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「ひぇ~……キツイねぇ。今ので完全に力を使い果たした気分だよ」
ツルカは達成感に満ちた笑みを浮かべると、ぷつりと糸が切れた操り人形のようになだれ込む。
封印から解き放たれたマリアネの魔力が満ち潮のようにその身から溢れ、大気を震わせていた。解放された強大な魔力の残滓が、ピリピリと肌を刺す。
《使い果たした『気分』でしょう? ところが全然、マスターの魔力は底が見えてませんよ。ほら、さっさと立っててもらって》
「……ちょっとは休ませておくれよ……?」
ツルカは仰向けになりながら顔を上げて、マリアネの方を見る。マリアネはゆっくりとツルカに歩み寄り、そして手を差し伸べる。
「ほら、そんなところで寝転がっていては、汚れてしまいますよ? ツルカさん」
「親切にどうも……っと」
差し出されたマリアネの手は少しだけ冷たかった。ツルカはその手を握り返すと、先ほどまでの脱力感が嘘のようにふわりと立ち上がる。
「……実感が、ありません。この足で大地を踏みしめているということも、目の前にあなた様がいるということも。あまりにすべてが、夢物語のようで……」
「そ、そうだよね~。僕も頭がいっぱいだよ」
ついさっきまで封じられていたはずの魔王が目前にいる。その時点で、ツルカはとっくに思考を止めていた。自分で封印を解いたというのに。
「ツルカさんは……何者なのですか? あの膨大な魔力量、そして操作。ただの魔法使いだとは思えない。単純な評価だけで言えば、Sランクの実力です。冒険者とか……何かですか?」
「い、いやいや~! ぜーんぶ偶然、偶然だって! 僕はしがない旅人だからさっ!」
「そんなわけっ」
マリアネはこてんと首を傾げ、くすりと笑みを漏らした。
「……本当にありがとうございます。また、こうして地面を踏みしめる日が来るとは思ってもいなくて」
「いいさいいさ~。魔王が復活した……しかも僕によって! とかいう自慢話が増えたし」
「自慢は……できないんじゃないですか?」
得意げに胸を張るツルカを見て、マリアネは苦笑を続けていた。
「……さてと。これで君も自由ってわけさ。それならさ~」
ふとツルカはマリアネの横顔を見る。長い間、独りだった者の瞳。その目に、ほんの少しだけ自分を重ねてしまうのは、きっと気のせいではない。
「な、なんでしょうか?」
ツルカはいたずらっぽく笑うと、マリアネの横腹を肘で軽く突いた。そして、戸惑うマリアネの手を迷いなく両手で包み込む。
「君さえよければ僕と旅をしないかい? 僕と一緒についてきてよ!」
その時、マリアネの思考が止まった。
マリアネは瞬きすら忘れ、目の前で無邪気に笑う少女、ツルカを凝視する。魔王である自分に今、この子は何と言ったのか。
「……え、ええ!? 正気ですか? 魔王の私と行動を共にするなんて……」
「なんか、まずい……のか?」
《マスターの提案は、今後の活動における危険度を最低でも五倍以上増大させます。本気でおっしゃってますか、このバカアホお人好しは》
(言いすぎじゃないか!?)
ぶっ飛んだ発想に、アイナは呆れるばかりだ。
「問題なんてないさ。僕が君と旅をしたい。ただ、それだけだよ。君が魔王だとか、危険だとか、そんなことは僕にとってはもう、どうでもいいのさ。僕の心がそうしたいって言ってるんだ。他になにか理由が必要かい?」
堂々と語るツルカに、マリアネは顔をついつい綻ばせてしまう。
「あなたという方は……本当に、どこまでもお人好しなのですね。その誰にでも分け隔てなく手を差し伸べる優しさは、私が存じ上げたあの方を彷彿とさせます」
「う、うん? まあ、そう言ってくれるのは嬉しいなぁ」
「……ツルカさんが何も思わないのなら問題もありませんとも。私はあなたに助けられた身。このマリアネ。ツルカさんのお役に立てるよう尽力していこうと思います」
マリアネはツルカに忠誠を誓うかのように、深々と頭を垂れた。
「わわっ、そういうのはやめてって! 僕、そんな風にされるの、なんだかむず痒いんだ! もっと気楽にいこうよ! ね?」
「ふふっ。こんなにも可愛い女の子が、命の恩人だなんて」
「な、なんだよっ」
我が子を慈しむように、マリアネはツルカの頬をつまみ、頭を撫でる。だが、その手つきはどこかぎこちない。こんな温かい時間が永遠に続くはずがないと知っているからか。ツルカを映すその優しい瞳は、光を吸い込むだけの硝子玉のように何の熱も灯してはいなかった。
「や、やめろぉ! 恥ずかしいじゃないか。僕は子どもじゃないんだぞっ!」
《頭も体もクソガキでしょう》
(うるさいわっ!?)
「そんな見栄を張らなくても。私は感心しているんです。こんな子どもが一人で立派に生きていることに。魔界では弱肉強食の世界。強き者が弱き者を淘汰する……残酷な所……。私も生き抜くことが大変でしたから……」
「……そうだよね」
「命は一つだけ。ですが、私はあなたのためなら命をかけましょう。助けられたこの身を……あなたのために……」
空気が変わった。なにか不吉な予感に、ツルカは全身を強張らせた。
わずかに魔力の流れを感じる。だが、この魔力はマリアネのものでもツルカのものでもない。異質で禍々しく、全てを飲み干すかのような漆黒。
────次の瞬間。
「ワワワっ!?」
マリアネはツルカの襟を掴み、体ごと物陰に投げ出す。同時に、マリアネの眼前に漆黒の魔光が迫る。咄嗟に振るわれた腕がそれを弾いたが、反応が僅かに遅れていれば首が飛んでいただろう。魔光は軌道がずれ、マリアネの頬をかすって背後で爆散した。魔光が着弾した箇所は、空間ごとごっそりと抉り取られ消滅している。これが漆黒の魔力の性質なのか。
「……な、なんだ。いきなり」
《これは……マズイですね。マスター。決して顔を出さないように》
「え、ええ……?」
マリアネの穏やかだった表情から一切の感情が消える。激しい剣幕で周囲を警戒し、一時も油断を許さず身構えていた。
「────ッ!?」
マリアネが振り返れば、その目前には光をも欺く闇の竜巻が出現していた。竜巻は周りに散乱する調度品などを飲み込みながらさらに巨大化していく。やがて竜巻は異様に明滅を繰り返すと、激しい魔力が渦巻き始めた。
「暗黒術『キエダルナ』ッ!」
マリアネが魔法らしき術を唱えると、彼女の右腕が異質な魔力に包まれた。その術を見た瞬間、ツルカの脳裏に知らないはずの記憶の断片が閃光のように走った。懐かしい匂い、焦燥感。そして、胸を締め付けるような強い痛み。訳もわからぬ感情の渦に、ツルカは叫び出しそうになる。
「……ここまで私に粘着するなんて。あなたの考えは一体……!」
マリアネが呟いたその瞬間、竜巻は四方八方に魔光を放つ。先ほどの破壊的魔光が何十、何百と放たれ、マリアネは魔力に包まれた右腕で幾度も弾く。まるで大地が揺れ動くかのような絶大な爆破と轟音で見舞われ、ツルカは自身に結界を施して耐え抜く。
「くっ……捌ききれない……っ!」
魔光の量が多すぎる。マリアネ一人では防ぎきれない。
「─────うっ!?」
疲弊しきったマリアネの左腕を漆黒の魔光が掠める。爆発も貫通もしない。にもかかわらず、左腕の肘から先がまるで初めから存在しなかったかのように消滅した。
理解が追いつかず、声にならない叫びが喉に詰まる。ツルカの視界がぐにゃりと歪んだ。
しかし、マリアネは怯む事なく魔光を弾き続ける。やがて竜巻の勢いは収まっていき、魔光も同時に止んだ。
「────マリア──────」
《いけません!》
咄嗟に走り出そうとしたツルカをアイナは脳内で警告する。
「な、なんで……!」
《……行っては……いけません……っ》
失った左腕から溢れ出るおびただしい量の血が、マリアネの足元をみるみる濡らしていく。マリアネは浅く速い呼吸を必死に整えようと、喉の奥で喘いだ。
「……無様ですね……いつも私は……」
鮮血に染まりきった掌を見つめながら、マリアネは暗涙を流す。
「────如何なる手を使って貴様はあそこを脱出した……マリアネ」
「……………」
それはどこからともなく響くというより、頭の中に直接ねじ込まれるような声だった。全ての感情を削ぎ落とした無機質な男の声が、ツルカの鼓膜を嬲り、心臓を強く打つ。
次に竜巻が嘘のように消え去ったかと思うと、その中心に一人の大男が音もなく佇んでいた。戦いの熱を帯びた風が男の髪を揺らす。焦げ付いた土の匂いに混じって、男から放たれる死のような冷気がツルカの鼻をついた。
見た目は長身痩躯で、肩までかかる長髪は光を飲み込むかのように黒い。対し、その身にはそぐわない黒光りの重装を身につけ、胸当てにはマリアネと同じように奇妙な紋が丁寧に刻まれていた。外套が風で大きくなびく。まるでその風貌は彼自身が漆黒を体現しているかのようだった。黄昏の空を溶かし込んだような紫の瞳には、吸い込まれそうなほどの深い静寂を湛えており、ただ底なしの虚無と冷たさが広がっているだけだった。耳にはピアス、首には緻密に作られたロングネックレスをかけ、とてもではないがその存在感は他を超越している。
「……マリアネ。我が問いに答えよ。如何なる手を使って封印を解いた」
その声には、逆らうことを許さない絶対的な圧が込められていた。かつて主と仰いだ男の声。マリアネの体が反射的に強張り、喉がひりつく。
だが、彼女は震える唇を強く結び、顔を上げた。
「………答えるものですか。あなたなど……私の主ではない。ゆえに、私はあなたの配下でもなんでもない……っ! 私をどう使うか知りませんが、もうあなたの命令など金輪際従わない! この命が無くなろうとも、私はあなたに抗う! 大魔王グレイ……ッ!」




