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「ま、魔王様~。本日はお日柄も良く~……」
「明らかに態度が変わった……!? しかも全然お日柄も良くないですよ!?」
「う、うるさいぞ! そりゃいきなり魔王とか言われたらなにを言ったらいいか分からないじゃないか!」
ツルカは悲鳴にも似た声を上げ、魔王を前に後ずさった。ひんやりとした洞窟の空気が、脂汗のにじむ首筋を撫でる。彼女が『魔王』だと名乗った瞬間から、淀んでいた空気が一層重く、肌に纏わりつくように感じる。
そんな主人の情けない様子に、アイナは呆れたように小さくため息をついた。
《マスター、しっかりしてください。魔王といっても、今の彼女は力が衰弱しているんですから》
「いや、そうなんだろうけど……。魔王って聞くだけで、なんか体がすくむっていうか……」
ツルカは再び、おずおずと頭上を見上げる。
「こ、怖がらないでください……。私も喋りにくいですし……。もちろん、この存在自体は危険だと捉えるのが妥当ですが、私はむやみに力を使ったりはしませんから……!」
「……え、ま、魔王なのに?」
「はい……。だから………、こんな性格だから追放されて封印されちゃいました……」
ツルカは思わず首を傾げた。
魔の王というにはあまりに頼りなく、その佇まいからは禍々しい魔力はおろか敵意さえ感じられず、むしろ瞳の奥には何かに怯えるような色さえ浮かんでいる。どうやら封印された理由も、何か複雑な理由があるようだ。
「あなたは……この世界の人間ですよね。古来より、魔族は他種族との関わりを拒絶し、時に侵略を繰り返してきました。私利私欲のままに生き、相互扶助が基盤であるこの泰平の世を乱す……忌むべき、敵。あなたもそうお思いでしょう」
「は、はぁ……。確かにそんな記憶あるような……ないような……」
《詳細。約一万年前、古の時代。この世界──グランドシオルの創造主たる神が消失後、突如として現れた種族──魔族。人情もなく残酷な性質を持ち、長である大魔王は世界を手中に収めようとしています》
アイナによる魔族の定義は、簡潔にして明瞭だった。
────人情もなく、残酷で、世界の敵。
ところがツルカはその説明を素直に飲み込めずにいた。まるで、無理やり知識を上書きされているような強烈な違和感。ツルカの中には魔族に対するもう一つのイメージが確かにあったのだ。だが、記憶が曖昧なせいでどうしてもその確信が湧かない。
「えっと……。でも、そんな昔の話をされてもなぁ。でもさ、君からは敵意を感じないし……魔族って悪いやつなのかな?」
ツルカの言葉に、マリアネは寂しげに微笑んだ。
「……そう、ですよね。無理もありません。こんな私でも、魔王ですから……」
ふたりの間に、気まずい沈黙が落ちる。。居心地の悪い空気に耐えきれず、ツルカはなんとか会話を繋ごうと口を開いた。
「ところで、その……大魔王って、今もいるの?」
マリアネの表情が、一瞬だけ凍り付いた。
「……本気で、おっしゃっているのですか? 大魔王の名を知らぬ者など、この世界のどこを探しても……」
「ごめん、どうも記憶が曖昧でね。もしかして、知らないとまずいくらいの常識だったりする?」
マリアネの瞳が驚きに大きく見開かれた。彼女にとって、大魔王の名を知らない人間は、想像もできなかったのだろう。
「……ええ。数多いる魔王の頂点に立つ者……それが、大魔王です。大魔王となった者は代々、魔界と、あまつさえ世界をも手中に収めようとしています。その目的は……誰にも分かりません」
彼女の言葉に、ツルカは頭を抱える。
「えー……。なんでだ? 大魔王は世界の頂点に君臨したいわけではないってこと? 別に支配が目的ではないのかな……?」
真剣に考えるツルカに、マリアネはくすりと笑った。
「ふふ、ごめんなさい。つい、昔の話をしてしまいました」
張り詰めていた場の空気をふわりと揺らすように、マリアネの視線がツルカの頭上に注がれた。そこでは、ツルカの感情と連動するかのように一本のアホ毛がぴょこんと跳ねている。深刻な話の最中だというのに、そのどこか暢気な動きに、マリアネの唇が思わず小さく綻んだ。
「……? 僕の髪の毛になんか付いてる?」
「いいえ。ピンと髪の毛が立ってて、とても可愛らしいな、と……」
「いきなり変なこと言わないでよ!」
《ほらほら、アホ毛が立っててまさにアホみたいだって言われてますよ》
(……おまえ……! ころすっ!)
ツルカは内心で毒づきながらも、熱くなる頬を隠すように一つ咳払いをした。脳内ではアイナの嘲笑が響くばかり。
「じゃあさ! その……大魔王は今、どこにいるの?」
ツルカの言葉に、マリアネは再び真剣な表情に戻る。
「魔界にいるはずです……。いつかこの世界の全てを支配するべく、力を蓄えているのか……。それとも……」
「それとも……?」
マリアネはしばらく黙り込んだ後、意を決したかのように口を開いた。
「断罪を受けてもなお、改心しない私を殺して力を奪いに来るか……でしょう」
「……殺しに?」
マリアネの言葉は、ずしりと重くその場に響いた。
「はい……。力も求めず、他者を支配することも望まない。そんな私は、大魔王にとって……いえ、魔族という種族にとって、許されざる異端なのです」
マリアネは自嘲するように、か細い声で続ける。
「私は争い事が好きではありません……。私はこの力を人々を助けるために使いたい。ですが魔族として生まれてしまった以上、そんな願いは叶えられません」
「そんな……」
「魔族は他種族との関わりを一切許さない。私はこっそり人間と関わりを持ってしまっていて……。それがある日、バレてしまい……」
「あー……今に至るってわけかい。掟を破ってしまったから、大魔王によって断罪を受けたってことか……」
ツルカはマリアネの瞳に宿る深い悲しみの意味をようやく理解できた気がした。
「……後悔は、ありません。ほんのわずかな時間でしたけれど、私は心を通わせる喜びを知りましたから。魔王としてではなく……ただのマリアネとして」
彼女はそう言って、万感の想いを込めるようにふっと微笑んだ。それは諦めと誇りが入り混じったような、どんな悲痛な表情よりもツルカの胸を締め付ける笑みだった。
「そこまでして……君が関わった人たちって、どんな人だったんだ?」
マリアネは懐かしむように目を細める。
「……とても、優しい方々でした。最初は恐ろしかった……私が魔王だと知られたら、すべてが終わってしまうと。でも、一人だけ……あの方は違ったのです。私の正体を知ってもなお、変わらずにその手を差し伸べてくれました。……私に、世界の広さと温かさを教えてくれた、英雄のような人でした」
その言葉は、まるで宝物のように大切に、彼女の口から紡がれる。
《マスター、感傷に浸っている場合ではありません。彼女の過去がどうであれ、我々が今ここにいるのは危険。大魔王が干渉しているとなると、話が変わってきます》
脳内に響くアイナの冷静な声。だが、ツルカはアイナの警告に動じなかった。ただ、目の前で儚げに微笑む魔王をじっと見つめ、そして、静かに決意する。
《お待ちください、マスター? な、なんという無謀な……! ちょ、聞こえていますか!?》
脳内に響くアイナの悲鳴にも似た制止の声は、全くツルカには届いていなかった。ツルカの瞳は、ただ真っ直ぐにマリアネだけを捉えている。その奥に宿るのは、揺るぎない決意の光だった。
「ねえ、マリアネさん」
「……はい?」
「正直、僕には記憶がない。自分が何者で、何をすべきだったのか、何一つ思い出せない。空っぽなんだ」
ツルカは自嘲するように笑い、ぐしゃりと髪を掻きむしった。その瞳には、行き場のない苛立ちと不安が渦巻いている。
「でもさっ。そんな空っぽの僕でも、今、やらなきゃいけないことだけは分かる。目の前で君がそんな顔をしてるのに、見過ごすなんて選択肢は、僕の中にはない。それが今の、僕の全てさ」
その真っ直ぐな言葉に、マリアネは息を呑んだ。
「誰が君をこんな場所に縛り付けているかなんて関係ない。君が話してくれた人たちのように、君が心から笑える場所を今度は僕が作ってみせる。……だから教えてくれよ。どうすれば、君を縛るその忌々しい鎖を断ち切れる?」




