11(7)
「やばいよ。だってもう時間ないよ、折り返しだもん! あと一週間! ドマンナもすごく心配してたし」
「………」
ガインナーの無邪気な言葉が、棘のようにマリアネの胸に突き刺さる。マリアネは罪悪感でこわばる表情を必死で無感動の仮面の下に押し隠す。シバニーとガインナーに何かを返そうと口を開きかけたが、喉が張り付いたように声が出ない。
あのバリオンまでもが口出しを控えている。皆が『魔界王第二位』としての自分を信じ、手を差し伸べてくれている。その全幅の信頼を自分は今、足蹴にしているのだ。
任務の不履行。そして、禁忌である人間への加担。
この事実を知られたが最後、許される道など万に一つもない。裏切り者として断罪されるだけだ。
「お前は『魔界王第二位』だ。大魔王の右腕たるその地位は……我ら四神魔界王すら渇望してきた。……そのお前が、何故任務を遂行しない? ドマンナの厚意すら無にするつもりか」
「それは、何度も────」
「ああ、分かっている。分かっていて聞いている。お前のその煮え切らない性根は、反吐が出るほど知っている。だが、ドマンナはそんなお前に手を貸してくれているんだ。そろそろ覚悟を決めたらどうだ」
シバニーはマリアネの良心を容赦なく抉る苦言を残し、布を翻して背を向けた。その歩みは穏やかで、足音ひとつ立てない。だというのに、まるで一陣の風が吹き抜けるかのように、あっという間に姿は遠ざかっていく。掴みどころのない、彼らしい去り際だった。
「ちょっ、シバニー! そんなキツく言わなくたって! ドマンナも責めないでって言ってたのに……あ、待ってよ、地味に歩くの速いんだから!」
「……………」
マリアネの顔は、光の届かない深淵のように暗く、重い罪悪感に沈んでいた。
その絶望を貼り付けたような横顔にガインナーは戸惑い、かけるべき言葉を失う。それでも、彼女は衝動的にマリアネの手を両手で包み込んだ。必死に笑顔を作る。
「マリアネ、大丈夫。シバニーはね、期待してるから……だから、キツく言っちゃうだけだと思う」
違う。違うのだ。
任務が難航しているから落ち込んでいるのではない。
この裏切りを知らぬまま、仲間たちが純粋な善意を向けてくれること。その温かい信頼を自分が今まさに踏みにじっているという事実。彼らの優しさが、応援の言葉が、今は何よりも重く、痛い。こんな自分に、心配される価値などないというのに。
「私、応援してるから……。がんばって」
ガインナーはそう小声で呟くと、シバニーを追って慌ただしく走り去っていった。
これ以上マリアネはみんなに見せる顔がない。ここまで自分を支えてくれるなんて、マリアネ自身も思っていなかったのだ。
一体自分は何をしているのだろう。一体、何のために……生きているのだろう。
彼女が導き出した唯一の答えは、逃亡だった。
これ以上、仲間たちの信頼を裏切り続けるこの腐った面を見せるわけにはいかない。森にでも隠れ、最期の日まで誰とも顔を合わせず時を過ごそう。そして期限が来れば帰還し、裁きを受ける。
もう、それでいい。
城に戻ったマリアネは、その足で再び城から出ようとした。
(一週間、森でやり過ごそう……)
逃避の計画を固めた、その時だった。
「どこへ行くの」
「………ッ」
城の出口へと向かう廊下の先から、ドマンナが歩いてきた。最悪のタイミングで出くわしてしまった。
そこにいたのは、いつもの腑抜けた顔のドマンナではなかった。ボサボサだった髪は整えられ、魔王としての正装を隙なく纏っている。マリアネの知る気の抜けた友人の姿ではなく、研ぎ澄まされた魔王ドマンナ本来の姿がそこにあった。
「こんな時間にどこへ行くの」
「……………」
「ねえ、聞いてるの!」
沈黙を続けるマリアネに、ドマンナは焦れたように声を張り上げる。それでも答えが返らないことに業を煮やし、ドマンナはマリアネの手首を掴んだ。
「────ッ!」
「え……⁉」
獣が罠にもがくように、マリアネは激しくドマンナの手を振り払った。それは彼女がこれまで見せたことのない、明確な拒絶だった。
ドマンナが息を呑んだ、その一瞬。マリアネは堰を切ったように涙を振りこぼし、床に雫を散らすと、弾かれたように城を飛び出した。闇の空へと一気に駆け上がり、その姿は彼方へと消えていく。
思考が追いつかない。彼女があれほど苦しい顔をするなど……あそこまで追い詰められていたなんて。
しばらく意識が飛んでいたが、硬直していたドマンナはやがて我に返る。
「─────ハッ!? マリアネ!」
ドマンナは早急にマリアネを追おうと、城の出口へ駆けだした。
が、それは叶わなかった。
「やめておけ」
「ッ……!」
それは有無を言わさぬ、絶対的な威圧をはらんだ声だった。音として耳に届くより先に、その圧が全身を拘束する。前に進もうとしていた足が、床に縫い付けられたかのように停止した。
ドマンナは、苦渋の表情でゆっくりと振り返る。
大魔王グレイ。
その口ぶりからして、先ほどの光景を一部始終、目にしていたに違いない。
「し、しかし大魔王さまっ……!」
「やめておけと、言っているだろう」
「………」
逆らうことは許されない。
ドマンナは強く拳を握りしめ、マリアネを追うことを断念する。
悔しさが腹の底からこみ上げてくる。今にも叫び出したい激情を必死に押さえつけた。
だが、口だけは抑えきれなかった。
「何故……何故、見捨てるような事を仰るのですか。大魔王さまにとって、マリアネはそれほどどうでもよい存在なのですか……。彼女だって苦しんでいる、自分なりに必死に足掻いている……! それなのに、私たちまで見放したら、彼女は……っ!」
無礼を承知で、ドマンナは叫んだ。
それは主君に対する批判であり、処罰を免れない不敬。だがドマンナはその覚悟の上で、胸に抱くすべてを吐き出した。
グレイはその激情をただ静かに、感情の読めない顔で受け止めている。ドマンナが黙ったのを見て、グレイは長い息を吐く。
「どうでもいい、か。……そう思っていないと言えば嘘になる。事実、あいつは役に立たん。だが、今回の任務だけは別だ。私はあいつが『何を選ぶか』、その結末に期待している」
「ならば……!」
「マリアネは心の整理ができていない。……任務の内容はマリアネから聞いているのだろう。ならば、なぜ彼女があそこまで追い詰められているか、君にも分かるはずだ。今回の任務はマリアネの根幹を揺さぶるもの。彼女は今、試されている」
「………」
「たとえ親友である君が無理に背中を押したところで、あいつの苦悩が深まるだけだ。マリアネには、一人で考える時間が必要だ。……今は放っておけ。……いや、言葉が強すぎたか。君の機嫌を損ねる言い方だな。懸念は分かる。だが、今は静観が最善だ」
「…………」
ドマンナは悔しさに唇を噛み締めた。こらえきれなかった涙が、ついに頬を伝う。
役に立ちたかった。そばにいたかった。それが、マリアネをさらに追い詰めることになるとは。
グレイの言葉はきっと正しい。それ故にもう追いかける気力も奪い去っていく。
水晶のような雫が床に落ち、小さな音を立てて弾けた。ドマンナが顔を上げると、グレイの姿はすでにない。寂寞とした空気が残るだけだった。
窓から差し込む月光が、床に落ちた涙の跡を冷たく照らす。ドマンナはその光に導かれるように夜空を見上げた。満月が、すべてを見透かすように静かに輝いている。
「……マリアネが、あんな役目さえ背負わなければ。ただ……ただ穏やかに、あの月のように笑っていてくれたら……」
届くことのない願いが、静かな廊下に虚しく響いた。




