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全てはミライの笑顔のために  作者: アベル
魔界王第二位 編

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9/24

8

「大魔王……」


 声がまともに音とならなかった。全身の血が逆流し、指先から急速に凍りついていくような感覚。ただそこに在るだけで、呼吸さえも圧し潰す絶対的な存在感。ツルカは、逃げるという選択肢すら思考から奪われ、その場で金縛りにあったように立ち尽くすしかなかった。


《……最悪のタイミングですね。封印解除の魔力変動を感知し、本命が飛んできたようです。……そして、マリアネはこうなることを覚悟していた。だからこそ、彼女はマスターを巻き込むことを最後まで拒んだのでしょう》


 漆黒の覇気を纏いながら大魔王──グレイは、マリアネを静かに横切り、かつて自らの手で施した封印跡を眺める。


「……解かれた、か。だが解せぬ。我が施した衰弱の呪縛下で、内側から破壊できる者など……。ならば外敵か」


 グレイが僅かに瞼を伏せ、その意識が隠れた少女へと指向する。


「────させませんっ!」


 思考と同時、マリアネは超圧縮した火球を音速で放つ。だが、グレイは探索を中断することなく、閉じた瞼のまま、億劫そうに左手でそれを払った。


「……貴様がこうして抗う時は、守るべきものがある時に限る。……他に誰かいるな……?」

「……だから、させないッ!」


 マリアネの姿が掻き消えたかと思うと、次の瞬間にはグレイの懐に潜り込んでいた。床を爆砕させながら踏み込み、その勢いの全てを乗せた右拳がグレイの腹部に突き刺さる。凝縮された魔力が解放され、グレイの巨体を内側から抉るように貫通。遅れて、グレイの背後で衝撃波が炸裂し、部屋の奥の壁ごと空間を吹き飛ばした。


「……駄目か……ッ」


 マリアネの拳が穿ったはずの風穴に、影が意志を持ったかのように集い始める。蠢く闇は失われた肉と骨を瞬く間に再構築し、ほんの数瞬後には傷など最初から存在しなかったかのように皮膚まで完全に塞がっていた。

 グレイはその傷跡だった場所をまるで埃でも払うかのように軽く撫でる。


「……ふむ。今のは多少、骨に響いた。だが、それだけだ」


 その超常的な再生と余裕を前に、マリアネは小さく舌打ちする。


「次は、私の番だ」

「────なッ」


 空間そのものが悲鳴を上げているかのように、空気が軋む。グレイの頭上、何もないはずの虚空に、まるで空間が破裂したかのような無数の裂け目が次々と現れた。それは異界へと通じる穴か、あるいは虚無そのものか。ただ底なしの闇が、内側から不気味に脈動していた。


 「な、なんだ、あれは……いや、違う……! 僕はあれを知ってる。いつだ? どこで……思い出せない……!」


 頭の奥で警鐘が鳴り響く。あれは決定的に危険なものだと本能が叫んでいるのに、肝心な記憶が霞に包まれたように掴めない。その歯痒さが、ツルカを恐怖とは別の焦燥で震わせた。

 やがて裂け目は膨大な魔力を携えて、暗闇の中に一つ光る星のように中心が光り始める。


「さあ、マリアネ。小手調べだ。貴様にこれを受けきれるか」

「な────ッ!」


 グレイが楽しげに指を鳴らすと、全ての裂け目が一斉に咆哮を上げた。絶望的な量の魔光がマリアネ一人へと収束していく。


「────『魔王武装・純』ッ!」


 マリアネが叫び、その身を覆う暗黒のオーラが爆発的に膨れ上がった。次の瞬間、幾千もの魔光が着弾する。凄まじい轟音と衝撃波が部屋を揺るがすが、マリアネを中心に展開された暗黒の結界が、その全てのエネルギーを吸収し、ねじ伏せていく。

 やがて光が収まると、あれほどの攻撃を受けたにも関わらず、部屋は不思議なほど無傷だった。


「ほう……我が攻撃を喰らった……だと? いや……相殺ではなく、虚無に還したか」


 砂埃が晴れていく。眉をひそめるグレイの目前に立ち尽くすのは、やはりマリアネである。心底気に食わないのか、グレイは大きくため息をついた。


「はぁ……っ。やはり、この力を使うのは……体力的に無理だっ……」


 マリアネの姿が変貌していた。艶やかだった紫色の髪は、まるで月の光をそのまま編み込んだかのように神々しい純白へと染め抜かれ、対照的にその瞳は、光すら吸い込むような絶対的な暗黒に沈んでいた。身軽なドレスには胸当てやグローブ、レガースなどの軽装防具が施され、一際輝く頭上のティアラは魔界王第二位としての威厳ある女王を彷彿とさせる。だが、その威厳ある姿とは裏腹に、彼女の呼吸は浅く速く、立っているのがやっとであることは明らかだった。


「……その姿、その力。忌々しいにも程がある。なぜ貴様のような出来損ないが、それを扱うのか。その力は、我が理想を完成させるための鍵であったというのに。貴様などに譲渡しなければ……」

「……あなたは見る目がなかったみたいですね? 私なんかにこのような力を与えるなんて。いったい何がしたかったんだか」

「少しはあの牢獄で頭が冷えたと思ったが……まあいい……。殺せば力を回収できる。もう、貴様は用済みだ。この手で消してやる」

「……そう簡単にやられるものですか。私はかなりしぶといと思いますけど」

「はは、虚勢を。その左腕、貴様が一切使ってこなかった暗黒で無理やり形作っているな? 力が霧散し、形すら保てておらぬではないか。その程度で、この私を止められると? ……随分と、見縊られたものだ」


 失われた左腕の位置に、揺らめく陽炎のような闇が不完全に腕を形作っていた。だが、その輪郭は安定せず、端から粒子のように崩れては再生するのを繰り返している。明らかに力を制御しきれておらず、その維持だけでも消耗していることが見て取れた。


「……それでも、私はあなたをここで止める……! あの子がくれたこの自由、あなたになどに奪わせたりはしないッ!」


 マリアネが咆哮と共に踏み込む。不完全な左腕は防御と牽制に回し、全ての勝負を決めるべく、その右手に全存在を懸けるかのように魔力を集束させる。凝縮された暗黒が彼女の意志に応え、空間そのものを切り裂く刃となってその手に顕現した。

 迎え撃つグレイはその姿を冷ややかに見つめ、自らの右手にも漆黒の魔力を集束させる。闇は瞬く間に長剣の形を取り、マリアネの刃を受け止めるべく構えられた。


「────ッ!」


 刹那、二つの闇が激突し、鼓膜を突くような金属音と衝撃波が部屋を蹂躙した。マリアネは一撃で押し切れないと見るや、即座に剣を引き、不完全な左腕での牽制を織り交ぜながら嵐のような連撃を叩き込む。だが、グレイはその全てを、最小限の動きで見切っていた。


「あなたの好きにはさせません!」


 マリアネは剣を激しく打ち合わせながら、左腕の闇をグレイの死角へと伸ばす。だが、グレイはそれすらも最小限の動きで見切る。いとも簡単に闇を払う。

 マリアネは大きく後方へ跳躍して距離を取る。純粋な剣戟では埒が明かない。彼女は残された全魔力を振り絞り、自らの『権能』を解放する。

 マリアネを中心に空間そのものが軋み始めた。グレイがこの空間に満した絶対的な支配力、その魔力の流れそのものを、マリアネの暗黒が強制的に無へと還そうと破壊の奔流が広がっていく。


「……小賢しい。我が支配を無に還そうとするか。ならば、その無ごと飲み込み、我が虚無に沈めるまでだ」


 グレイは嘲笑うかのように剣を構え直す。その切っ先から放たれたのは、マリアネの『暗黒』を飲み込む、底なしの『漆黒』。

 マリアネが空間を破壊し無に還そうとするそばから、グレイの漆黒がその破壊の力そのものを飲み込み、消失させ、空間を絶対的な『虚無』の支配下に再定義していく。その力の衝突の余波が、超高密度の重力となってマリアネを圧し潰す。


「貴様の暗黒では、まだ我の漆黒には届かぬ……」

「くっ……重い……!」


 マリアネの身体に、突如として山脈がのしかかったかのような超重圧が襲いかかる。『魔王武装』による身体強化をもってしても、膝が軋み動きが致命的に鈍る。

 その隙をグレイが見逃すはずもなかった。


「よそ見をしている暇があるのか?」


 重圧に抗うマリアネの足元より、グレイが支配する漆黒の影から、空間ごと存在を飲み込まんとする虚無の棘が無数に射出される。


 「────ッ!」 


 マリアネは咄嗟に剣で足元を薙ぎ払い、迫る棘を打ち砕く。だが、重力下での強引な動きは彼女の体力を著しく消耗させた。神々しかった純白の髪の一部が生命力の消耗に耐えきれず、元の紫色へと戻りかける。


「このままでは……!」


 マリアネは決死の覚悟で、不完全な暗黒の力を暴走させた。


「これくらいで……ッ!」


 彼女は叫びと共に膨大な暗黒魔力を解放する。グレイが展開した漆黒による重力支配、その術式そのものをマリアネの暗黒が真っ向から破壊し、無に還さんとする暴威の顕現だった。漆黒の重圧と暗黒の破壊が激突し、空間が凄まじい音を立てて軋む。

 やがてマリアネの暗黒がグレイの支配をこじ開けるように弾き飛ばし、彼女は重圧から解放される。だが、その代償は大きかった。左腕の闇がさらに不安定に揺らめき、力の消耗は明らかだった。


「……ほう。我が重力支配を力ずくで破壊したか。面白い。だが、それで逃げられると思うな」


 グレイが億劫そうに指を鳴らす。

 マリアネの上下左右、あらゆる空間から、触れたもの全てを飲み込み消失させる漆黒の魔弾が数十、数百と出現し、一斉にマリアネへと殺到する。回避不可能な全方位攻撃。


「────これくらいッ!」


 マリアネは重圧から解放された今、その真価を発揮する。純白の姿が加速し、魔弾の雨の中を突き進む。迫る魔弾を彼女は暗黒を纏わせた剣で切り裂き、弾き、受け流す。剣先が魔弾に触れるたび、マリアネの暗黒が虚無に飲み込まれ僅かに削り取られていくが、彼女は構わず突き進む。


「遅いぞッ!」


 グレイがさらに指を鳴らすと、魔弾の軌道が予測不可能な角度で変化し、マリアネを背後から襲う。マリアネは神速の剣技でそれらに対処する。迫る魔弾同士を剣で打ち付けさせて軌道を逸らし、あるいは暗黒の力で無理やり相殺させる。不完全な左腕も制御を捨てて暗黒の奔流を振り回し、剣で弾ききれない魔弾を無へと還していく。


「……無駄な足掻きを」


 グレイはその必死の防戦を興味深そうに眺めている。まるで自分の攻撃がどこまで通用するかを試しているかのようだ。

 マリアネはこのままではジリ貧だと悟る。彼女はあえて数発の魔弾を暗黒で受け止め、その力を無理やりねじ伏せると、グレイに向かって撃ち返した。


「お返ししますッ!」


 グレイの魔弾にマリアネの魔力が上乗せされ、異質な破壊の力となってグレイに迫る。だが、グレイは迫る魔弾をまるで埃でも払うかのように漆黒を纏った左手で掴み取った。凄まじい破壊の力がグレイの手の中で暴れ狂うが、その全てが掌の中の虚無に飲み込まれ、瞬く間に消失する。


「……まだ、その力は浅い。その程度では、我が虚無の糧にもならぬ」

 

 グレイが魔弾の密度をさらに上げる。マリアネの剣技が追いつかなくなり、数発の魔弾が彼女の肩や脇腹を掠める。『魔王武装』の軽装鎧がグレイの力に触れ、その部分が完全に消失していく。

 マリアネが魔弾の嵐を突破し、グレイの懐に再び飛び込もうとした瞬間、グレイはただ、剣を水平に薙いだ。ただそれだけで、マリアネの進路上に全ての存在を飲み込む漆黒の壁が形成される。


「がっ……!?」


 見えない壁に叩きつけられたかのような衝撃に、マリアネの動きが止まる。


「……この程度で!」


 だがマリアネは行く手を遮られようとも、即座に壁へと剣を突き立てる。壁そのものを内側から破壊しようと試みるが、漆黒の壁は彼女の力を際限なく飲み込んでいく。


「……無駄だと言ったはずだ」


 グレイが壁を流動させる。漆黒が生き物のようにマリアネの剣を、腕を、そして身体そのものを飲み込もうと這い上がってくる。


「くっ……!」


 マリアネは拘束される寸前、暗黒の全霊を剣先に集め、一点突破で爆発させた。凄まじい反動で壁から引き剥がされるように後方へ吹き飛ぶ。

 だが、グレイはすでにマリアネの着地点に先回りしていた。


「……なっ!?」

「遅すぎる」


 グレイの剣が、まるで空間を切り裂きながらマリアネの首筋に迫る。マリアネは咄嗟に自らの剣でそれを受け止めた。

 マリアネの暗黒の剣と、グレイの漆黒の剣。二つの相反する闇が激突し、互いの力を削り合い、相殺し合う。


「ぐっ……ぬぅぅぅっ!」


 拮抗しているように見えて、マリアネの剣は漆黒の力に徐々に飲み込まれ、その刀身が端から消失し始めていた。マリアネの消耗は限界に達し、純白だった髪はほとんどが元の紫色に戻り、不完全だった左腕の暗黒はもはや腕の形を保てず、黒い霧となって霧散しかけている。


「……終わりか」


 グレイが力を込めると、マリアネの剣が耐えきれずに砕け散った。


「浅いな、マリアネ。怒りと焦りで剣筋が鈍っている。それでは、私が直々に叩き込んだ剣技が泣くぞ?」

「黙りなさいッ!」


 マリアネは砕けた剣の柄を握りしめたまま、最後の一振りに賭けるように残る魔力の全てを右腕に集束させ、さらに不完全な左腕の暗黒の残滓を起死回生の一撃として拳に纏わりつかせた。

 もはや剣ではない。ただの拳。それをグレイの心臓目掛けて突き出した。

 だが、焦りがすべてを台無しにした。その一撃は、あまりにも真っ直ぐすぎた。


「──終わりだ」


 グレイの振るわれた手が、マリアネの拳を横から弾き飛ばす。がら空きになった胴体へ、グレイの容赦ない蹴りが突き刺さった。


 「がっ……!?」


 凄まじい衝撃に身体が悲鳴を上げ、残っていた純白の髪が完全に元の紫色に戻っていく。軽装防具が粒子となって砕け散り、マリアネは壁に叩きつけられ、そのまま力なく崩れ落ちた。


「……はぁ……っ、はぁ……」


 もはや立ち上がる力は残っていない。不完全だった左腕も完全に霧散している。

 マリアネの瞳に、完全な敗北を悟った絶望の色が浮かんだ。


「……やはり、出来損ないは出来損ないか。少しは楽しませてくれると思ったが」


 グレイは心底つまらなそうにため息をつくと、漆黒の剣を無造作に振り上げる。倒れ伏すマリアネに、慈悲もなにもない。ただ処理するための一撃を振り下ろそうとした。


「……あ……っ!」


 物陰に隠れているツルカが震える。


 ───駄目だ。マリアネが、死ぬ。


 ツルカの思考が凍りつく。金縛りにあったように体が動かない。恐怖が全身の神経を麻痺させている。

 だが、脳裏にあの時のマリアネの笑顔が蘇る。封印が解けた瞬間の、あの安堵したような涙が。


 ───いやだ。死なせたくない。僕が助けるって言ったんだ。


 頭の奥で、何かが焼き切れる音がした。恐怖の限界点。それはマリアネを失うことへの絶望のほうが上回ったのだ。

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