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重く冷たい扉が、マリアネの背後で無慈悲な音を立てて閉ざされた。
絶対的な支配者の気配が途絶えたことで、ようやくマリアネは止めていた息を細く、苦しげに吐き出す。
「……人間を……殺す……か」
玉座の間から遠ざかり、嵐の音がくぐもって聞こえる長い廊下をマリアネはよろよろと歩く。耳の奥でグレイに命じられた『殺せ』という言葉だけが、マリアネの中で嵐の音以上に大きく反響していた。すると床に敷かれた深紅の絨毯が、まるでこれから自分が流さなければならない血の色のように見えて、マリアネは思わず足を止める。
血の気の引いた顔は青白く、指先は氷のように冷え切っている。
「………殺す……」
その行為が、マリアネにはどうしてもできなかった。魔王でありながら、命を奪うという本能的な行為に、魂そのものが拒絶反応を示す。
「はぁ、どうしましょう………」
マリアネは深くため息をつき、城内の廊下を再び気だるそうに歩く。
他の魔王たちにとっては『人間を一人殺す』など造作もない任務だろう。だが、マリアネにとってそれは己の魂を折るにも等しい、何よりも高難易度な内容だった。
「私、どうすればいいのかな………」
相反する思考がぐるぐると頭を巡り、マリアネは当てもなく城内を彷徨う。
ふと、自分とは違う足音が近づいてくることに気づく。自分の重い足取りとは対照的な、ぱたぱたという軽い音だ。
マリアネは重くて下に向いてしまっている自分の顔を上げて、前方を見た。そこに立っていたのは、この冷たく重々しい石造りの城には場違いなほど、柔らかく大きな枕を抱きしめた一人の少女だった。
「マリアネ……? ふぁ~、おはよぉ」
「ドマンナ……」
目を擦りながら眠そうに挨拶をしてきた彼女──ドマンナはあらゆる水・氷を扱う『四神魔界王』の一人である。
その風貌は非常に幼く、こんな異界の城には不似合いな、何の装飾もない薄手の寝間着姿で、どこから見てもただの少女にしか見えない。性格は穏やかで、ともすれば魔王というより書庫の司書とでもいうような、物静かな雰囲気を持っている。
だがその見た目に反して、彼女は水・氷の力を完全にものにしている魔王として確固たる実力を持っている。少女だからと油断すれば、次の瞬間にはその身が絶対零度の氷像と化すか、あるいは気づかぬうちに水刃によって両断されているだろう。もはや、怪我という次元ではすまない。
ドマンナはバリオンのような権力闘争に一切興味がないからか、大魔王に仕える他の魔王とは違い、唯一マリアネに親しく関わってくれる魔王である。その物静かな気性はマリアネと似通っており、他の魔王たちからはマリアネに次いで『甘い』と見なされている節がある。
だからこそマリアネは不思議だった。なぜ、彼女は魔王でいられるのだろうか、と。
それは『やるときにはやる』性格だからだ。
ドマンナはマリアネに似た優しい気性を持つが、ひとたび任務となれば、その優しさを完璧に封じ込め、たとえ大切なものであろうと非情に破壊できる。彼女は、大魔王直属の四神魔界王としての矜持が、その慈悲を上回るのだ。魔王であるという己の役割をドマンナは受け入れている。
マリアネがどうしても真似できない、その一点。それが二人を分かつ決定的な違いだった。
やるときにはやる──ただ、それだけの『覚悟』さえあれば、他の魔王に侮られることも、こうして死の淵に追い詰められることもない。ドマンナの魔王としての強さをマリアネは尊敬すると同時に、焦がれるほど羨んでいた。
「フフッ。ドマンナったら今起きたんですか。本当にマイペースですね」
ドマンナの腑抜けた寝起きの顔を見ると、あれほど心を占めていた絶望がほんの一瞬だけ霧散するのを感じ、自然と笑みがこぼれた。
処刑宣告を受けたにも等しいマリアネにとって、この何も変わらないドマンナの存在は唯一の癒しだった。
「そう~?……なんだか、任務をこなした後って、いつもより余計に眠いんだよねぇ」
「……もう起きたのなら、せめて何か羽織ってくださいよ。せっかくの可愛いお顔が台無しですよ」
魔王としての職務もあるというのに、この時間まで寝ていたとはもはやマイペースを通り越して一種の才能ですらある。マリアネは半ば本気で感心していた。
ドマンナは服も寝間着のままで髪もボサボサだった。
「うん……。ねえ、また大魔王様に怒られちゃったの?」
「え。ど、どうしてです?」
今の今まで熟睡していたはずなのに、ドマンナはあっさりとマリアネの窮状を見破る。
「だって顔見れば分かるよ。……マリアネは、隠すのがヘタだもん。辛そうな顔の上に、無理やり笑顔を貼り付けてる。そんなことしても、辛いのが二重になるだけだよ。……私には、分かる。私も、そうやって自分に仮面を被せる時があるから……」
「そ、そうですか……。やっぱり分かっちゃうんですね」
マリアネは自分でも気づかないほどの絶望をその表情に貼り付かせていたのだ。それも当然だった。次こそ失敗は許されない。失敗すれば命がないという重圧が、無理に作った笑顔すら歪ませている。今回の任務は彼女にとって、かつてないほどの窮地だ。
「じ、実はですね………」
マリアネは言葉を切り、誰かに聞かれていないかと周囲に一瞬だけ視線を走らせた。
「……ドマンナだから、話しますけど……」
マリアネは藁にもすがるような思いで、秘密にしてほしいと前置きしドマンナに全てを話した。
ドマンナはよそ見をせず話をしっかりと最後まで聞いてくれた。
「……二週間で。……よりによって、マリアネに一番キツい命令、出しちゃったね、大魔王様は」
「は、はい。私……もう後がなくて」
マリアネは今回言い渡された任務をこなさないと本当に後がないのだ。
だが、どうやっても生命を殺める事ができない自分が、どうやってグレイに命じられた任務を遂行すればいいのか。
どうしようもなく悩むマリアネを見て、ドマンナはよっ、というように枕を小脇に抱え直す。そして、精一杯つま先立ちしてマリアネの肩を優しく叩いた。彼女の身長は、背伸びをしてマリアネの肩にやっと届くくらいの低さ。それでもドマンナはわざわざ背伸びしてまでマリアネの肩を叩いた。
「ねえ、マリアネ。私はマリアネと少し似てるよね。でも私はしっかりと任務はやる。命令だもん。やるしかないんだよ」
「で、でも私はそれができなくて……」
「できるか、じゃないんだよ」
ドマンナはそこで一度言葉を切ると、眠たげな目をわずかに細めた。
「『やる』って決めるか、『やらない』って決めるか。マリアネは、どっちも決めてない。……それだけだよ」
「やるか……やらないか……決める?」
その言葉が引き金になったかのように、マリアネは自分の内側でなにかがわずかに蠢くのを感じた。
「聞いて、マリアネ。所詮、殺さなかったり壊さなかったりしたとしても、それは永遠に在り続ける事はないんだよ。私にだって大切なものはたくさんある。できれば人間も殺したくはない。でも、どうせいつかは死ぬんだよ。私が殺すか、寿命で死ぬか、その順番が早いか遅いか……それだけ。私はそうやって、これはただの作業……だって、自分の気持ちを騙して任務をしてる。だから任務が終わった後の罪悪感はすごいんだよ。……ま、その罪悪感ごと寝て忘れちゃうために、この枕があるんだけどねっ!」
あっけらかんと、まるで冗談のように笑って見せるドマンナの顔が、マリアネには泣いているようにも見えた。
「……ドマンナも、そんな風に苦しみながら……?」
「まあ……ね。……私は『四神魔界王』だもん。大魔王様にこの力を認められた誇りがある。その誇りを守るためなら、自分の心くらい……騙してみせるよ」
ドマンナの任務をする時の心情を初めて聞いた。
マリアネはドマンナの『やるときはやる』という強さを単なる『プライド』の高さ故だと、どこかで誤解していたのかもしれない。だが違った。彼女は自分を騙し、心を麻痺させ、その上で『罪悪感』という重い対価を任務のたびに払い続けていたのだ。
マリアネもそのように心を騙せるのかと自問する。だが、そのイメージを浮かべただけで、胃の奥から冷たいものがせり上がってくるような拒絶感に襲われた。ドマンナの覚悟は、マリアネにとって魂そのものを殺す行為に等しい。たとえこの肉体が滅びようとも、他者を傷つけたくないと願ってしまう……その『異端』な心こそが、マリアネの全てだったのだ。
「やっぱりすごいですよ……ドマンナ」
「そう……? でもこれだけは覚えてて。何かを殺したりして、罪悪感が生まれない奴なんてこの世にはいないんだよ。例えバリオンみたいな性格のやつでもね。表には出さないけど、裏では……自分でも気づかない心の奥では計り知れない罪悪感を覚えてると思うよ。絶対ね……」
ドマンナはそう言ってマリアネの横を通り過ぎていった。
一人廊下に残されたマリアネは冷たい石のように立ち尽くす。
(……バリオンですら、罪悪感を……?)
ドマンナの最後の言葉が、マリアネの心に重くのしかかる。
だが、何があろうと彼らは『やる』のだ。心を騙し、誇りを盾に、その罪悪感を乗り越えて任務を遂行する。それができる彼らと、それがどうしてもできない自分。ドマンナの言葉は皮肉にも、マリアネがいかに魔王として欠陥品であるかを改めて証明する事となった。
やがてマリアネの足をその場に縫い付けていた絶望よりも早く、『ここに立っていても何も始まらない』という焼けつくような焦燥感が突き上げてくる。グレイへの恐怖……そしてこのまま何も決められずにいれば、内側で蠢くあの『暗黒』に魂ごと飲み込まれてしまうかもしれない、という本能的な恐怖がマリアネを駆り立てる。
(……二週間)
『やる』覚悟も、『やらない』覚悟も、ドマンナのように『心を騙す』覚悟も、今のマリアネにはない。だが、このまま何もせずに極刑を待つつもりもない。内側で蠢いた何かの気配が、マリアネの焦燥をより一層に煽る。
(……道は、一つだけ───私が、直接『殺さ』なければいい)
グレイが要求したのは『人間の首』という結果だ。その過程は問われていない。
病死者、事故死者、あるいは……人間同士の争いによる、死者。それを探す。
口の中に苦い唾が広がる。魔王として、命を奪うことすらできないくせに、死体を漁あさろうというのか。なんと卑しく、浅ましい考えか。
だが今のマリアネには、その卑しさにすがるしか道は残されていなかった。




