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全てはミライの笑顔のために  作者: アベル
ギルド 編

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23/24

1

 闇の渦に足を踏み入れた瞬間、視界が真っ黒になる。

 浮遊感も、圧迫感もない。ただ純粋な『無』を通過していく。次の瞬間、足が柔らかな土を踏みしめる感覚と共に、視界が戻った。


「……ん……」


 一瞬の転移だった。だが、目の前に広がっていたのは、やはり岩盤が迫る洞窟の暗がりだった。転移は失敗したのかと一瞬、心が凍りつく。


「……また、洞窟……?」


 だが、何かが決定的に違った。

 あの地下大空洞を支配していた息苦しいほどの魔力の淀みと、絶対的な闇がない。代わりに、どこからか絶え間なく清浄な空気が流れ込んできている。


「……あ……」


 顔を上げると洞窟の天井、その遥か頭上の裂け目から、眩しい光が幾筋も、まるで天からの梯子のように差し込んでいるのが見えた。

 光は洞窟内の湿気と塵を照らし出し、幻想的な光芒を描いている。

 あの深淵で見た、絶望的なまでに遠い光ではない。暖かく、力強い地上の光だった。


《……転移の成功を確認。……マスター、ご無事ですか》


 アイナの声が頭に響く。その声色には、安堵の響きが混じっていた。


「……うん。なんとか……。ここは……本当に地上なの?」

《間違いありません。大気組成、重力値、魔力安定度……全てがグランドシオルの地表データと一致します。あのゲートは……マリアネの推測通り、地上への最後の活路でした》

「そっか……」


 体内の『光』と『闇』は嵐が過ぎ去った後のように、今は不気味なほど静かに沈黙している。だが、二つの相反する力が自らの内に同居しているという違和感が、常につきまとっていた。


「……出口は、あの光の方角かな」


 ツルカは光が差し込む方向へと、壁伝いに歩き出した。

 道は緩やかな上り坂になっており、進むにつれて外気の匂いが強くなっていく。鳥のさえずりさえ聞こえてくる。

 やがて洞窟の出口と思わしき場所が、緑色の光に縁取られて見えてきた。

 ツルカは眩しさに目を細めながら、最後の一歩を踏み出す。


「…………わっ……」


 思わず声が漏れた。目の前に広がっていたのは、まさに圧倒的な生命の世界だった。

 どこまでも続く広大な森。天を突くかのような巨木が鬱蒼と茂り、その幹には見たこともない色鮮やかなキノコや蔦が絡みついている。足元には背の高い羊歯植物が群生し、合間を縫って宝石のような色の花々が咲き誇っていた。

 空はツルカが知るどんな青よりも深く、澄み渡っている。


「……すごい……」


 ツルカは大きく息を吸い込んだ。

 濃密な緑の匂いと、甘い花の香り。地下では決して味わえなかった、生命力に満ちた空気が肺を満たしていく。

 あの絶望的な暗闇と、死の気配に満ちた地下大空洞。そして、マリアネの冷たくなった肌の感触。それら全てが、この眩い光景の前ではまるで悪夢だったかのように現実感を失っていく。


「……マリアネ。僕は……地上に、出られたよ」


 彼女がもう一度見たかったであろう光景を今、自分が見ている。その事実が、ツルカの胸を再び締め付けた。


《マスター。現在地の特定が完了しました》


 感傷に浸るツルカをアイナの冷静な声が現実へと引き戻す。


《ここは世界の東北部に位置する……『ノリマルンナ地方』です》

「ノリマルンナ……?」


 流石に記憶のないツルカにとっては、聞いたことのない地名だった。


《この一帯は、獣族の大国──ガリロルザの領内、その南端に位置する大森林地帯です。ガリロルザは獣人が統治する国ですが、彼らは非常に開明的で、人間や鳥族、ドワーフなど、多くの種族の入植も積極的に受け入れ、友好的な関係を築いています。この森の中にも、いくつかの村や町が点在しているはずです》


「獣族の国……。グランドシオルってやっぱり、魔王軍の侵攻とかあるの……?」


 最も懸念すべきことをツルカは尋ねた。


《……そうですね。このノリマルンナ地方も、世界の辺縁ではありますが、魔王軍による散発的な被害が報告されています。小規模な偵察部隊や、はぐれた魔物の目撃情報が国、ギルドに寄せられているとのデータがあります。この森も決して安全とは……》

「……そうだよね……。とにかく、僕は何か情報を集めないといけないと。それに、この身体も……。マリアネがくれたこの自由を世界のために……!」


 ツルカは自らの手を見つめる。マリアネが望んだ平和な世界。これは、いつしかツルカか自身が実現させたいと感じたのだ。


《大きな目標ですね。でもそういった決断をしてきたのがマスター。アイナは止めません。世界を知りながら、マスターが思う世界を描いていけたらと思います》

「……ありがと」

《ですが、考えっぱなしの日々は体に酷です。楽しむことも大事ですよ》

「もちろんさっ。ひとまずお腹減ったな……なんか町とか見つけたら、そこに行きたいんだけど~……まず、たらふく飯を食うことからだね!」


 アイナの言う通り村や町を探し、体勢を立て直すのが先決だった。

 ツルカは差し込む木漏れ日を頼りに、森の中をゆっくりと歩き始めた。柔らかな腐葉土が足音を吸い込み、周囲は鳥の声と風の音だけが響く、穏やかな静寂に包まれている。あまりにも平和な光景。

 数時間前まで、あの絶望的な死闘を繰り広げていたとは信じられない。ツルカは歩きながら、自らの内側に意識を集中させた。


(マリアネから託された、この力……。さっきは暴走したけど……今は……)


 それはツルカの魂の深い場所に冷たく、重く沈殿している感覚だった。マリアネの無念や悲しみ、その全てを凝縮したかのような底知れない暗黒。

 そして、それとは対照的に胸の中心にはあのグレイと対峙した時に目覚めた、温かく脈動する『光』がある。

 この光が、闇の暴走を無意識のうちに抑え込んでいる。アイナはそう分析していた。


「……アイナ。この力、僕は制御できるのかな?」

《……正直に申し上げて、極めて困難です。マスターの『光』の力もまた、マスター自身の意志で制御できているものではありません。二つの強大な力が、マスターという器の中で偶然、均衡を保っているに過ぎない。下手にどちらかを刺激すれば、即座にバランスは崩壊してマスターの精神と肉体は……》

「……え、僕、死んじゃう?」

《……反応が軽いですね。まあ、可能性はあります。今は、どちらの力にも頼らず、安静にすることが最優先ですね》

「そっか……」


 歯がゆさに、ツルカは拳を握りしめた。

 グレイへの怒り。マリアネを守れなかった無力感。

 必ず強くならなければならない。あの化け物をいつしか倒すために。だというのに、手に入れた力はあまりにも危険すぎる。

 そんな葛藤を抱えながら、どれくらい歩いただろうか。森の木々が少し開け、小川のせせらぎが聞こえる場所に出た。


「わお、綺麗な水だ。もう洞窟の汚水はこりごりだよ……。この水なら飲めそうだね~」

《分かりませんよ? もしかしたら毒が入ってるかも》

「その時は僕の体内に入った毒を分解してね! 信じてるよん!」

《……一回、毒に当たったらどうですか?》

「薄情だな!」


 少しずついつもの元気なツルカに戻っていく。アイナはその様子を見て安心していた。主が元気で生きているということ、それはアイナが一番に求めることだ。

 ここで少し休もうかと、ツルカは川のそばでしゃがみ込んだその瞬間。


(────ッ!?)


 本能的な悪寒が、ツルカの背筋を駆け上がった。思考よりも早く、アイナの絶叫が脳内に響く。


《マスター、伏せてッ!!》


 ツルカは即座に地面を転がるようにしてその場から飛び退いた、直後。先ほどまでツルカがいた場所の空間が、あり得ない形で抉り取られた。


「えぇ!?」


 ツルカは目を見開いた。

 爆発ではない。切断でも、凍結でも、焼失でもない。地面が空間ごと直径一メートルほど、半球状にすくい取られたかのように忽然と消滅していたのだ。

 切断面は滑らかで、熱も冷気も帯びていない。ただ、無と化した空間がそこにあった。


「……今の……魔法か!?」

《いいえ……魔法の詠唱反応、魔力流動、一切ありません。……あの現象は……!》


 ツルカは冷や汗を流しながら、攻撃が来た森の奥深くを睨みつけた。木々の影が不気味に揺れている。


《………あれは……っ!》


 ツルカは咄嗟に身構える。だが、現れたのは魔物でも、屈強な戦士でもなかった。


「…………」

「な、なんだ……?」


 茂みをかき分け、ゆっくりと姿を見せたのは、一人の少女だった。

 ツルカと年齢はほとんど変わらないか、あるいは少し年上にも見える、小柄な体躯。月光を編み込んだかのような淡い銀色の髪が、長く背中まで流れ落ち、木漏れ日を浴びてきらきらと輝いている。その頭上には、まるで飾り物のように精巧な、瑠璃色の蝶の翅のような飾りが二つ、左右対称に、しかし奇妙な角度で生えている。

 白い肌は陶磁器のように滑らかで、一切の血色を感じさせない。大きな瞳は琥珀のような橙色だが、光を反射しない硝子玉のように虚ろで、まるで魂が宿っていないかのように感情が一切読み取れない。その口元は固く結ばれ、表情筋が一切動いていないかのような、完全な無表情を保っていた。

 身につけているのは、軍服を思わせるようなデザインの衣装だ。上着は純白と漆黒を基調としたジャケットで、金色の飾緒やエンブレムが随所に施され、格式張った印象を与える。フリルが何層にも重なったスカート。しかし、そのスカートの左側は途中で切り取られたかのように短く、露出した左足には黒いタイツとブーツを着用している。

 全体のバランスは左右非対称で、優雅さと同時にどこか不自然さを感じさせる。森の妖精と見紛うような儚げな美しさがありながら、その出で立ちと雰囲気が生命のない精巧な人形を思わせた。

 だがツルカはその姿に、先ほどのグレイと対峙した時とはまったく異なる種類の底知れない恐怖を感じた。彼女には、感情が一切なかった。驚きも、怒りも、もちろん慈悲もない。ただ、そこにある物をただ見るかのように、その虚ろな瞳でツルカを捉えている。


「……アイナ、あれは……?」

《……ッ!》


 アイナの激しい動揺がツルカに伝わる。

 少女はツルカを睨めつけるように、その虚ろな瞳でじっと観測している。先ほど空間を抉った技を使うわけでもなく、ただそこに立っている。

 するとその無表情な顔で、不可解そうに小さく首を傾げた。


「…………。……何も感じない。……おかしい」


 その無機質な呟きは、ツルカの耳にも届いた。


「……対象の生体反応は確認していた。……ですが、追跡していたシステムの反応がここでロスト。……ナゼ……」


 少女はツルカから視線を逸らさないまま、まるで独り言のように続ける。

 その言葉の意味をツルカは理解できなかった。


(アイナさん? あの子は何を仰っているのです? あれ、アイナさん!?)


 ツルカが内心で問うが、アイナの気配が急速に遠のいていく。


「あなた」


 少女が、初めてツルカに向かって明確に話しかけた。


「……あなたに聞きます。他に、誰かいませんか」

「……な、何のことだよ! 君こそ! いきなり攻撃してきて、何を言って……」

「質問に答えなさい」


 少女の言葉が、有無を言わさぬ圧力でツルカの言葉を遮る。その虚ろな瞳が、初めて苛立ちにも似た光を宿したように見えた。


「私は『彼女』の気配を追ってここまで来ました。ですが、あなたからは正体不明の熱と冷気しか感じられない。……彼女はどこです。確実にここに反応があった」

「だから、知らないと言っているだろ! 彼女って誰のことだよ!」


 ツルカが叫び返すと、少女は再び沈黙した。その琥珀色の瞳が、ツルカを頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするように往復する。


「……あなたから感じる、正体不明の奇妙な熱は?」

「……ッ!」

「……この世のものとは思えないほどのその不快な冷気は何?」

「……君に答える義理はないでしょ!」


 ツルカが敵意を剥き出しにして睨み返す。

 数秒間の、張り詰めた沈黙。やがて、少女は小さくため息を吐いた。


「……不可解です。探知した反応は間違いなくここだったのに……。……私の感知が異常をきたしている……? いいえ、それとも、あなたがその不可解な気配で反応を撹乱しているのか……」


 少女は、ツルカへの興味を失ったかのように、ふいと視線を逸らした。攻撃する意志はもうないようだった。


「……私の最優先事項は彼女の確保。……あなたなどに関わる意味はありません」


 少女はツルカに背を向け、森の奥へと歩き出そうとする。


「待て!」


 ツルカが思わず呼び止める。


「お前は、一体何なんだ! 魔王軍の仲間か!?」

「魔王軍……?」


 少女は足を止め、初めて怪訝そうな表情を見せた。


「……魔王。それは任務に該当しません。私は、ただ私の任務を遂行するだけです」

「任務……?」

「……迅速にマスターへ報告しなければ。いずれ必ず見つけてみせる……総司令塔……。あれがなくてはマスターの研究に大きく響く」


 少女はそれだけ言うと、今度こそ振り返らなかった。その姿は森の木々の中へと音もなく溶け込み、まるで最初から何もいなかったかのように颯爽と消え去っていた。


「……行っちゃった…」


 ツルカはその場に立ち尽くす。

 嵐のような邂逅だった。するとアイナの気配が、ゆっくりと意識の表面に戻ってくる。


「……あ、アイナ! どうしたんだい?」

《あ、いえ、ちょっと眠たくなっちゃいまして》

「君がとぼける時って何かあるよね?」

《……うるさいですね。私だって眠くなる時あるんですよ、ええ》

「え、もしかして僕って逆ギレされてる?」

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