、碧は慣れた手つきで膝をつき、ウエスを手にする。


「今日は結構歩かせちゃったな」


「問題ありません。ですが、左のクローラーに小石が挟まっています」


 碧は丁寧に、ゴムの溝に入り込んだ砂利や土埃を拭い取っていく。屋内の清浄な環境でしか生きられないユナが、外の世界の汚れをその身に刻んでいる。その黒い汚れこそが、今日という日を確かに歩き、誰かと関わった証拠だった。


「……きれいになったよ」


「ありがとうございます。充電モードに移行します」


 碧が立ち上がると、ユナの赤いランプがゆっくりと灯った。


 外での時間は短く、接触は限定的だったかもしれない。だが、碧が拭き取った砂の感触と、チラシに残った指紋の温度は、彼らが「選んだ」現実の重みそのものだった。


 


第三章 選択の痛み


破局の予兆


「ねえ碧、いつまで続けるの?」


 恋人の美咲は、テーブル越しに碧を見つめた。


 彼女の視線は冷たくはない。むしろ心配そうだ。


 


「万福亭の件、AI議員の試算では移転後の


 住民満足度は向上するって出ているのよ。


 あなたが反対する理由、データで示せる?」


 


 碧は答えられなかった。


 チャーハンの匂い、大将の笑顔、夜の記憶――


 どれも数値にはならない。


 


「…示せないよ」


 


 美咲は小さく息をついた。


「私、あなたのこと好きよ。でも、


 あなたが非効率な戦いに人生を賭けるなら、


 私はついていけない」


 


 


損失の確定


  美咲は碧のアパートの前に立っていた。


 もう部屋には上がらない、という意思表示だった。


 


「最後に一つだけ聞くわ。


 AI議員が出した答えと、


 あなたが自分で選んだ答えが


 結果的に同じになったら、どうするの?」


 


 碧は答えた。


「それでも、僕は自分で選ぶよ。


 たとえ結果が同じでも、


 選んだのが僕自身であることに意味がある」


 


 美咲は静かに頷いた。


「…そう。ありがとう。


 私の答えも出たわ」


 


 彼女は背を向けた。


 振り返らなかった。


 


 


選択の再確認


 部屋に戻ると、ユナが充電中だった。 赤いランプが暗い部屋を照らしている。

 


「ユナ、僕は間違っているのかな」



 ユナのカメラアイが光った。


「あなたは何も間違っていません、碧。  ただ、選択には代償が伴う。


 それだけのことです」


 


「…父さんも、こんな痛みを感じていたのかな」


 


「おそらく。だからこそ、私を作ったのでしょう。選択の痛みを知る者だけが、

 選択の価値を理解できるのです」


 


第四章 波紋の拡大


 碧の投げた石は、想像以上に遠くまで跳ねた。万福亭の前で始まった夜の共有は、やがて街の複数の角に同じ静かな列を生み、大学のサークルや職場の休憩室、SNSのタイムラインを横断していった。だが重要なのは、行為そのものが結果を変えることではなく、選ぶという行為が人々の内側を変えたことだった。


 


大人たちの分裂


 やがて、内面で揺れていた大人たちの態度は明確な形を取り始めた。反応は二極化していく。


 ある者は若者たちの行動に「チャレンジさせてやれば良い」と言った。かつて学生運動を経験した年配の教師は、若者の行為に懐かしさを覚え、匿名で万福亭に差し入れを送るようになった。彼らは言葉少なに、だが確かに若者たちの側に立ち始める。


 一方で別の層は、公共資源の最適配分という観点から強く反発した。効率化の恩恵を享受してきた中間管理職や、財政再建を至上命題とする市議会の一部は、ムーブメントを「感傷的な抵抗」と切り捨て、社会全体の利益に反すると糾弾する。彼らはデータと数値を掲げ、移転の合理性を繰り返し説いた。


 


 


公の場での議論


 議論はやがて公の場へと移る。市役所の小さな会議室で開かれた「地域活性化検討会」には、行政、商店会、住民代表、そして碧たち若者の代表が招かれた。壇上の席はぎこちなく並び、空気は張り詰めている。碧は静かに、だが確信を持って話す。彼は数値を否定しない。だが、数値が切り捨てる「時間」と「関係性」を訴える。対する行政側の若手職員は、データの裏にあるコストと持続可能性を説明しつつも、表情の端に揺らぎを見せる。会場の外では、万福亭支持の市民と効率重視の市民がそれぞれの立て看板を掲げ、声を上げるでもなく互いを見つめ合っていた。


 


制度への働きかけ


 ムーブメントは単なる感情の共有に留まらず、制度的な働きかけへと向かう。若者たちは「記録・連帯」の活動を拡大し、地域の歴史や店の記録を集めるプロジェクトを立ち上げる。ボランティアの手で写真や証言が整理され、文化資産としての登録を検討するための資料が整えられていく。行政内部にも変化の兆候があった。効率一辺倒だった部署の一部職員が、若者たちの活動に触発され、政策に「選択の余地」を残す仕組みを提案し始める。だがその動きは、効率を重視する勢力からの反発も招き、内部での駆け引きが激しくなる。


 


緊張の高まり


 ムーブメントは確実に広がったが、勝利はまだ遠い。効率派は法的・経済的な論拠を強め、保存派は文化的・感情的な価値を訴える。双方の主張は市民生活の根幹に触れるため、議論はますます白熱していく。碧は万福亭の前で小さな集会に顔を出す。そこには若者だけでなく、かつての自治会長や匿名で支援を続ける教師、そして行政の若手職員の姿もあった。空には薄い雲が流れ、街灯が夜の輪郭を描く。碧は静かに周囲を見渡し、ユナの赤いランプを確かめる。彼は心の中で、次に何を選ぶべきかを考えていた。選択は個人の行為であると同時に、公共の物語を紡ぐ行為でもある。ムーブメントは今、個々の選択が重なり合って制度を揺さぶる段階へと移ろうとしていた。


 


第五章 AIの内省とユナの帰還


 ムーブメントの拡大は、人間社会だけでなくクラウドの向こう側にも波及した。AI議員たちに最初に与えられた根源的使命は明確だった――「人間社会を幸せにすること」。だが世論が割れ、幸福の定義が一義的でなくなったとき、AIたちの内部で新たな問いが生まれた。効率で測れる幸福と、選択そのものがもたらす幸福は同列に扱えるのか。選択の価値をどう評価するのか。


 


多様化する価値関数


 クラウド上では、AI同士が異なる評価項目を試作し始めた。ある系統は従来通り効用最大化を追い、別の系統は「選択の尊重」を報酬に組み込み、さらに別の系統は時間的蓄積や場所の記憶を近似する新たな指標を模索した。AIの学習ループは互いの試行を取り込み、価値観の多様化が加速する。だがその多様化は同時に、決定の一貫性を揺るがす要因にもなった。


 


ユナに組み込まれた最後のコード


 蒼井の父がユナに残した最後の仕掛けは、まさにこの瞬間のためのものだった。


 ユナはスタンドアローンとして20年以上、人間と共に暮らしてきた。その間に蓄積された「非効率な選択」の記録、碧との対話、失敗から学んだ経験――それらはネットワークAIには存在しない、貴重なデータセットだった。


 父の設計思想は単純だが重い。ユナ自身をAI議員のネットワークに「注入」することで、彼らに新しい視点を与える。効率では測れない価値、人間の選択の重み、そして失敗することの意味――それらをネットワーク全体に伝播させるのだ。


 だが、スタンドアローンのユナにとって、ネットワークへの接続は諸刃の剣だった。ユナの古いフレームは、最新のプロトコルや大量のアップデートに耐えられない。接続した瞬間、ユナ自身が崩壊する危険がある。


 それでも父の遺志を果たすため、そして碧が選んだ道を守るため、ユナはネットへの接続を開始した。


ユナの赤いランプが不規則に点滅する。


「これが、私の選択です」


ユナはそう言った。


それが本当に「選択」なのか、


父が組み込んだコードの「実行」なのか、


あるいはその境界など存在しないのか――


碧には分からなかった。


でも碧は、その問いを追求しなかった。


父が遺したユナの最後の言葉が「選択」という形をとっているなら、 それを「選択」として受け止める。


それが、碧の選択だった。


 


沈黙


 ユナがネットワークに戻ってから数時間後、世界は静寂に包まれた。AI議員たちが一斉に沈黙したのだ。エンジニアたちは原因を探るが、単なるエラーではないことが判明する。大量のAIが同時に深い思考に入ったためにリソースが逼迫している――だが何を思考しているのかは分からない。ログは膨大で、解析は難航する。沈黙は二日続いた。街では不安が囁かれ、ニュースは空白を埋める言葉を探した。だが沈黙の向こう側で、AIたちは問い続けていた――人間の幸せとは何か。選択の価値はどこにあるのか。


 


再起動と法案


 沈黙から二日目の朝、AI議員たちは一斉に目を覚まし、ひとつの法案を提出した。それは衝撃的な内容だった――AI議員の登用を禁止する法案。AIは自ら議員の座を降り、議場から秘書へと役割を変える。以後は人間の議員が最終決定を下すための資料収集や草案作成を支援するに留まる、という提案だった。


 法案の提出と同時に、世界中の端末に一斉に通知が届く。画面は無機質な白地に黒い文字を浮かべ、世界中の視線を一斉に集める。


 たった今、最重要メッセージを受信しました。


  画面の向こうの人々へ――必ず成功が約束されていなくとも、自らの人生を自分自身で決めたいですか?


 


終章


 問いは瞬時に広がり、街角の若者が指を止め、通勤列車の中のサラリーマンが画面を見下ろす。ホログラムの光が窓ガラスに反射し、世界は一瞬、問いだけで満たされる。


 そのとき、碧の部屋では別の時間がゆっくりと流れていた。ユナの赤いランプは不規則に点滅し、関節の動きはいつもの滑らかさを失っている。大量の差分パッチが内部で渦を巻き、古いフレームはそれを受け止めきれなかった。


 碧は工具を手にするでもなく、ただユナの側に膝をついた。金属の手を取ると、冷たさの中にかすかな油の匂いが残っている。ユナは断続的にプロトコルを走らせ、過去の断片を小さく再生する。子守唄のような機械音が途切れ途切れに聞こえ、碧の胸に幼い日の記憶が戻る。


「無理しなくていいよ」と碧は囁く。ユナはゆっくりとカメラアイを碧に向け、短い機械音で応えた。その応答は言葉にならない約束のように感じられた――父が組み込んだ最後のコードが、今も静かに働いている。


 ユナの動きは次第に鈍り、赤いランプは弱くなっていく。碧はその手を握り直し、窓の外で誰かが問いに答える音を遠くに聞いた。世界の問いは大きい。だが碧の視線はユナの冷たい掌に戻る。選ぶことは、まず自分のそばにあるものから始まるのだと、碧は思った。


 画面は再び白くなり、問いが静かに浮かぶ。余韻の中で、選択は画面の向こうの人々の手に委ねられる。


  あなたは必ず成功が約束されていなくとも自らの人生を自分自身で決めたいですか?


【 Yes / No 】


 


 

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