11(8)
寂寥とした朧月夜。
魔界に点在するゲートを通じてグランドシオルへまたしても転移したマリアネは、一人静かに人間のグランディール国付近で彷徨していた。
吹き荒れる夜風が、草木の葉を潮騒のようにかき鳴らす。
「……はぁ」
マリアネの胸を占めるのは、今更な後悔だった。先ほどドマンナの手を勢いよく振り落として逃げてしまったことだ。
あの時のドマンナの表情が脳裏に焼き付いている。心から心配してくれていたのに、自分はそれを振り払ってしまった。あれほど睦まじかったはずのドマンナとの間に、修復できない軋轢を生んでしまった。その事実が、まるで薄荷を噛み砕いたように、冷たい後味となってマリアネの胸に残る。
「もう……二度と顔を合わせられないな……」
慚愧の念に苛まれるが、過ぎた時間は戻らない。当てもなく歩くマリアネの足取りは重かった。
そこでマリアネは、ある一本の樹木に目を止める。その一本だけ、周囲の草が踏みしだかれている。以前、自分が座り込んでいた場所だった。
同じ場所にまた座りたくなる理由など分からない。だが、何かに引き寄せられるかのように、マリアネの足は無意識にその木の下へと向かう。
しばらくうずくまっていると、夜風が容赦なくその身を打つ。孤独そのものが形を持ったかのように冷たい。実際には、この時期の夜風はまだ生温い。
「なのに、どうしてこんなに冷たいの……。ううっ……」
抑えきれない雫が垂れ落ちた。
痛い。辛い。すべてが重い。価値とは、生きる意味は、これ以上の存在は……何の意味もないのでは。
自分とは違う何かが、マリアネを飲もうとしている。
生きることを……拒んでいた。
「もう……ここで……」
マリアネは震える拳に、あえて魔力を集中させる。
パッと手を開くと、自らの命を消し去るには十分すぎるほどの、高密度の魔力弾が淡く光を発した。
「これならば、周囲を巻き込むことなく……」
マリアネは自決の意を抱いたのだ。
周りに被害が出ないように、彼女なりの『最小限』の威力で魔力を集中させた。
「ごめんなさい、みんな……っ」
己の心臓めがけて魔力弾を構え、マリアネは固く目を閉じた。
覚悟を決め、魔力を解放しようとした──その瞬間。
「ッ⁉」
突如、手首を荒々しく掴まれた。抵抗する間もなく体ごと引き寄せられ、圧縮されていた魔力は制御を失う。魔力弾はあらぬ方向へと暴発し、夜空高く、虚しく消え去った。
「な……っ」
目の前に立っていたのは、『不朽の栄光』のリーダー、勇者その人だった。
勇者の顔を見て、マリアネは息を呑んだ。表情は氷のように冷たく研ぎ澄まされているのに、瞳の奥だけが灼熱の憤怒に燃えている。獣すら怯ませるほどの威圧。その矛盾した熱と冷気が、彼の激情を雄弁に物語っていた。
「……いいか。世の中なんてのは、上手くいかないことだらけだ。必ず自分の考えと対立するもの……障壁がある」
「………」
マリアネは感情の抜け落ちた人形のような表情で、ただ勇者の言葉を聞き流す。
「それでも……誰もがそれを乗り越えようと必死なんだ。弱いやつは強いやつに淘汰される。だから必死に逃げる。俺は、逃げたっていいと思う」
「……結局、何が言いたいのです? あなたは……」
マリアネはふてくされたように、半ば自棄になって問い返す。もう何もかもどうでもいいと、力の抜けた笑みを浮かべ、虚ろな目で月を見上げた。
その態度に、勇者の眉間に激しい怒りのシワが刻まれた。掴んだ手首を乱暴に引き寄せ、互いの顔が至近距離でぶつかる。その強烈な視線に耐えられず、マリアネは目を伏せた。
「だが、お前の『逃げる』は違う! お前は『課題』から逃げてるんじゃない。自分から、仲間から……お前に関わってきたすべてから逃げてるだけだ!」
「ッ……」
「……期待に応えられないのは辛い。そりゃ分かる。だが、お前が今しようとした事が、誰かに望まれた事か?」
「………」
畳みかける言葉に、マリアネは反論の余裕もない。動揺で体が震えだす。空いた片手は白くなるほど強く握りしめられ、傍らの雑草を無意味に毟る。
「期待に応えられないならそれでいい。無理なら諦めろ。だがな、仲間たちに真相も告げず、自分ひとりで幕引きなんて……そんなのは、ただの独り善がりだ! 残された仲間がどれだけ傷つくか……考えたのかッ!」
「うっ……あっ……」
「たとえお前を嫌っていたとしても、それでもあいつらは、お前を一人の仲間として見てるはずだ! 軽率な判断で……後のことさえ考えずに……ふざけた真似をするなッ!」
その言葉に、マリアネは弾かれたように勇者の目を直視した。
怒っている。それは分かった。自分の愚かな行いをただ立腹しているだけだと思っていた。
──だが、違った。その瞳は確かに激しい怒りに燃えている。それなのに、不思議と怖くなかった。怒りの奥にあるのは、失望でも軽蔑でもない。彼女の愚かさも弱さも、すべてを受け止めた上で叱責する、不器用な優しさだった。諦めようとしたマリアネに、彼は手を差し伸べてくれていたのだ。
嗚咽がこみ上げる。声を必死に殺しながらも、彼の言葉をすぐには信じられなかった。あまりにも、自分には過ぎた言葉だったからだ。
「……おかしすぎます。どうして、こんな私にそんな目を……。そんな資格、とうに無くしたというのに。なぜ、あなたが……そんな目で私を……」
「俺は、お前の味方だからだ」
「うぅ………っ」
その時、マリアネはやっと自覚した。
なぜ、ここに来たのか。なぜ、一週間前と全く同じ場所に座ったのか。
──ああ、そうか。私は、この人に会いたかったんだ。今抱えている苦しみを、またこの人に聞いてほしかったんだ。もしかしたら会えるかもしれないと、心のどこかで期待していたんだ。
彼の言葉が、黒く染まった心に光を灯してくれた。
マリアネはその場に崩れ落ちて涙を流す。勇者は掴んでいた手を放し、戸惑いながらもそっと背中をさすった。
(結局、私は……この人に甘えたかっただけなんだ。大丈夫だと、言ってほしかっただけなんだ)
その後、マリアネが抱く魔王城での苦悩を勇者は黙って最後まで聞いた。すべてを聞き終えた勇者は一息吐くと、こう言った。
「ふーん。だが、それも結局はお前が決めたことだ。自己責任だろ」
「……っ。そう……ですよね……」
突き放すような言葉に、マリアネは小さく息を呑んだ。
叱責の後だから、少しは優しい言葉をかけてくれるかと期待していた。だが、やはり自分に非があるのだ。
「やっぱり、勇者様も……私の責任だと……」
「ああ。自分で決めた道だろ。なら、貫き通せ」
やはり、慰めの言葉はなかった。彼は、冷たい時にはとことん冷たい。自決しようとした愚か者だ。同情の余地もないのだろう。自分がこの人に甘えすぎていただけだ。これが普通の対応なのだ。
だが勇者は、すっかり俯いてしまったマリアネの辛そうな顔をじっと見つめ、やがて居心地悪そうにガシガシと頭をかいた。
「ったく……。何か吐き出したいことがあるなら、またここに来い。俺が通りかかったら、いつでも話くらい聞いてやる。それで少しでもお前の気が紛れるならな」
「……え?」
突き放されたと思った直後の言葉に、マリアネは思わず顔を上げた。
「当たり前だろ。こんな時間に一人でうずくまってたら、誰だって心配になる。もし俺が今夜、見回りしてなかったら……お前は……」
どうやら勇者は、この辺りを夜の見回り中、偶然マリアネを見つけたらしい。
「俺は……さっきしようとしたこと、許さないからな」
勇者は、吐き捨てるように言った。その視線は、まだ怒りの熱を帯びている。
だが、手遅れになる前に止めてくれたことが、何よりも嬉しかった。さっきまでの絶望が嘘のように、自然と顔がほころぶ。
(本当に、私は……ちょろい。だから、今まで利用されてきた。そして今も……こうして、また)
叱られたかと思えば突き放され、その直後に優しさを見せられる。その一つ一つに、心が振り回される。
「勇者さんって……時々すごく冷たいですけど、本当は優しいんですね」
「おいおい。ロクに関わりもねえのに、俺の性格を決めつけんな。もしかしたら裏で悪事の限りを尽くしてるかもだぞ?」
「ふふっ。そんなことありません。あなたの顔を見れば分かります。あなたは、人のために戦える人です」
「そ、そうかよ」
ぶっきらぼうにそっぽを向く勇者を見て、マリアネは笑みをこぼした。
この時間が、ずっと続けばいいのにと心から願う。
「……あの、勇者さんは、こんな私をどう思いますか? やっぱり『魔王のくせに泣き虫で、使えない』とか……思いますか」
深い理由はない。ただ、彼が自分をどう思っているのかが、知りたかった。返答に窮するだろうと思っていたが、勇者は間髪入れずに答えた。
「頼りなくて、放っておけない、泣き虫の妹……みたいなやつだ。まった、使えねえよ。お前は」
あまりの間髪入れぬ返答に、マリアネは一瞬言葉を失った。辛辣な内容のはずなのに、おかしなことに胸の奥から温かいものが込み上げてくる。
「ふふっ……なんだか、安心しました」
「はあ? 何言ってやがる。俺は今、結構ひどいこと言ったぞ」
「さあ、なんででしょうね」
「……ホント、分かんねえ奴だな」
久しぶりに、マリアネは心からの笑顔を取り戻していた。
「さて。俺はもう行くぞ。時間も遅い。……お前は、どうするんだ。まさか、ここで野宿でもする気か?」
もちろん、そのつもりでマリアネは城を出てきた。今更、魔王城に帰る場所などない。マリアネは勇者にこくりと頷く。
「ほ、本気か? 風邪引くぞ」
「勇者様。私はこれでも魔王です。その辺の人間より頑丈ですよ。野宿くらい平気です」
マリアネは精一杯の笑顔を勇者に向ける。だが、勇者は納得できないような顔から一切変わらない。
「……何か必要なものはないか。さすがに国に連れて行くわけにはいかないけど、毛布くらいなら持ってこれるぞ」
「そんな、ご心配なく」
「別にお前のためじゃない。俺が、見て見ぬふりできないだけだ」
どこまでお人好しなのだろうと、申し訳ない気持ちで胸が一杯になる。返事に迷っていると、勇者がため息をついて上着のボタンを解き始める。
「……まあ、とりあえず」
勇者は自分が羽織っていた上着を脱ぐと、無造作にマリアネの頭に投げ渡した。
「こ、これは……」
「毛布代わりだ。お前のその服、夜は冷えるだろ。それ使え」
「そ、そんな……でも……」
「いいから使え。じゃあな」
勇者はマリアネの反論を許さぬまま一方的にそう告げると、振り返ることなくグランディール国の方へ走り去っていった。嵐のような男だった。
マリアネは、残された上着をぎゅっと胸に抱きしめる。彼が消えていった闇を見つめるその目元は、知らず知らずのうちに和んでいた。
「……暖かい」
まだ彼の体温が残っている。マリアネは思わず小さな笑みがこぼれた。
「冷たくて、厳しくて……でも、誰よりお節介で、優しい人。……嫌いじゃ、ない。……ううん。むしろ……」
マリアネは朧月を見上げる。上着の暖かさが、まるで彼の心の温もりのように感じられる。深い安心感が、凍えていた心を包み込んでいく。そのせいか、張り詰めていた緊張が解け、急激に眠気が押し寄せてきた。
マリアネは彼の上着に顔をうずめるようにして、ゆっくりと目を閉じた。朧月の淡い光が照らす中、彼女は久しぶりに温かい眠りについた。




